>>613
日本基督教団 富士見教会のHP曰く
http://fujimicho-kyokai.org/preach/2019/20191006.html

パウロはここで、砕かれる自分を晒し、赤裸々に自分の弱さを告白します。
ある人は「パウロが壊れていく」と言いましたが、「砕かれる」ことと
「壊れる」ことは違います。詩編51編でダビデは「神の求めるいけにえは
打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」と言います。
「砕かれる」とは、《誰かによって》砕かれる経験です。自分で砕くのではなく、
《あの方が》私を砕く。深く醜い罪を犯したダビデは、「神よ、わたしの内に清い
心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」と呼びかけ、求めました。
神よ!新しく確かな霊を授けてください! 問題は、人間の力不足や努力不足では
ない。霊の欠如、聖霊の欠如。「私が」「私の」と頑張るばかりで、実は神がいな
いのです。
 琵琶湖大鯰やファリサイ派のような人たちは、自分の力や自分の知恵、自分の努力によって、
自分を固めてしまいます。それを砕くのは、人の力でも知性でも、人の誠実さでも
ない。《神の霊》、生ける神ご自身です。