無上正等正覚を開くためのスレ
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悟りは全くの個人的体験です。
そして悟りは仏教者の身の上にのみ生じるわけではありません。
早い話、お釈迦さんは一度も仏教徒だったことはなかったのです。
ブッダは仏教がなかった時代に覚りを開き、
以後ブッダが出てなかったとするなら、
歴史上の仏教は、仏に成れる教えではなかったと言えるかもしれません。
末法の世に再び成道してブッダと成るために、どう実践すべきか
正しく思惟し、
即実行に移す人のスレです。
またブッダに立ち還り、大衆部を再興します。
「末法には、ただ名字(みょうじ)の比丘のみあり。
この名字を世の真宝となして、さらに福田なし。
末法の中に持戒の者有るも、すでにこれ怪異なり。市に虎有るが如し。これ誰か信ずべきや」
『末法燈明記』
五蘊非我と阿吽(菩提心と涅槃)
https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202010080000/ >>100
そうですね、存在が有・無で裏表なら、我・無我も裏表でしょうか?
我でもあり無我でもある、
例えば、ラーマナ・マハラシやニサルガダッタ・マハラジは「I AM」私は胸にありそれが真の我だと言っていますね、
禅でも無❗とか無心、無我と言いますが、「本来の面目」とか「一無位の真人」等と言い、何者かを設定しています、
ラーマナ・マハラシは真我とは「貴方の見ている世界全てが真我である」と述べていて、何か個では無いものとしているようです。 無我や非我というのも方法論を示したものであるから誤りではないが、語ると逸れてしまう。
だから語るべきでない。現代ではチベットに生きてるもので4割正とし、
スリランカ方面だけに独自にあるピュアな部分5%、日本の密教にある佳い部分2%
と見て、あとマハルシや古代インドよりの佳き伝統2割程度として7割復元可と
観察できる 真我が有るなら何から解脱するのかね?
物事を解体すればそれは空性にしかならず 有我無我を識別する基準は無い筈だが? >>103
実物は在るよ、良く存在とか言われてるの、仏教的な解釈だけでは本質は掴めないよ、特に唯識はマナ識に対してアラヤ識を立てるけど、
ヨガでは我執(マナ識)を挟んで貯蔵庫で、大我執(アラヤ識)と真我(真の鑑賞者)の3つをたて、真我の上にブラフマン(宇宙的存在意識)をおきます、
そして、臨済が言った面前を出入りする生き物(悟りの当体)と、展開する世界をも含めたものを真我とするのです、般若心経はこのことを言っています、
素領域理論でも同じことを言っていますね、自分の見ている世界はその個人だけの世界空間であって、それを素領域と言い、その素領域は他の素領域と部分的に重なりながら全体の無限個の意識空間の塊を形作っていると、
サーンキャでも無限個のアートマンの総体がブラムマンであると言ってて、同じです。
金剛般若経の否定の否定とか、最後の最後に解るのが、存在そのものを在らしめる「多次元空間=多次元意識」この空間だけでは無いので、光と同じこと、紫外線赤外線は目で見えないが、それ用のカメラでは像として映ります、同じ理屈で色界の上に無色界が説かれていて、それが多次元宇宙です、
そして、釈尊の悟ったものとは、この多次元宇宙を在らしめている、一つの空間意識であって、これを神の命、大生命とも言います。
非常に広大で深く高い無限ではありますが、空にして無でもあり、名状しがたいく、これを如とし、如来と言います。 >>104
原始経典のサイトで報身や法身からも解脱すると説かれた訳を読んでからは考えが変わってね
三身を知った上で更に解脱するというのは因縁の完全解消で存在の解体なんじゃ無いかと
法帰依 自帰依と空帰依は同義なんじゃないかと思えてならない
苦悩の主たる我が消えれば それ以上苦と縁起しないんじゃないかな? >英語圏でもパーリ仏典全体が歴史的なブッダの言葉だと言い張る研究者がまれにいますが、
パーリ仏典が上座部大寺派というスリランカの一派の伝承であって、
それ以外の派には別の仏典伝承があったことは疑う余地がありません。
現存パーリは異端の流れ、
と見る立場もあるようだよ。
釈尊その人の言ってたことから離れてしまっている、と。 パラマハンサ・ヨガナンダ 言葉
https://ameblo.jp/zen-is-right-here/entry-12224089778.html
これを読むとヨガナンダは苦しみは私たちのうちにある神(アートマン)によるものではなく、神自体はもちろん神ですから苦しむことはない。
その神に気付かず無知であるが故に神ではなくエゴを自分自身と思い込んでしまうから苦しむ。
苦しんでいるのは実は自分自身ではない、ということを言われてるようです。
私たちの本体は神であるので実は最初から救われているし穢れてもいない、と。
これはヒンドゥー教の基本的な考え方で、ラーマクリシュナやマハリシやサイババなどの聖者も表現は多少異なるかもしれませんが中身は同じことを言ってたと思います。 >>106
まあでも漢訳の阿含とパーリでは経典そのものにはそれほどの差異はないですね。
増支部と大衆部の増一阿含経は大分違う所があるようですが。
三蔵では経典よりも論蔵の方に違いがより見られるのかもしれませんね。 >表現は多少異なるかもしれませんが中身は同じことを言って
る、とは全くその通りで、古代インドの或る部分も大乗も同じ事を説いていて、
また「空」も、ブッダ以前にとっくに説かれていて、だから「空なりと観ぜよ」で
空の講釈は省かれ、それでわからん部派が出た訳でしょう。 >>107
元々一切は全て救われてる、解決してる
これは、ヒンドゥー教が〜とか仏教では〜とかではなく
そもそもこの身心がそういう風になってる
それをそれぞれの宗教がそれぞれの表現や方法で示してるだけ
そう考えた方が良いね でも、ヒンドゥー教よりキリスト教より
仏教が最も徹底してる
これは恐らく間違いない
(ヒンドゥー教キリスト教を信仰してる人はお怒りになるかもしれないけど) >>109
ひょっとして、ブッダ以前に説かれていた空は、後の大乗にも繋がる空śūnya(欠いている、実体がない、空虚な、など)ではなく、無色界の空無辺処のような虚空ākāsaの方じゃないですか? >>111
仏教でもともと一切が救われているは念仏の中でも浄土真宗や時宗では?
生まれながらに仏は真言宗や禅宗などがありますがこちらは現世での修行を要しますね。 >>105
そこ読んでみたい、出来れば教えてほしいな、頼みます、
7つの身体ってご存じかなあ?「OSHOの秘教の心理学」に有ったんだけど、
第5身体が個としての霊性で、第6身体が宇宙的身体で、第7身体は身体ではなくニルバーナとあります、
三身は宇宙的身体からの展開でそれを超えるのがニルバーナ、という位置づけでしょうかね。 >>112
自分もそう思います、虚空は多次元空間で、大別して色界と無色界ですよね、チベット密教では色界を《外界》、無色界を《内界》と別けています、
外空、内空って自分は思っています。 >>110
そうだね、救われているとも言えるけど、自我の仮構が実在としての自己(真我、仏性)の檻としてある訳で、
真の自己が実在であるとすると、監獄から初めから救われていると言えて、その位置からは、囚われてもいないとも解釈できるのでは? ブッダは革命家ではなかった
自分は教祖ではない、という意味のことも言っている
思うに大乗とは、
ブッダという父とインドの伝統という母から生じた子供たちである
その中には
勝マン夫人のように、父親に説教する生意気な娘もいた
ブッダは革命家ではなかった
ブッダはインドの伝統を捨てた訳ではない
ただ覚りに到るための新たな方便を
全ての人へ向け提示しただけである >>116
この世にフォーカスしている意識=人にとっては、真の自己に目覚めることは、救われたと表現できるのは確か。 >>106
へ〜そうなんですか、パーリーは異端ですか、知らなかった。 「アーナンダよ、修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか?
わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。
完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は存在しない。
「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」とか、あるいは「修行僧のなかまはわたくしを頼っている」
とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。
しかし向上につとめた人は「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」
とか「修行僧のなかまはわたくしを頼っている」とか思うところがない。
向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。」 >>113
大乗仏教と呼ばれるものは基本的に全て一緒
「大乗」ってのは、「我」(私)も「法」(一切)も同時に成道する(成道済みであると気付く)からそう呼ぶ
それに対してなぜ「小乗」と卑しめるような呼び方されるかっていうと
「我」(という錯覚)を成道させようとするから >>116
大乗仏教以外のヒンドゥー教とかは
この自他が分かれた現象界(色)を迷いとか幻想として語って
その現象界を超越した真我や叡知界みたいなの(空)を悟りとか真の実在みたいに語る
大乗は、色即是空空即是色
この迷いのあり様が即悟りであり真の実在そのもの
真の実在の現れとしてのこの当たり前のあり様だと語られる 「君見ずや絶学無為の閑道人
妄想を除かず真を求めず
無明の実性即仏性
幻化の空身即法身」『証道歌』 >>123
真我から現象世界までツーカーになったら当然そうなると思うよ、良く言われるように、凡夫から見ると聖凡別れて見えるけど、仏から見たら差異は無くて、凡夫も未顕現の仏として見える訳でしょ、ただ煩悩から遠離していないだけで、
仏性という命は全く同じ。 >>124
ツーカーになるというか、元々一つのもの
だから真我も現象世界も認められなくなると
これを生死即涅槃とか事事無礙法界とか言われるんだろう
仏教が真我を否定するのはそういうこと 色界を超えて無色界に自在に出入り可能な境地に行くと、人間の目で見えない世界が見えてきて、それが現界とダブって見えるって言うよね、 精神分析では、人間の精神構造をイド、自我、そして超自我の3つの領域ないし機能に分けて理解するのですが、
こうした自我、イドは当然五蘊に含まれると思います。イドは「色」蘊や利己的欲求に基づく衝動を起こす根源で、
悪いことでもよくても無関係に、兎に角「やりたい」のですが、それに対し、自我はそんなことしたら捕まるとか
みっともない、とか自分のポリシーにあわないとか色々理由をつけて、行動を規制する主体で、或いは規制する
ばかりでもなく、現実原則に則って最終的に判断を下します。それに対して超自我は、
一応意識上に上る場合においては五蘊に属するのですが、そうした最善な命令を下す大元で統御する真の主体者であり、
観照者であり、それこそが頼るべき真我なのだと思います。
この真我は上記の低次元での葛藤など遥かに超えており、自帰依の対象になる真の自己で、敢えて言葉にするなら
「我はブッダなのであるから、そうした低級な欲に指図されることなど本来的に有り得ないのだ」といった感じになります。
しかし五蘊にいる自我に毒矢が刺さっていてイドより弱くなっていたり、自分という真我を信じれていないと
正しい判断ができない場合も有り得るのです。
このように考えると、誰だかのように
もし無我の境地で欲の言いなりになっていたなら大変なのです。 フロイトなど初歩の精神分析と大般涅槃経、五蘊非我などを繋いだ
「五蘊と真我の関係」でした。 5ちゃんねるに凄まじい量のレスをつける或るコテの方がいてー自称43歳で統合失調症
の方でーそうした書き込みをもとに分析したところ、真我が全くわかっていない方の心
の状態についてデータが得られました・
もちろん掲示板の書き込みが全て事実だと見るのは危険ですが、仮にそうだとした場合
の話で、しかし当人が病気だと主張するのが嘘でもなさそうだという見解への裏付けも
得られ、辻褄が合いました。 その方の場合、イドが凄く強い方だとわかりました。
また自我もイドの言いなりになっていることがかなり多いらしいというのもわかりました。
問題は超自我なのですが、心の中にある筈のスーパーエゴの出向者の席ー真我からのメッ
セージを伝達してくれる役割の人の座るべき場所ーが
何ものかに乗っ取られ、占有されている様子なのです。
そのためベストな判断をするための、真っ当なメッセージが全然受け取れなくなっています。
そうした邪魔者が居座り、占拠しているため、真我が統御できず、結果心の統合に
変調をきたしてる状態とも解釈できます。
ただ「ナンミョ〜」とか「釈尊が0を発見した」とか
うわごとみたいなセリフを発する”侵入者”が居座っているだけに見え、
それを毒矢とも呼べるかも知れませんが、脳の病気であるならば仕方ありません。
しかし結構筋の通った話を書くこともあり、動画の投稿もしていて、
聞いた感じでは失調状態との印象は受けません。ニコチン中毒、依存症はありそうですが。 >>129-130
それ、創価カルトや正宗だけじゃなく、
伝統宗教含め、所謂宗教依存症全般に当てはまる症状だぞ B五蘊非我 真我・涅槃
C八頌品
ブッダの言葉・スッタニパータ 第四 八つの詩句の章 1〜16 通読
https://www.youtube.com/watch?v=R884Fvj_Cgs
D見諦道、彼岸に至る道
ブッダの言葉・スッタニパータ 第五 彼岸に至る道の章 1〜18 通読
https://www.youtube.com/watch?v=VyUuiYoS6Fc E縁起(抜業因種心)
ブッダの真理の言葉 第1章〜第26章 通読
https://www.youtube.com/watch?v=cQ0Wp_yT3hQ
中村元 - 原始仏典 ダンマパダ の解説
https://youtu.be/i7TkouxAZI0
ブッダの言葉・スッタニパータ 第一 蛇の章 1〜12 通読 1時間15分
https://www.youtube.com/watch?v=F1d7GMocWOw
相応部経典・有偈篇(サンユッタニカーヤ・サガータヴァッガ)
「サンユッタニカーヤ」(雑阿含経)
https://youtu.be/7zSPvkoWQME?t=41
『テーラガータ』
『テーリーガータ』
ほか原始仏典 B【真我】に相対するものが【我執】である
Aの核心部分とは、我執を無くすことで、それこそが無我の意味なのです。
アナートマンの禅定の実践によって、五蘊という悪魔を克服したならば、自ずから
真我が顕われて来ます。それを仏性と言っても同じです。
おそらく真我否定的な解釈が述べられるのは、
誤訳か、わかってない方が講師の身分になったり、
仏教史のかなり前のほうで、その手のー善意か意図的かは別にしてー誤解、歪曲が
紛れ込んだものと思われます。
>弟子たちよ、生じないもの、成らないもの、創造されないもの、
構成力から発生したのではないもの、が存在する。
もし、この生じないもの、成らないもの、創造されないもの、
発生しないものが存在しなかったとすれば、生じたもの、成ったもの、創造されたもの、
構成力から発生したものを認識することができないであろう F三十七菩提道品・九次第定の実践 止(アナートマンの禅定)と観(智慧)〜解脱知見・神通智
Hまで、あと2つあります。 >初期仏教
>阿含の仏教では、人間の個体の全体を我である(@五薀が我である)としたり、或いは個体の内にあってその中心生命となるものを我である(A我は五種を有す)としたり、或いは宇宙原理を我である(B我中に五薀がある)としたり、或いは存在要素がそれぞれに固有な性質(自性)をもっている(C五蘊中に我がある)とするような有我説を否定する。
>後世これを二十句の有身見という。上の@ABCが五蘊のそれぞれについていわれるからである。またこれは我見〔@に当たる〕と我所見〔ABCに当たる〕とに分けられる。我所とは、我の所有、我の所属、我と離れない事物の意である。 もし、もっと生産的な視点があるとすれば、
ブッダに影響を与えブッダが引き継いだバラモン教との共通項、または
ヒンドゥに残っている真仏説
という観点ですね 真我と五蘊の自我は、全く別物なのである
真我は仏であり、五蘊は悪魔である
五蘊皆空とは、勝義の立場から、悪魔の儚さを如実に見て、その虚妄なる正体を
喝破した言葉である 三世の諸仏は
智慧方便によって
無上正等正覚を得た
のである 元が分別説部ですから、やはり弱いのです。
その上、ブッダゴーサの改竄で除名
さらに一旦途絶えて、散逸したのを数百年後に国外から拾い集めたものがパーリなので
すから、抽象度の高い記述は信頼性が低い ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される
名があらわれて色があらわれる
有名万物之母
精神が物質を作った 外側=物質界に囚われていたのでは心の平安=涅槃は無く、無常なる色に我は無い 肉体は我に非ず 開く も 得る も 悟るも 同じで世俗の言に差別あること無し 況や凡夫の一念三千をや。
シニフィエされた当体こそ大事。
大慈恩寺三蔵法師伝承徳三年点‐七「其れ斯の謂(イヒ)乎(か)」
勝義こそ真理也 照見五蘊皆空 大悟涅槃寂滅
欲色界も
無色界も越えて涅槃寂静境に入る。
まず五蘊の超越から 諸行の無常なること、諸法の非我なるを知り、一切は苦しみである、と如実に見て
順観・逆観を行じ、現象世界の虚妄なるを見抜く。
そして基本、常に八正道を含む三十七道品の実践修行の完成に努め苦滅・解脱知見を得。これにより生死の迷いより脱した大安楽
を得、仏陀と等しき我を覚り、最高の清浄に達する ことは誰にでも可能なのです。
本人が拒まなければね。 機根には上品
中品・下品とあり
今の末法の世は下品の者の時代という者もいる。自らも下品と
考えた宗祖らもいる 最初から何も対立などしていない真実を
ありのまま観察する 仏の身体のすがたをもって仏を見てはならない、いかなる相も虚妄であり、
諸々の相は相に非ずと見るなら、即ち如来を見ることになる。
仏像を(その物自体を)仏と思ったのでは、実体が無い物であるから錯誤に陥るのである
認識は幻想=いかなる「個としての枠組み」も、思考による妄分別が作り出した幻影、妄想=戯論に過ぎず
認識したものは真の実在ではないと如実に観察するなら
即ち無為法の慧より出世間上上智を生じて涅槃寂滅を知解する(宇宙の一体性をさとる)事ができるのである
像法(ぞうぼう)とは、仏教で、正法に似た仏法のことをいう。「像」とは「似」の意味である。
また、釈迦の入滅後の500年から1,000年の間(又は1000年から2000年の間)の時期のことをいう。前の時代を正法、後の時代を末法という。正・像・末の三時のひとつである。
像法の時代には仏法と修行者は存在するが、それらの結果としての証が滅するため、悟りを開く者は存在しないとされる。
形式化されて仏法が伝えられ利益をもたらす時代
日本では、1051年(永承6年)で像法の時代が終了したとされ、その年限の接近に従って、次第に末法の世の到来への危機意識が高まることとなった。
)【像法】
(「ぞうほう」とも。「像」は映像の意)仏語。釈尊入滅後、正法の時をすぎて、教えや修行が行われるだけで、さとりが得られなくなった時期をいう。
多く正法五百年、像法千年と数えるが、日本では永承六年がその最後の年と信じられていた。像法時。v 仏滅後千五百年以降、現代に至る「末法」の世においては、肩書だけは僧を名乗る者たちが現われる。
そのような僧籍にあるという肩書などを尊いものと見做しても、ろくなことは無い。
また末法の世で厳しく戒律を守る僧がいたとしても、超ー珍しい現象で、街中に虎が出現し、うろついているような感じになるであろう。
誰も、そんな現象があるとは夢にも思わないだろう。
二、
末法の世で厳しく戒律を守る僧がいるという話が聞こえて来ても、
それは実際にはいない虎を、市中にいると(悪意をもって騙す側か、愚かさゆえに騙されたかの)多くの人が宣伝したから信じこまされただけであって、虎などいないと真実を語るまでもなく、誰も信じるものなどいない状態になるであろう。
実際にはいない虎を、市中にいると(悪意をもって騙す側か、愚かさゆえに騙されたかの)多くの人が宣伝したから信じこまされ
ているのだと嘘を容易く見抜くようになり、ほんとうは虎などいないと真実を語るまでもなく、誰も信じるものなどいない世の中になっている。 ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディスヴァハー >ことばにされた瞬間に本来の意味とはまた別な
低級な何かに堕してしまう
とも言え、それが世俗の真理の限界も
示している 虚空と涅槃は常と知り
生滅滅已、涅槃寂滅を楽と為し
仏陀・如来の我を覚り
滅諦の実性を体悟して、最高の清浄に達する 医者の中には、
解脱者の観察ができていて、実質ある種の正しい認識に達しているものもいるらしい
勿論、煩悩にまみれたままのものも多い
ようだがね 智慧の光は
さりげなく
「騙そうと企むもの」の実態を
暴くのである >世界の真実のありようというものは
人の五蘊が分別して得た見解を越えたところのものである。
それは、実には五蘊で計り知ることはできないものである
https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202010100000/ 世界の真実のありようとは空であり
また勝義においては
浄真如である。真如にも浄と染がある。如来の智慧により
照見された蓮華蔵世界なり 但し
日本仏教については、
その最良の部分においてさえ、グレーゾーンに位置する
と見ます。 物質界は見掛けだけの空虚なものでしかない
それから誤った印象を受ける五蘊もまた、
変転して定まらない不確かなものであり、実体無く、
空虚である 六道輪廻は迷界
大乗では仏の慈悲により
発心した衆生も直ちに冥界より出離
解脱する
菩薩は
たとえ輪廻すると雖も心迷界にあらず
既に六道に住さずして
菩薩道に入る トップダウン式に
まず全てわかる、見える
ということが最も大事なこと >仏道修行の一つの側面は、煩悩や妄執を相手に闘いを挑む武士道であり、
空とは、鬼退治(煩悩の征伐)に際し、士を助ける優れた利器である。
と言った人がいても不思議ではありません。
https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202010050000/ >『入法界品』(にゅうほっかいぼん)
とは、大乗仏教経典『華厳経』の末尾に収録されている大部の経典(品)。
サンスクリットの原題は『ガンダヴィユーハ・スートラ』(梵 : Gandavyūha Sūtra)。
善財童子が、文殊菩薩に促されて悟りを求める旅に出発、
53人の善知識(仏道の仲間・師)を訪ねて回り、最後に普賢菩薩の元で悟りを得る様が描かれる。
一説には、東海道五十三次の53の数字の由来は、この『入法界品』にあるとされる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E6%B3%95%E7%95%8C%E5%93%81 WORLDVIEW: 7 LEVELS DEEP Clip - Applying Unified Field Understanding to Politics
https://youtu.be/Rp5CPZFcWM8 よい解答が見えないのは、まだ無明の中におられるということかも。よい判釈なら幾つ出て来てもよいでしょう。
ただ、それらには各人の境涯に応じた深浅、段差も生じ、
その人には自分の境遇、波長に合った答えが都度見える というだけ
なのです もし心清らかにして、禅定と智慧を生む瞑想を続けたならば
神通力は
自ずから生じるものなので
あります 学校では誤った幻想が教えられてたりするもの
その実態は即ち洗脳である 世界は見えている通りにあるのではない
と、まず気付くことである。 ゼロか少しあるかなんてのは全然どうでもいい話であって
煩悩というものが理解できる人に向けては
見えている対象も、それらに執われる人の五蘊も幻に等しく、無常で皮相な現われに過ぎない
と言っている 色とは迷界の幻に過ぎない。
色即是空の反対語は、
一心即是本居
である 良い因縁も良くない縁起も
あるように見えて、実は本来実体は無い
だが、それらを形にするものは
心なのである ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています