hrdaya フリダヤとは直訳すれば「心臓」だが、臨済さんの場合は「心」であろう。
松本は、臨済の「心」が「アートマン」であると批判しているのであろう

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「無位の真人」とは、実にお互いの心であり、その心というのは、
お互いの感覚器官の活動に現われています、
つまりは活動している生身の人間のことに他なりません。
しかもその心は、この小さな身体の中にだけ収まっているものでもありません。
臨済禅師は、「心は姿形が無く、十方世界を貫いている」と説かれていますように、
この世界に満ちあふれているのであります。
その世界いっぱいに満ちあふれた心が、この身体を通して働いています。
そして、その心こそが仏であり、その身体を通して働くまるごと全体が
仏の現れだと説くのであります。

確かに臨済の「心」はdhātuであり、アートマンですね