分析知は当然に「ことば」に依るでしょうから、分かるって云うことは分節(区別)であり他の否定であるって事になるのでしょう。

更には、よく知ってるとか分かっているという事は、陳那のアポーハ説を視座に仏教的に云うのであれば、その「他の否定」がより明確であるって事になるのではないかと思うんです。

つまり、分析知の深まりはそのものではなく他との違いが明らかになることだと思うんです。
もっとも、ものが相依性に依るのであればそれはそれで意味を成すとは思いますけどね。