新興宗教・真如苑 vol.128
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新興宗教・真如苑 vol.127
前スレ:新興宗教・真如苑 vol.126
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1596294546/
新興宗教・真如苑 vol.127
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1607610747/
☆ここは、真実追及と意見交換の場です。
☆心と宗教板を利用される方は、『カルト問題』に関心を持つようにしましょう。
☆発言は、論拠と根拠を伴ったものにしましょう。
☆その場凌ぎの発言は控えましょう。 誤魔化し・ピンポンダッシュは徹底追及。
☆他教団の工作員(日蓮正宗のトヨダなど)や真如苑事務局は入場禁止です。 短歌ジジイ読経観察スレ。
需要ゼロ以下のマイナス。 金島雪子 で検索してバンバン拡散しようぜ、ニョエン信者の詐欺事件
おいおい、今から言っとくが
信者にもいろいろな人がいますから、
なんて逃げ口上はなしだぜ 8 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
世の中の宝の外の宝なる
教えの宝得るぞ尊し
【教主注釈】
世の中の宝は名誉・地位・金銀財宝等であるが、それらは失うこともある。真実の宝は教えであり、身に具わった信心の徳は子々孫々までを豊かにうるおすであろう。
↑
カネ・ヒマ・社会的信用を三つの歩み(献金・無償労働・勧誘)によって教えを一番に思わせて搾取しようとする。その意図に気づけば教えから離れるしかない。 >>59出ましたね、やっぱり。
これは
いろいろな人がいます
の裏返しでして 9 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
信心は耐えかぬことも耐えさせる
妙薬なりと知れよ世の人
【教主注釈】
あの時怒らずにこらえていてよかった−等ということはよくある。若し、思惟(いのり)なく、怒りのままに行動したら大変な結果になっていただろう、やはり、信心のおかげで救けられたのである。
↑
教えがあるから怒りに任せて行動することが無くなることもあるだろう。しかし、教えの示す霊因縁の脅しがあるから教えを否定されると怒りが増して否定した人を脅すのである。 10 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
大海のひろき教えをほどこして
他のためになす喜びぞ佳し
【教主注釈】
大海の教え−涅槃経は、一切の煩悩及び諸の誘惑を斥けて、世間法的な束縛を脱し、仕あわせになるために説かれたものである。故にこの真実を他のために説くことは喜びである。
↑
大海のようにすべての教えがこの教えに流れ着くと言われる。最近は、元々騙されやすい人が集まり搾取されているのに加えて、霊能者が更に騙して搾取する事件も発生しているようであるが。 11 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
霊言は出離を示す啓示ゆえ
こころに心してぞ聞くべし
【教主注釈】
出離とは、分かりやすく言えば運命を好転に導くための啓示(おしらせ)である。故に真剣に霊言を聞いて、それと取り組むことが大切である。
↑
この教えに感情を揺さぶられ、教えの思考が植え付けられて行動していれば習慣も変わり、運命も自ずと変わるだろう。人の迷惑を顧みない、教えに引き込もうとする信者。それは好転とは言わない。霊能者に上りつめ、信者の信用を得ると独自に詐欺を働く者も出ている。 12 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
我が為になす信心はそなわらず
他がために為しそなわると知れ
【教主注釈】
本能的なものをみたそうとする信心は本当の信心ではない。霊言にも「欲しい欲しいの餓鬼の心を超越して餓鬼を救うことができる」と示されている。自己中心を超越してお救けもできるのである。
↑
霊を示されてお力欲しい欲しいの信心の為に人を勧誘し、受け入れられなければ人を貶める。その醜さに気づけない信者は一生騙されるのである。 13 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
今日という日の吉凶を論ずより
今日の行い見かえるぞよし
【教主注釈】
み教えに一如していったなら日々が吉日でなくてはならない。日が悪いから災いにあうのではなく、自らの心・行いが至らないためである。
↑
この教えの示す霊に反応的であれば、指導者に容易く支配されてしまう。指導者はこの教えの騙しに加担している。自らの騙しのネットワークとして教えの繋がりを使う者もいる。 14 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
執われを思い切ってぞ因縁の
重きを知ると知れ世の人
【教主注釈】
執着の存在を否定することによって涅槃は証せられる−と、涅槃経純陀品に教えられている。
↑
世の執着は捨てるように言われ、教えのお力を求めて向上する執着は認められる。向上の為の代償はカネ、ヒマ、社会的信用と高くつく。 15 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
大海の如きみ法にあいまつり
常楽我浄と知るも尊し
【教主注釈】
すべての河が大海に帰入するごとく、すべての教えは大涅槃経に帰す−と、このような尊い教えに結縁されたことは、本当に尊いことである。
↑
この教えの手法に流れ着くならば、ねずみ講の手法である。集まった騙されやすい信者を相手に霊能者が独自にその手法を使って私腹を肥やしていたとは。信者にとっては多重搾取である。 16 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
人の世の哀れになくも自らの
あわれを知らぬ人の多きに
【教主注釈】
教えや、教えの師を自分の見解で批判していたら、法友はその悪(非律不証)を見ぬいて、みんな離れていってしまう。
↑
人を勧誘することは教えに騙されることに加担すること。教え指導者も騙しに加担していると気づけば、教えから離れることが正解だと思える。それに釘を刺す苑歌である。 17 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
世の中の憂きこと多きその中に
利他のまことに生きよ苑人
【教主注釈】
信心の道というものは、喜んで生きる。−と言うことである。喜べないことは自分自身に執われているからで、それを捨てれば本当の利他に生きられよう。
↑
教えの中で些細な事を教えのお陰で喜べと言われる。良ければ教えのお陰、悪ければ修行が足りない。そんなやり取りを不毛と思えば教えから離れる機会である。 18 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
訶責とは強くなすとも慈(なさ)けこめ
悩む立場に立ちて行なえ
【教主注釈】
駆遣訶責とは−人間本位の信心から、み仏本位の信心に立てかえるために強く激励する言葉を言う。教える側に私情があってはならない。
↑
向上すると駆遣訶責に耐えられると言われる。教えに護られない恐怖が深まって教え依存度が高いからである。そうなる前に見切りをつけるべきである。 19 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
権威をば振るってなせる教化には
形成りても実(じつ)は少なし
【教主注釈】
自分の地位や権力で入信させても、それは形だけであるから、その信心が喜びの実を結ぶまで手を引き教化する事が大切である。
↑
教義が無いから地位や権力などの社会的縛りが無ければ入信させられない。その後の教化も霊による因縁の脅しである。 78神も仏も名無しさん2021/02/16(火) 14:44:55.44ID:HfeVuU6I
真如苑。
同僚の女性が信者で、性格が最悪。
権力好きで、60の部長と不倫している。
色々と嘘をついて自分のミスを周りに押し付けている。
冷静に指摘したら、後で女子トイレで脅された。
顔つきもきついし、何だか恐ろしい人。
一回、勧誘を断ったせいもある気がする。
宗教やってる人って、変なオーラ出てるよね >>78
レスを下げて教団を擁護する卑屈さはまさに信者ならでは。
本部支部に帰りなさい。現世に戻ってこなくてよろしい。
自分で考えられないようにする接心を奨励し、接心に依存させて
自我を奪いマインドコントロールするのが教団のビジネスモデルだから
君の知り合いは「依存先が見つかって一時的に気力が出てきたと錯覚」してんだよ 20 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
御利益はまことの歩みの福利なり
歩まず乞うは邪と知れ
【教主注釈】
教えの如く歩んで行った時には、必ず運命が立て替えられて仕合わせになる。歩まずに御利益だけを望んでも得られるものではない。
↑
ご利益の正体は「良ければ教えのお陰。悪ければ修行が足りない。何事も起こらないのが救い。」である。
霊を示されて因縁が怖くてならない信者の心が揺さぶられているのである。 21 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
善友に近よることはよけれども
愚人の交際絶たばなおよし
【教主注釈】
涅槃経に、善友とは仏−と示されているが一面には一如の教徒ともいえよう。この意味に於いて、信仰を阻害するものは悪友である。
↑
教えを妄信する信者が教えを否定されると報復にその人を貶めようとする。それは仏とは関係なく、ただのカルト宗教信者である。 22 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
今ぞいま尊き性(仏性)を磨かんは
今を機会と知るも尊し
【教主注釈】
機会は再び来ない「今」今のひとときを活かし機会とする。
↑
この教えに何か特別なものを感じさせられ、取り組んでみるとねずみ講型カルトだった。それに気づいたのならば、被害が広がらないよう手口を知らしめよう。 23 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
常住のみ佛さまを慕いつつ
仕うる人ぞたのものしきかな
【教主注釈】
常住のみ仏を最上のものとして心のよりどころとし、喜んで仕えている人の姿を見ると本当にたのもしく、また楽しげである。
↑
霊因縁から救ってくれる教祖一家を常住のみ仏として常に念ずることで洗脳は深まる。世の悪徳商法の手法が使われている。霊能者が独自に詐欺を働くこともある。 24 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
お済度は父母を救ける心にて
説けよ苑人これぞ道なり
【教主注釈】
お救けに行った時、相手を尊重する心は、父母に対して、話をするようなこころで、話を取つがせて頂くことである。
↑
信者に取っては教祖夫婦を連想させる句である。最終的には勧誘はお力を頂けるので自分の為になると言われる。しかし、否定されると信者はねずみ講型新興宗教を信じさせられている劣等感に耐えなければならない。 ついに関西・大阪も聖教新聞の配達が読売新聞販売店の委託になるんだって
あれ〜無冠の友で福運積める活動なんじゃないの〜そんなチャンス外部にあげたらもったいないね〜 25 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
歓喜積みお救けこそは積み磨き
奉仕は磨く徳と知れ人
【教主注釈】
歓喜は積む徳、奉仕は磨く徳、お救けは積み、磨く徳であり、この三つの聖行に徹していって、初めて因縁消除の真理を理解できよう。
↑
勧誘が積み、磨く2倍の精進と信者を指導できる根拠の苑歌である。本当に救われる根拠ではないが。言われたとおりに取り組んでいると、この教えを行うことによる因縁の弊害が深まるだろう。 26 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
他のために言葉やわらげ教ゆるは
菩提(めばえ)育てのまことなりけり
【教主注釈】
聴法因縁の三段階と言うことが教えられている。初信者には、やさしい言葉、態度で接し、相手の菩提の芽を育ててあげよう。
↑
先祖がやたらめぐりあえない有り難い教えに結ばれたので、救ってもらえると喜んでいると言われる。それは先祖をお力を求めるしかできない低級霊に貶め、同様に信者自身もお力を求めるしかできない低級な人間に自分で自分を貶めるのである。 27 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
道に外れあゆむが故に事故起し
後の後悔先には立たず
【教主注釈】
教えの如く行わない信心は、道に外れてあゆむと同じ事である。軌道をはずれれば事故もおこるであろう。
↑
教えどおりならばうまく行き、教えどおりでなければうまく行かないと暗示しておいて、後から教えのお陰をこじつける。教え指導者は子供騙しの教義を繰り返し、通じないと逆切れする。 28 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
怠らず精進(はげ)み祈らん千代かけて
歓喜世界の出現(いず)る時まで
【教主注釈】
信心の道に終わりはない。生涯かけての精進である。そして終生精進できることが喜びである。
↑
この教えに一生騙されることを勧めている。この教えの示す霊は個人ごと無数に示すことが可能である。それらを救うことで頼られていると承認欲求を満たそうとして、お力に依存するかは個人の課題である。 結局このスレって今日の苑歌を書き込む人がいないとスレが上がらないし過疎なんだよな。苑歌書き込みしてる人の目的ってスレをあげるために毎日書き込んでるって事でok? スレ上げる云々ではなくて、この教えが許せないんじゃないかなあ。 29 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
大乗の道も炭火と同じなれ
三つ四つ五つ合わせてぞ燃ゆ
【教主注釈】
信心の心も炭火と同じように、一つだけだと消えやすい。志を同じくする者が、四人五人と集まると、信仰も心も燃え求めることの喜びもわいてくる。
↑
勧誘ノルマを教義とした教えは、信者に勧誘させるための方便が沢山ある。人が沢山集まると、マインドコントロールの集団圧力が働く。大勢の中で信者に「ああ救われた。こう救われた。」と熱弁させるのである。 30 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
常日頃まこと蓋して精進(はげ)みなば
それ、それ自体が真理(みち)に叶わん
【教主注釈】
怠るは死の道、励むは生への道である−という聖句があるが、高貴徳王菩薩品にも示されるように、楽(ねごう)て精進してゆくことが真理(みち)に叶ったことである。
↑
因縁との綱引きに負けると因縁に倒されると言われる。しかし、その因縁は無数ある霊から教えが意図的に示す罠である。それに気付けなければ騙され続ける。 1 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
身は低く常に人にと和合して
高く菩提を求めあゆまん
【教主注釈】
実るほど頭をたるる稲穂かな−。だが教えはどこまでも高く求めていこう、仏の御内証を目ざして。
↑
教えで霊位を上げて救われるために猫をかぶり勧誘対象に近付き観察する信者。騙してでも人の不幸を霊による因縁によるものと信じさせようとするのは、仏道ではない。 2 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
日日に踏まれて渡す橋のごと
菩提の橋となるぞ尊き
【教主注釈】
お導きにゆくと、世間からいろいろな悪口を言われる。それがふまれてもなお相手を仕合わせの岸へと渡す橋となることである。
↑
勧誘に行くとその人が普段どういう態度でいて、どの様なタイミングで勧誘してきたとネットで書かれる。それらはいずれも人の不幸を狙った卑怯なタイミングである。 3 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
相手をば鏡となせのことのりも
涅槃に示す教えなりけり
【教主注釈】
「相手は鏡」と言うことばがあるが、涅槃の中にも=仇は相手にあるのではなく我身にあるのだ=と教えている。
↑
思いどおりにならない人を救われない霊に憑りつかれていると見下し、自分が教えに救われていると考えさせられる信者。それも接心で相談すれば無数の霊の中から示されて取り組まされる無限ループに陥るだけである。 4 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
み佛にまかせまつりて常ぞつね
送る日日浄土なりけり
【教主注釈】
自分のはからいをはなれた時、日々が本当に安心して暮してゆけるようになる。
↑
自分で考えることを辞めて教えのお力に依存するようになると、お力が流れてこなくなる不安に日々直面し、救われていると自ら理由をつけるようになるのである。教えを否定して、自分を醒めさせることを言う人間が脅威となり、攻撃対象となる。 5 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
月日ごと慈悲をこうむる人まして
真如みひかり世にぞ知らるる
【教主注釈】
涅槃経を信心の基盤においている宗教団体は皆無といってもよい。護法の霊言に「科学が進歩して、やがて月の裏面まで判る時代に、この教えは(最後のみおしえ)は栄える…」と。
↑
信者から被害被る人が増えれば、自ずとネットで被害が報告される。科学が進歩して教えに都合の悪い情報が伝わりやすくなったことは予言されていない。それは都合が悪いからである。 都合が悪くなると根拠も出さずに逆ギレする反苑も、居ますよねぇ。w 6 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
過ぎし日の執われ捨てて希望ある
未来求めて法にいそしめ
【教主注釈】
過去に執われていたら、それは退歩である。申訳ない…という言葉を出す時には、それ以上の精進に振い立つことだ。
↑
過去の不幸は因縁のせいにして、これからは因縁にとらわれない教えの世界で生きていくのは前向きに見える。しかし、それは教えの示す霊による因縁に縛られ、教えのお力を求めさせられて、教えに貢がされながら生きていくことである。 7 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
物心は一如のものと知りながら
こころ忘れる人もあるなり
【教主注釈】
物心一如とは、名実共に伴うもので、真諦め(まことのみち)である。物のみを追い求め、一如のこころ(み仏と共に生きる心)がないから、心忘れた−と言うのである。
↑
教えさえ信じていれば何をしても良いと選民意識を持つ信者は人に心無いことをする。人に心無いと思われるから信者の信じる教えも受け入れられないのは当然である。 ↑
反苑ならなにやってもいいと、根拠も添えられない言動を繰り返す者がある。「根拠を出せ」と言われてしまうのは当然だが、「コールドリーディングだ〜」と逆ギレしてくる。その誤魔化し姿勢は、まさに真如教徒そのものである。低能反苑とは、真如苑を否定しながらも、自らが真如教徒そのものの症状を発症している、オマエガナ野郎なのである。 8 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
我をたてず相手の身にぞ先ずなりて
笑みを忘れず説けよ苑人
【教主注釈】
救いの真実を相手にわかって貰おうとするには、その人の心に自分の心を置きかえて、救いの道を共にあゆむ(あゆませる)事が肝要である。
↑
猫を被り相手の不幸を観察して教えを信じさせようとする信者を彷彿とさせる。人の人生に介入して教えの示したとおりと後から言葉を付け加える教えや信者は卑怯である。 9 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
他を救う力で我身救わんと
示す最後の教え尊し
【教主注釈】
他を救うその功徳によって、自からが救われることは、全く涅槃聖典に示される真理(まこと)である。
↑
勧誘すれば巡り巡って自分も救われる。裏を返せば勧誘しなければ救われないねずみ講の教え。信者間でその情報を抑え込もうとしても、ネットに流れた情報を抑え込むことはできない。 10 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
了義にて不了義経に依らずとは
涅槃了義の真理(みち)と知るべし
【教主注釈】
如来の真実なる智慧を如実に顕露したのが了義経である。涅槃経は聖典中の聖典とも言うべきものであるから、本経を諒解(りょうかい)することを仏徒としての道としなくてはならない。
↑
教義のない教えを何かあると思わせようと含みを持たせても、あるのは後付けの因縁話である。 11 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
書を持つも読まず極めず只きして
悟り得ようとするは畧分(りゃくぶん)
【教主注釈】
教書を持って安心している−、それもよいがやはり、他に教えを伝えるために、しっかり読んで自分のものとしていかなくてはならない。
↑
教えの書籍を所有して満足する信者は、救いのお力に無条件に依存し、固執する。その姿を周囲が見て、人間の尊厳を捨てた人に見えるのである。 12 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
他が為になすは即ち世の為と
つくすまことが真の信心
【教主注釈】
大乗のためになしてゆくのが、この教えの本当の信心で、初信のうちは我が為に成しても、やがて他の為になしてゆく本当の大乗の境を得てゆくことが大切である。
↑
大きな船に乗ったような救いを感じて社会的信用を犠牲にしてまで勧誘しても、自己責任である。カネ、ヒマ、社会的信用を犠牲にして教団に貢いでも、良ければ教えのお陰、悪ければ修行が足りない。それは、泥舟に乗せられて今にも沈みそうな状態である。 13 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
み法うけさらさら流る水のごと
真理(みち)にたがわぬ人ぞ楽もし
【教主注釈】
してあげた−、助けてやった−、等という考え方、思い方は仏教徒として不純である。大乗の真如教徒たるべきはそうした不純な心は捨てるべきである。
↑
自らはさせていただく。人にはしてやっている。そんな態度になる信者は教えに「選ばれた、徳が高い。」と持ち上げられるが、「まだ足りない。」と蔑まれもする。 14 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
浮世とはよろこび憂いの世としるも
み法に生きば其処が浄土ぞ
【教主注釈】
この世を苦のシャバという、しかし、正しいみ仏の教えにふれて、如来法を知ったとき、此処が、このままお浄土であることがわかる。
↑
正しいと思って信じた教えが実はねずみ講型新興宗教だった。そこには別の苦しみが待っているのである。 15 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
光なる光の外のみひかりは
最後の法の光なりけり
【教主注釈】
太陽の光こそ最たるものであるが、教えの光もその如く、仏最後の教えのひかりこそ、この世における最勝の救いのみ光である。
↑
後からどうとでも言える言葉で教えが成り立ち、集会も行われる。これ以上の教えは無いと言い続けるには、無理がある。 16 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
み佛の恵み思わば日に三度
合掌してぞ食(じき)に謝すべし
【教主注釈】
感謝はさとりをうるはじめ−と言う。考えてみれば、食事を頂けるということ自体が、本当に有難いことである。
↑
日々当然のように行っていること、普通であることも教えのお陰である。信者の不幸に因縁を付けて心を奪わなければ存続できない教えである。 17 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
まことなるみ法の救い毛孔より
入ると説かるる涅槃神力
【教主注釈】
「善男子よ日月光明は諸の光明の中で最も勝れている。大般涅槃の光明も亦かくの如きもので、諸の大乗経の中に於いて最も殊勝なものである。それは大涅槃の光よく衆生(ひとびと)の毛孔から入り込むからである。」(大般涅槃経菩薩品より)
↑
何も考えなくとも、信じていれば毛穴からお力が入ってくるから大丈夫である。そんな安易な言葉を信じていては取り返しがつかなくなる。 18 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
物事は思うが如くならねども
行い重ねて成ると知るべし
【教主注釈】
ままならないのが、人の世である。何事も誠実をつくして成しとげてゆく、そこに目的成就の栄冠はある。
↑
うまく行かないことも、うまく行っていることも教えのお力のお陰にされている信者は、結局教えの為以外のことはしなくなっていくのである。教えを良く言わない人に対しては攻撃的になっていく。 19 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
道の辺に踏みにじらるる野草にも
耐えて伸びゆく性ぞあるなれ
【教主注釈】
”この泥があればこそ咲け蓮の花”大乗利他の行いには非難やざん謗がつきものである。何故ならば、それが正法であるから−恐れずにすすもう。
↑
教えを悪く言われると信者は奮い立つ。それでも選民意識は残り、上から目線で嫌がらせをするので教えの評判を更に落とす。汚名は二度と返上できない。 20 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
何みてもみ法示さぬものはなし
おのが心に菩提ありなば
【教主注釈】
接心によって磨かれた心には、未だ見ざるものを見、聞かざるものを聞くことができる。それは自分自身に菩提(しんじん)の種をもっているからである。
↑
日々の不思議を霊の働きかけと思わせる訓練がある。そうやってこの教えでしか得られないお力を求めさせる思考を植え付ける。そうした教え専用の反応が出来上がると、教えを否定する言葉に信者は恐怖するようになるのである。 21 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
み教えにやさしき言葉欲しなば
我身かわいい二乗とぞ知れ
【教主注釈】
初信者であればやさしい言葉も必要だ−、入信して相当な年月を経ていても菩提(求める)心が成長せず、いつも初信者の如き心であってはならない−と言うことである。
↑
教えのお力を求めるように因縁を示して、教えに依存させようとする。その意図がよく見える。 22 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
外教より涅槃了義のみ教えに
導く人を教師とぞいう
【教主注釈】
あらゆる外教も涅槃海に帰一する。又此の意味に於いても、諸教を摂受して始めて大海のみ教え−とも言えよう。
↑
他の新興宗教を信じている人を、ここが最高と取り込もうとする。すべての宗教がここに行きつくと信者は満足するが、何でも後から教えに有利なように言う宗教と気付いた周囲の人にとっては迷惑である。信者は人の信教の自由を平気で侵害する。その反面、信者にとっての信教の自由を極端に主張する。 23 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
今日蒔きて明日の稔りはなきと知れ
学び修めるわざもそのごと
【教主注釈】
今日蒔いて、明日の稔りはない。少しばかり教えにふれて、全部わかった−と思うことは大変な間違いである。
↑
この教えには何重にも騙しの技術が施されているようであるが、「気づく(堕ちる)のはあっという間」と言われる。親戚縁者の繋がりで堕ちた人を排除する体制もあるが、今は関係を断たれ、ネットで情報を流されるだけである。 24 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
他がために尽せしことは忘るとも
受けし御恩は忘るべからず
【教主注釈】
人のためにしたことは、いつまでもよく覚えていて、自分にして頂いた御恩は忘れてしまう、そんな事では仏教徒とはいわれない。
↑
最初から教えのお力への御恩を強調する教え。感謝や歓びも強調されそれらは献金袋に印字されて、献金の代名詞となっている。 25 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
訶責とは宝の山を指し示す
指と知るべし世々の人々
【教主注釈】
訶責してくださる人は、めったにいないものである。それなのに訶責されると、その人が嫌になる。それはいつまで経っても真実の宝を得ることは出来ない。
↑
教えの中の呵責は指導者からの根拠のない霊による仕業を交えた鬱憤晴らしが入る。学の無い高齢信者がそれを振るうが反応せず、距離を取れば良いのである。 摂受(心)院こと伊藤友司は、なぜ自分の息子二人を神仏の化身であるとして信者に崇めさせることができたのだろうか。
まともな神経の持ち主なら、そんな厚顔無恥なことはできるはずがないのだが。 26 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
布施なすも報い求めぬまことこそ
悪因断ちの道と知るべし
【教主注釈】
これだけ歓喜したから御利益があっても当然だ…と思ったら、それは徳が徳にならない。結果を求めない布施、そのまごころが霊界に通じ、悪因縁もたち切れていくのである。
↑
献金に際限は無い。同様に無数に示される可能性の霊を示されて、一生お力を求めさせられるのである。 27 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
苑(この)道は佛の始めし道なれば
百千代かけて変わらざる道
【教主注釈】
真如苑の教えは釈尊が創始された道であり、この道をあゆめば、何人も幸福な世界にゆけるのである。何故ならば、それは真理であるから。
↑
教えの物語は脱サラした技術者が占いから始めたことから、仏の始めた物語へと変化している。信者個人の物語も無数に示すことのできる霊によって教えや個人に都合の良いように書き変えられていくのである。 28 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
執着の存在捨てて暮らす時
ものみな尊し楽我なりけり
【教主注釈】
執着は貪りである。貪りを鎮めたら瞋りも痴も鎮まって、本当の楽しみを得ることが出来る。
↑
教えへの執着を植え付けられて、それが執着と意識できなくなると、教えを否定される言葉に信者は怒り、仏教の三毒と共に暮らすこととなる。 29 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
最後なる教えにふれて謝すなれば
摩尼の宝珠を掘り当つと知れ
【教主注釈】
「水の濁りの中に宝珠を置けば水即ち清浄となる」と涅槃経に示されている。この深意をしるとき、まことに有難いことがわかる。
↑
この教えに浄化されたと思い込む信者は、お力を求めるのに教え優先の生活に洗脳されていく。教えを信じない者に対する嫌がらせの手段を選ばないので、教えと共に嫌われる。 30 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
常に世は移り変れどみ佛の
み法は永遠に変らざるなり
【教主注釈】
”春は花咲き秋には紅葉、常に天地は変らざる経をよむ”と、人の世は移り変わってもみ仏の慈悲にはみじんの変りはない。
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霊界から常に教祖一家がお力を流しているという構図。その縛りによって信者の周囲に信じたくもない宗教を信じさせようとする迷惑が及ぶのである。「嫌なら何時でも辞められる。」それは嘘である。 21 我浄【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
霊言に示さることば真理(みち)なれど
人間本位に聞かば間違う
【教主注釈】
空−ということは、自からを空しうすることで、南無の境涯である。御霊言は道を示すものであるが、之を人間本能的に、都合のよいように聞いてゆくと、道をまちがえてしまうものである。
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自らの欲望を捨てて教えの為だけに生きれば救われると思わされる信者。しかし、信者の行動は教えさえ信じていれば何をしても許されるという周囲への配慮のないものである。信者の新興宗教を信じている劣等感が上から目線を助長する。ここに出没する事務局も同様。 21 我浄【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
霊言に示さることば真理(みち)なれど
人間本位に聞かば間違う
【教主注釈】
空−ということは、自からを空しうすることで、南無の境涯である。御霊言は道を示すものであるが、之を人間本能的に、都合のよいように聞いてゆくと、道をまちがえてしまうものである。
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自らの欲望を捨てて教えの為だけに生きれば救われると思わされる信者。しかし、信者の行動は教えさえ信じていれば何をしても許されるという周囲への配慮のないものである。信者の新興宗教を信じている劣等感が上から目線を助長する。ここに出没する事務局も同様。 31 楽我【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
夢みせて出離の道を教ゆるも
佛最後にぞ教ゆ真理(みち)なり
【教主注釈】
夢によって教化されることは涅槃経の中に明らかにされている。その流れを汲む真如教徒も夢をリブライとして取りくむことができることはしあわせである。
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夢さえも教えの力が及んでいると思わせる教え。信者の妄想は教えに良ければ許され、悪ければ許されない。 1 我浄【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
我がうちに一如の喜び見出しなば
日日の仕事も聖なりと知る
【教主注釈】
一如と言うことは、み仏の大慈しみの中に生かされることであり、それを知れば日々の業務もみ仏本位に生きる聖業なり−と、覚ることが出来る。
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世の縛りを勧誘の為に使う信者。仕事の関係も同様。勧誘するために人の不幸を観察する黒い心が養われていく。 2 我浄【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
教法を学ぶにいとまなしという
人こそ暇に学ばざるなり
【教主注釈】
とても忙しくて学べない−と言う人があるが、日常のその忙しい中から神仏に捧げまつる、まことを発見しようと努力することが大切である。
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短い時間でも法要に参座、日常でも教えを意識して教祖一家を念ずればお力が流れると言われる。良ければ教えのお陰、悪ければ修行が足りないことになってしまうが。それに気づけば、後は距離を取るだけである。誘ってくる信者が切れない程度に。 29 常楽【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
大乗の道も炭火と同じなれ
三つ四つ五つ合わせてぞ燃ゆ
【教主注釈】
信心の心も炭火と同じように、一つだけだと消えやすい。志を同じくする者が、四人五人と集まると、信仰も心も燃え求めることの喜びもわいてくる。
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勧誘ノルマを教義とした教えは、信者に勧誘させるための方便が沢山ある。人が沢山集まると、マインドコントロールの集団圧力が働く。大勢の中で信者に「ああ救われた。こう救われた。」と熱弁させるのである。 3 我浄【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
無我という道も正しきことなれど
無我超え悟る妙有尊し
【教主注釈】
無我だけでは悪因縁は消除できない。大般涅槃のみ教えに言われるよう教えの如く行って、こうした無我を超えるところから、現象に生かされる妙有の喜びを得ることが出来る。
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我を忘れて教えの器のように指導者の言葉を鵜呑みにする信者。元々教えの騙しに気づいた人を「堕ちた人」として集団で隔離するシステムがあるが、ネットで騙しの仕組みをばらされてしまうので、そのシステムは騙しの手口をネットに流す効果となっている。 4 我浄【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
布施なして喜びなきも布施なるが
喜びあらば波羅蜜としれ
【教主注釈】
歓喜は一つの布施であるが、若しそこに行わせて頂いた喜びが感じられるならば、それは行うことによって、一つの彼岸(さとり)に達したことになる。
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喜んで献金すると仏教の六波羅蜜の修行になるのか。それは教えが無いと救われない恐怖に屈した境地である。 5 我浄【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
歓楽は悪華と知れよ世々の人
心も身をも亡すと知れ
【教主注釈】
歓楽は肉体だけのよろこび、目先だけの楽しみで飽くことを知らない。歓楽は悪魔の投げた餌食と思わねばならない。
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歓楽を抑制する教えであるが、教祖一家と並び、信者による不倫等の情報は歓楽を求める心である。教えにかかれば「修行中の身」だからであろう。 6 我浄【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
執わるる心にはからいありと知れ
執われ捨てばはからいぞなし
【教主注釈】
執われを持っているから真如の正法を聞いても、はからい心が起こる。人間本位の情的なつながり、これを断つ時、はからいはあべこべに感謝と変ってくる。
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教えの為にならない人間的繋がりをはからいと言う。それらを捨てると教えの為にしていれば何をしても許されると思う倫理観の欠如した人間が出来上がる。人の信教の自由も平気で侵すようになる。 7 我浄【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
世の中の苦とよろこびの間より
求め得るのがまこと菩提ぞ
【教主注釈】
よろこびに浮かされ、苦しみに執われていたのでは、本当の因縁消除の道を見出すことはできない。苦の中から、喜びの中から中道の真理を見出すのが、本当の信心である。
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教えのお力に守られることを示されて喜び、因縁による不幸を示されて苦しむ。それは、幸福、不幸の原因を教えに握られて操作されることである。教えの指導者がその手法を使い、愉快犯として下の信者を操ろうとする。 8 我浄【今月の苑歌】
【今日の苑歌】
我れと共に常にましますみ佛を
忘れずはげめ世々の人々
【教主注釈】
無形のみほとけを有形に信ずるところに、本当の信心があるのではないだろうか、此れは無相接心に生きる苑人の在り方である。
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お力を及ぼす教祖一家を常に念じて因縁から守られることで安心する信者。自分の周囲も信じていなければ救われない。「信じていないお前が悪い。」とさえ思う。そこから信教の自由の侵害が始まる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています