無上正等正覚を開くためのスレ
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
悟りは全くの個人的体験です。 そして悟りは仏教者の身の上にのみ生じるわけではありません。 早い話、お釈迦さんは一度も仏教徒だったことはなかったのです。 ブッダは仏教がなかった時代に覚りを開き、 以後ブッダが出てなかったとするなら、 歴史上の仏教は、仏に成れる教えではなかったと言えるかもしれません。 末法の世に再び成道してブッダと成るために、どう実践すべきか 正しく思惟し、 即実行に移す人のスレです。 またブッダに立ち還り、大衆部を再興します。 「末法には、ただ名字(みょうじ)の比丘のみあり。 この名字を世の真宝となして、さらに福田なし。 末法の中に持戒の者有るも、すでにこれ怪異なり。市に虎有るが如し。これ誰か信ずべきや」 『末法燈明記』 五蘊非我と阿吽(菩提心と涅槃) https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202010080000/ わたしには殆ど陽が当たらない わたしには杉の木や松の木のように 高くてカッコいい姿にはなれない その代わり どんな風が吹いても 倒れるということがない わたしには初めから 倒れるだけの…… (相田みつを) 全てのブッダがそうである如く 我もまた世間の虚偽を見抜き破するのである 本来の我が「一」であるならば、誰もが覚れる 自ずから覚知すればよし 煩悩も固定したものではなく いつかは滅ぶ 全ては是の如し 六道輪廻は迷いの世界 菩薩乗では仏の慈悲により 発心した衆生も直ちに迷界より出離して 解脱する 菩薩は たとえ輪廻すると雖も、心は迷界にあらず 既に六道に住さずして 菩薩道に入っている 僅かばかりの才能で世間に出るのは難しい と思ったら・・・ 今ある自分というのは 死んでしまえば消えてしまう 表層的自我にすぎない のだ 嘗ては一人で暮らしていたのに のちに性の交わりに耽る人は、車が道から外れたようなものである 世人は、彼を卑しい凡夫と呼ぶ 嘗て彼の持っていた名誉と名声とは全て失われる このことを見て、性の交わりを断つ事を学べ 独身を守っていた時には、一般に智慧者と認められていた人が 性の交わりに耽ったために、愚か者のように悩まされている 聖者は、この世で前後に この艱難のあることを知り、固く独身を守り、性の交わりに耽ってはならない 俗事から離れる事を学べ これは諸々の聖者にとって最上の事柄である ブッダの言葉・スッタニパータ 第四 八つの詩句の章 七 ティッサメッテーヤ https://youtu.be/R884Fvj_Cgs?t=1068 今のカルト諸人は、せいぜい餓鬼である 餓鬼が畜生を崇め奉っているようなものなのである 末法の世に正覚を得るにはどうすべきか。 それには正しい教法に基づく他にないだろう。 今隆盛の日本大乗仏教は、フィクション仏教である。フィクション仏教は偽仏教ということ。 本当の仏教は根本仏教=原始仏教=ドキュメント仏教、ということです。 最近だが、寂聴さんが週刊誌での説法で、「小乗仏教は出家者だけが救われる小さな舟に乗っているような小さな教えで、日本は大乗仏教です」などと、時代遅れな、天動説みたいな仏教を説いていた。このように著名な尼僧が、デタラメ仏教を説いているから末法なのです。 原始経典には、最勝正覚は三明である、と説かれている。原始経典には四段階の悟りが説かれており、アノクタラ三藐三菩提の悟りは四段階目の悟り、阿羅漢・仏陀の悟りです。 阿羅漢とは漢訳で応供のこと、応供は仏の十号の一つです。阿羅漢=仏なのです。 原始経典は釈迦のドキュメント仏教です。 大乗経典は後世の人が創作したフィクション仏教・デタラメ仏教です。 原始経典では阿羅漢は仏ですが、後の大乗経典で阿羅漢は低い悟りの者とされたのです。 大乗経典はデタラメ仏教なのです。 原始経典には最勝正覚とは三明であると、説かれている。三明とは、宿命智、天眼智、漏尽智、の神通智とされている。原始経典ではこの三明を備えた者が阿羅漢・仏陀とされた。 第三段階の悟りを得た者を不還という。 第一、第二段階の悟りは、検索すれば解るね。 今は比較文献学も進み、小乗仏教こそが釈迦のドキュメント仏教だと知られているのです。 大乗仏教は後世の人々が創作したフィクション仏教・デタラメ仏教なのです。 日本は大乗仏教国です。 だから末法なのです。 小乗経典には出家者だけが救われる、などとは記されていない。小乗経典では男性在家信者を優婆塞、女性在家信者を優婆夷と呼ぶが、そのどちらも、修行によって悟りを得た話が、たくさん説かれている。 仏教には大別して二つの仏教があることを知らねばいけない。 一つは小乗仏教=原始仏教=釈迦ドキュメント仏教であり、二つは大乗仏教=後世の創作仏教=フィクション仏教=偽物仏教です。 そして日本のは、ほとんどが大乗仏教です。 天台は日蓮(件の終活中のババァも同類項)まで生んでしまった 純然たるチャイナ仏教だから邪宗 であってカルト認定すべし という判釈は 全く正しい 物質界の魅惑に騙され、堕落する天人もいる 実に この世は無常である事を 知れ After the book came out, they go out >>241 タオイズム、悪しき中華思想と混じった不純仏教のきらいはあるね 深く物事を考えないで、教条的に建前論を押し付けようとするような教えは 仏教的じゃない とは言える 邪なものと関わると悪しき影響を受けるかも知れないので要注意である 人をバカにする猿のようなものが棲息するのも世間なのである 「ヒンドゥー」 Hindu の語源は、サンスクリットでインダス川を意味する sindhu に対応するペルシア語。 「(ペルシアから見て)インダス川対岸に住む人々」の意味で用いられ、西欧に伝わり、インドに逆輸入され定着した。 ... 漢訳では、身毒、印度と訳され、玄奘による「印度」が定着している。 そもそもシナ人も東 南アジア等の者らも古代インドの叡智は適切に理解できず、ベースになっている風土も 背景もよくわからず、予めコンテキストも用意されていない訳だから 完全には伝わっていないし、残っていない 世間の泥、および南伝北伝の誤った見解を精妙に見極め、 正しく峻別せよ 護摩は不要です。 あれは古代印度近辺に残ってた俗習ですから 中期大乗以降、仏教はほぼカルト化した ただ密教に関しては また宗教の一つの完成形として 見るべきものもある ほんとうの涅槃に到達するには いまの自分は 涅槃度何パーセントかを まず知る事で あろう 無我について、きちんと説明しようとするなら 本一冊分は必要だと思われますが、適当な書籍が思い当たりません。 しかし、少なくとも単純な断見やテーラワーダ等の見解は奇妙だということは述べておきましょう。 また或るブログで、面白い箇所がありましたので、引用しておきます。 >確かに仏教は常見も断見も否定しているのですが、スリランカの長老の本を読むと 今の人生の中においてさえ、到るところで断絶が発生して、自己の連続性は安易に否定され、それでは 簡単に過去の借金も踏み倒せるという事になるかも知れません。(自己破産者の論理の説明とかでしたら、少しは理解できますが・・・) しかし常識的に考えても、それは可笑しいのです。 つまり、スリランカの坊さんが スリランカにいた時と今の自分とでは、細胞も入れ替わっているのだから別の存在だー云々・・・ 的な話を書いてるのは詭弁でありましょう。私という固有の生命体に基づく非物質的存在に対して社会的責任も生じて来るのであって、 自分は無いとかいう無我の変な解釈を盾にとって、個人の義務や権利を放棄できると主張するのは正常人の論理ではないと思うのです。 南伝は必ずしも忠実な再現ではない 全ての経典が正確に伝承された内容という訳でもない 5chに寄生する珍妙なコテ等の読み難い書き込みも 「凡夫衆生とは、このように自説に固執するものか」とか 「何ゆえ虚偽のドグマに騙され、邪教が跳梁跋扈するかの理由は是」と見るな ら、全ての情報は資糧となり得る。 五蘊皆空と照見したならば、もはや五蘊に囚われた人ではない 物質界のものごと というのは 執着するに価せぬものである ラーダ「よく悪魔、悪魔と申されますが、いったい悪魔とは何でありますか?」 ブッダ「ラーダよ、色受想行識が悪魔である。すなわち肉体・感覚・思い・意思・意識が悪魔である。 悪魔とは、われわれ自身の肉体と精神のいとなみの迷いに他ならない」 (サンユッタ・ニカーヤ) 大乗では完全に五蘊を去った状態を五蘊皆空と言ってるだけです。 原始仏典流に簡潔に言うなら 五蘊は悪魔の棲家と明らかな智慧により如実に見て、しかもそれを完全に遠ざける という事は大変な事だと思いますよ。それを無我、皆空と呼んだのでしょう。ブッダもその境地に到るために出家後 まず仙人について(九次第定でいえば七番目に当たる)無所有処定を学び、次に先生を変えて非想非非想処定を学び さらに長い年月をかけて孤独な修行の末に滅尽定に至って初めて成道となった訳です。 ですから、その境地まで達しなければ本当の無我、皆空とは呼べないし、涅槃もまだ浅いものなんでしょう。 その段階に行くには菩薩の十地の六〜八番目にならないと、と論書にも書かれていますね。 ただ人によっては、像法の時代以降で菩薩の初地に至ったのはナーガルジュナとアサンガだけと言う人もいます。 そこまで厳しくは無くて、有名無名の解脱者は大勢いたとは見ています 初禅・第二禅・第三禅・第四禅・空無辺処定・識無辺処定・無所有処定・非想非非想処定・滅尽定 《スッタニパータ》 1094 いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと、──これが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。 それは老衰と死との消滅である。 1095 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、悪魔に伏せられない。 かれらは悪魔の従者とはならない。 >地獄などというものはありません。 物質世界に恋着してれば別ですが、死んだ瞬間に魂は物質から離れ、未練も 吹き飛んでしまうというのが普通だろうと思います。 あとは見たいものは何でも見れるし、ああなんと浅はかな穢れた執着塗れの世界にいた んだろうか!と気付くだけなんです。 また転生したければ、誰か縁のあった女の胎内に入って、生まれ直せばいいし、 イヤなら、そのままでもいい。しかし退屈な世界ですから、 ブッダのように、固い決意と悟りの智慧、物質界に対する完璧な諦めがないと 大方の霊魂は、そこにとどまらないで輪廻してしまうのだなとわかりました。 また母胎に宿る機会が結構あったりするので、 スケベ心があると、つい、また人間に生まれてみようかとか思ってしまうのです。 が、実は地獄というのも、そうした衆生界の中にこそあるんです。 五禅支を生成して精神統一しないと智慧の瞑想にならないし、 しかし智慧を発現するための妨げとなっている覆いが、各人各様の方法で取り除かれれば、 普段の生活でも、一日観自在でいられるとは 思います 5chで色々受け売りや狭い迷信じみた見解を書く輩もいるが、そうした解釈で良いのか そのコテや粘着屋の執着の元になった記憶の中の学者とかの説は本当に正しいのかを 改めて、もう一度、さらに深く掘り下げて 考えるっ必要はある 四諦が衆生を涅槃に渡す筏であるように 夢もまた 遍行者を涅槃に渡す大船となり得る。 小学一年生なら「夢は無常」で終わりで良いのです。 しかし、これから見諦道に入ろうかという人であれば、夢の中でも瞑想する事でありましょう。 瞑想するなら涅槃に達さむ。涅槃は無常とはいえません。言葉で「AはBである」とか決めつける遊び が仏教なのではありません。 生死問わずエネルギーである点では同じで よく考えてみると 全てのものに差別はない。無常といいつつ本質は空で、その空すら空であって、 物質界、三界から解脱できると説く 5chに闖入する変態コテや在家真言門徒が騙る >禅定なる何かがニセかを、ズバリ指摘してあげましょう ブッダは、そうした人に因縁をつけて、絡むようなマネをしろ、なんて一言も言ってないんですね 八正道から離れた行いであっては、たとえ一見して形がそれらしくても正定とは言えません。 その一事をもってしても、仏の教えが身に具わったものの言でないとわかりますし、さらに言えば 本当はわかりもしないことをわかったフリをして断言してしまっている点。 これからヨソに掲載させていただく積りですが、間違いなく、仏陀の禅定なんてのは アンタの勝手な妄想に過ぎません 他人に因縁を付けて絡んでるのは自分だろ? おかしな人はどこまでもおかしくなるな >知ったか仏教君 という表現は、まさに277の”荒らし”のことですよ、皆さん! 完全な勘違いのカルト脳です 笑 その他すべて、277の自称・真言宗信者自身のことを自白しています。誰もそんな統失は 呼んでませんよね 笑 またまた釣れました 笑 277は何の根拠もなくマウントをとりたがる病人のようです 悟りスレで栄進が40台で傷害年金を受給してるのを読んで、 277は認定されなかったことを引き合いに出して、色々羨み、やっかむようなレスを つけていたのを見ましたが、可哀そうな方ですよ 笑 何で申請もしてないのに傷害年金受給者をやっかむと思い込んでるのか知らんが おかしいのは何年も前の事を忘れた頃に蒸し返しては粘着するお前だよ 入院してたのかも知れんが他人は一々お前のあたおかな主張なんて見向きもしてないよ 誰もお前に興味ないからお前の書き込みにレスが付かないんだよ お前みたいに異常にしつこくて気持ち悪い性格した奴に関わって粘着されたくないというのも多分に有るだろうけどな 何年も前じゃなく、ついこないだ見たよ 笑 それから >粘着質の基地害 って、まさに279のことですよね誰が見ても 笑 >常人から見て気持ち悪すぎる のも、まさに279そのものであって、鹿野園同様 まったく中身が無いのにマウントとりたがるガラクタ君 笑 くだんの輩について気づいた事で大事なポイントを記しておきます 何か真言宗の教えの迷信じみた面を、恰もカルト信者みたいに盲信してる方向性 と 南伝系の経典をウワベの言葉だけで捉え、覚えればスゴイんだという方向とに分裂していて、 それどっちもブッダの覚りと無関係なガラクタなんです さとりを正しく継承するには まず、寛容の精神というものが大事でありますが、自分の見解にのみ固執する輩が多い 日本仏教の場合、残念ながら一遍上人を除き、排他的な意識が強く、ただのセクショナリズムに 陥っている訳です。 >>279 統失妄想はいらん。 やたら我見に固執し、小乗経典に迷って執着するものに悟りも 糞もない 生前の行いが死後の道行を決める というだけの話であり、 そうした真実を前提として、仏陀も解脱を説いたのである。いま覚らずして、 何時さとるのか。 >>287 仏教史の勉強が足らん 小乗経典ではなく 根本経典であり 大乗経典も密教経典も源流は変わらない 小乗というのは経典の事ではなく法体恒有と言って法が実体を伴って永遠に存在すると考える思想の事だし そんな初歩的な事も理解出来ない生半可は黙っとけ 第一結集は、仏教学というより、教科書的な極めて粗い世界史の話。 スリランカ島史 大史に書かれた伝承説。 仏教学でわかっているのは 南伝パーリ経典は紀元前後にスリランカでシンハラ語訳され 5c頃、ブッダゴーサによってパーリ語に書き換えられたが散逸し 東南アジアから、12c前後に再輸入されたということ。 我々が使うPTSは、19cに英国がまとめたパーリである >スリランカ島史と大史には、 アショカ王の息子のマヒンダがシンハラ語(スリランカ語)に仏典を翻訳して スリランカに伝えたと伝承されている。 それを5cにブッダゴーサがパーリ語に再翻訳したわけだが、パーリ語は 伝承ではマガダ語とされているが、実証的研究では 各地のアショーカ王碑文との比較から マガダ地方の東部方言というより、西部のギルナールの言語に最も近いそうだ。 ここは、スリランカに仏教を伝えた地点だ 浄土真宗、禅、上座部仏教がベルギーでセクトに分類されたらしい https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1568470077/ 夢とは 宝の庫を指し示す啓示が詰まった地図の断片集である 漢訳原始経典との整合性やシンハラ人に捏造不可能な古代マガダ語の正統性とかの観点を持たない限り馬鹿の学問は無意味だな チベットだって最初は顕教の根本経典から始めるのに基本を切り離して大乗経典だけで仏教が成り立つと考えるのは日本の大乗仏教徒特有の極めて歪な価値観に過ぎないという事ぐらいは自覚すれば 少しは賢くなれるだろうに 知識が上滑りして信仰にも至っていない >大乗経典だけで仏教が成り立つと考え ておるのは、まさに294の統失特有の妄想であろう その他シンハラへの妄執なども全て門徒の偏った見解に過ぎず、インド料理とスリランカ を混同するだけのさもしい我見への執着なのである ここにおいて 大乗とか非=大乗とか仏教、非仏教の差別など全く無意味である ただテーラワーダ過激派などは只の妄執の輩であり、いかに経を記憶しようと根が逆なの だから追随者も含めて明白な誤りなのである。 真言にかぶれた無明の輩がいかに愚かか教えてくれて感謝する。だが誰も関わりたくない やたら承認欲求が強いマウントとりたがる糖質が、 小乗教は全部正しいとか主張しても、それは無明の輩の思い込みであって カルト感染者と一緒。 異部宗輪論で言われるところのいわゆる小乗と呼ばれる伝統的部派仏教の部派の話と、スリランカ上座部と称しているものと、 現代上座部と称しているテーラワーダを分けて考える必要があります。 ご存知かとは思いますが、そこは同じではないです。 >スリランカ上座部は「島史」による伝承が根拠なので、あくまで自称の話であって、分からないことだらけです。 また、テーラワーダも途中2度途絶えたものを復興したもので、これらを根本分裂時代に遡り一連のものとして考えるのは、そもそも無理があります。 >部派の系譜に関しては、テーラワーダの主張は違うということ。 >テーラワーダは、根本分裂時の上座部の直系ではないです。 それをブッダゴーサ教と呼ぶ人もいます。 378神も仏も名無しさん2020/08/02(日) 20:44:54.73ID:4fzFl6ba 別にブッダゴーサ教でも異端でもいいがスマナサーラはホラ吹き破戒僧 母国のスリランカ仏教徒は異教徒を弾圧に虐殺 スマナサーラ教信者は発狂する奴が続出 真言門徒とか呼ばれる工作員の正体 創価ではないかな。 というのも書き込みに内容が無く、栄進や犬山と区別 が難しいから 297 誰もテーラワーダが全部正しいなんて言ってねーよ 文盲 そんな風に他人の言葉を読み違える奴にブッダの真意が判る訳無いだろ? 少しは己の身の丈に有った発言をしろよ 幼稚園児でも思いつくような書き込みは 恥ずかしいからこういうスレにはレスすんなと誰か299の 真言ゴキブリに 言ったれ ホントその通りや。 犬山とおんなじ マウントとりたがる基地害は 迷惑なだけ。 ミジンコ相手にマウント取る必要無いだろ? あんまり自分を買い被るなよ 笑 また出たww 302も同じだが犬山一味の幼稚な読書感想文レスはホンマ馬鹿らしいよね >0357 鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d 2021/06/19 03:12:56 キチガイという存在の否定は自己の否定に他ならない www 302は真言宗の生き恥晒しです。 栄進や犬山と同じ穴の貉であり、永遠に迷妄の中で 輪廻する三途のゴキブリやシロアリの一種 なんです。 ラカン的にいうと、荒らし魔である闖入者302の衝動は”欠如したもの”に向けられている 承認欲求が満たされない限り、アレの荒らしは続く なんか知らぬところで激しいバトルが、 鹿野園はクズであるのは事実だが、 なんか学問的分別が主体のスレぽいね。 なんとなく、 このスレの三毒濃度を観測してみたくなった。 むろん、傍観者としてな。 >>309 んだ、 ないやろね、 中途半端な学問だけやろからな。 >>310 その学問も独学やから信徒と門徒の区別も判らん素人丸出しやしね 笑 おそらく寺通いも禄にしとらんアホダラ教やで 薄学のモノよ。「門徒と道場」、『結衆・結社の日本史』、山川出版社〈結社の世界史〉 ISBN 4634444100 を読め 一般には少なく、真宗系でそう呼ばれることが多いというだけであり、門徒という言葉は普通の日本語である。 手前の見解を他人に強要するような態度では、信仰者としては勿論、社会人・日本人としての良識すら疑われるぞ。 或いは諸事情から小学校にも満足に通えなかったと見える。 が、いまはネットでも学べる時代である。ウィキペディアにも「門徒」の項目はあるし、一般的な国語辞典にも必ず項目がある 日本語の一つなのだ。門徒の本来の意味は 「一門のともがらのことを指す呼び方で、ことに同じ門流に属して信仰を共にする人びとのこと」 「一寺に属する檀徒のこと」である。 今頃悔しい言い訳 笑 真言宗で門徒の呼称は使わないと言った時には出せずに今頃グダグダ言ってももう遅い 仏教で門と言ったら それは仏門を意味するから未出家の在家信者を門徒と呼ぶ真宗が特殊なんだよ 更に言えば真宗は戒名に釈姓を付けるからこれも他宗派との差別化で 自分達だけが仏門に入れる釈子であるという自負がある 一般の大乗仏教では草木悉皆成仏といって末は草木に至るまで皆成仏するという考えが有るから自分達を指して門徒とは言わないのが常識であり それを知らずに真言門徒等という造語を用いたお前は誰が見ても仏教知らずなんだよ そんな話は知らん。 お前の流儀に合わせなならん理由は全くないのだよ 繰り返すが。オマエの見解などどーでもよいのだ。糞の役にも立たんだけでなく、 糞よりもっと汚らわしい。早く下水へ流されて消えよ! 再掲するぞ >薄学のモノよ。「門徒と道場」、『結衆・結社の日本史』、山川出版社〈結社の世界史〉 ISBN 4634444100 を読め 一般には少なく、真宗系でそう呼ばれることが多いというだけであり、門徒という言葉は普通の日本語である。 手前の見解を他人に強要するような態度では、信仰者としては勿論、社会人・日本人としての良識すら疑われるぞ。 或いは諸事情から小学校にも満足に通えなかったと見える。 が、いまはネットでも学べる時代である。ウィキペディアにも「門徒」の項目はあるし、一般的な国語辞典にも必ず項目がある 日本語の一つなのだ。門徒の本来の意味は 「一門のともがらのことを指す呼び方で、ことに同じ門流に属して信仰を共にする人びとのこと」 「一寺に属する檀徒のこと」である。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる