無上正等正覚を開くためのスレ
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
悟りは全くの個人的体験です。 そして悟りは仏教者の身の上にのみ生じるわけではありません。 早い話、お釈迦さんは一度も仏教徒だったことはなかったのです。 ブッダは仏教がなかった時代に覚りを開き、 以後ブッダが出てなかったとするなら、 歴史上の仏教は、仏に成れる教えではなかったと言えるかもしれません。 末法の世に再び成道してブッダと成るために、どう実践すべきか 正しく思惟し、 即実行に移す人のスレです。 またブッダに立ち還り、大衆部を再興します。 「末法には、ただ名字(みょうじ)の比丘のみあり。 この名字を世の真宝となして、さらに福田なし。 末法の中に持戒の者有るも、すでにこれ怪異なり。市に虎有るが如し。これ誰か信ずべきや」 『末法燈明記』 五蘊非我と阿吽(菩提心と涅槃) https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202010080000/ 仏滅後千五百年以降、現代に至る「末法」の世においては、肩書だけは僧を名乗る者たちが現われる。 そのような僧籍にあるという肩書などを尊いものと見做しても、ろくなことは無い。 また末法の世で厳しく戒律を守る僧がいたとしても、超ー珍しい現象で、街中に虎が出現し、うろついているような感じになるであろう。 誰も、そんな現象があるとは夢にも思わないだろう。 二、 末法の世で厳しく戒律を守る僧がいるという話が聞こえて来ても、 それは実際にはいない虎を、市中にいると(悪意をもって騙す側か、愚かさゆえに騙されたかの)多くの人が宣伝したから信じこまされただけであって、虎などいないと真実を語るまでもなく、誰も信じるものなどいない状態になるであろう。 実際にはいない虎を、市中にいると(悪意をもって騙す側か、愚かさゆえに騙されたかの)多くの人が宣伝したから信じこまされ ているのだと嘘を容易く見抜くようになり、ほんとうは虎などいないと真実を語るまでもなく、誰も信じるものなどいない世の中になっている。 35歳のシッダールタは、ガヤー地区(英語版)のほとりを流れるナイランジャナー川で沐浴したあと、村娘のスジャータから乳糜の布施を受け、 体力を回復してピッパラ樹の下に坐して瞑想に入り、悟りに達して仏陀となった(成道)。 この後、7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起と十二因縁を悟った。 悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって 考えた。 その結果、「法を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。 ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。 3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた五人の沙門に説こうと座を立った。 パーリ律蔵の『マハー・ワッガ』(和訳:『南伝大蔵経』第3巻) 梵天の懇請を容れた釈迦は、世間には心の汚れの少ないもの、智慧の発達した者、善行為を喜ぶものもいる ことを観察した上で、最終的に法を説くことを決意した。(「甘露の門は開かれたり 耳ある者は聞け」に始まる有名な偈はこの時説かれたとされる。) 釈迦がヴァーラーナスィーに向かう途中、アージーヴィカ教徒の修行者ウパカに無師独覚を話したが軽く受け流されている。 これは仏法を説いたことにはなっていない(ウパカは後、釈迦に帰依して出家した)。 …自らが阿羅漢であったことを表明した釈迦は、なお教えを受けることを拒む5人を説得して、最初の説法を為した。 このとき説かれた教えは四諦八正道であったとされるが、後代に編まれた経論、経解ほど中道、三十二相、三転十二行相など様々に脚色される。 5人の修行者は釈迦の説法を歓喜して受けた。 また、この時、5人のうちコンダンニャに「生ずるものはすべて滅するものである。」という法眼が生じた(悟りを得た)。 伝統的に、これは四沙門果の第一、預流果に達したことと説明されている。 釈迦は次に「無我相」の教えを説き、五比丘に五蘊無我の修習を指導した。五人は阿羅漢果(四沙門果の第四)に達したとされる。 十二縁起(じゅうにえんぎ)は、仏教において、現実の人生の苦悩の根源を断つことによって苦悩を滅するための12の条件を系列化したもの 無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個の支分において、無明によって行が生じるという関係性を観察し、行から次第して生や老死という苦が成立すると知ることを順観という。 また、無明が消滅すれば行も消滅するという観察を逆観という。 順観と逆観の両方を行って、人間のありように関する因果の道理を明らかにした結果、因果の道理に対する無知が苦悩の原因であったと悟る。 その際には苦悩が消滅し、根源の無明が消滅しているため輪廻もなくなるとされる。 無明(むみょう、巴: avijj?, 梵: avidy?) - 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。 行(ぎょう、巴: sa?kh?ra, 梵: sa?sk?ra) - 志向作用。物事がそのようになる力=業 識(しき、巴: viññ??a, 梵: vijñ?na) - 識別作用=好き嫌い、選別、差別の元 名色(みょうしき、n?ma-r?pa) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。実際の形と、その名前 六処(ろくしょ、巴: sa??yatana, 梵: ?a??yatana) - 六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意 触(そく、巴: phassa, 梵: spar?a) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。 受(じゅ、vedan?) - 感受作用。六処、触による感受。 愛(あい、巴: ta?h?, 梵: t????) - 渇愛。 取(しゅ、up?d?na) - 執着。 有(う、bhava) - 存在。生存。 生(しょう、j?ti) - 生まれること。 老死(ろうし、jar?-mara?a) - 老いと死。 存在感を消すことだけに専念すればいいんです。それだけで、人生はシンプルでラクになるんです。「苦しいのは絶対にイヤだ!」が悟りです。私は心底、「自分さえ助かれば他はどうでもいい」と思っています。これは、生涯変わりません。それが、大人になるということです。 大乗仏教、曹洞宗(そうとうしゅう)。ただ坐る。 八聖道(はっしょうどう、巴: ariya-a??ha?gika-magga, 梵: ?rya-a????gika-m?rga)は、仏教において涅槃に至るための8つの実践徳目である正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のこと https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93 【四聖諦】 仏教で説く四つの真理(諦,サティヤsatya)のこと。四聖諦ともいう。仏教の開祖である釈迦は,ブッダガヤーの菩提樹下でこの四諦の真理を,あるいは十二因縁という縁起の法を悟ったといわれる。四つの真理とは苦諦,集諦(じつたい),滅諦,道諦の四つをいう。 苦諦(くたい) - 迷いのこの世は一切が苦であるという真実 集諦(じったい) - 苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実 滅諦(めったい) - 苦の原因の滅という真実。無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地であるということ 道諦(どうたい) - 悟りに導く実践という真実。悟りに至るためには八正道によるべきであるということ 苦滅道諦, くめつどうたい)とは、「苦を滅する方法・実践修行がある」という真理。これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道である。その七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程が八正道である。 >名前:神も仏も名無しさん 2020/07/29(水) 00:27:24.73 ID:dUtWz0oI 私達がこうして、いろいろ言葉であーだこーだ言ってるのって 仏陀がするなって言ってたことじゃないの? なぜ仏陀の時代にお経や仏像がなかったか、 それを考えると 2000年もの間多くの人たちが誤った教えを正しいと思い広めて来たのではないか? そんな気も少しします。 それは私が実際に仏陀のような人(悟りを開いたと思われる人)を見たことがないからというのもある。 釈尊はある経典のなかにおいて、出家される以前、インドの一小国の太子であった ころのことを回想され、田畑に遊ばれて樹下にて瞑想されたおり初禅を得ていたと 述懐されています(『中阿含経』卷廿九「柔軟経」第一)。この経に対応する パーリ経典では、その時いまだ幼い太子の身であった釈尊は、この禅なる境地において 「これこそ解脱に至る道であろう」と考えられたと伝えられます。 苦行の無意味さに気づいて極端な苦行に依る解脱を放棄した釈尊は、ここで自ら王子 として野に遊んだかつての頃、木陰で瞑想して初禅に達したおりに「これが解脱への道 であろう」と考えたことを思い出し、再び瞑想し、禅という境地において解脱を果たさんとします。 そして、悟りを獲るまでは決してこの座を立つまいとの決死の覚悟をもって、菩提樹と後代言われる ようになる大木のもと、結跏趺坐します。インド・ビハール州のブッダガヤーと現在言われる土地においてのことでした。 しかしてついに、釈尊はかつて少年の頃に感じたとおり禅という境地において、 (中略) 一切の無常なること、非我なること、 それが故に苦であることを完全に悟り、苦の滅尽に至って正等覚者、仏陀となられたと諸々の経典は伝えています。 http://www.horakuji.com/dhyana/sikan/dhyana.htm 四禅(しぜん, Rupajhana)とは、初期仏教で説かれる禅定(ジャーナ)の4段階のこと。 三界の内の色界に相当し、この言葉は、禅定の段階に応じてこの色界を4分割した四禅天の略称としても用いられる。 初禅 paṭhama-jhāna (梵 prathamadhyāna) 諸欲・諸不善(すなわち欲界)を離れ、尋・伺(すなわち覚・観)を伴いながらも、離による喜・楽と共にある状態。 第二禅dutiya-jhāna (梵 dvitīyadhyāna) 尋・伺(すなわち覚・観)が止み、内清浄による喜・楽と共にある状態。 第三禅 tatiya-jhāna (梵 tṛtīyadhyāna) 喜を捨し、正念・正見(すなわち念・慧)を得ながら、楽と共にある状態。 第四禅 catuttha-jhāna (梵 caturthadhyāna) 楽が止み、一切の受が捨てられた不苦不楽の状態。 パーリ語経典長部『沙門果経』では、王に仏教の比丘(沙門)の果報を問われた釈迦が、 まず戒律の果報を説き、次にこの四禅の果報を説き、最後に六神通を説いたとされる。 パーリ語経典長部『大般涅槃経』では、釈迦の入滅の様子が、「初禅から滅想受まで、 「九次第定」を段々と上がって行き、そこから初禅まで段々と下って行き、そこから再び四禅まで上がったところで入滅した」 まだ物質的な領域にある色界の禅定とは異なり、無色界では色蘊(しきうん)がなく、 この段階に至った修行者は、触覚、視覚、物質的な構成要素において、微細なものからも完全に離れる修行をする。 空無辺処定 欲界と色界とにおける一切の物質的な形を離れた、一切の作為の無い 無辺の空を観じる 識無辺処定 心を転じて識を縁じ、識と相応し心定りて動かず、 三世(過去・現在・未来)の識が悉く、定中に現じて清浄寂静なる果報をいう。外の虚空の相を厭い、内なる識を観じて、識が無辺であると達観 する。 また如来を蔵するアーラヤ識(阿摩羅識→乾栗陀耶識)としての真識が、過去・現在・未来の三世にわたって無限に永続するあり様を観じる。 無所有処定(むしょうしょ)とは、無色界の(下から数えて)第3天。 いかなるものもそこに存在しない三昧の境地。 空は無辺なりと観じて、空を破した人が、さらに識が三世(過去・現在・未来)にわたって無辺であるを厭(いと)い、所縁共に所有なしと観じ、 この行力に依って生まるる処であるから、無所有処地という。 何ものも真実には存在せず と観察し達観する三昧境 非想非非想処定 想いが有るのでも無く、無いのでも無い、深い三昧の境地 想いが有ろうが無かろうが、心が主客に分かれない、すべてわかって何も分かれない無色界の有頂天にもとづく 非想非非想処天とは、この天に生じる者は、下地の如き麁想(そそう)なきを以て「非想」、または「非有想」といい、 しかも、なお細想なきに非(あら)ざるを以て 「非非想」、または「非無想」という。 滅尽定だけが釈迦が初めて到達した仏教に特徴的な定だとされる。 末那識は自我執着意識ですが、阿頼耶識はその悪念を経験として蓄積し、汚れる可能性があります。 ならば、悪念のない無垢な阿頼耶識、というものがありうるはず。天台宗や華厳宗では、それを阿摩羅識という第九識とします。 別名「仏性」と呼ばれるもので、 さらに真言宗では、個々人の仏性の奥にある真の根源として、第十識すなわち 乾栗陀耶識を立てます。 無色界の禅定(非想非非想処)の先に、滅尽定(滅想定、滅受想定、想受滅とも呼ばれる)がある。これは、瞑想とも禅定とも呼べるかどうかもわからない状態である。すべての想いが滅した状態である。 これは色界や無色界での禅定ではない状態で、心の働きが一切尽きてなくなり、全く平穏静寂な、心のあらゆる動きが全く止滅した状態とされている。 想受滅では、心の状態が全く止滅し、身体のはたらきもその間ほとんど止まる。 滅尽定(nirodha-sam?patti)では、有頂天にもとづき心と心所法は決められた間において止滅する。 大般涅槃経では、釈迦は入滅にさいして第一禅定と想受滅のあいだを上下し、第四禅定から出定したのち般涅槃に入ったとされている。 滅尽定は煩悩を滅して心を完全に清らかにした阿羅漢でなければできない禅定 十地経の第七では、「(波羅蜜にある)かの菩薩」なる者が、第六の菩薩の地(くらい)において初めて、 「あらゆるまよいの存在が滅尽する定(滅定)」に入定し、第七の菩薩の地において、その定に入定してはまた出定するようになるとする。 入中論』の月称(チャンドラキールティ)の注釈も、十地における滅尽定は第六地から第八地にかけて入定するということである. 最後にニルヴァーナに入る時、 非想非非想処(有想無想定)まで至ったが、またそこから初禅(第一禅)へ戻り、さらに第四禅へと至って、最後にニルヴァーナ(最終的な肉体のない解脱)へと至っている。 初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅 → 空無辺処 → 識無辺処 → 無所有処 → 非想非非想処 → 滅尽定 そして今度は、逆に最後の滅尽定から、無色界の非想非非想処から空無辺処まで戻り、さらに色界の第四禅から初禅まで戻る。 再び、色界の初禅から第四禅へ至り、この第四禅から直接ニルヴァーナへと入り、ブッダは肉体を捨て去ったと記述されている。 >IQにもいろいろあって、テストでわかるIQとテストでは評価できない 裏の、といったほうがよい智慧の水準がある たとえばオウムをはじめカルトの幹部には高学歴のものが多いけれど とんでもない邪師につかまったりするのは人を見る智慧の眼が劣っている、 肝腎な裏IQが低いということで、同様に子供の時から勉強ばかりで異性を見る目がじゅうぶん できてない人が悪い異性にひっかかって痛い目に遭うとか 健康リスクを甘く見て食事や飲酒などの生活習慣リスクに注意ができなかったり 老年までうまく生きれたとしても高齢運転のリスクに気づけず適切なライフスタイルの改善をしないで事故を起こしたり 幾らでもテストIQでは測れない諸問題が人生には山のようにあり、 その意味でも、ブッダの言うよう人生は苦なので その解決法がまさに道諦の実践ということになる。 初禅にも尋伺があるという。かなりすすんだ修行者にある「尋伺」とは何か。 天台大師の『摩訶止観』では、尋伺について詳細な記述がある。 それによれば、尋は、身体の八種の触感で、伺は、それを評価・判断することである。 十種の判断であり、これは、智慧ある判断である。それ以前は、同様の触があっても、邪の判断をする。 修行がすすんでいくと、初禅の境地に達する。そこには、五つの特徴がある。覚、観、喜、楽、一心である。 「初めの触が身に触れて縁にあるを覚と名づけ、細心に八触および十眷属を分別するを名づけて観となし、 昔はいまだ得ざるをしかもいま得るを慶ぶが故に名づけて喜となし、恬愉なるを名づけて楽となし、寂然なるを一心と名づく。」 仏の身体のすがたをもって仏を見てはならない、いかなる相も虚妄であり、 諸々の相は相に非ずと見るなら、即ち如来を見ることになる。 仏像を(その物自体を)仏と思ったのでは、実体が無い物であるから錯誤に陥るのである 認識は幻想=いかなる「個としての枠組み」も、思考による妄分別が作り出した幻影、妄想=戯論に過ぎず 認識したものは真の実在ではないと如実に観察するなら 即ち無為法の慧より出世間上上智を生じて涅槃寂滅を知解する(宇宙の一体性をさとる)事ができるのである 像法(ぞうぼう)とは、仏教で、正法に似た仏法のことをいう。「像」とは「似」の意味である。 また、釈迦の入滅後の500年から1,000年の間(又は1000年から2000年の間)の時期のことをいう。前の時代を正法、後の時代を末法という。正・像・末の三時のひとつである。 像法の時代には仏法と修行者は存在するが、それらの結果としての証が滅するため、悟りを開く者は存在しないとされる。 形式化されて仏法が伝えられ利益をもたらす時代 日本では、1051年(永承6年)で像法の時代が終了したとされ、その年限の接近に従って、次第に末法の世の到来への危機意識が高まることとなった。 )【像法】 (「ぞうほう」とも。「像」は映像の意)仏語。釈尊入滅後、正法の時をすぎて、教えや修行が行われるだけで、さとりが得られなくなった時期をいう。 多く正法五百年、像法千年と数えるが、日本では永承六年がその最後の年と信じられていた。像法時。v 「善か悪か」は論点のすり替えです。仏も余計です。 「ただ坐る」とは悟りを求めて坐禅することはしないということです。 心の成熟した大人になる為に坐禅するんです。 |1160 五種の構成要素(五蘊)を、 | [アートマンとは異なった]他のものであると見て、 | アートマンであるとは見ない人々は、微妙なる真理に通達する。 | ――毛の尖端を矢で射るように。 | |1161 またもろもろの形成されたもの(諸行)を | [アートマンとは異なった]他のものとして見て、 | アートマンであるとは見ない人々は、精妙なる真理に通達した。」 | | (「テーラガーター 仏弟子の告白」中村元訳 岩波文庫) |「もろもろの原因から生じ、壊滅するものである | もろもろの形成されたもの(諸行)を | (自分とは異なった)他のもの(わがものではないもの)であると見なして、 | わたくしは、あらゆる煩悩を捨てました。 | わたくしは清涼にしてやすらかなものとなりました。」 | |(「テーリガーター 尼僧の告白」中村元訳 岩波文庫) >ヤージュニャヴァルキヤの言ってることは間違っていません。 昔、バラモン教の一派が、アートマンを輪廻転生の主体ととらえたようです。 お釈迦さまは、それを否定するために「諸法無我」を唱えたようです。 ヤージュニャヴァルキヤの言うアートマンは、 お釈迦さまの言う「諸法無我」と全く同じものです。 アートマンは人の脳の認識を超えているため、「ある」とも言えません。 そのためお釈迦さまは、それを「諸法無我」と表現したのです。 それから、ブラフマンとアートマンは実際は同じものです。それが梵我一如ということです。 加えて、禅定だけでは悟りに到ることはできません。 まず、この世界は脳が反応しただけのものであることを、分からなければなりません。 脳が認識できる世界は、脳が認識できない世界の無限分の1でしかありません。 (脳は紫外線・赤外線を見ることができません。目の前の花の色が、 本当はどのような色をしているのか、人間にはわからないのです。 光線は無限に広がっています。私たちが見えるのは、その無限分の1にしか過ぎません。このことは五感すべてに言えることです。私たち人間は世界の本当の姿を知ることができないのです) この脳が認識できない世界こそが、アートマンです。このアートマンこそが「本当の自分」です。それをわかることが悟りです。 その方法として、お釈迦さまはヴィパッサナー瞑想を説いています。他にも方法はあるかもしれませんし、 悟りは難しいものではありません。 ヴィパッサナー瞑想は第3禅の四念処観に含まれます。つまり、本来のブッダの戒め と精神統一=禅定即ち「止」、一点集中の瞑想 と 智慧=「観」 を実践する事によって最高の清浄、無上の覚り、解脱の境地・涅槃寂滅に到れるという事なのです。 色界・無色界の8つの瞑想を超えてブッダが到達した涅槃寂静の境地こそ、仏教の核心 と感じますし、九次第定は経典結集前から生き続けていた正定です。八正道の実践によって正しい覚りに到れるよう努力して、修行を完成して行きま しょう。 大乗の教えは阿羅漢止まりではない。仏陀になれるんだ。と主張し、パーリ増支部「比丘たちよ、この心は光り輝いている。 ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている」つまり、自性清浄だが客塵煩悩によって汚れているとの仏説を 根拠に、如来蔵が説かれるようになった。 阿羅漢にしかなれないと定義したのは部派仏教であって、そこからして仏説ではないのです。 整理すると まず、七仏通誡偈からも分かるように、お釈迦様は過去仏を認めています。 つまり、お釈迦様以外にも仏陀はいるのです。 南伝系にも禅の方にも断見ぽいことを言う者はいますね。また先祖供養をする坊さんであっても 一般人と変わらぬ断見の考え方を持つ輩は多いと聞きます。 思うに仏性をインスリンに喩えると、分別説部の過激派というのは 先天的にインスリン分泌が過少な1型糖尿病的症例ではあるまいか。 だから左の五蘊にしっかり詰まった苦の起源たる不必要な執着や 過剰なる欲を ある程度抑制しても、仏の心が輝かず、 イスラムと同じ誤謬に陥って争いごとに精出し仏教ビジネスに邁進するだけになり、本来無関係な情弱者に感染させようと企み、他国の精神文化まで破壊 するという恐ろしいカルマを積む。テーラワーダ過激派等に未来は無い と思われる。 しかし多くの衆生も、仏性はあっても、左側の五蘊に盛られた苦の起源たる執着が多くて抑制がきかず、右の仏性覚知の働きを 妨げる結果となり、それは恰も2型糖尿病のように、そこそこインスリン分泌があっても生活習慣の悪さに起因し発症する。が、 それでも如来蔵を意識する機会が奪われてるのは、少しインスリン分泌が足りない体質なのに似てなくもない。 またヒンドゥの人でも真我の瞑想をしたり優れた実践をする人は、用語は仏教風でなくとも 実質的に仏性が光輝いていて、転識得智している。 左脳(個我意識が巣食う五蘊)からの干渉、妨害、抑制の一切を空にすると、 右に本来具わる菩提心や慈悲の心は限り無く増長して行くのである。 そして実は、このアナートマンは、 仏教だけを学んでも わからないのかも!と気付きました。 それは、【真我】に相対して有るのが【我執】である←この説明、 わかりますか? おそらく真我否定的な解釈が述べられるのは、 誤訳か、わかってない方が講師の身分になったり、 仏教史のかなり前のほうで、その手のー善意か意図的かは別にしてー誤解、歪曲が 紛れ込んだものと思われます。 >弟子たちよ、生じないもの、成らないもの、創造されないもの、 構成力から発生したのではないもの、が存在する。 もし、この生じないもの、成らないもの、創造されないもの、 発生しないものが存在しなかったとすれば、生じたもの、成ったもの、創造されたもの、 構成力から発生したものを認識することができないであろう >韻文経典では、十二支縁起説は説かれておらず、 無我ではなく非我が説かれ、アートマンが積極的に承認されています。 最古層に属する経典がそうなのであり、実はスリランカ系統こそ飛躍に満ちていて、 後代に分別された説との声もあります。 おそらくブッダ入滅後、仏教を興した弟子たちが 生前の教説を保存し、さとりの内容を維持しようと試みはしたが、 そもそも悟りなるものが正しく理解できてたか、くまなく経典として伝承できてたか また阿羅漢の認定とかにしても間違いなく法の運用ができてたか、 客観的に評価できないまま五百年が過ぎ そろそろ何か変だぞ と気付いた有志らが大衆部を興した のだと思うよ、 だから大衆部が出た時も 脱構築への挑戦ではあったのだろうね それ半分は成功し、二千年信じられた経典も 生まれた訳だ。 華厳・密教の毘盧遮那佛観は、 山川草木皆仏 とか浄土思想と直結して、この身がこのまま仏菩薩と成り、そこからさらに 現世そのままを浄土とする思想が生まれ、現世に即浄土をあらわす実践行 と成りました。 >真言密教の無我は、六大の構成要素込みの無我=大日如来 と見ている はい。その通りだと思います。 六大の識→転識得智した法界体性智、 まさに大日如来であって、儀軌の通り。 本来の仏教も 無我を観じることで智慧が生じる >一つ言えるのは、人は他の動物と違い、環境に支配されきったロボット的客体ではない。 殊に諸行無常を説く仏教なれば、環境も固定したものとは見ず、 空なるを観じて有害な支配を拒み、また実際に人は環境を変え操作 してもいる。 七十年代以前米国の生態心理学者の古い説と仏教を結びつけるのは我見であり、 それに執着するのこそ我執。 まったくとるにたりない 戯論 神も仏も名無しさん:2020/11/08(日) 19:37:52.64 ID:GSppZFhgr 我を【我執】とするか 個人の【実体】的何物かとするのか?それで違ってきますね。 ヨーガのヨーゲシュバラナンダ師著『魂の科学』によれば【真我】に相対して有るのが【我執】であるとしています。 この我執とは生命を持たない微細精妙器官で有って 胸に位置し 頭部の【理智・意思】に入ってくる五感からの情報を【真我】に見せるとともに その情報の取捨選択を瞬時に行い それを【宇宙我執】に受け渡す役目を担っているとあります。 【我執】には3つの位相があります、3グナと言い 1善性 2動性 3暗性 でこの3つがバランスして人の性質が決まるようです、 この【1善性】のみとなった【我執】の状態はまさに【平等性】の状態であります。 しかし あくまで此は【真我】に於いて観照された【我執】の状態であって 生命の当体ではなく 生命無き器官であり其所に実体は無いとされます。 選択無き【我執】は【止念の行】のみの状態にあって その状態を【真我】に見せます、止念の状態にある我執は【観られる】側であるので ここで識の転変が起きます。 我執は一時的に空となるので 対象を失った【観る側の真我】の注意は自身に置かれます、この状態を【真我独存位】カイバリヤーと言い 真我自身のみになった状態と言われています。 真我はこの後 更に【プルシャ】に転変し更に【ブラフマン】宇宙意識に至ります、真我独存位では 当然色界は覚知されず 純白の光もしくはダイヤモンドの耀きのごとき光としてあるとされています。 誰しもが本来的に覚っている。 ブッダであるのを自覚する事が 一つの悟りであるとも いえよう 「現代科学でもエネルギーと物質の上位階層にある何ものかを想定し始めている」 「ヤコブ・ベッケンシュタインが現代科学のトレンドを要約した記事では 科学者たちが"物理的世界は情報でできており、エネルギーと物質は副次的なものであるととらえる"ようになるとの示唆が含まれていて、 Eとmのより上位に位置づけるべきものとしての「情報」や 大乗仏教的に想像すると、一つには「一心縁起」とか考えられます」 「色蘊も原因と条件から成立し、何かの要素が少しでも欠ければその形にはなれなかった無実体な現象」 他人に迷惑かけない人になりたいだけなら、それはそれでよいとは思います(それすらできない方が近頃多い) しかし、単なる利己主義では、大乗仏教ではありません。 また天部の勧請を容れて法を説いたブッダの姿勢にも反するものでしょう。 煩悩を滅ぼし、無上の覚りを求めて菩提心を起こしたブッダと同様、正しく成仏道を歩むのが真の求道者であります。 また十波羅蜜にも示される通り、成熟有情智を修め、身に着けるのは自然なあり方で、世間の人に不快感を与える幼稚な自己 主張で仏教への疑問を生じさせる書き込みは只、無視すべきであります。 量子物理学では、それ自体で成立している物質は存在しない 十波羅蜜にしても、 自分じしんが全生類への慈悲の心を完全に具える事 を根底に据え、そういうあり方に本当になりきるのが、何より 実践の動機として設定されるべき またブッダがウパニシャッドの伝統を完全否定したというのは誤りである。 生前、梵我一如に到れぬ者は死後も到れぬと説かれた経もあり、それに矛盾する分別論者の説こそ捏造であろう。 古代インドの否定者がヒンドゥーで神とされることは実際問題として 有り得ないのだ。 感覚は実在しない 肉体(もの)を実体視する意識もカルマ(行)も想念も実在しない 五蘊は皆、仮初のあらわれであり、亦いかなる執着も 真実には 存在しない。 執着など実在しないのに 何ゆえ、そのような思いを為してるのか? 執着する心じたいが、そもそも 幻だというのに >ブッダの境地にも ブラフマンにさえも達してないものが、あーだこーだ我見垂れ流してもね >マッジマを引用した意図が俗信否定ではなく、インドの伝統全否定 であるなら、テーラワーダや南伝信奉者はインチキ >ブッダ以前にもブッダはいたし、無数の解脱者が出た。 シャキャムニが最初ではないし、涅槃の境地に達した者がいなかった訳でもなかろう マハルシの言ってることはニルヴァーナを知る者の話で、ヒンドゥも影響されてるにせよ 近世の仏教徒にはあのレヴェルは皆無だ 南北の共通解を求めれば悟りがわかるなら、そんな簡単な話は無いが、そんな生易しい話でも なく、現実には多くの坊主が苦海に呻吟し、邪説垂れ流し、仏教を利用するあくどい ビジネスに精励する有様だ。また「我」についても、理屈や論で真理を体得できると いうものではなく、解脱涅槃を知らぬ妄執の輩のアプローチは誤り >それから当方のブラフマンは有・無・空とかじゃなく、 「中」の道なり。 また妄執の輩など低能浅学者の軽卒なる中理解とも 異なるもの であろう 195神も仏も名無しさん2020/11/24(火) 11:46:14.83ID:XC+2sMwI>>196 >>201 あと南伝系、テーラワーダにしろ、日本の大乗系にしろ、インド思想も きちんと学んでないのに、なんでわかったフリして梵我一如を否定できるのか? 敬意を 払ってるのは、インドにいるダライ・ラマくらいで、ブッダは本来バラモン教で修行した人。 元を辿らねば、実はわからん事がある。 201神も仏も名無しさん2020/11/24(火) 11:55:10.09ID:Yi8bBlCS>>203 >>195 釈尊がアンアートマンと言ったので お約束として「梵我一如」が否定されているだけで 実は、形を変えて「梵我一如」が肯定されている。 唯識では、「我」が「阿頼耶識」と言い換えられ数々の複雑な過程を経て 転識得智されて「大円鏡智」となるし、 禅でも無分別になって、すべてと一体化すると悟りとなる。 つまりは「梵我一如」や。 念仏でも最終的に「自然法爾」が説かれている あまり一般に知られていないが >初期仏教が否定した三定型は ・etaM mama, それはわたしのものである ・eso ham asmi,それはわたしである ・ eso me attAそれはわたしのアートマンである つまり真我じたいを否定したのではなく、それへの執着ですね それなら、現代の南伝も日本の諸大乗も全て自分らの「見解」に執着してる訳ですから ブッダの戒めに背いているのは同じで、醜いことです。 誤解したまま突っ走る者が出たとしても、それは致し方ない。 現に仏教は 分別説部以降そうなってしまってる いわば ガラクタだ 低能疹言が粘着する仏教の領域に真理は無く、 ヒンドゥにだけ残されてるか 仏教から影響したかで、向こうには真理の痕跡あり ってだけだろ 低能粘着在家真言は何も理解出来ないww 低能疹言が粘着する2個は、双方ともデタラメwwwww デタラメ同士の共通項は、やはりデタラメwww デタラメから真理を狙う根性が そも誤り コピペで煽るその手法は高野山スレの粘着荒らしだろ? 47こそ自演工作魔の凄い嘘つきです。 皆さん騙されないよう!!! 低能疹言よ、オマエは只のゴキブリに過ぎぬ。 オマエが他人さまを洗脳制御する因縁など 何処にも存在せぬ のだぞ。 釈尊も魔を破り成道された。「我」もまた魔を破るのである。 本日の あぼ〜んID:C1alQJJA 超粘着自演魔で、5chで嘘ばかり書き連ねております。 駆除しなくてはなりません。真言僧だの在家信者だの偽装しますが、孤奴は煩悩多き 只の魔に過ぎません。 信徒になってる、もしくは信奉してる宗派はあるん? それとも仏教以外? そなたが梵天さまであるならば 法を説く事を 検討いたしましょう >>53 あ、それは無記です。 無駄な質問はしないように。しかし、もし覚れる者なら、四諦を説きましょう。 吽 法 本日分その1 何も説かれていないのに 特になし と解釈し、 それを書き記す。それが全ての誤りの根源である。全ての経典は、このようにして 編集された物である。 法 本日分その2 先に「覚れる者なら」と書いたのは、悟るのが可能という意味であったのが、聴聞者に よっては、「既にさとったもの」と解釈したりする。このように言語には多義性があるため、 常に誤解が生じる危険を孕む。 >>60 それはおかしいのう 文脈からして、「可能」の意味ならば「覚られる」としなければバランスがおかしい ら抜き言葉がいきなり入ったと普通は読み取らない 法 本日分その3 有るか無きか、それは言い切る意味を欠く場合が多く、強いて述べれば空であり、また そうした断定に執着し拘ることは人の進歩を阻害する。また有無空を超えた 中の道を如来は説くのである。 法 本日分その4 言葉には日常、形式ばらずに使われるものがあり、二千五百年前においてはマガダ語 であったかも知れん。そのように自身の言語観を他に強制する精神的態度こそ可笑しく、 そのようなものは異郷に行ったら相手にされないであろう。 それも無記です。このあと来客がある予定なので本日ここまで。 もう誰も手をつけぬスレを見つけたので以後そちらで問答は (時間があれば)行う予定です。 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1595466910/l50 人間には二種の自分、脳があるということに気付かないと無我や真我もわからないのだ。 一つは普段、誰もが意識する利己的自我、もう一つが如来を蔵する真の自己であり、 無我とは、まず利己的自我を綺麗に無にする事で、これは禅などでもやられてるようで、 正定であるなら仏心が自然と光輝くのである が、もし光輝かないならば、 それは正しい実践ではないということなのであり、さらに言えば、 常日頃の日常生活において、正念正智・正見などの八聖道を修めねば通達するのは 難しいとも言える。 大乗で教えてることにも理はある。 道を成すための戒めと精神統一と智慧・・・ その修行を完成させる上で、忍辱波羅蜜といわれるものは 大変大事であり、 現代の方は、この忍辱が足りない すぐ幻想でしかない自我の要求に屈し、忍辱することを放棄する 忍辱とは我慢ではない 離欲し、正しく仏道を成就するために 五禅支の喜を生じつつ 現実の困難や魔の誘いより心を固く守って耐え忍ぶことである >>64 やっぱり語尾Wかよ? 笑 スッタニパータがマガダ語で しかも書かれていたとほざいて証拠を出せなかった基調害だろ? 法 26日分 その4 自分の見解にのみ固執し、その狭い経験の中で知った無関係な者の行動を 別の者に投影する。悟っていないことは表明しながら、何でもわかったような気 になり迷う。それこそ妄想の輩と呼ばれるべき無明の凡夫である >>68 人間には二種の自分、脳があるということに気付かないと無我や真我もわからないのだ。ー ふむ、なるほど👀 そうなんですね、 ヨガ的に言うと、真我とか言う輝く真の自己が、脳に位置する理智と意思を観ているってことですね。 頭の理智と意思と胸の我執は生命を持っていないとヨガでは言われているので、真の自己の輝ける光明で、サーチライトの様に照してやらないと、と言うことですね、 そしてその光りは、5つの感覚器官を通って器世界を照して、世界を創造し、反射して、再び真の自己に返照して返って観られるってことなんですね。 我は、人が清らかになる道を説いたのであるが、いまの世では、それを忘れている者が多い 偉くなることは穢れることである。偉くなろうとすることは、心を汚すことである ましてや偉くなるため出家する等、仏道では無いであろう。阿闍梨などという制度は意味が無く、 何も伝わらない 『バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると 考えるな。 それは単に外側に関することであるからである。 外的なことによって清浄が得られると考える人は、 実はそれによって浄らかさを得ることができない、 と真理に熟達した人々は語る』 (サンユッタ・ニカーヤ) 阿闍梨って、インドのアッチャリアの漢語でしょ、師って意味よね、先生ってこと、 法の器としての甕に穴の空いた阿闍梨もいる。亦この国では、太平洋戦争前から 大した修行もさせず、2〜3年で阿闍梨位を与えるところが出て来た 真言宗でも十巻章も読んでないようなのにね。また器が壊れた外道の者が伝える法には 内容が無い 末法の世だからね、批判してもしょうがないよ、 自分が釈尊のように、仙人や聖師に逢って、教えを乞うて一段ずつ進むしかないよ、形だけの師と本物の師を自ら選別できるかどうか?また仙人、聖師と縁を持てるかは自己の因縁と志しと誓願にかかっているから、 仙人、聖師に直接逢うことが大事だからね、自ら悟れる人は甚だ少ない、殆んど縁によっての導きが無いと難しいでしょ、 本でも経典でもそう、其々に必要な本経典に出会わなければ、先に進めないようになっているから、 密教なら先ず弘法大師に倣って、求聞持法を成就して、一切経典を全て理解出来るように成ってから、 現代に於いて、釈尊から霊示をうけてneo求聞持法として授かった仙人がいて、その方から教えをうけた人が5チャンでやり方開示してたから、探してみると良いよ。 そうした見解じたいが思い込みに縛られた見解の表明であり、 我見なのであり、 他人に対しては洗脳にもなり得る誘導で、さとりから 逸れている 少なくとも、この板に来る真言宗オタクの場合は、 狂信者の非常に悪い一例になりますので要注意です。 そうでないと言い張るならば、リンクを貼って誰もが納得するように 説明してください 涅槃というのは、正定の実践によって当人が観じなければ 知ることができないことかもしれず、理屈で議論すべきことではないです。 ブッダの方法論の一つは「無我」を感じる、五蘊非我、戒めと精神統一(止)、 智慧(観)をコアとした八聖道です。 精神統一(止=一点集中の瞑想、一境性単独状態の禅定)だけでなく、観が大事。 観とは、智慧により思索し抜く瞑想です。 >>77 何を読んだかじゃなくて何を理解したかだろ? 坊さんだって解らん人はとことんズレ照るしな >>77 何を読んだかじゃなくて何を理解したかだろ? 坊さんだって解らん人はとことんズレてるしな >>78 おい 知ったか 密教でも求聞持法は非器の者が挑むと気が触れると言われてて 全ての僧侶が挑むもんじゃ無いぞ 虚空蔵菩薩の真言を一遍読むのに何秒係るか計って それから一日一万遍念誦するのに何時間必要か計算して それを百日続けるのがどういう事か理解してから言えよな 師僧からの伝授と許可無しにやったらおそらく失敗するぞ 前行やらなんやら厳格さと強靭な意志と体力も必要だしな >>81 真我論を唱えた狂信者はお前だろ? 笑 仏教では絶対的な有と無は共に邪見だし 我に対してもそれは同じ そういう話を聞いただけで独行者だと判るし 密教では独行は罪なんだが それも知らんのだろ? 悪い事は言わないから止めとけ 独行に成功したかの様に言われる空海だって必要な伝授は受けてるぞ あんまり自惚れて舐め腐ると 死ぬほど後悔するぞ 83−86ハ悟ってないと自白した破戒の輩で、世の人を迷わせています。 無視しましょう 相手にする必要などありません 83−86の工作続ける凡夫は 真言宗の評判を失墜させるものです。意図はないと弁解してたようですが 結果的に、誰もが狂ったものが信じる寺には近づかなくなります。結果的に 人々を遠ざける結果となります。 傍目から見て自己紹介になってる事に気付かない狂人 いと哀れ 89こそ狂人であり、粘着続ける工作員です 誰も真言宗など信じなくなるでしょう 私も、擁護することはありません 頭の病なのです、彼の者は、 Drにまかせるしかない そうだな 狂った奴と欲ボケや不信心は真言宗とご縁が無いか有っても自分で駄目にして行くもんな 笑 それから91は嘘ばかりつき、言い訳のみする輩で粘着癖が強く、 関わると汚されるおそれがあるので無視するように。 2500年前も魔は修行者につきまとったもの である その奇妙な魔の言う話は全て、その魔自身に属する事柄を恰も相手 のことのようにすり替えて書いてると思うがよい 実に在家の真言などを偽装するものの本質とは そのようなものである。 >>93 おいおい、釈尊かどこぞの開祖にでもなったつもりですか?って言うかさ、経典とか読みすぎて、その語調に染まり切っておらんかね?もちょっと普通に話せんの。 君って、友人と話しする時も、そう思うが良いとかやるんの?侍じゃないんだから、って言うか君さ、タイムトラベラー?過去からの、 横からじゃが、それはおそらく聖者さまが自性輪を転じてるということではないかな。 また菩薩としての正法輪身をあらわしたり、 下品の邪悪のものには教令輪身をあらわして教化するというのがあるようだな 聖者様にご紹介いたす。 油井真砂禅尼述 「信心と坐禅」にてござりまする。 https://www.cbeta.org/node/5388 御覧下さりませm(_ _)m スリランカもそうだが、大乗発展以前の部派も真我や無我の解釈がおかしい。今の真我否定者の真我理解が錯誤である。 現代言われる真如や一心と同じ意味で捉えて問題ない。五蘊を越えた世界なのである。 所謂、大乗におけるそれらの文言は、行き過ぎた無我観の修正としての意味もある 4ニカーヤと呼ばれるものは、かなり変形されたものである。 >>100 そうですね、存在が有・無で裏表なら、我・無我も裏表でしょうか? 我でもあり無我でもある、 例えば、ラーマナ・マハラシやニサルガダッタ・マハラジは「I AM」私は胸にありそれが真の我だと言っていますね、 禅でも無❗とか無心、無我と言いますが、「本来の面目」とか「一無位の真人」等と言い、何者かを設定しています、 ラーマナ・マハラシは真我とは「貴方の見ている世界全てが真我である」と述べていて、何か個では無いものとしているようです。 無我や非我というのも方法論を示したものであるから誤りではないが、語ると逸れてしまう。 だから語るべきでない。現代ではチベットに生きてるもので4割正とし、 スリランカ方面だけに独自にあるピュアな部分5%、日本の密教にある佳い部分2% と見て、あとマハルシや古代インドよりの佳き伝統2割程度として7割復元可と 観察できる 真我が有るなら何から解脱するのかね? 物事を解体すればそれは空性にしかならず 有我無我を識別する基準は無い筈だが? >>103 実物は在るよ、良く存在とか言われてるの、仏教的な解釈だけでは本質は掴めないよ、特に唯識はマナ識に対してアラヤ識を立てるけど、 ヨガでは我執(マナ識)を挟んで貯蔵庫で、大我執(アラヤ識)と真我(真の鑑賞者)の3つをたて、真我の上にブラフマン(宇宙的存在意識)をおきます、 そして、臨済が言った面前を出入りする生き物(悟りの当体)と、展開する世界をも含めたものを真我とするのです、般若心経はこのことを言っています、 素領域理論でも同じことを言っていますね、自分の見ている世界はその個人だけの世界空間であって、それを素領域と言い、その素領域は他の素領域と部分的に重なりながら全体の無限個の意識空間の塊を形作っていると、 サーンキャでも無限個のアートマンの総体がブラムマンであると言ってて、同じです。 金剛般若経の否定の否定とか、最後の最後に解るのが、存在そのものを在らしめる「多次元空間=多次元意識」この空間だけでは無いので、光と同じこと、紫外線赤外線は目で見えないが、それ用のカメラでは像として映ります、同じ理屈で色界の上に無色界が説かれていて、それが多次元宇宙です、 そして、釈尊の悟ったものとは、この多次元宇宙を在らしめている、一つの空間意識であって、これを神の命、大生命とも言います。 非常に広大で深く高い無限ではありますが、空にして無でもあり、名状しがたいく、これを如とし、如来と言います。 >>104 原始経典のサイトで報身や法身からも解脱すると説かれた訳を読んでからは考えが変わってね 三身を知った上で更に解脱するというのは因縁の完全解消で存在の解体なんじゃ無いかと 法帰依 自帰依と空帰依は同義なんじゃないかと思えてならない 苦悩の主たる我が消えれば それ以上苦と縁起しないんじゃないかな? >英語圏でもパーリ仏典全体が歴史的なブッダの言葉だと言い張る研究者がまれにいますが、 パーリ仏典が上座部大寺派というスリランカの一派の伝承であって、 それ以外の派には別の仏典伝承があったことは疑う余地がありません。 現存パーリは異端の流れ、 と見る立場もあるようだよ。 釈尊その人の言ってたことから離れてしまっている、と。 パラマハンサ・ヨガナンダ 言葉 https://ameblo.jp/zen-is-right-here/entry-12224089778.html これを読むとヨガナンダは苦しみは私たちのうちにある神(アートマン)によるものではなく、神自体はもちろん神ですから苦しむことはない。 その神に気付かず無知であるが故に神ではなくエゴを自分自身と思い込んでしまうから苦しむ。 苦しんでいるのは実は自分自身ではない、ということを言われてるようです。 私たちの本体は神であるので実は最初から救われているし穢れてもいない、と。 これはヒンドゥー教の基本的な考え方で、ラーマクリシュナやマハリシやサイババなどの聖者も表現は多少異なるかもしれませんが中身は同じことを言ってたと思います。 >>106 まあでも漢訳の阿含とパーリでは経典そのものにはそれほどの差異はないですね。 増支部と大衆部の増一阿含経は大分違う所があるようですが。 三蔵では経典よりも論蔵の方に違いがより見られるのかもしれませんね。 >表現は多少異なるかもしれませんが中身は同じことを言って る、とは全くその通りで、古代インドの或る部分も大乗も同じ事を説いていて、 また「空」も、ブッダ以前にとっくに説かれていて、だから「空なりと観ぜよ」で 空の講釈は省かれ、それでわからん部派が出た訳でしょう。 >>107 元々一切は全て救われてる、解決してる これは、ヒンドゥー教が〜とか仏教では〜とかではなく そもそもこの身心がそういう風になってる それをそれぞれの宗教がそれぞれの表現や方法で示してるだけ そう考えた方が良いね でも、ヒンドゥー教よりキリスト教より 仏教が最も徹底してる これは恐らく間違いない (ヒンドゥー教キリスト教を信仰してる人はお怒りになるかもしれないけど) >>109 ひょっとして、ブッダ以前に説かれていた空は、後の大乗にも繋がる空śūnya(欠いている、実体がない、空虚な、など)ではなく、無色界の空無辺処のような虚空ākāsaの方じゃないですか? >>111 仏教でもともと一切が救われているは念仏の中でも浄土真宗や時宗では? 生まれながらに仏は真言宗や禅宗などがありますがこちらは現世での修行を要しますね。 >>105 そこ読んでみたい、出来れば教えてほしいな、頼みます、 7つの身体ってご存じかなあ?「OSHOの秘教の心理学」に有ったんだけど、 第5身体が個としての霊性で、第6身体が宇宙的身体で、第7身体は身体ではなくニルバーナとあります、 三身は宇宙的身体からの展開でそれを超えるのがニルバーナ、という位置づけでしょうかね。 >>112 自分もそう思います、虚空は多次元空間で、大別して色界と無色界ですよね、チベット密教では色界を《外界》、無色界を《内界》と別けています、 外空、内空って自分は思っています。 >>110 そうだね、救われているとも言えるけど、自我の仮構が実在としての自己(真我、仏性)の檻としてある訳で、 真の自己が実在であるとすると、監獄から初めから救われていると言えて、その位置からは、囚われてもいないとも解釈できるのでは? ブッダは革命家ではなかった 自分は教祖ではない、という意味のことも言っている 思うに大乗とは、 ブッダという父とインドの伝統という母から生じた子供たちである その中には 勝マン夫人のように、父親に説教する生意気な娘もいた ブッダは革命家ではなかった ブッダはインドの伝統を捨てた訳ではない ただ覚りに到るための新たな方便を 全ての人へ向け提示しただけである >>116 この世にフォーカスしている意識=人にとっては、真の自己に目覚めることは、救われたと表現できるのは確か。 >>106 へ〜そうなんですか、パーリーは異端ですか、知らなかった。 「アーナンダよ、修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか? わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。 完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は存在しない。 「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」とか、あるいは「修行僧のなかまはわたくしを頼っている」 とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。 しかし向上につとめた人は「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」 とか「修行僧のなかまはわたくしを頼っている」とか思うところがない。 向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。」 >>113 大乗仏教と呼ばれるものは基本的に全て一緒 「大乗」ってのは、「我」(私)も「法」(一切)も同時に成道する(成道済みであると気付く)からそう呼ぶ それに対してなぜ「小乗」と卑しめるような呼び方されるかっていうと 「我」(という錯覚)を成道させようとするから >>116 大乗仏教以外のヒンドゥー教とかは この自他が分かれた現象界(色)を迷いとか幻想として語って その現象界を超越した真我や叡知界みたいなの(空)を悟りとか真の実在みたいに語る 大乗は、色即是空空即是色 この迷いのあり様が即悟りであり真の実在そのもの 真の実在の現れとしてのこの当たり前のあり様だと語られる 「君見ずや絶学無為の閑道人 妄想を除かず真を求めず 無明の実性即仏性 幻化の空身即法身」『証道歌』 >>123 真我から現象世界までツーカーになったら当然そうなると思うよ、良く言われるように、凡夫から見ると聖凡別れて見えるけど、仏から見たら差異は無くて、凡夫も未顕現の仏として見える訳でしょ、ただ煩悩から遠離していないだけで、 仏性という命は全く同じ。 >>124 ツーカーになるというか、元々一つのもの だから真我も現象世界も認められなくなると これを生死即涅槃とか事事無礙法界とか言われるんだろう 仏教が真我を否定するのはそういうこと 色界を超えて無色界に自在に出入り可能な境地に行くと、人間の目で見えない世界が見えてきて、それが現界とダブって見えるって言うよね、 精神分析では、人間の精神構造をイド、自我、そして超自我の3つの領域ないし機能に分けて理解するのですが、 こうした自我、イドは当然五蘊に含まれると思います。イドは「色」蘊や利己的欲求に基づく衝動を起こす根源で、 悪いことでもよくても無関係に、兎に角「やりたい」のですが、それに対し、自我はそんなことしたら捕まるとか みっともない、とか自分のポリシーにあわないとか色々理由をつけて、行動を規制する主体で、或いは規制する ばかりでもなく、現実原則に則って最終的に判断を下します。それに対して超自我は、 一応意識上に上る場合においては五蘊に属するのですが、そうした最善な命令を下す大元で統御する真の主体者であり、 観照者であり、それこそが頼るべき真我なのだと思います。 この真我は上記の低次元での葛藤など遥かに超えており、自帰依の対象になる真の自己で、敢えて言葉にするなら 「我はブッダなのであるから、そうした低級な欲に指図されることなど本来的に有り得ないのだ」といった感じになります。 しかし五蘊にいる自我に毒矢が刺さっていてイドより弱くなっていたり、自分という真我を信じれていないと 正しい判断ができない場合も有り得るのです。 このように考えると、誰だかのように もし無我の境地で欲の言いなりになっていたなら大変なのです。 フロイトなど初歩の精神分析と大般涅槃経、五蘊非我などを繋いだ 「五蘊と真我の関係」でした。 5ちゃんねるに凄まじい量のレスをつける或るコテの方がいてー自称43歳で統合失調症 の方でーそうした書き込みをもとに分析したところ、真我が全くわかっていない方の心 の状態についてデータが得られました・ もちろん掲示板の書き込みが全て事実だと見るのは危険ですが、仮にそうだとした場合 の話で、しかし当人が病気だと主張するのが嘘でもなさそうだという見解への裏付けも 得られ、辻褄が合いました。 その方の場合、イドが凄く強い方だとわかりました。 また自我もイドの言いなりになっていることがかなり多いらしいというのもわかりました。 問題は超自我なのですが、心の中にある筈のスーパーエゴの出向者の席ー真我からのメッ セージを伝達してくれる役割の人の座るべき場所ーが 何ものかに乗っ取られ、占有されている様子なのです。 そのためベストな判断をするための、真っ当なメッセージが全然受け取れなくなっています。 そうした邪魔者が居座り、占拠しているため、真我が統御できず、結果心の統合に 変調をきたしてる状態とも解釈できます。 ただ「ナンミョ〜」とか「釈尊が0を発見した」とか うわごとみたいなセリフを発する”侵入者”が居座っているだけに見え、 それを毒矢とも呼べるかも知れませんが、脳の病気であるならば仕方ありません。 しかし結構筋の通った話を書くこともあり、動画の投稿もしていて、 聞いた感じでは失調状態との印象は受けません。ニコチン中毒、依存症はありそうですが。 >>129-130 それ、創価カルトや正宗だけじゃなく、 伝統宗教含め、所謂宗教依存症全般に当てはまる症状だぞ B五蘊非我 真我・涅槃 C八頌品 ブッダの言葉・スッタニパータ 第四 八つの詩句の章 1〜16 通読 https://www.youtube.com/watch?v=R884Fvj_Cgs D見諦道、彼岸に至る道 ブッダの言葉・スッタニパータ 第五 彼岸に至る道の章 1〜18 通読 https://www.youtube.com/watch?v=VyUuiYoS6Fc E縁起(抜業因種心) ブッダの真理の言葉 第1章〜第26章 通読 https://www.youtube.com/watch?v=cQ0Wp_yT3hQ 中村元 - 原始仏典 ダンマパダ の解説 https://youtu.be/i7TkouxAZI0 ブッダの言葉・スッタニパータ 第一 蛇の章 1〜12 通読 1時間15分 https://www.youtube.com/watch?v=F1d7GMocWOw 相応部経典・有偈篇(サンユッタニカーヤ・サガータヴァッガ) 「サンユッタニカーヤ」(雑阿含経) https://youtu.be/7zSPvkoWQME?t=41 『テーラガータ』 『テーリーガータ』 ほか原始仏典 B【真我】に相対するものが【我執】である Aの核心部分とは、我執を無くすことで、それこそが無我の意味なのです。 アナートマンの禅定の実践によって、五蘊という悪魔を克服したならば、自ずから 真我が顕われて来ます。それを仏性と言っても同じです。 おそらく真我否定的な解釈が述べられるのは、 誤訳か、わかってない方が講師の身分になったり、 仏教史のかなり前のほうで、その手のー善意か意図的かは別にしてー誤解、歪曲が 紛れ込んだものと思われます。 >弟子たちよ、生じないもの、成らないもの、創造されないもの、 構成力から発生したのではないもの、が存在する。 もし、この生じないもの、成らないもの、創造されないもの、 発生しないものが存在しなかったとすれば、生じたもの、成ったもの、創造されたもの、 構成力から発生したものを認識することができないであろう F三十七菩提道品・九次第定の実践 止(アナートマンの禅定)と観(智慧)〜解脱知見・神通智 Hまで、あと2つあります。 >初期仏教 >阿含の仏教では、人間の個体の全体を我である(@五薀が我である)としたり、或いは個体の内にあってその中心生命となるものを我である(A我は五種を有す)としたり、或いは宇宙原理を我である(B我中に五薀がある)としたり、或いは存在要素がそれぞれに固有な性質(自性)をもっている(C五蘊中に我がある)とするような有我説を否定する。 >後世これを二十句の有身見という。上の@ABCが五蘊のそれぞれについていわれるからである。またこれは我見〔@に当たる〕と我所見〔ABCに当たる〕とに分けられる。我所とは、我の所有、我の所属、我と離れない事物の意である。 もし、もっと生産的な視点があるとすれば、 ブッダに影響を与えブッダが引き継いだバラモン教との共通項、または ヒンドゥに残っている真仏説 という観点ですね 真我と五蘊の自我は、全く別物なのである 真我は仏であり、五蘊は悪魔である 五蘊皆空とは、勝義の立場から、悪魔の儚さを如実に見て、その虚妄なる正体を 喝破した言葉である 三世の諸仏は 智慧方便によって 無上正等正覚を得た のである 元が分別説部ですから、やはり弱いのです。 その上、ブッダゴーサの改竄で除名 さらに一旦途絶えて、散逸したのを数百年後に国外から拾い集めたものがパーリなので すから、抽象度の高い記述は信頼性が低い ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される 名があらわれて色があらわれる 有名万物之母 精神が物質を作った 外側=物質界に囚われていたのでは心の平安=涅槃は無く、無常なる色に我は無い 肉体は我に非ず 開く も 得る も 悟るも 同じで世俗の言に差別あること無し 況や凡夫の一念三千をや。 シニフィエされた当体こそ大事。 大慈恩寺三蔵法師伝承徳三年点‐七「其れ斯の謂(イヒ)乎(か)」 勝義こそ真理也 照見五蘊皆空 大悟涅槃寂滅 欲色界も 無色界も越えて涅槃寂静境に入る。 まず五蘊の超越から 諸行の無常なること、諸法の非我なるを知り、一切は苦しみである、と如実に見て 順観・逆観を行じ、現象世界の虚妄なるを見抜く。 そして基本、常に八正道を含む三十七道品の実践修行の完成に努め苦滅・解脱知見を得。これにより生死の迷いより脱した大安楽 を得、仏陀と等しき我を覚り、最高の清浄に達する ことは誰にでも可能なのです。 本人が拒まなければね。 機根には上品 中品・下品とあり 今の末法の世は下品の者の時代という者もいる。自らも下品と 考えた宗祖らもいる 最初から何も対立などしていない真実を ありのまま観察する 仏の身体のすがたをもって仏を見てはならない、いかなる相も虚妄であり、 諸々の相は相に非ずと見るなら、即ち如来を見ることになる。 仏像を(その物自体を)仏と思ったのでは、実体が無い物であるから錯誤に陥るのである 認識は幻想=いかなる「個としての枠組み」も、思考による妄分別が作り出した幻影、妄想=戯論に過ぎず 認識したものは真の実在ではないと如実に観察するなら 即ち無為法の慧より出世間上上智を生じて涅槃寂滅を知解する(宇宙の一体性をさとる)事ができるのである 像法(ぞうぼう)とは、仏教で、正法に似た仏法のことをいう。「像」とは「似」の意味である。 また、釈迦の入滅後の500年から1,000年の間(又は1000年から2000年の間)の時期のことをいう。前の時代を正法、後の時代を末法という。正・像・末の三時のひとつである。 像法の時代には仏法と修行者は存在するが、それらの結果としての証が滅するため、悟りを開く者は存在しないとされる。 形式化されて仏法が伝えられ利益をもたらす時代 日本では、1051年(永承6年)で像法の時代が終了したとされ、その年限の接近に従って、次第に末法の世の到来への危機意識が高まることとなった。 )【像法】 (「ぞうほう」とも。「像」は映像の意)仏語。釈尊入滅後、正法の時をすぎて、教えや修行が行われるだけで、さとりが得られなくなった時期をいう。 多く正法五百年、像法千年と数えるが、日本では永承六年がその最後の年と信じられていた。像法時。v 仏滅後千五百年以降、現代に至る「末法」の世においては、肩書だけは僧を名乗る者たちが現われる。 そのような僧籍にあるという肩書などを尊いものと見做しても、ろくなことは無い。 また末法の世で厳しく戒律を守る僧がいたとしても、超ー珍しい現象で、街中に虎が出現し、うろついているような感じになるであろう。 誰も、そんな現象があるとは夢にも思わないだろう。 二、 末法の世で厳しく戒律を守る僧がいるという話が聞こえて来ても、 それは実際にはいない虎を、市中にいると(悪意をもって騙す側か、愚かさゆえに騙されたかの)多くの人が宣伝したから信じこまされただけであって、虎などいないと真実を語るまでもなく、誰も信じるものなどいない状態になるであろう。 実際にはいない虎を、市中にいると(悪意をもって騙す側か、愚かさゆえに騙されたかの)多くの人が宣伝したから信じこまされ ているのだと嘘を容易く見抜くようになり、ほんとうは虎などいないと真実を語るまでもなく、誰も信じるものなどいない世の中になっている。 ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディスヴァハー >ことばにされた瞬間に本来の意味とはまた別な 低級な何かに堕してしまう とも言え、それが世俗の真理の限界も 示している 虚空と涅槃は常と知り 生滅滅已、涅槃寂滅を楽と為し 仏陀・如来の我を覚り 滅諦の実性を体悟して、最高の清浄に達する 医者の中には、 解脱者の観察ができていて、実質ある種の正しい認識に達しているものもいるらしい 勿論、煩悩にまみれたままのものも多い ようだがね 智慧の光は さりげなく 「騙そうと企むもの」の実態を 暴くのである >世界の真実のありようというものは 人の五蘊が分別して得た見解を越えたところのものである。 それは、実には五蘊で計り知ることはできないものである https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202010100000/ 世界の真実のありようとは空であり また勝義においては 浄真如である。真如にも浄と染がある。如来の智慧により 照見された蓮華蔵世界なり 但し 日本仏教については、 その最良の部分においてさえ、グレーゾーンに位置する と見ます。 物質界は見掛けだけの空虚なものでしかない それから誤った印象を受ける五蘊もまた、 変転して定まらない不確かなものであり、実体無く、 空虚である 六道輪廻は迷界 大乗では仏の慈悲により 発心した衆生も直ちに冥界より出離 解脱する 菩薩は たとえ輪廻すると雖も心迷界にあらず 既に六道に住さずして 菩薩道に入る トップダウン式に まず全てわかる、見える ということが最も大事なこと >仏道修行の一つの側面は、煩悩や妄執を相手に闘いを挑む武士道であり、 空とは、鬼退治(煩悩の征伐)に際し、士を助ける優れた利器である。 と言った人がいても不思議ではありません。 https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202010050000/ >『入法界品』(にゅうほっかいぼん) とは、大乗仏教経典『華厳経』の末尾に収録されている大部の経典(品)。 サンスクリットの原題は『ガンダヴィユーハ・スートラ』(梵 : Gandavyūha Sūtra)。 善財童子が、文殊菩薩に促されて悟りを求める旅に出発、 53人の善知識(仏道の仲間・師)を訪ねて回り、最後に普賢菩薩の元で悟りを得る様が描かれる。 一説には、東海道五十三次の53の数字の由来は、この『入法界品』にあるとされる https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E6%B3%95%E7%95%8C%E5%93%81 WORLDVIEW: 7 LEVELS DEEP Clip - Applying Unified Field Understanding to Politics https://youtu.be/Rp5CPZFcWM8 よい解答が見えないのは、まだ無明の中におられるということかも。よい判釈なら幾つ出て来てもよいでしょう。 ただ、それらには各人の境涯に応じた深浅、段差も生じ、 その人には自分の境遇、波長に合った答えが都度見える というだけ なのです もし心清らかにして、禅定と智慧を生む瞑想を続けたならば 神通力は 自ずから生じるものなので あります 学校では誤った幻想が教えられてたりするもの その実態は即ち洗脳である 世界は見えている通りにあるのではない と、まず気付くことである。 ゼロか少しあるかなんてのは全然どうでもいい話であって 煩悩というものが理解できる人に向けては 見えている対象も、それらに執われる人の五蘊も幻に等しく、無常で皮相な現われに過ぎない と言っている 色とは迷界の幻に過ぎない。 色即是空の反対語は、 一心即是本居 である 良い因縁も良くない縁起も あるように見えて、実は本来実体は無い だが、それらを形にするものは 心なのである シャンカラはデカルトより九百年は早い 仏陀は五蘊の奥に、もう一個の我=大宇宙がある と言いました 大乗も南伝でも五蘊の解釈は了見が狭い。根源は同じ。双方ともに元は新しい ウパシーヴァ(修行者の一人)がたずねた、 「シャカ族の方よ。わたくしは、独りで他のものにたよることなくして 大きな煩悩の激流を渡ることはできません。 わたくしがたよりにして、この激流を渡り得る《よりどころ》をお説きください。 あまねく見る方よ。」 師(ブッダ)は言われた。 「ウパシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、《何も存在しない =空〜諸行無常・諸法無我》と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。 諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」 (南伝仏典『スッタニパータ 経集』第1069、1070) ダライ・ラマは法華経については何も言ってませんね 人生の目的 https://youtu.be/lDMphFbtQ48 ああいうのは解脱者とは呼べない マハルシは 解脱者がブラフマンの覚りを得るために再生したケース である 人が見出したと錯覚した見解は 悉く実体なるものが無い 智慧により究極のありようを知る事ができる。 だが、世俗に塗れた五蘊の見解は空虚である。 わたしには殆ど陽が当たらない わたしには杉の木や松の木のように 高くてカッコいい姿にはなれない その代わり どんな風が吹いても 倒れるということがない わたしには初めから 倒れるだけの…… (相田みつを) 全てのブッダがそうである如く 我もまた世間の虚偽を見抜き破するのである 本来の我が「一」であるならば、誰もが覚れる 自ずから覚知すればよし 煩悩も固定したものではなく いつかは滅ぶ 全ては是の如し 六道輪廻は迷いの世界 菩薩乗では仏の慈悲により 発心した衆生も直ちに迷界より出離して 解脱する 菩薩は たとえ輪廻すると雖も、心は迷界にあらず 既に六道に住さずして 菩薩道に入っている 僅かばかりの才能で世間に出るのは難しい と思ったら・・・ 今ある自分というのは 死んでしまえば消えてしまう 表層的自我にすぎない のだ 嘗ては一人で暮らしていたのに のちに性の交わりに耽る人は、車が道から外れたようなものである 世人は、彼を卑しい凡夫と呼ぶ 嘗て彼の持っていた名誉と名声とは全て失われる このことを見て、性の交わりを断つ事を学べ 独身を守っていた時には、一般に智慧者と認められていた人が 性の交わりに耽ったために、愚か者のように悩まされている 聖者は、この世で前後に この艱難のあることを知り、固く独身を守り、性の交わりに耽ってはならない 俗事から離れる事を学べ これは諸々の聖者にとって最上の事柄である ブッダの言葉・スッタニパータ 第四 八つの詩句の章 七 ティッサメッテーヤ https://youtu.be/R884Fvj_Cgs?t=1068 今のカルト諸人は、せいぜい餓鬼である 餓鬼が畜生を崇め奉っているようなものなのである 末法の世に正覚を得るにはどうすべきか。 それには正しい教法に基づく他にないだろう。 今隆盛の日本大乗仏教は、フィクション仏教である。フィクション仏教は偽仏教ということ。 本当の仏教は根本仏教=原始仏教=ドキュメント仏教、ということです。 最近だが、寂聴さんが週刊誌での説法で、「小乗仏教は出家者だけが救われる小さな舟に乗っているような小さな教えで、日本は大乗仏教です」などと、時代遅れな、天動説みたいな仏教を説いていた。このように著名な尼僧が、デタラメ仏教を説いているから末法なのです。 原始経典には、最勝正覚は三明である、と説かれている。原始経典には四段階の悟りが説かれており、アノクタラ三藐三菩提の悟りは四段階目の悟り、阿羅漢・仏陀の悟りです。 阿羅漢とは漢訳で応供のこと、応供は仏の十号の一つです。阿羅漢=仏なのです。 原始経典は釈迦のドキュメント仏教です。 大乗経典は後世の人が創作したフィクション仏教・デタラメ仏教です。 原始経典では阿羅漢は仏ですが、後の大乗経典で阿羅漢は低い悟りの者とされたのです。 大乗経典はデタラメ仏教なのです。 原始経典には最勝正覚とは三明であると、説かれている。三明とは、宿命智、天眼智、漏尽智、の神通智とされている。原始経典ではこの三明を備えた者が阿羅漢・仏陀とされた。 第三段階の悟りを得た者を不還という。 第一、第二段階の悟りは、検索すれば解るね。 今は比較文献学も進み、小乗仏教こそが釈迦のドキュメント仏教だと知られているのです。 大乗仏教は後世の人々が創作したフィクション仏教・デタラメ仏教なのです。 日本は大乗仏教国です。 だから末法なのです。 小乗経典には出家者だけが救われる、などとは記されていない。小乗経典では男性在家信者を優婆塞、女性在家信者を優婆夷と呼ぶが、そのどちらも、修行によって悟りを得た話が、たくさん説かれている。 仏教には大別して二つの仏教があることを知らねばいけない。 一つは小乗仏教=原始仏教=釈迦ドキュメント仏教であり、二つは大乗仏教=後世の創作仏教=フィクション仏教=偽物仏教です。 そして日本のは、ほとんどが大乗仏教です。 天台は日蓮(件の終活中のババァも同類項)まで生んでしまった 純然たるチャイナ仏教だから邪宗 であってカルト認定すべし という判釈は 全く正しい 物質界の魅惑に騙され、堕落する天人もいる 実に この世は無常である事を 知れ After the book came out, they go out >>241 タオイズム、悪しき中華思想と混じった不純仏教のきらいはあるね 深く物事を考えないで、教条的に建前論を押し付けようとするような教えは 仏教的じゃない とは言える 邪なものと関わると悪しき影響を受けるかも知れないので要注意である 人をバカにする猿のようなものが棲息するのも世間なのである 「ヒンドゥー」 Hindu の語源は、サンスクリットでインダス川を意味する sindhu に対応するペルシア語。 「(ペルシアから見て)インダス川対岸に住む人々」の意味で用いられ、西欧に伝わり、インドに逆輸入され定着した。 ... 漢訳では、身毒、印度と訳され、玄奘による「印度」が定着している。 そもそもシナ人も東 南アジア等の者らも古代インドの叡智は適切に理解できず、ベースになっている風土も 背景もよくわからず、予めコンテキストも用意されていない訳だから 完全には伝わっていないし、残っていない 世間の泥、および南伝北伝の誤った見解を精妙に見極め、 正しく峻別せよ 護摩は不要です。 あれは古代印度近辺に残ってた俗習ですから 中期大乗以降、仏教はほぼカルト化した ただ密教に関しては また宗教の一つの完成形として 見るべきものもある ほんとうの涅槃に到達するには いまの自分は 涅槃度何パーセントかを まず知る事で あろう 無我について、きちんと説明しようとするなら 本一冊分は必要だと思われますが、適当な書籍が思い当たりません。 しかし、少なくとも単純な断見やテーラワーダ等の見解は奇妙だということは述べておきましょう。 また或るブログで、面白い箇所がありましたので、引用しておきます。 >確かに仏教は常見も断見も否定しているのですが、スリランカの長老の本を読むと 今の人生の中においてさえ、到るところで断絶が発生して、自己の連続性は安易に否定され、それでは 簡単に過去の借金も踏み倒せるという事になるかも知れません。(自己破産者の論理の説明とかでしたら、少しは理解できますが・・・) しかし常識的に考えても、それは可笑しいのです。 つまり、スリランカの坊さんが スリランカにいた時と今の自分とでは、細胞も入れ替わっているのだから別の存在だー云々・・・ 的な話を書いてるのは詭弁でありましょう。私という固有の生命体に基づく非物質的存在に対して社会的責任も生じて来るのであって、 自分は無いとかいう無我の変な解釈を盾にとって、個人の義務や権利を放棄できると主張するのは正常人の論理ではないと思うのです。 南伝は必ずしも忠実な再現ではない 全ての経典が正確に伝承された内容という訳でもない 5chに寄生する珍妙なコテ等の読み難い書き込みも 「凡夫衆生とは、このように自説に固執するものか」とか 「何ゆえ虚偽のドグマに騙され、邪教が跳梁跋扈するかの理由は是」と見るな ら、全ての情報は資糧となり得る。 五蘊皆空と照見したならば、もはや五蘊に囚われた人ではない 物質界のものごと というのは 執着するに価せぬものである ラーダ「よく悪魔、悪魔と申されますが、いったい悪魔とは何でありますか?」 ブッダ「ラーダよ、色受想行識が悪魔である。すなわち肉体・感覚・思い・意思・意識が悪魔である。 悪魔とは、われわれ自身の肉体と精神のいとなみの迷いに他ならない」 (サンユッタ・ニカーヤ) 大乗では完全に五蘊を去った状態を五蘊皆空と言ってるだけです。 原始仏典流に簡潔に言うなら 五蘊は悪魔の棲家と明らかな智慧により如実に見て、しかもそれを完全に遠ざける という事は大変な事だと思いますよ。それを無我、皆空と呼んだのでしょう。ブッダもその境地に到るために出家後 まず仙人について(九次第定でいえば七番目に当たる)無所有処定を学び、次に先生を変えて非想非非想処定を学び さらに長い年月をかけて孤独な修行の末に滅尽定に至って初めて成道となった訳です。 ですから、その境地まで達しなければ本当の無我、皆空とは呼べないし、涅槃もまだ浅いものなんでしょう。 その段階に行くには菩薩の十地の六〜八番目にならないと、と論書にも書かれていますね。 ただ人によっては、像法の時代以降で菩薩の初地に至ったのはナーガルジュナとアサンガだけと言う人もいます。 そこまで厳しくは無くて、有名無名の解脱者は大勢いたとは見ています 初禅・第二禅・第三禅・第四禅・空無辺処定・識無辺処定・無所有処定・非想非非想処定・滅尽定 《スッタニパータ》 1094 いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと、──これが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。 それは老衰と死との消滅である。 1095 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、悪魔に伏せられない。 かれらは悪魔の従者とはならない。 >地獄などというものはありません。 物質世界に恋着してれば別ですが、死んだ瞬間に魂は物質から離れ、未練も 吹き飛んでしまうというのが普通だろうと思います。 あとは見たいものは何でも見れるし、ああなんと浅はかな穢れた執着塗れの世界にいた んだろうか!と気付くだけなんです。 また転生したければ、誰か縁のあった女の胎内に入って、生まれ直せばいいし、 イヤなら、そのままでもいい。しかし退屈な世界ですから、 ブッダのように、固い決意と悟りの智慧、物質界に対する完璧な諦めがないと 大方の霊魂は、そこにとどまらないで輪廻してしまうのだなとわかりました。 また母胎に宿る機会が結構あったりするので、 スケベ心があると、つい、また人間に生まれてみようかとか思ってしまうのです。 が、実は地獄というのも、そうした衆生界の中にこそあるんです。 五禅支を生成して精神統一しないと智慧の瞑想にならないし、 しかし智慧を発現するための妨げとなっている覆いが、各人各様の方法で取り除かれれば、 普段の生活でも、一日観自在でいられるとは 思います 5chで色々受け売りや狭い迷信じみた見解を書く輩もいるが、そうした解釈で良いのか そのコテや粘着屋の執着の元になった記憶の中の学者とかの説は本当に正しいのかを 改めて、もう一度、さらに深く掘り下げて 考えるっ必要はある 四諦が衆生を涅槃に渡す筏であるように 夢もまた 遍行者を涅槃に渡す大船となり得る。 小学一年生なら「夢は無常」で終わりで良いのです。 しかし、これから見諦道に入ろうかという人であれば、夢の中でも瞑想する事でありましょう。 瞑想するなら涅槃に達さむ。涅槃は無常とはいえません。言葉で「AはBである」とか決めつける遊び が仏教なのではありません。 生死問わずエネルギーである点では同じで よく考えてみると 全てのものに差別はない。無常といいつつ本質は空で、その空すら空であって、 物質界、三界から解脱できると説く 5chに闖入する変態コテや在家真言門徒が騙る >禅定なる何かがニセかを、ズバリ指摘してあげましょう ブッダは、そうした人に因縁をつけて、絡むようなマネをしろ、なんて一言も言ってないんですね 八正道から離れた行いであっては、たとえ一見して形がそれらしくても正定とは言えません。 その一事をもってしても、仏の教えが身に具わったものの言でないとわかりますし、さらに言えば 本当はわかりもしないことをわかったフリをして断言してしまっている点。 これからヨソに掲載させていただく積りですが、間違いなく、仏陀の禅定なんてのは アンタの勝手な妄想に過ぎません 他人に因縁を付けて絡んでるのは自分だろ? おかしな人はどこまでもおかしくなるな >知ったか仏教君 という表現は、まさに277の”荒らし”のことですよ、皆さん! 完全な勘違いのカルト脳です 笑 その他すべて、277の自称・真言宗信者自身のことを自白しています。誰もそんな統失は 呼んでませんよね 笑 またまた釣れました 笑 277は何の根拠もなくマウントをとりたがる病人のようです 悟りスレで栄進が40台で傷害年金を受給してるのを読んで、 277は認定されなかったことを引き合いに出して、色々羨み、やっかむようなレスを つけていたのを見ましたが、可哀そうな方ですよ 笑 何で申請もしてないのに傷害年金受給者をやっかむと思い込んでるのか知らんが おかしいのは何年も前の事を忘れた頃に蒸し返しては粘着するお前だよ 入院してたのかも知れんが他人は一々お前のあたおかな主張なんて見向きもしてないよ 誰もお前に興味ないからお前の書き込みにレスが付かないんだよ お前みたいに異常にしつこくて気持ち悪い性格した奴に関わって粘着されたくないというのも多分に有るだろうけどな 何年も前じゃなく、ついこないだ見たよ 笑 それから >粘着質の基地害 って、まさに279のことですよね誰が見ても 笑 >常人から見て気持ち悪すぎる のも、まさに279そのものであって、鹿野園同様 まったく中身が無いのにマウントとりたがるガラクタ君 笑 くだんの輩について気づいた事で大事なポイントを記しておきます 何か真言宗の教えの迷信じみた面を、恰もカルト信者みたいに盲信してる方向性 と 南伝系の経典をウワベの言葉だけで捉え、覚えればスゴイんだという方向とに分裂していて、 それどっちもブッダの覚りと無関係なガラクタなんです さとりを正しく継承するには まず、寛容の精神というものが大事でありますが、自分の見解にのみ固執する輩が多い 日本仏教の場合、残念ながら一遍上人を除き、排他的な意識が強く、ただのセクショナリズムに 陥っている訳です。 >>279 統失妄想はいらん。 やたら我見に固執し、小乗経典に迷って執着するものに悟りも 糞もない 生前の行いが死後の道行を決める というだけの話であり、 そうした真実を前提として、仏陀も解脱を説いたのである。いま覚らずして、 何時さとるのか。 >>287 仏教史の勉強が足らん 小乗経典ではなく 根本経典であり 大乗経典も密教経典も源流は変わらない 小乗というのは経典の事ではなく法体恒有と言って法が実体を伴って永遠に存在すると考える思想の事だし そんな初歩的な事も理解出来ない生半可は黙っとけ 第一結集は、仏教学というより、教科書的な極めて粗い世界史の話。 スリランカ島史 大史に書かれた伝承説。 仏教学でわかっているのは 南伝パーリ経典は紀元前後にスリランカでシンハラ語訳され 5c頃、ブッダゴーサによってパーリ語に書き換えられたが散逸し 東南アジアから、12c前後に再輸入されたということ。 我々が使うPTSは、19cに英国がまとめたパーリである >スリランカ島史と大史には、 アショカ王の息子のマヒンダがシンハラ語(スリランカ語)に仏典を翻訳して スリランカに伝えたと伝承されている。 それを5cにブッダゴーサがパーリ語に再翻訳したわけだが、パーリ語は 伝承ではマガダ語とされているが、実証的研究では 各地のアショーカ王碑文との比較から マガダ地方の東部方言というより、西部のギルナールの言語に最も近いそうだ。 ここは、スリランカに仏教を伝えた地点だ 浄土真宗、禅、上座部仏教がベルギーでセクトに分類されたらしい https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1568470077/ 夢とは 宝の庫を指し示す啓示が詰まった地図の断片集である 漢訳原始経典との整合性やシンハラ人に捏造不可能な古代マガダ語の正統性とかの観点を持たない限り馬鹿の学問は無意味だな チベットだって最初は顕教の根本経典から始めるのに基本を切り離して大乗経典だけで仏教が成り立つと考えるのは日本の大乗仏教徒特有の極めて歪な価値観に過ぎないという事ぐらいは自覚すれば 少しは賢くなれるだろうに 知識が上滑りして信仰にも至っていない >大乗経典だけで仏教が成り立つと考え ておるのは、まさに294の統失特有の妄想であろう その他シンハラへの妄執なども全て門徒の偏った見解に過ぎず、インド料理とスリランカ を混同するだけのさもしい我見への執着なのである ここにおいて 大乗とか非=大乗とか仏教、非仏教の差別など全く無意味である ただテーラワーダ過激派などは只の妄執の輩であり、いかに経を記憶しようと根が逆なの だから追随者も含めて明白な誤りなのである。 真言にかぶれた無明の輩がいかに愚かか教えてくれて感謝する。だが誰も関わりたくない やたら承認欲求が強いマウントとりたがる糖質が、 小乗教は全部正しいとか主張しても、それは無明の輩の思い込みであって カルト感染者と一緒。 異部宗輪論で言われるところのいわゆる小乗と呼ばれる伝統的部派仏教の部派の話と、スリランカ上座部と称しているものと、 現代上座部と称しているテーラワーダを分けて考える必要があります。 ご存知かとは思いますが、そこは同じではないです。 >スリランカ上座部は「島史」による伝承が根拠なので、あくまで自称の話であって、分からないことだらけです。 また、テーラワーダも途中2度途絶えたものを復興したもので、これらを根本分裂時代に遡り一連のものとして考えるのは、そもそも無理があります。 >部派の系譜に関しては、テーラワーダの主張は違うということ。 >テーラワーダは、根本分裂時の上座部の直系ではないです。 それをブッダゴーサ教と呼ぶ人もいます。 378神も仏も名無しさん2020/08/02(日) 20:44:54.73ID:4fzFl6ba 別にブッダゴーサ教でも異端でもいいがスマナサーラはホラ吹き破戒僧 母国のスリランカ仏教徒は異教徒を弾圧に虐殺 スマナサーラ教信者は発狂する奴が続出 真言門徒とか呼ばれる工作員の正体 創価ではないかな。 というのも書き込みに内容が無く、栄進や犬山と区別 が難しいから 297 誰もテーラワーダが全部正しいなんて言ってねーよ 文盲 そんな風に他人の言葉を読み違える奴にブッダの真意が判る訳無いだろ? 少しは己の身の丈に有った発言をしろよ 幼稚園児でも思いつくような書き込みは 恥ずかしいからこういうスレにはレスすんなと誰か299の 真言ゴキブリに 言ったれ ホントその通りや。 犬山とおんなじ マウントとりたがる基地害は 迷惑なだけ。 ミジンコ相手にマウント取る必要無いだろ? あんまり自分を買い被るなよ 笑 また出たww 302も同じだが犬山一味の幼稚な読書感想文レスはホンマ馬鹿らしいよね >0357 鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d 2021/06/19 03:12:56 キチガイという存在の否定は自己の否定に他ならない www 302は真言宗の生き恥晒しです。 栄進や犬山と同じ穴の貉であり、永遠に迷妄の中で 輪廻する三途のゴキブリやシロアリの一種 なんです。 ラカン的にいうと、荒らし魔である闖入者302の衝動は”欠如したもの”に向けられている 承認欲求が満たされない限り、アレの荒らしは続く なんか知らぬところで激しいバトルが、 鹿野園はクズであるのは事実だが、 なんか学問的分別が主体のスレぽいね。 なんとなく、 このスレの三毒濃度を観測してみたくなった。 むろん、傍観者としてな。 >>309 んだ、 ないやろね、 中途半端な学問だけやろからな。 >>310 その学問も独学やから信徒と門徒の区別も判らん素人丸出しやしね 笑 おそらく寺通いも禄にしとらんアホダラ教やで 薄学のモノよ。「門徒と道場」、『結衆・結社の日本史』、山川出版社〈結社の世界史〉 ISBN 4634444100 を読め 一般には少なく、真宗系でそう呼ばれることが多いというだけであり、門徒という言葉は普通の日本語である。 手前の見解を他人に強要するような態度では、信仰者としては勿論、社会人・日本人としての良識すら疑われるぞ。 或いは諸事情から小学校にも満足に通えなかったと見える。 が、いまはネットでも学べる時代である。ウィキペディアにも「門徒」の項目はあるし、一般的な国語辞典にも必ず項目がある 日本語の一つなのだ。門徒の本来の意味は 「一門のともがらのことを指す呼び方で、ことに同じ門流に属して信仰を共にする人びとのこと」 「一寺に属する檀徒のこと」である。 今頃悔しい言い訳 笑 真言宗で門徒の呼称は使わないと言った時には出せずに今頃グダグダ言ってももう遅い 仏教で門と言ったら それは仏門を意味するから未出家の在家信者を門徒と呼ぶ真宗が特殊なんだよ 更に言えば真宗は戒名に釈姓を付けるからこれも他宗派との差別化で 自分達だけが仏門に入れる釈子であるという自負がある 一般の大乗仏教では草木悉皆成仏といって末は草木に至るまで皆成仏するという考えが有るから自分達を指して門徒とは言わないのが常識であり それを知らずに真言門徒等という造語を用いたお前は誰が見ても仏教知らずなんだよ そんな話は知らん。 お前の流儀に合わせなならん理由は全くないのだよ 繰り返すが。オマエの見解などどーでもよいのだ。糞の役にも立たんだけでなく、 糞よりもっと汚らわしい。早く下水へ流されて消えよ! 再掲するぞ >薄学のモノよ。「門徒と道場」、『結衆・結社の日本史』、山川出版社〈結社の世界史〉 ISBN 4634444100 を読め 一般には少なく、真宗系でそう呼ばれることが多いというだけであり、門徒という言葉は普通の日本語である。 手前の見解を他人に強要するような態度では、信仰者としては勿論、社会人・日本人としての良識すら疑われるぞ。 或いは諸事情から小学校にも満足に通えなかったと見える。 が、いまはネットでも学べる時代である。ウィキペディアにも「門徒」の項目はあるし、一般的な国語辞典にも必ず項目がある 日本語の一つなのだ。門徒の本来の意味は 「一門のともがらのことを指す呼び方で、ことに同じ門流に属して信仰を共にする人びとのこと」 「一寺に属する檀徒のこと」である。 [生パンティー強盗は「幸福の科学」職員 連続45件、自宅から下着100枚] https://6622.teacup.com/takanoriookawa19560706/bbs/4156 テレビニュースでも、しっかり流れた 大川隆法のお抱え運転手による 連続下着強盗事件 --、 _____ -丶 |;;;/::::::::::::::::::::::::::::::/ | // ̄,'' ̄ ̄\:::::::'''',,,丿 / 0 0 _|:::::::::::::\ /ゝ ▼ <:::::::::::::::<:::: ̄--_ ---┼/ 、 -─-\--<::::::::::::::::::::-_ --─\ ⌒  ̄ ̄ ̄ゝ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::-_ \__ ゝ/::::::::::::::::::::::::::::::;;;;;;;;;;;::::::::::::\ ,,ノ 丿:::::::::::::::::::::::::/:::::::::::::::::::::::::::::::::::| > /:::::::::::::::::|::/::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::| >.,. /::::::::::::::::::ノ;;/:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::| ____________ /:::::::::::::::::::ノ;;;;|::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::|__-||||||::::||||||::::||||\ /::::::::::::::::::/;;;;;;;|:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::|::::|||||||:::||||||:::||||||:::::: (!!!!!!(:::::::::::::::/ ;;;;;;;;;;;;|::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/::::|||||||:::||||||:::|||||||::ノ (!!!!!!!!!!!!!ノ (lllllllllllゝ:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/-- ̄  ̄ ,,,,ヽ::::::::-ゝ:::::::::::/ (!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ノ どうでもいい割には長い言い訳ご苦労 笑 俺の流儀ではなく真言宗の流儀で真言門徒等という呼称はないか有っても正式に仏門入りした僧侶だけだ 真言宗檀信徒手帳というのが有ってな 墓持ちは檀徒叉は檀家 墓無しは信徒又は信家と呼ぶのだよ 両方合わせて檀信徒と呼ぶ 真言宗に限らず浄土真宗以外で自宗の信者を門徒と呼び慣わしてる所はまずないし それを知らないお前は外側の人間なんだよ ここは真言宗のスレではないのではないかな? そういうスレチのレスを繰り返すオマエは勘違いの荒らしでしかないのだ また真言宗のスレになど書いた覚えもないし、一般人が、オマエに合わせる理由も 必然性も全くないのだぞ。 真言宗の話題なんて元々してなかったのに引き合いに出して悪口を言う方をたしなめるべきだろ? 自演じゃなければだがな 糞よりもっと汚らわしきものよ。 真言宗への悪口とは一体なにを指しているのだ? 319の変なストーカみたいな奴、 下の動画の犯人みたいな性質のなんだろうね。皆さん気をつけましょう。 https://www.youtube.com/watch?v=vRzpTJZVmeY 馬鹿げたオマエのレスなど誰も読む者はおらぬぞ。 しかし真言門徒とは、おそらく5ちゃんに一匹だけいる粘着質のもののことを言っているのではないかな? また誰もオマエを真言宗を代表するものだとか思っている訳ではないであろうし、真言宗も そう考え工作を依頼した訳ではあるまい。また真言宗の教義も新義古義さまざまあり、オマエの貧しい 浅略釈が宗門の立場を代弁できているという訳でもない。 にも拘わらず何ゆえ真言宗を代表するかのように虚勢を張るのだ? さあ答えてみよ ここにも駄文マルチ 俺のレスじゃなくてお前の駄文を読み返せよ 無能 いよいよ下手な言い訳もできなくなったか? 爆笑 であるなら 「自分の見解はこうです」と一言 添えるぐらいのことはすべきであろう。初心者の多くは、オマエのエラぶった書きっぷりに 騙され勘違いするだろうから 初心者って言うのは檀信徒と門徒の使われ方の区別も出来ないど素人の事な 素人に幾ら説明しても無駄 わかった気になってそのままずっと脳内仏教徒やっとけ その書きっぷりから見ると オマエは「オレはプロヤ! 職業でやっとるんや」と 主張していることになるが、そう受け取ってほしい のか? 爆笑 俺がプロだという事じゃなく お前が仏教のど素人だという事だよ オマエの思ってる”仏教”とは、脳内に詰まった妄想知識に過ぎず、それは本ものでなく、 仏の智慧とも無関係なガラクタで空海の教えも、そのほんの僅かの断片だけを掠めたものに 過ぎないのはこれまでの書き込みから既に判明してる。そうでもないと主張するなら、オマエが 入信したという団体だか派の名称を書け。 よし、よく自白した。 こんど上のものらに「ネットでこうした不審な情報を垂れ流して 人々にメイワクをかけてる輩がいるんだが、オタクはそういうのやれって指導してんの?」と 聞いとく 高野山で特に優れていると思われる点は幾つかあるが、 その一つは聲明だな。 当方も唱える事があるので判るのだが、 この経頭を務めてる人は突出しているね いまの人で感心したのは、この人だけだ 会ったことあるのかね? https://youtu.be/wEjvZBxKQ0c?t=102 何だよ坊さんかよ? 坊さんがスリランカ仏教を謗ってるなんて そっちの方が問題だわ 他スレでテメエのことを書かれたみたいなことをレスしてる者がいたが、 なんでもテメエのことを他人が批判してるとか訝るのは被害妄想 関係妄想といい、ビョーキの症状だな。或いは、明確に何か やましいことがあるのだろうね 南伝経典を読むこと自体が悪いわけでは勿論無い。 ブッダゴーサ独自の見解や テーラワーダ過激派等に汚染された輩に影響される点が 問題なのである。 >>332 真言宗坊主の動画増えて、 コロナに感謝やな笑。 俺もリアル現在真言宗を知らんからな。 どうしても、その三昧解釈は 臨済禅的発想でバイアスかかっているからな。 笑。 スリランカのスマナサーラは2007年に「般若心経は間違い」とかいう本を出しています。 それを読めば正体がわかります。 >破戒僧スマナサーラが呪文として唱えるパリッタ同様。 スマナサーラ教の実態を知っていれば目糞鼻糞を笑うとも言えるし、いつものスマナサーラによる藁人形論法にも見えます。 一方的に般若心経は間違っていると決めつけた上で、レッテル貼りし矮小化した対象を徹底的に貶めて自分が優 位に見せかけているわけです。 さて天部を祀る寺によっては世話役に作法を聞けば真言に般若心経を唱えろと言われます。 祝詞や言霊やマントラのように天部に読経を捧げているわけです。読経そのものが行として使われている場合もあ り意味内容が先行している訳ではない。 日本テーラワーダ仏教協会が三帰依だかなんだかのパーリ語を信者に延々と唱えさえている様子が動画で確認できますが 無意味な形式的儀式と批判するのは簡単です。 パリッタなる呪文を唱え、聖糸儀礼なる儀式を行い、聖水を撒いてるようなスマナサーラが般若心経は意味がおかしいとか何を言ってるんだか。 意味も分からず箔を付けるための儀式をやらないと僧侶ごっこはできないくせに。戒律を守らないスマナサーラは。 とは言いつつもスマナサーラのやる当人が意味内容を理解していないおまじないと文化として根付いた般若心経を同列にするのは失礼な話です。目糞鼻糞はいい方が適切ではありません。 スリランカ仏教は歴史がありませんのでスリランカ土着の民間信仰や呪術や儀式の方が伝統的です。シンハラ人糾合に仏教は取って付けたものです。 スリランカ仏教寺院にはヒンドゥー教の神々が祀られており仏教は科学というドグマは世界大戦中にダルマパーラなる在家が作ったプロパガンダです。 歴史もなくスリランカ社会に陰惨な紛争をもたらすシャム派所属の破戒僧スマナサーラの仏教と異教叩きを使った洗脳に警戒すべきです。 >大乗仏教の僧侶としてとても参考になりました。 そもそもの大前提がちがいますよね。 テーラワーダは、人間は元々が不完全な存在で、だから悟るために一歩一歩努力していかねばならない。 大乗は、人間は元々完全だ。すでに悟ってる。 だから、 テーラワーダでは、人間の苦しみの原因を細かく分析して、その原因である執着とか怒りとか煩悩いうものを少しずつ落としていきましょう。と言うことになり… 大乗では、元々完全なんだけども、そう思えないのは自分の「思い」のせいであり、その「思い」が私自身ではないと自覚はできれば… つまり、 「私が空であり、空が私として現れている」と自覚できれば、すべてが問題でなくなる。といことなのかと…。 長老が批判されている、「無」ということばですが… これは「ない」という否定系ではなく、「問題ではなくなる」ということではないでしょうか。今までは「私」と「悟り」が別々であって、汚れた私が一歩一歩努力して 汚れを落としてキレイにしてその結果悟りに到達する。っとゆー構造でしたが、 そうではなく、私の「思い」が勝手に「自分は汚れている」と思いこんでいただけで、本来的には私は悟りを生きていた…。であれば、それに気付くだけで悟れる…。悟った存在だった…。 長老は道元禅師の研究をされていたはずですが、「私たちはもともと完璧である」大乗的思想はやはり受け入れられないのでしょうかね…。 人間は元々完璧で生まれてくるのですが…。気づくと「自我」が芽生えて全てが問題だらけに思えてしまう…。でもそれは自我のせいであって、自我としての私…と同時に「空」としての私を生きている。 その空としての私に気づくと全ての今までの思い込みがストンと落ちて全てが問題でなくなるのではないでしょうか。 >2011年9月30日に日本でレビュー済み そもそも土俵が違うものを批判するのは馬鹿げています。テーラワーダは四元素で大乗は五元素です。しかも実際の大乗は五元素目である空に主眼 を置いた仏教なわけで、それを四元素の人が見れば、まぁこんな風に見えるのだろうなと言うのが実感です。 どうしてテーラワーダだけが仏教圏の中でも意固地で仲間外れになるのかが良く判ると言う意味では価値がありましたが、 内容そのものは完璧なマト外れ。まぁ自分らには無い要素について語っているのだから、こんなところが関の山と言うことなのでしょう。空即是色は、テーラワーダ的に見れば当然マチガイです。 何故ならばテーラワーダの核が名色(四元素)にあるのであって、あれの世界観は全て名色側から見た物でしかないから。 空即是色だと名色側からでは無く空側から見ている事になる為マチガイなわけです。 つまりテーラワーダの空も所詮は名色側から見た観測物でしかないわけです。従ってテーラワーダにとって本当の自分すらも名色の四元素であり空ではありません。 大乗の肩を持ってやるほどの話でもなく、こんなのは、そこらの安っぽい唯脳論なんかと変わらないレベルの教えである事が簡単に見透かせるわけで、なぜ小乗仏教と差別的に扱われて来たのか、その根本的な理由も理解出来てしまいます。 劣る教えの核心部分を見た気がしました。 シャットダウンを一回毎の生における死 PCやそこに表れる情報を 輪廻する先々の客舎と観じるなら 解脱とは、パソコンを使うのをやめて、もっと大事な修行をするということに当たるかも 知れませんね。 涅槃に入る絶対条件は戒律だよ。釈迦が性行為や飲酒や娯楽を禁じたのはそのため。でも誰も苦諦を理解できないから人々は大乗仏教を生み出したんだよ 人々はなぜ性行為や飲酒が涅槃を妨げるのかが理解できないんだよ。だからオナニーして瞑想したり酒を呑んで座禅を組むという不可解ことをするんだ だから禁欲は無理だという者は釈迦のことは忘れて他の教えを学んだ方がいい 「楽しめば苦しむ。楽しまなければ苦しまない」これが苦諦 だからオナニーやご馳走やゲームや楽しい空想なんかをして『何かを楽しんじゃえば』その瞬間『自分を苦しめる何か』が生まれちゃうんだよ 釈迦を始め苦諦を見つけた人々はみな呆気に取られたはずだ。心や認識や宇宙のあまりもの単純性に。そして今までそれを見つけられなかったのはそれが複雑すぎたからなのではなく逆にそれがあまりにも単純だったからなのだということに 楽しむを苦の因と見るなら苦諦。 楽しまなければ苦しまないは道・滅諦の消極的な解釈では? だが楽にも出離の楽しみや涅槃の安楽もある。五欲に繋縛された行為か罠から逃れるかがポイント 欲を生存者に課せられた罠でもあるかのように ストイックに遠ざけ、 欲を制御することのみに専心したのが本来の仏教。だが密教、大乗では 「大欲の思想」が出現した。 小乗って結局、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」みたいな感じの自業自得譚を地で行ってるとこありますよねえ >>342 テーラワーダ工作員だの犬山一味だののおヴァカな魑魅魍魎が跳梁跋扈する5ちゃんねる等 は低俗にして超有害。即、悪縁を断じて 解脱すべし! >>351 困っているスリランカの嘗ての同胞を助けようといった気など さらさらなく、ただ自分だけ日本で商売繁盛させて 仏教をメシの種にして儲けようとか、まさに自分だけクモの糸にぶら下がって地獄から 逃げ出そうとして醜態晒す罪業深き破戒僧の欲深根性モロ出しだよね スリランカ分別説部の浅黒い輩とは、仏典にも登場する悪魔が 時代と国を変え、再登場しただけなのだ 詰まるところ人々を惑わすことこそ 奴らの仕事である 心経に関する本だけじゃなく あの長老が書いたものは全部ヘン。 テユウカ、そもそも多くの人の目に触れるに価するレベルじゃない 感じがする。 日本で商売しとる変な外人は勿論、 妻帯肉食しとる坊主は 猶更、仏教に不向き だよな 仏の慈悲や衆生の救いを忘れた盲説などは そもそも仏教とは何の関係もない 恐らく、それこそが「小乗」と蔑まれる 所以だろ 日本人の中には、往時の大統領に恩義を感じてる者もいるが、全然次元の違う問題である。 さらに言うなら、一匹の破戒のものに不正に利得を貪らせるようなことがあってはならない スリランカの民みなが救われるのでなくては正しい恩返しにならない のだ! >分別説部はどの程度、オリジナル仏説を歪めているか? >南伝だって結構、歪曲が多く混入してるし、必ずしも原型をとどめている訳でもない といった指摘を受けた オリジナル釈迦仏説との関係で見た純度 >せいぜい南伝は三割 といった印象を持つ人が多かった >不純要素(非仏説混入度)は 南伝でも7割程度と見る向きが多い >現在、上座部を名乗っている教団の正体を知っていますか? 部派仏教時代に上座部の中で有害な説を説く異端分子が破門になりました。その異端分子を分別説部といいます。 その後、本来の上座部が滅んだのをいいことに、分別説部は自分たちが正当な上座部だと主張しました。 つまり現在の上座部は元々異端分子なのだから本当の仏陀の教えなど伝わっていないのです。 分別説部についてはウィッキぺディアにも載っていますから、ご確認下さい。 >大衆部は分別説部を仏教の根本分裂の際にほかの部派とともに生じたとみなしている。大衆部によれば根本分裂によって上座部、大衆部、分別説部の三部派に分かれたのである 破戒僧率いる日本テーラワーダ仏教協会 スマナサーラの嘘を指摘し、頭のおかしくなった信者を更生させる スマナサーラ 批判 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1535982873/ 恐らくスリランカの言い伝えを過信した仏教史なるものは 根本から間違っている ダライラマから見てもテーラワダは格下 >そんなのどの宗派でもお互いさまだろう ダライ・ラマ14世の動画見てみればテーラワーダのことを明らかに格下のものとして発言してるし、ネルケの90分以上あるマインドフルネスの講義動画の終盤でもテーラワーダのスタンスに不満を言ってる 大乗の系譜は中観に則ってるわけだから仕方ない話なのかもしれない 2018年10月27日に日本でレビュー済み 色即是空は正しいが空即是色は誤りだから般若心経は間違っている。その解釈は浅いと思います。 同じことの繰り返しが多いから頭が悪い。よく読めば繰り返しの箇所はありません。むしろ原始仏典の方が同じフレーズの繰り返し多いです。 日本の仏教は釈尊の教えが絶えることなく現代まで続いているものです。復興仏教ではありません。 文化的慣習や思想信条の違う他者・他国民への顧慮も一切なく、 ひたすら狭量なる我見のみ他に押し付けようと企てるものは そもそも社会的能力も未熟で良識を欠いている。その意味ではテーラワーダも日本のカルトも 共通性がある。 本当のところは どうだかわからないのに言い切るというのは 他国で布教するものとして罪 ではないのか 如来って確か過去の善行の積み重ねでなるんじゃなかったっけ。 仏陀入滅後に出現した教団で 入信するに価する集まりなど一つもない 異部宗輪論で言われるところのいわゆる小乗と呼ばれる伝統的部派仏教の部派の話と、スリランカ上座部と称しているものと、 現代上座部と称しているテーラワーダを分けて考える必要があります。 ご存知かとは思いますが、そこは同じではないです。 >スリランカ上座部は「島史」による伝承が根拠なので、あくまで自称の話であって、分からないことだらけです。 また、テーラワーダも途中2度途絶えたものを復興したもので、これらを根本分裂時代に遡り一連のものとして考えるのは、そもそも無理があります。 >部派の系譜に関しては、テーラワーダの主張は違うということ。 >テーラワーダは、根本分裂時の上座部の直系ではないです。 それをブッダゴーサ教と呼ぶ人もいます。 378神も仏も名無しさん2020/08/02(日) 20:44:54.73ID:4fzFl6ba 別にブッダゴーサ教でも異端でもいいがスマナサーラはホラ吹き破戒僧 母国のスリランカ仏教徒は異教徒を弾圧に虐殺 スマナサーラ教信者は発狂する奴が続出 伝統的インド思想や 真仏説の或る種の部分に対するアレルギーを持った者が 分別説部やスリランカ方面にいた ということでしょう ね。 いま西のほうでゴキブリがやってるカルトは やっても無意味 という事です 南伝も佳い経典はあるものの全体から見れば極一部である。 過剰に言葉塵や教義、古い律などに囚われてはならない。じっさい 現存する最古の仏典には、教義で清らかになるとは言わない、というのが何度か出て 来る。 木片を焼いたら浄らかさが得られると 考えるな。 それは単に外側に関することであるからである。 外的なことによって清浄が得られると考える人は、 実はそれによって浄らかさを得ることができない、 と真理に熟達した人々は語る サンユッタ・ニカーヤ 古臭い迷信をもってマウントとろうと企む無智な輩の邪説を破壊 し尽くす事が 覚りの第一歩 である どこぞの有名な寺の門徒でも いったん資糧の道に入りながらも色々よそ見をして迷い、 また仏道未満の外道に退行する輩がおる ようだな 無上正等覚などブッダなき現代では不可能 肉を喰らい酒を飲み女を抱く現代の仏教僧には阿羅漢果も無ければ育つ弟子もいない 一見戒律に厳しいと思われるチベット仏教や南伝仏教からも高僧の破戒者が時折現れて話題になるぐらいだ 盲目的に信じられるものなど何処にもない 一つ一つ自ら確かめるしかない 分別説部(=スリランカ)が仏教未満なのは間違いない スリランカの土人の勝手な解釈、見解、誤解曲解願望理解不足が混じっており、文化の落差や 言語翻訳能力の限界もある上、千年以上の時間経過、さらにスリランカは何度も途絶え、散逸した 改竄経典をまた国外から再輸入して復興したような作文集に統一感があるとしたなら、それは 後代の潤色と編集であろうぞ 東南アジア各国で誤差の無い部分を見付け 漢訳でも同じようにする 次にサンスクリット経典も入れて同心円を作って その範囲内が初期サンガの伝承かそれに最も近いものとして置いておく 遺跡等から更に旧い古文書が出れば それも検証して組み込む 少なくともチベットは原始仏教から後期密教までの体系化に成功してるんだから 小乗だから大乗だからなんて分離せずに包摂する方がいい 生きている時のブッダ以外に礼拝対象のなかった最初期の教団とその後は違う スリランカ仏教だってオリジナルじゃないのはその通りだが 龍樹の著作との比較でかなりの事が判る 龍樹だって死後七百年の人だし サンスクリットが、既に別物なら全部違ってるし、 現存経典の共通項とか、小学校の「集合」レベルの方法論で歴史の真実が分かるなら 昔から学説も変わってない 今は算数で集合は教えてない? なにしろ大学で中学校の復習やってるとこもあるらしいからね 慶応の幼稚舎からずっとの奴だと超低能の学生も実在 する訳だが。。。 全部が全部別物なら仏典なんか何の意味も無い後世の創作でしかないから小乗も大乗も意味がない事になる それなら仏教徒なんて辞める事だ >>383 くろちゃん 言っても無駄だよ 元々の教えを探って確かめる取り組みさえ出来ずに小乗対大乗なんて今や真宗でさえしない分類で白黒着けたがる輩だから 中道だとか無立場の立場の意味を知らないんだよ >>385 それはおれじゃない。。w おれは、ここに今まで書いたことはない。。 >信者の文字への執着もさることながら、そもそもそんな経は 第一結集の時には無かった 連中の枝葉末節・二乗経への執着ぶりも 醜いよね あの醜悪なスリランカの土人が彼岸に渡った聖者だと思ってるのか? 渡ろうともしてないようだがな。 誰もそんな事は言ってない もはや向こう岸に辿り着けた者は居ないのだろうと思ってる 誰もが暗中模索してるのが現代の仏教だ >1 すばらしい知性だと 思います。 自信も感じられます。 確かに釈迦は仏教から学んだのでは ありませんね。 そもそも2500年も過ぎた、 その間、それぞれ、部派閥組織の都合でつくられた 10万巻もある仏教経典、わたしはこう聞いた、などと うそから始まる偽経、そこから学ぼうというのは... 昔の修行者は、現代のような歴史学的知識もなく、 偽経などと思いもよらず、あわれであったと 思います。 現代の修行者であれば、時空歴史的、地球地理的、あらゆる人種、 あらゆる宗教、科学知識、医学、遺跡、すべてから、探索することが できる。世界中のすべてから、さがそうとするでしょう。 闘争心ムキ出しのスリランカの出稼ぎ乞食僧がさとってるって?ww 全てを如実に観察する 掲示板を観察しても瞑想スル 其れ妨げるものあらば 魔なり 大乗は南伝も含んでいる。 夾雑物も混じったが、分別論者よりは、まだ利口である。 それだけでなく涅槃の認識に深化が 見られる。 華厳の滝から飛び降りて見ることが、何ゆえ心の優越を示す事に繋がるのであろうか。悟った人は決して為さぬであろう というよりも心の優越や、物の独在を熱望するなどビギナーの域 物心一如を正しく悟れし者は、無意味な行為を決して為さぬ であろう 一切衆生悉有仏性という。衆生が仏なら、衆生に帰依しよう。南無衆生。 本来の仏陀の覚りとは どういうものかを南伝、分別説部にしても良くわかってなかった のであろう という事に、まず気付くべき なのです。 各人にとっての主観的現実は どこまで行っても主観的なものにすぎず、 無常で時間が過ぎ去れば一過性の幻と気付くものだ という真実 智慧の瞑想(観)と無我・空の瞑想・禅定(止)を共に究める事 九次第定と三密加持 八正道の日常的実践と修菩薩行の深化 正しく菩提心発こしたならば必ず涅槃に到らむ それを実現するのに なにか方法がある筈 と考えてみる 事。 実態を知らぬものが実無きものに対して執着を持つのである それが無明であり、 物質界の本性とは、実に忌むべきもの なのである。 賢者は 夢を見ていても、またその後も尚 智慧を生じる瞑想になるのであり、常にそれをするよう努めている のである >>343-348 それらの神経症患者的で無明なるレスは、こうしたスレに相応しくない。 だが一つ教化するなら、自慰やそれに類する行いをしなかったとしても、執着を持っていたならば、そのような 表層的な戒は全く意味の無い慢でしかなく、キリスト教でもやるがよい オナニーが楽しいとか こんなとこに朝っから書き込んでる奴w 頭大丈夫か? 思考回路が狂うとるよ オウムかw ああ。如来のことか。 菩薩と如来と観音しか、仏様っていないよねー 如って、囚われがないってことなんだって。 そうすりゃ、そうなるわなあ。 知ると、そこが一時的に限界になりますよねー しかし、迷いがあるからこそ人間は成長します。人間成長というものに迷いはつきものですね。 大疑団を辞さない勇気を持て 白隠 そのような行いをせねばならない状態 それ自体を苦しみと観ぜよ 下らぬ行為を楽しいと思いたいという執着があるのであろう。そうした 罠に気付く事が、まず第一歩である。 ああ、ガンダムのセイラさんも、苦しむ必要なんてないのよって言ってたな 菩薩の三昧境がいいんでしょうかね 結局、禅宗の、無門関さえ突破すれば、あとは何をやってもいいんじゃねえの?そりゃあ、内修と外慈、神道で言えば、御魂磨きとお徳積みをすべきですけれど、やるやらないは、その人の自由。ただ、幸せになる義務がある。 大衆にとって望ましい宗教は在家法である。 だから子孫を残す必要のある人に 性行為を禁ずることは理に合わない。全てのものが出家者になる 必要も無い。 スリランカは難民発生中の国 >難民不認定の処分を通知された翌日に強制送還されたため、処分取り消しを求める訴訟が 起こせなかったとして、スリランカ国籍の男性2人が1千万円の賠償を国に求めた訴訟の控訴 審判決が22日、東京高裁(平田豊裁判長)であった。 >>422 .そのための方法論が問題となる。 バカには理解できない。 大爆笑である。 地獄とは、なんのためにあるか 中曽根やブッシュやダライラマのようなのを収容し カルマの清算をさせるために作られた のだろう 悟り、は体系である。 キリスト教も体系である。 イエスは人類救済のために死んだ。 釈迦は悟ったが死んだ。 なんでか。 それが法である、からである。 現実を超越せよ 些末な言葉による観念的袋小路から 抜け出よ ひろゆきなどという工作員が 現代における 諸悪の根源 である ブラフマン==アートマンがニルヴァーナを知った状態 宇宙には なに一つとして 孤立した存在は ありません 巫俗とは 死者を冒涜するだけでなく 誕生する命も踏みにじる。 >>1 ウリストも悟りも 同じ巫俗なのだから スレッドを統一しろ。 「一つの岩の塊りが風に揺るがないように、 賢者は非難と賞賛とに動じない。」 自然界に色なるものは存在せず あるのは周囲の総体に当たって 様々に反射した電磁波だけである 人が色と感じるのは 色々な波長の波が 網膜の夫々の受容体を刺激して それら全てが脳内で処理された結果 生じた個体内の主観的印象である いま新しいものでも時がたてば古くなる 古いから価値があるというわけではなく 新しければよいというものでも ない ___ /∧_∧ \ ./ <ヽ`∀´>、 `、 / /\ \つ つ、ヽ | | ,\ \ ノ | | ヽヽ レ \ \フ / / . ヽ創価学会お断り ヽ、 ____,, / そうだろうか 空は誰でも理解できる 特別ななにかにしてはいけない 輪廻しない自由はある。 ならば それを享受しばい手は ナイ 病名:脅迫性人格障害のインチキキチガイイヌヤマが自供ス。 『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです、私は悟ってません。』 by 荒らしイヌヤマ談 ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら、初関を透る、じゃねーべ! イヌ自白調書:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ來 ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷。 イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか、俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺のことを 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴) ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は、誰からも疎まれる。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾ス。 5ちゃんねるの会話はバトル形式、馴れ合いを禁じる。ググるシッタカイヌヤマは、褒めてクレヨの唾棄すべき哀願奴隷。 相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価です。荒らしイヌヤマは問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。 食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)>奈良 興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で、食業ドライバーだったに過ぎず仏教からは門外漢だね。 だから、しったかぶる以外に存在承認欲求を満たすものは一切無い。 ① 荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれる。 ② 放置された脱糞イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗です。 ③ ;反撃は荒らしイヌヤマの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事。 ④ ;外道イヌヤマが枯死するまで孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除で寸 入れ替わり立ち替わりして虚偽の多数者を演じて孤立してないと強弁し自作自演のおぞましい日々の人イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療対象者です。 虚言癖:鬼子鬼和尚エロ和尚偽和尚イヌヤマ軍曹安堂麦野良屁魔は異名同一人物がキャラ変で世をたばかる極悪人です。 病名:発達障害ASDの症状尊大のインチキキチガイ雀鬼イヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌヤマ談 ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ! イヌ自白調書:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ來 ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也 悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺のことを 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴) ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる 独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾ス 5ちゃんねるの会話はバトル形式、馴れ合いを禁じる。ググるシッタカイヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、荒らしイヌヤマは問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。 新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)>奈良 興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーだったに過ぎず仏法からは門外漢だから、しったかぶる以外に存在承認欲求を満たすものは一切無い。 ① 荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれる ② 放置された廃人知障イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗です ③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事 ④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除 多数者を演じ孤立してないと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療 統失、薬中、精神病院2ヶ月入院、A型作業所:狗の大王イヌヤマ軍曹麦屁魔女エロ和尚アカベイ偽和尚野良鹿は異名同一人物がAAキャラ変の極悪人! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる