古本屋のつぶやき
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仏教思想のあれこれについて思った事を勝手につぶやくスレです。
1.sage進行でお願いします。
2.荒らしは完全スルーで。
3.体験談や雑談はお断り。
4.質問等には基本的に応じません。
5.コテハン・トリ付き推奨。
6.発言には何故そうなのか根拠の明示を。
7.その他、スレ主の指示にはご協力を。
*仏教辞典(出版社不問)等は必携です。 私は古本屋に居つく本の紙魚みたいなもんです。
そんな古本屋の紙魚に興味がある人とか、変わった人なんでしょうねw 表現が難しいけど、体験や知識を我としてアイデンティティを形成するのではなく、体験や知識は非我としてアイデンティティを形成するのが仏教ではありませんかねぇ。
非(無)我の我って事です。
勿論これはジレンマですけど、そのジレンマを超克する体験や知識が修行の過程で要請されるのが仏教だと思うんです。 >五蘊とは、仏教において、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の総称。物質界と精神界との両面にわたる一切の有為法を示す。
>(wiki引用)
飽きれてものも云えない。
個々の構成要素である 色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊 がそれぞれ非我であれば、トータル(一切)として無我が成立し、五蘊(一切)無我説ってなる。
応用が利かないというか、限定解釈と云うか、非我といったら非我として何でも解釈してしまうから斜め上の方向にいってしまう。 >コトバの意味作用とは、本来的には全然分節のない「黒々として薄気味悪い塊り」でしかない「存在」にいろいろな符牒を付けて事物を作り出し、それらを個々別々のものとして指示するということだ。
>つまり言語脱落とは、「本質」脱落を意味する。
>そして、こうしてコトバが脱落し、「本質」が脱落してしまえば、当然、どこにも裂け目のない「存在」そのものだけが残る。
>(井筒俊彦 意識と本質−精神的東洋を索めて)
分ってしまえばごく普通に当たり前なんですが、その当たり前に至るまで結構大変で、一生かけてもこれが分らない人もいる。 >問うて曰く、若し是の如き義ならば、諸の衆生等云何が随順し而して能く得入せん。
>答えて曰く、若し一切の法は説くとは雖も能説と可説と有ること無く、念ずと雖も亦た能念と可念と無を知る、是を随順と名づく。
若し念を離るるを名づけて得入となす。
>(大乗起信論)
随順・・・知的に深く了解する事。
得入・・・実際に悟りをひらくこと。
起信論は中国撰述のパッチワークらしい。
で、律蔵や阿含をみると、知見を経て解脱したというのが散見されますが、これもそのような記述ですね。 「空」は、空を空なる「もの」として表象するといふ立場をも空じたところとして、初めて空なのである。
そのことは、空が単に有のそとに、有とは別なるものとして立てられるのではなく、むしろ有と一つに、有と自己同一をなすものとして、自覚されるといふ意味である。
有即無とか、色即是空とかいはれるとき、先ず一方に有なるもの、他方に無なるものを考へて、それを結びつけたといふことではない。
有即無といふことは、むしろ「即」に立って、「即」から有をも有として、無をも無として見るといふことである。
勿論、我々は通常、有を単に有だけと見る立場、有に囚とらはれた立場に立っている。
従ってその立場が破れ否定されれば、そこに虚無が現れてくる。
そしてその虚無の立場は再び、無を単に無だけとして見る立場であり、無に囚はれた立場である。
即ち、更に否定さるべき立場である。そしてさういふ二重の囚はれを脱した全き無執着の立場として、「空」が現れてくるのである。
西谷啓治 くだらないことを考えた。
一体 ”自分の手” と云ったとき、それはなんなんだろうか?
これは ”自分の所有する手” ってパラフレーズできると思う。
また、手は足だの脳だの他のものに置き換えられる。
それを考えた時 ”自分” ってなんなんだろう、自分ってどこにあるんだろう? ”私は考える”と云ったとき、これもどうだろう?
考える以前に私というのがあって、それが考えると云うんだけど、先程の”自分の手”問題と一緒に考えると ”考える以前の私” ってどこにあるんだろう?
また、私を離れて ”考える” というのが独立してあるんだろうか? ”私”というのが単体であるのでもなく、”考える”というのが単体であるのでもなく ”私は考える” でひとつの何かが成立するのではないのだろうか?
つまり、何かの作用を伴うことなしに私と云うのは成立しないと思う。 仮に、自分の体のどこかに”自分の”と思う本体があるとしよう。
しかしそれは ”自分のX” とはいえない。
なぜなら、そのXの外に自分が設定されるから。
それ故に、仮にその”X”があるとしても、それは認識のしようの無いものとしか言いようがない。 掛かる意味において、ヤージュニャヴァルキヤの ”〜に非ず、〜に非ずとしか言いようがない” というのは正鵠を得てる。
初期仏典に説かれてる五蘊無我説もある意味そのパラフレーズに他ならない様に思える。 しかし、だ。
身体を構成する五蘊のそれぞれが非我であるのなら、総体としての我は当然に無我という事になる。
でなければ、五蘊の他に何かしらの我があることになってしまう。
この身体を離れてどこにそんなものが存在するといえるんだろうか? メンインブラックという映画で、身体の中に異星人が居てロボットのように操作しているシーンがあった。
仮に私の中にそんな私が居るとしても、無限退行のマトリョーシカ人形状態に鳴るし、其の中の私も構成要素に分解されるに他ならないw ところで輪廻の問題。
輪廻の全容を知るには輪廻から離れなければその全容は掴めない。
であるなら、輪廻の中にあるものはその輪廻の全容は知れない事になる。
己事についても同じことがいえよう。
己事は己事を離れなければそのすべてを知りようがない。
それでは我とはなにか?
それはともかく ”我を設定してること自体大きな過ち” という答えも考えられる。
問題自体がそもそも間違っているというのである。 ”これは私ではない” ”これも私ではない” って否定を重ねていっても、最後にはその否定するものが残ってしまう。
これは、小空経の結論と類似している。
その最終的に否定するものって?
思考している自分。 ”自分を観察するのじゃ〜”と嘯くものがいます。
これも上記の例外ではありません。
観察をするには観察されるものの外に立たなくては全てを観察することは出来ません。
つまり、観察されるもの=自分ですから、自分を観察する為には自分の外に立たなくてはなりません。
これもおかしな話です。
どうして自分が自分の外に立てましょうか?
仮に自分が自分の外に立てたとしても、その外に立てた自分を観察するために更にその外に自分を立てなくてはならなくなります。
これは無限退行であって、何時まで経っても自分自身を観察することは出来ません。 >今まで一つの全体である何かとして、どこにも裂け目を見せず、捉えどころもない無規定、無分節的様態で現前していたにすぎないXが、理性の存在論的分析の光に照明されて、「存在」と「本質」との組合せになる。
>つまり、「Xは実在する」「Xはである」という二つの命題が同時にここで成立する、ということだ。
>Xが存在する、だが、ただ存在するだけでなくて、として(例えば花として)存在する、というのである。
>(井筒俊彦 意識と本質−精神的東洋を索めて)
そういう事でしょう。 ”言葉は真理そのもの” と ”言葉では真理を表せない” は矛盾しません。
例えば ”あ” と言う言葉。
”あ”と言う言葉は”あ”の言葉そのままに真理ですけど、他の言葉をもってそのままに表現は出来ません。
また、”あ”と言う言葉はパラフレーズすると ””あ”という言葉以外を否定する言葉” ってなると思うんです。
つまり、”あ”と”あ以外の文字”は相依(相即)して成り立ってると思うんです。 やっぱり仏教は奥が深い。
何劫にも亘って生まれ変わり仏教を学ぶのが分るような気もする。 >六識がはたらかない滅尽定の状態が、異熟識はあっても、「無心」といわれるのである。
>(上山春平;服部正明.仏教の思想4認識と超越<唯識>(角川ソフィア文庫)(Kindleの位置No.2041-2043)..Kindle版.)
ちょっとした体験程度で悟りとかとんでもないって事なんです。
冗談が過ぎるんです。 >ところで注意すべきことは、哲学理論としての頂上が、しばしば宗教実践としては谷底であることである。
>(田村芳朗;梅原猛.仏教の思想5絶対の真理<天台>(角川ソフィア文庫)(Kindleの位置No.823-824)..Kindle版.)
お釈迦様以来、変遷しながらも脈々と受け継がれてきた仏教思想は、或る意味日本において天台本覚思想としてその頂点に達したのかもしれません。
しかし、上記に言われるように ”宗教実践としては谷底” というのも紛れもない事実でしょう。 仏教スレでさえ、佛教に対する理解不足と行き過ぎた真理顕在論から、明後日の方向に逝ってる方が殆どという悲しい現実。
ちょっと仏教を学べば、真如にも無漏の真如と有漏の真如があるというのに… 天台の性具と華厳の性起。
煩悩を視座に置くと前者が内在で、後者が縁起に拠る外来って事になるのかな。 仏教スレ特有の仏教思想や哲学に対する一種のオリエンタリズムとそのエピゴーネンには吐き気がする。
この糞どもは野蛮人だから表象の危機って言葉も知らないんだろう。
猿だ。 禅宗かぶれが過ぎて仏教全体を俯瞰する事が出来なくなり、一種のオリエンタリズムと云うかデリダの云うところの二項対立に陥ってるんだよ。
掛かる意味においてそういう輩は○○正宗と志向性が変わらないんだよ。
禅宗って云うの本来そういうのを一番嫌う宗派なのになに馬鹿をやってるんだろうね?
同じ禅宗だからそういうのは余計にウザく感じる。
いい加減に脱構築しろってなる。 創発って術語がある。
ある意味仏教でいう縁起に近いものがあるのではないか? 原因や根拠を追求していっても、言語的な問題もあるけど、結局は無限遡及が循環、独断になるのではないか?
掛かる意味において、華厳教学の説く重重無尽縁起はそのトリレンマを解消(解決ではなく)してると思うんです。 阿頼耶識が現量であることについて分り易く説明書ましょう
仏教では全ては心の現れと説きます。
その心とは唯識仏教では根本識として阿頼耶識が説かれており、表れとはその阿頼耶識中の種子(≒過去業の痕跡)が見分(見るものと)と相分(見られるもの)に分析され、それを自体分が認識する事を言います。
つまり
→見分(見るもの)
阿頼耶識に貯蔵された種子 + 縁 → 自分が に分析される < その分析されたものを自分が自体分として認識する
→相分(見られるもの)
となります。 阿頼耶識中の種子とは過去に行動した記録がデータとして阿頼耶識に蓄積されたものです。
ところで、その時どのように阿頼耶識にデータとして蓄積されるかですが、リンゴをリンゴとして認識するとそのままに種子として蓄積され、リンゴを梨と勘違いして認識してもそのままに、勘違いしたままに蓄積されます。
そして、何かを縁が生じてその種子が再び現れた時、リンゴをリンゴとして認識・蓄積された種子も、リンゴを梨と勘違いして認識蓄積された種子もそのままに顕れます。
すなわち、これが阿頼耶識が現量であることの証左となるでしょう。 認識の過程を唯識仏教では以下の通り説明しております。
1.卒爾心(対象の感覚的認識)
↓
2.尋求心(対象を判別するはたらき)
↓
(この間、阿頼耶識に蔵されてる種子が与力(=参照)として働く)
↓
3.決定心(対象の判別)
↓
4.染浄心(対象の分別)
↓
5.等流心(記録)
意識と末那識は1〜5の全てが認識の過程で起こりますが、前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)と阿頼耶識は1と5のみって事です。 上記中の
>(この間、阿頼耶識に蔵されてる種子が与力(=参照)として働く)
と云うのが阿頼耶識が現量であることの説明ですが、認識が等流心としてそのままに阿頼耶識に記録されたのが、再びそのまま(=現量)に、2.尋求心と 3.決定心の間に呼び起こされるって事です。
よく言いますyね、”記憶違いとか”。
違って記憶されたそれが違った記憶のまま出てくるのが阿頼耶識が現量であることの証左となりましょう。 間違った事を鼻息を荒くして吹聴する姿は、滑稽を通り過ぎて哀れみさえ覚える。
知識の不足なら補えても、ああなるともう手の付けようが無いのかも知れない。 レスの問題に関係ない周辺情報の列挙とか、わざとでなければ、病んでるな。 本当に無(非)我なんだろうか?
そうした疑問から発した分析の結果が、五位七十五法なんですけどね。
つまり、あらゆる法を分類した結果、五位七十五に分析されだけど、そのどれもが我ではなかったって事なんです。
確かに煩雑なアビダルマではありますが、そうした背景も知らないで批判するとか、識者から見ればまさに無明そのものの愚かで哀れな衆生という事です。 分かって無い者が説明し、理解力に乏しい者が解釈する。
低次元でくだらないレスの応酬が延々と続く馬鹿らしさ。 普通に市販の仏教書でも読んでりゃわかる事なのに。
まぁ、自分にとっての当たり前が他人にとっての当たり前ではない事はよくある事にしても、もう少し勉強してもらいたいものですね。 廃スレにしたのを知ってて書くとか、どんだけ嫌がらせが好きなんだろう。 空っぽというのは、なにものかを入れる器が予め想定されてる言葉なのでは?
だとして、その器が無いとした時、その空っぽというのはどうなるのでしょう。
色(物質)は空間の隔たりによって成立してるのであれば、その隔たりがないとした時、その色というのはどうなるのでしょう。 もし、この世に論がなくて惑い途方にくれる者が多いならば、世間のよこしまな知恵や巧みな言い回しのために、共に惑わされてしまい悪い行いをなして、悪しき境涯に輪廻し、真実のことがらを見失ってしまう。
もし、論に到達するなら、おのずから善悪の特徴と空の特徴を理解して、仏教の反対派であれ、他学派の者であれ、謬見を持つ者であれ、皆悩みなくさまたげをなすことがない。
それ故に、私は人々の利益となるように望むために、この論を造るのである。
(「方便心論」) 折空・体空、甲内・界内外、担空・不担空、住空・不可得空 諸仏と一切衆生とは唯だ是れ一心にして、更に別法なし。 本覚思想の二つの系統について。
空思想に基づく本覚 〜 空のシノニムとしての不二、空の視座からのジレンマの解消と還元
基体説に基づく本覚 〜 真如無為法(あるがまま)の視座 如来一音演説法、衆生随類各得解。
(維摩経だったかな?)
もし、この世に論がなくて惑い途方にくれる者が多いならば、世間のよこしまな知恵や巧みな言い回しのために、共に惑わされてしまい悪い行いをなして、悪しき境涯に輪廻し、真実のことがらを見失ってしまう。
もし、論に到達するなら、おのずから善悪の特徴と空の特徴を理解して、仏教の反対派であれ、他学派の者であれ、謬見を持つ者であれ、皆悩みなくさまたげをなすことがない。
それ故に、私は人々の利益となるように望むために、この論を造るのである。
(「方便心論」 龍樹) 対象物そのものに成り切れば、そこに構築される我は無いから新たな業を作る事はない。
その理屈で、輪廻そのものに成り切れば輪廻から解脱するって理屈でしょ。
また、煩悩と菩提は不二、この不二は空のシノニムなんだけど、どちらも空性であるから不二って事でしょ。
或いは、如来蔵縁起でも法界縁起でも、全てはその真如の顕れという視座において、煩悩も菩提も相即って意味でしょ。 ネタはそれなりにある。
それをスレタイにして話を進める事が望ましいのだけど、どこからと知れず勘違い馬鹿がやって来てはオナニーを始める。
結果、スレが陳腐化してつまらなくなる。
嵐との言い合いになる。
所詮は猿の集まりなんだな。 北宗 自性清浄・客塵煩悩・如来蔵に近しいか?
南宗 空性故位に?
離念 観心論(北宗) 〜 自己の心の清浄と汚染の二つのはたらきを内観せよ
無念 南陽和上頓教解脱禅門 直了性壇語(南宗) 〜 自己の心そのものはもともと空寂である 煩悩即菩提と云うのは、一つには両方とも空性故に相即であるというのと、もう一つは華厳経学でいう有力と無力の関係において相即という考えがあるんです。
後者においては自性清浄と客塵煩悩の関係においてやはり払拭と云うか鏡を知らないとッてことなのでは?
1.理性起(因) 〜 生まれながらに仏性を有する
2.行性起(プロセス) 〜 修行によってそれが明らかになってゆく
3.果性起(結果) 〜 仏果を感得する 何であれ善く説かれたものであれば、それは全て 釈尊のことばである」(『増支部経典=アングッタラ・ ニカーヤ』) 406 自分:鹿野園 ◆VupYVVGZXxPO [sage] 投稿日:2020/07/22(水) 20:15:34.23 ID:GQR5qNtD [4/17]
>>373
先ず、阿頼耶識は ”無覆無記(唯識三十頌)” であって、 種子と阿頼耶識の関係は ”不一不同(摂大乗論)” とされています。
”阿頼耶識から虚妄が生じる” と言う言葉が馴染まないのは、掛かる意味からもいえると思うんです。
また、種子はあくまでも果が生じての因であって、また縁がない限り果は生じませんので、この意味からもそれは馴染まないと思います。
更には、包丁の喩を出しましたが、包丁そのものは無記であるように、種子も無記ですから掛かる意味からも馴染みが無いも思うんです。
また、例えば川の源流から水が流れている場合、下流で毒が流されて毒水となった場合、それは源流から生じてるといえるでしょうか?
同じように、阿頼耶識は川の源流のようなものですし、虚妄は末那識や意識で生じるのですから、その言葉は馴染みません。 410 自分:鹿野園 ◆VupYVVGZXxPO [sage] 投稿日:2020/07/22(水) 20:30:19.08 ID:GQR5qNtD [5/17]
>>392
先ず、阿頼耶識は ”無覆無記(唯識三十頌)” であって、 種子と阿頼耶識の関係は ”不一不同(摂大乗論)” とされています。
掛かる意義において唯識では種子は無記とされております。
また、無記というのは異熟性を云うのですが、これについて説明しましょう。
世間では悪因悪果・善因善果と云いますが、これは間違えで、正しくは善因楽果・悪因苦果なのはご存知だと思います。
なぜなら、悪因悪果ではその悪果の悪が因に転化(刹那生滅による業の相続)し、再び悪因悪果となり未来永劫繰り返すことになってしまうからです。
つまり、これは阿頼耶識が現量であることにも関わって来るのですが、善悪の行為として阿頼耶識に薫習された種子は、異熟により無記化するって事なんです。
要するに悪因悪果として永劫に繰り返すのではなく、一旦は結果とし成熟し(悪因苦果)て清算され、その後、再び刹那生滅異熟展開していくという事です。 428 自分:鹿野園 ◆VupYVVGZXxPO [sage] 投稿日:2020/07/22(水) 22:14:37.56 ID:GQR5qNtD [17/17]
1.漢文
是無覆無記 触等亦如是
2.読み下し文
是無覆無記なり。触等も亦た是の如し。
3.翻訳(中公文庫版71p)
その(アーラヤ識)と一体になって存在している感情は、全く平静(なる感情)(捨)であって(楽でもなく苦でもなく)、
そうしてその(アーラヤ識そのもの)は(倫理的に)無性であってかつ(根本無知などにも)覆われていないのである。
漢文の文章は非常に短くとも様々な意味がその中に含意されているんですよ。
さて、
>一体となっている感情が
阿頼耶識が所縁によって見分と相分に分析されて感情になるって事で、両者の関係は非異非同って事です。
>全く平静(なる感情)(捨)であって(楽でもなく苦でもなく)、
その所縁によって種子から現ぜられた相分である感情が、平静と見分されているんです。
平静、つまり楽でもなく苦でもなくって事ですが、これは分別をしていない見分が現じられている、則ちこれが現量でしょ?
ここで、現量の定義と照らし合わせると
直接知覚。現前にある対象の非言語的な認識。
任運にして無分別なり
諸分別の行解を離れて任運の境の事相に敵う
境に任せてこれを縁ずる
上記とまさに合致してると思いますけどね。
上記を要約すると、境に任せてこれを縁じて無分別にして事相に敵うとなるでしょが、阿頼耶識が境に任せて、つまり所縁に依って見分と相分に分析されて、無分別、平静(楽でもなく苦でもなく)であると。 >カントは我々主観の側が世界を了解する時、因果関係という形式のなかで了解していくのであって、それは悟性という主観が、世界を捉えるときの形式なのと説きます。
>(成唯識論を読む 竹村牧男) 大型連休は何かテーマを決めて本を買って読み込むんだけど、今回はお財布事情が厳しいw
キンドル読み放題です我慢だなw 宗教板は真性のキチガイの集まりだな。
異常だよ、狂ってる。 解深密経(中期大乗経典) 三時の教判
識の所変 〜 識体転じて二分に似る。...その二分に依って我法を施設する。(成唯識論) 想とは、境の上に像を取るをもって性とし、種種の名言を施設するをもって業となす。(成唯識論) 1.シャーンディリヤ
心臓の内部に存するこのわがアートマンは、米粒よりも、麦粒よりも、芥子粒よりも、黍粒よりも小さい。
…心臓の内部に存するこのわがアートマンは、地よりも大きく、空界よりも大きく、天よりも大きく、これらの世界よりも大である。
かれのうちに、一切の行動、一切の願望、一切の香り、一切の味が存する。かれはこの一切を自分のうちに包含している。かれは語らず、かれは悩むことがない。
─これ、すなわち、心臓の内部に存する、このわがアートマンは、このブラフマンである。
わたしは、この肉体を離れたときにこれと合一する。このように意向のさだまったものにはなんの疑惑もないであろう。
─と、このようにシャーンディリヤは言った。
(チャーンドーギヤ・ウパニシャッド)
2.ウッダーラカ・アールニ
わが子よ、蜜蜂たちは蜜を作り、いろいろな木の花の液汁を集めて、これをひとつのものとする。
それらの花の液汁がそのひとつのもののなかで、『わたしは、これこれの木の花の汁である』『わたしはこれこれの木の花の液汁である』と弁別されないのと同じように、わが子よ、この世のあらゆる生きものは有に入ったとき、『わたしは有に入っているのだ』と知らないのである。
…この微細なるもの、この世のすべてのものはこの有を本質としている。それが真実に存在するものである。それはアートマンである。
シュヴェータケートゥよ、汝はそれである。
(同上)
3.ヤージュナヴァルキヤ
アートマンとは不滅のものであり、本性上破壊されないものである。
(中略)アートマンについては『に非ず、に非ず』としか言えない。
それは捉えることができない。なぜなら捉えようがないからである。それは破壊することができない。なぜなら破壊しようがないからである。
それは執着することができない。なぜなら執着しようがないからである。それは束縛されることもなく、動揺することもなく、害されることもない。
ああ、どうやって認識するものを認識できるであろうか?妻よ。不死というのは、こういうことなのである
(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド) 「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマニカーヤ 中部経典22) 四〇
ここなる人が苦しみを見ないというのは、見ない人が(個人存在の諸要素の集合が)アートマンであると見ることなのである。
しかし(すべてが)苦しみであると明らかに見るときに、ここなる人は「(何ものかが)アートマンである」ということを、つねにさらに吟味して見るのである。
(ダンマパダ 中村元訳) 初期仏教では、決してアートマンを認めていなかったわけではありません。倫理的な行為の主体として、自己(アートマン)を積極的に認めていたのです。 自己(アートマン)が善悪の行為の主体であるからこそ、修行者は真の自己を求めて修行に励み努めなければならないのです。
(ブッダ伝 中村元) ブッダは、我(アートマン)を形而上学的に実体視することを極力排除しました、ただし、「自己に頼れ」というときの自己(アートマン)は、実践活動の主体としての我、自己自身として認めていました。
(ブッダ伝 中村元) >>740
初期仏教では、決してアートマンを認めていなかったわけではありません。倫理的な行為の主体として、自己(アートマン)を積極的に認めていたのです。 自己(アートマン)が善悪の行為の主体であるからこそ、修行者は真の自己を求めて修行に励み努めなければならないのです。
(ブッダ伝 中村元)
https://i.imgur.com/LFBWpXf.jpg
ブッダは、我(アートマン)を形而上学的に実体視することを極力排除しました、ただし、「自己に頼れ」というときの自己(アートマン)は、実践活動の主体としての我、自己自身として認めていました。
(ブッダ伝 中村元)
https://i.imgur.com/ArtlwRH.jpg >カッチャーヤナよ、「あらゆるものがある」というならば、これはひとつの両極端である。
>「あらゆるものがない」というならば、これも第二の両極端である。
>人格を完成した人は、この両極端説に近づかないで、中〔道〕によって法を説くのである。
>(『サンユッタ・ニカーヤ』 中村元 仏陀伝より)
>五種の構成要素(五蘊)を、〔アートマンとは異なった〕他のものであると見て、アートマンであるとは見ない人々は、微妙なる真理に通達する。──毛の尖端を矢で射るように。
>(『テーラガーター』 中村元 仏陀伝より) 同じ共通性をもったものを「同じもの」として認識して、ひとくくりにするカテゴリーが生まれるとき、「ゼロ」が活動し始めています。
この「ゼロ」は概念化されたものでなく、ニューロ系の物質過程の中で自然に発生する、概念以前の「ゼロ」です。
人間はのちにその働きを「ゼロ」という概念として自然の内部からつかみ出すようになりますが、それは人間のこころがすでに「ゼロ」の働きによって稼働しており、無意識にその存在を知っているからです。
ここにもニューロ系とこころ系の同型性を見出すことができます。
ニューロ系もこころ系も、「ゼロ」の基礎の上に形成されているのです。
中沢新一.レンマ学(Kindleの位置No.4107-4113).講談社.Kindle版. ホモロジーはニューロ系にもこころ系にも、自然なかたちで適用可能な数学です。
生物は感覚ニューロンにおいて、すでに情報の縮減をやっています。
ニューロン発火にあらわれる同じパターンの反復を無視する(ゼロとみなす)ことによって、感覚領域でカテゴリー形成をおこない、さらには記憶の基礎を固めています。
いわば神経回路全体が、ホモロジーをアルゴリズムとして動いています。
中沢新一.レンマ学(Kindleの位置No.4209-4212).講談社.Kindle版. 仏教は二千五百年も前に、すべての意識作用(こころ)をもつ存在を「有情」と呼び、有情のこころの本質を「空」としてとらえていました。
仏教はあらゆる心的現象の解明をめざしましたが、そうした心的現象の基底にはゼロがなくてはならない、と考えたのです。
空、シューニャー、すなわちゼロです。
数のゼロという概念を発見したのはインド人だったと言われています。
ゼロという数もシューニャーです。
数のゼロと空には共通性があります。
しかし仏教思想はその二つの間にある本質的な違いにも、鋭く着目しています。
驚いたことに仏教は、私たちがニューロ系とこころ系のそれぞれで働く「ゼロ空間」の違いを、じつに正確に取り出して見せるのです。
中沢新一.レンマ学(Kindleの位置No.4293-4299).講談社.Kindle 仏教では、この「ゼロ空間」に一種の内部構造を考えます。
それは「縁」に結ばれた無限のネットワークであり、どこにも実体をもつものがないから、その本質は空にほかなりません。
仏教哲学(中観仏教)ではこの空の中に、二つの種類の空がある、と説明しています。
すなわち「なにも生まない空」と「生産性をもった空」の二つです。
「なにも生まない空」はデジタルなゼロのように、それ自身ではなにも生み出さないのですが、ものごとを思考するときに必要な「否定辞」としても機能します。
私たちは情報を流したり遮断したりするシナプスの働きの中に、そのような空=ゼロの働きを見てきました。
このゼロはあたかも内部構造など持たないようにして、否定をおこなうのです。
もう一つの「生産性をもった空」は、こころ系に内蔵された別種の「ゼロ空間」に対応しています。
ニューロ系のゼロが「点」のように広がりを持たないのに対して、人間のこころにおいてあらわに浮上してくるこちらの空では、情報と情報がキアスム(交叉)的に結合することによって、新しい第三の意味が生産されてきます。
こころ系の「ゼロ空間」はじつに巨大な広がりと、複雑な結びつきを生み出すことのできる内部構造を備えています。
その内部構造を幾何学化すると曼荼羅があらわれてくることになりますが、この曼荼羅の根元もじつは、ニューロ系からこころ系までを貫くゼロの作用にほかなりません。
中沢新一.レンマ学(Kindleの位置No.4303-4315).講談社.Kindle版. 意識のゼロ・ポイントであって、同時に存在のゼロ・ポイント。
まさにサーンキヤ哲学のいわゆる「未展開」(avyakta)である。
従って、「已発」とは、意識のゼロ・ポイントから、なんらかの方向に発動した状態における心であり、同時にまた存在のゼロ・ポイントから様々な事物事象として展開した存在界のあり方を指す。
井筒俊彦.意識と本質−精神的東洋を索めて(岩波文庫)(Kindleの位置No.1653-1657).株式会社岩波書店.Kindle版 >>97-98
寂しい人が、宗教ネタに寂しさ解消する場所。 >>99
そうかもしれませんね。
私は学舎を出てオアシスにまで本を持ち込んでガチガチなのかもw >>100
学舎とは?
わたしも本が大好きです、本が人生そのもの。
古代からの知恵がありますからね。
よくブックオフに行きます、それでこのスレを覗いてみました。 >>101
寂しさや心の癒し、心のオアシスを求めてスレに来られた方に対して、仏教辞典等を引いて応じていたのかなぁ、とw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています