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「受容(acceptance、受け入れること)」とは、快不快に関わらずに体験をそのまま認め
ることです。受容を理解するためには、マインドフルネスを次のように解釈してみること
が役立つと思います。マインドフルネスの実践とは「苦しみからの解放」へ導くものであ
り、それは、「三毒を生まない」「二の矢を受けない」「あることモードへシフトする」
ことです。遠回りな説明になりますが、先ずそこから述べます。

仏陀は、五官に心を加えた感覚器官(六根)で捉えたものが、この世界のすべてであると
説きました。感覚器官で捉えることを感受(受)と言います。感受は「快・不快・中性
(楽受・苦受・不苦不楽受)」の三種に分かれますが、それは三毒(貪瞋痴(とんじん
ち))という煩悩が生じる始まりでもあります。快は、愛着をきっかけにして、貪り(貪
欲(とんよく))となります。不快は、嫌悪をきっかけにして、怒り(瞋恚(しんい))
となります。そのどちらでもない中性の感受は、無関心をきっかけにして、無知(愚痴
(ぐち))となります。そして、この三種を合わせた三毒(貪瞋痴)によって苦しみに至
ることになるのです。悟りとはこの三毒がない境地のことです。マインドフルネスの実践
とは、この「三毒を生まない」ことなのです。

また、仏陀は、苦痛(第一の矢)は避けることができないが、苦しみ(第二の矢)は避け
られるとしました。例えば、肉体的・精神的な痛みというのは、第一の矢になりますが、
これはどうすることもできません。しかし、それとは別に「このまま治らなかったらどう
しよう」「どうしてこんなことになったんだ」「もう我慢が出来ない」と悩み苦しむこと
は、自分で自分に第二の矢を放つようなものであり、それは心次第で避けられるものであ
り、受けなくても済むものだと説いたのです。このことは、仏陀は、第一の矢を受けるこ
とは問題にしなかったとも言えます。そして、ここでも不快(苦痛)が、嫌悪をきっかけ
にして、怒りを生んでいることが分かると思います。マインドフルネスの実践とは、この
「二の矢を受けない」ことなのです。