むしろ逆で、自分は何者なのか、何がしたいのかという問いから派生して、自分にも何かができるかもしれない、誰かの役に立てるかもしれないという意識が芽生えることで、受身の人生から脱却できるのだ。
このことは、社会学者の宮台真司が共同体に求められるものとして度々用いる「内発性」という言葉で説明することができる。噛み砕くと、良き人生というレールに乗るための利己性や損得勘定による「自発性」に対する、内側から涌いてくる力、
利他性や貢献性につながる「内発性」という意味合いになるが、自発性は合目的的なため動機付けが弱く、一方内発性は理由なく突き動かされるものだから動機付けが強い。
結果的に、内発性を持つ人間は自分自身であることを体現でき、それがどんなものであれ、自分事としてアプローチすることができ、環境によって大きくブレることがなくなる。
繰り返しになるが、決めるのは自分であり、一人ひとりが「私」であり、誰も代わることはできない。だから、全人格労働によって人間らしさを失った、こんなはずじゃなかったと嘆いたり、あの人は幸せになっているのにと羨んでいても仕方がない。
他の誰でもない私が答えを出すこと、自分自身で決めた答えなんだからと思えること、これこそが「正解」であることよりも重要なのだ。