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>>1-2 読みたい人は読んでください。 利用したい人は、利用してください。 ゴータマ・ブッダは、誰か・何かをたよれば涅槃に入ることができるとは説いていない。 あくまでも自分が、正しい事をする事で、涅槃に入ることができるということを説いている。 増谷文雄 阿含経典 第三巻 P165-167 かようにわたしは聞いた。 ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なるアナータビンディカの園にましました。 そのとき、世尊は、比丘たちに告げていった。 「比丘たちよ」 「大徳よ」 と、比丘たちは世尊にこたえた。世尊は説いていった。 「比丘たちよ、たとえば、ガンガーは、東に向い、東に傾き、東に注ぐ。 比丘たちよ、そのように、比丘たるものもまた、聖なる八支の道の修行をかさねれば、 涅槃に向い、涅槃に傾き、涅槃に注ぎ入るであろう。 比丘たちよ、比丘は、どのようにして聖なる八支の道を習い修め、聖なる八支の道の修行をかさねれば、 涅槃におもむき、涅槃に傾き、涅槃に注ぎ入るのであろうか。 比丘たちよ、ここにおいて比丘は、欲望の対象を遠ざかり、貪りを離れ、滅しつくし、しだいに心の平静をえて、 正しい見方を修習するのである。 また、欲望の対象を遠ざかり、貪りを離れ、滅しつくし、しだいに心の平静をえて、 正しい考え方を修習するのである。 また、欲望の対象を遠ざかり、貪りを離れ、滅しつくし、しだいに心の平静をえて、 正しい言葉を修習するのである。 また、欲望の対象を遠ざかり、貪りを離れ、滅しつくし、しだいに心の平静をえて、 正しい行為を修習するのである。 また、欲望の対象を遠ざかり、貪りを離れ、滅しつくし、しだいに心の平静をえて、 正しい生き方を修習するのである。 また、欲望の対象を遠ざかり、貪りを離れ、滅しつくし、しだいに心の平静をえて、 正しい努力を修習するのである。 また、欲望の対象を遠ざかり、貪りを離れ、滅しつくし、しだいに心の平静をえて、 正しい念いをこらすこととなるのである。 また、欲望の対象を遠ざかり、貪りを離れ、滅しつくし、しだいに心の平静をえて、 正しいことにぴたりと心を専注することとなるのである。 比丘たちよ、そのようにして、比丘もまた、聖なる八支の道を修め習い、聖なる八支の道の修行を重ねれば、 涅槃におもむき、涅槃に傾き、涅槃に注ぎ入るのである。」 もっとも解釈が曖昧なのが七番目の「正念」だね 「念慮」「思念」「憶念」「記憶」「注意」「気をつけること」「配慮」「気づかい」「気づき」・・・ パーリ語では samma sati で、samma は正しいの意 Sati はもともとは記憶のことだったそうだが、 何かを忘れない→注意力がある ということで注意の意味にも使われる 例えば、sati という言葉が今も残っているスリランカやミャンマーでは、 買い物で財布を忘れたり、段差に躓いたりした人に「サティが足りないんだよ」と言うそうだ 英語圏では mindfulness と訳されるが、mindful の意味は「注意深い」 ただしこれらはあくまで日常語としての意味 仏教の専門用語としてどういう意味を含んでいるかについては意見が分かれる 仏典においては、例えばアッタカヴァッガ(スッタニパータ第4章)に 「足で蛇の頭を踏まないようにするのと同じようにサティを持って諸々の欲望を回避しなさい」とある また、涅槃経には、遊女にして大富豪のアンバパーリーのマンゴー林を訪れたとき、 釈迦が弟子たちに「ここではよくよくサティを持っておくように」と言う場面がある 色香に惑わされないようにという意味だ これらから考えられる「正念」は、 うっかりしないこと(失念しないこと)、そして邪な思いを持たないこと(邪念のないこと)、 つまり頭の中に常に正しい思いがあることと言える それを読んで勉強することが目的の人と、 それを読んで実行することが目的の人と、 はやっぱり違いが有りますね。 なーんにも出来ちゃいないのに珍説並べて 別スレにツバ吐きに来たからな:D 知らないことを、知ってる人を通じて、知ることは大事だと思いますがね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる