色即是空の誤り
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「色即是空空即是色」というのは間違っている。
「色即是空空即是色」とは「有は無であり、無は有である」という意味である。
だがそもそも無はないのだ。ないから無なのだ。無はあり得ないのだ。
だから「有は無であり、無は有である」ということはできないのだ。
それを考えたやつは無の徹底した何もなさというものを甘くみたやつだ。 >>221
(^。^)その点には同意しかねますが、杞憂でしたら失礼しました。ノシ こら承狂
おぬし宝珠がおらんようになって
寂しんじゃろ?
正直に言うてみい^_^) >>225
仏教などに頼りすぎとるからおぬしはそこまでおバカなんじゃ
2000年以上も前のテキスト後生大事に拝んでおるのは
滑稽じゃと自分で気付かんのか?
ああすまんすまん
気付かんからそんなことになっておるんじゃったな^_^) スレタイの色即是空の誤りとは
なんとも象徴的で笑えるのう^_^) >>226
仏教スレで言うべき事かよ? ど馬鹿 笑
一人で300レスもする基地害に他人の事をとやかく言う資格は無いわ >>228
ほう
おぬしにはその資格があると申すか?
どこでその資格取ってきたんじゃ
教えてくれんかのう^_^)
何級じゃ? >>228
自覚せよ
お釈迦様が言うておられたことじゃぞ
筏は乗り換えよ
覚者の指を拝むでない
おぬし何にもわかっとらんじゃないか
何が原始仏教じゃ( ´,_ゝ`)ププッ >>230
そんなのはマスターしてから言う事だ
それと筏を乗り換えよじゃなくて筏を捨てよだ
完全に悟りきる手前の修行者に向けて言った言葉で釈迦でも阿羅漢でもないしがないオッサンが猿真似して意味も判らずに言う事じゃない
俺が悟りに近くてお前がブッダなら別だが在家の偽僧侶ごときに他人様を導ける訳無いだろ?
戯れ言は自分の息子とでもやっとけよ >>231
おぬしこそ在家じゃろうが
密教のなんたるかも知らんくせにようそんなことが言えるのうw
筏の喩え?バカじゃのう
そんなことわかっておるわい
筏を捨てて我が身だけで高められるほど人はいきなり成熟はせんのじゃ
教えは応用するのじゃ
後生大事にお釈迦様の言葉を崇めておるからそういう発想になるんじゃ
おぬしの文章がそれを全部物語っておるではないか
これ以上何言うてもおぬし恥を晒すだけじゃぞ
もうわしに挑むのはしばらくやめておけ
おぬしも大山同様三百万年ほど阿字観でもしてから
つべこべ言うてみるがええ^_^) >>232
筏を乗り換えよと間違えたのはお前だろ?
それに此処で頼みもしないのに挑んで来たのもお前
負け惜しみなのか 本当に頭おかしいのか知らんが いっぺん病院行けよ
越法でもやって頭やられたのか? >>233
またとんちんかん言うてますよw
もう本当にやめておけってwww >>234
お前が止めれば済む話だろうが? 基地害 笑 密教の何たるかを知らんとか他人を批判しときながら密教用語を知らないとかガチの馬鹿かよ?
釈迦の言葉は間違えるし ハッタリにも程がある >>237
悟りきったようなキャラが完全に崩壊しとる >>207
無分別というのも理解しかねるところです。
あらゆるものが移ろうものだと認めたとしても、有る時点においてリンゴと人間は区別できます。
あらゆるものの縁起を認めたからといって、無分別を認めることにはならないはずです。 >>213
ここの論理も飛躍があると思います。
例えば、親がいなければ子供は産まれない。しかし、一旦産まれてしまえば、親が死んでも子供は消えません。 >>215
> 仮性の世界ないし宇宙が滅んで何も無かったとしても空性は存続してる訳です
そうでしょうか?空は有でも無でもないのだから、の世界ないし宇宙が滅んで何も無い状態ではないのでは。
> 現に経名を出しても該当箇所を探せない 出して見せても その裏付けになる経典を読んで無いから認識の共有が出来ないでしょう?
あなたが提示された箇所を読んでも「理の前提となる世界が存在しない」に対応する記述は見当たりませんでした。
で、説明したくないならそれで結構です。依頼はしていますが、対応してもらうよう強制はしていませんし、ネットの掲示板で強制できるはずがありません。
強制されていないのだから、対応の必要がないと思うなら対応しなければいいだけです。
いちいち不愉快なコメントをするのは無意味であり、不愉快になるだけです。 一六〇 自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
部分抜粋ですが釈迦は心の作用する所を主と見ているようです。
始原の始を無記とするのは形の無い心の故かも知れません
何故なら人は自らの心の為す様に世を見るからです
それ故に空性の心を空の最奥に見るが故に無記としたのでは?
体験とか感性によるものは言葉に出来なかったと言う事でもあるかも知れません >>241
例えば花は自分で受粉出来ないので蜜を出す事で虫を引き寄せて受粉させます
この時に互いの存在が互いを成り立たせていますね?
親子関係で言えば一人なら死んでも構わないけどこの子がいるから この子の為に生きて行こうと感じる親が大半だと思います
つまり子供は親無しには存在出来ないけれど親もまた子供無しにはいられない相依性があります
無限の輪廻の中に於いては子が親になる事もあれば夫が妻になる事もあり 根本的な関係性はその時々の生に限定されません
相依性と言うのは一つだけではなく身の回りに起こるあらゆる物事との間に存在します
例えば精子や卵子だけでは受精卵は形成されませんので互いに依り掛かって存在します
単独で存在が成り立たないものは皆相依性が有ると言えます
通常自分の意思で何もない空中から生まれて来るものは有りませんよね?
原因と縁と言い換えてもいいけど原因だけで結果になる事もなく 結果との間にも相依性があってそうなるプロセスがある訳です >>242
あなたが見えてないだけですよ
宇宙が滅んで 次の宇宙が生まれる迄の間が語られていないのですから その間は認められるものが存在しないと見るのが妥当です >>217
ふん
茶化されたと思い込むことで逃げるおつもりで(´・ω・`)? >>218
なんで俺と絡んでくれんの?
俺のこと嫌い(´・ω・`)? >>244
親がいなければ子供は産まれない。しかし、一旦産まれてしまえば、親が死んでも子供は消えません。
ということに対する回答になってるとほ思えません。
そもそも、縁起は相互依存ではないという解釈が主流では。 >>245
宇宙が滅んで 次の宇宙が生まれる迄の間に何もない状況があるとは書かれていないのだから無の状況などないと考えるべきでしょう。
そもそも無から何かが生じるということはないというのが仏教の立場では。 >>246
明白に茶化してるのに茶化して無いと偽る気か?
自語相違を言い逃れるか?( ̄ー ̄)
>真言宗氏よ
>お前は、もう瞬殺されている・・・・mg(´・ω・`) >>248
親の生死の時期に関わらず 生まれたものは必ず死ぬので設問自体が成り立っていません
どの立場を主流と設定されているのか存じませんが 現存する仏教は皆支流ですよ
http://www43.tok2.com/home/kyotowalk/machi_office/buddhism/konpon_shiso/konpon_shiso.html
この世に存在するあらゆるものは、他と関係し合って成り立っている。
他と関わり合って成り立っている。
他と共存する形で成り立っている。
このような概念を仏教分野では「相互依存関係」や「相依関係」という。
この「相互依存関係」という表現については説明が必要である。 科学分野と仏教分野では「相互依存関係」の意味が大きく異なる。
あることが起こると、どのような影響が生じるかを分析する科学分野では、複数個の変数が「互いに影響し合う関係」になっている場合に「相互依存関係」という用語を使う。
一方、仏教分野における「相互依存関係」は「他との関係で成り立っている」「単独で成り立っていない」「自立していない」といった意味で使われている。 >>252
ポイントがずれてて会話が成立していないので、この点についてのやり取りは終わりにしましょう。 >>249
何もない=無では有りません
仏教では有無の二見は共に邪見として斥けられていますから 有無のどちらかの見地に立つのは仏教ではありません
見地が異なるのに肯定または否定をするのは時間の無駄だと思われます
興味がお有りなら何れかの部派や宗派で学ぶか仏教系の大学で聴講する方法も有りますからね
情熱は生産的な方へ向けた方が良いですよ
此処の半分は宗教廃人の集い場ですからね >>254
無が何もないのでなければ無とは一体なんだと思ってるんですか?
「わしは知っとる。じゃが教えん。」
リアルでこういうことは言わないほうがいいですよ。 仏教は論理的飛躍があって緻密さに欠ける印象です。
有る、生、滅などが一般的な認識とは異なるのならそれでもいいです。しかし、であればどのような意味として用いるのかは明確に定義すべきでしょう。
それをせずして、有ると思っているのは修行が足りん。それは有るではない。有るの定義は示せないが、有るではない。無でもないぞ。無の定義も示さない。
そんなことをやってる印象です。これでは論理的な思考とは言いがたい。 >>253
そうですね
もう少し基礎を学んでからにしてください >>256
論理が矛盾しても、それを素直に受け入れる姿勢が仏教(・ω・`) >>255
無は何もないで合ってますよ
しかし意味通りなら無それ自体が存在しないのは古代ギリシャの哲学者でも気付いていた事です
仏教は更に突っ込んで絶対的な無が存在しない事で絶対的な有も存在しないと考えます
この有でも無ければ無でもない状態を表す言葉としてシューニャ(ゼロ)が当てられ 漢語で空と訳されました
数量に於いては存在しなくてもゼロが無ければ何も成り立ちません かといってゼロが有っても矛盾してしまいます
教えないのではなく考え方の基礎が出来ていないので教えようが無いのですよ
人智を超えた天才でもない限り 急には無理ですから時間を掛けて焦らずに進んでください
出来れば私達の様な在家ではなく正式な教師資格を持った僧侶の方が良いと思います
特定の宗派に拘らず出来るだけ広く見聞すれば大同小異が見えて来ます
神を主体とする宗教とは根本から枠組みが違うので価値観の転換も必要です
共通の認識基盤に立っていない以上 対話は困難であるとお考えください >>260
釈尊が悟って数字の「0」を発明したんや
俺の説パクんな(´・ω・`)笑 絶対的な有ると無いは共に存在しないと再三言ってるのに…
意思疎通が困難な方は議論されない方が良いですよ
相手の言うことを理解出来ずに噛み合わない問答に終始するだけですからね
最低限の基礎を学んで認識基盤を共通化して貰わなければ対話以前に認知の齟齬が埋まりませんので 子供に教える方がずっと簡単ですからね
対論が主意なら理解は不可能なので自分で可能な限り基礎知識と用語を学んでくださいとしか言えません
仏教を称する団体の中でも一部そういう方達はいますから学会とかそちらの方が合うのかも知れませんね
今のままでは殆どの仏教団体と会話がすれ違うだろうとは言って置きます >>262
有る、無い、どっちでもいい
子供にでも分かる論理やろが(´・ω・`)笑 >>263
これは同意せざるを得ない。
永久不変なものはない。
何もない訳でもない。
変化するものがある。
こんなことすら説明できないのは言語能力が低過ぎる。 >>261
空が数学に取り込まれたのは大分後で仏教の影響かどうかは不明や
龍樹の頃なら有るかもやけどな >>263
有無の二見は共に邪見や
数十回は言うてる >>240
それ自体(自性)としてのリンゴが有ること(実有)は認めませんが、縁起による現象としてリンゴが有る(仮有)はもちろん認めます。
色即是空空即是色とはそういうことでもあります。
仮有・実有
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BB%AE%E6%9C%89%E3%83%BB%E5%AE%9F%E6%9C%89
>さまざまな存在を分析し、それ以上分類することができなくなったものこそ実有なるものであり、そのようなものごとの構成要素を法(Ⓢdharma)という。
>アビダルマではこの法を実有と考え、法が結びついて存在する現象を仮有と考える。
>大乗仏教ではおおよそアビダルマでの法を実有と認めず、あらゆるものごとは空、すなわち名称のみの存在であり、実体を欠くとする。
大乗仏教は一切の法は空で実体を欠いている(自性が無い)ので、一切の法にはこれといった特徴がありません。
なので無分別であり平等です。
>>241
親が死んでも子はその親の子であるということは変わりません。
二人の間柄での親という名称、子という名称には変化はありません。
因緣も亦た空なり、因緣の定まらざるが故に。譬えば、父と子は、父より生ずるが故に、名づけて子と為し、子を生ずるが故に、名づけて父と為すが如し。
(大智度論三十一巻) 無なるものは永久不変である
有なるものは変化変滅を繰り返すものである
有が有として在るには無が開けてなければ成らない
無を認識するものは心である
有るものが在るものとして躍動するのは
無をも認識する自在の心が故である
無と有は同時に在るそれが故に空である
心が何処から来たかは誰も知らない
ただ賢者はこの世で受くる苦の滅法を説き
ニルバーナの境地とその先を提示した
この世で知り得ぬ知識を知る資格は一度
この世を離れるしか方法は無いのかも知らんね
信じるか信じないかはあなた次第 >>270
>無を認識するものは心である
無が存在するとか無を認識できると主張するのはヴァイシェーシカ学派のようなヒンドゥー教であって仏教ではそのように言わない >>249
[世界の帰滅]
一〇、「ヴァーセッタさん、長い期間が経過した後、いつかこの世界が消滅するときがやってきます。
世界が消滅するとき、大部分の生ける者たちは光音天(アーバッサラ神の世界)に転生します。
そこにおいてかれらは心より成る存在であり、喜びを食物とし、みずから光を放ち、空中を歩き、浄福にひたりながら、きわめて長い期間、生き続けます。
ヴァーセッタさん、長い期間が経過した後、いつかこの世界が生成するときが再びやってきます。
世界が生成するとき、大部分の生ける者たちは、[85]光音天での生存を終えてこの世界にやってきます。
かれらは心より成る存在であり、喜びを食物とし、みずから光を放ち、空中を歩き、浄福にひたりながら、きわめて長い期間、生き続けます。
一一、ヴァーセッタさん、そのときは一切は水の状態で暗くなにも見えない闇のなかでした。
月も太陽もなく、星宿と星の光もなく、夜も昼もなく、暦の月も半月もなく、季節も年もなく、女も男もありませんでした。生ける者たちはただ生ける者とだけいわれていました」
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=951429&id=30601040
光音天の世界に転生している間のこの世界がどうなっているかについては何も語ってはないですが、何も語ってないということは生成までに起こった何もなかったと見做すのが一般的かと思います。 >>272続き
しかし、>>181のパーティカ経でのブッダの発言からすると上は
バッガヴァよ、一部の沙門婆羅門は、自在天による所作、梵天による所作を、師伝なる世界の起源として説きます。
という起源説の一つで、しかもブッダはこの説に固執はしてはいないとのことです。
(以下パーティカ経引用)
またバッガヴァよ、私は世界の起源を知っています。
それを私は知り、またそれよりすぐれたものを知ります。しかしてその知見に執着しません。そして無執着のゆえに、私にはじつに内心の寂静が知られるのです。その証知ある如来は、災いに遭うことがありません。
バッガヴァよ、一部の沙門婆羅門は、自在天による所作、梵天による所作を、師伝なる世界の起源として説きます。
私は彼らへ近づいてこのように言います。『あなたたち尊者がたは、自在天による所作、梵天による所作を、師伝なる世界の起源として説くといいますが、まことでしょうか』と。
私にこのように問われた彼らは、『然り』と認めます。
私は彼らへこのように言います。『しからば、いかに整えられたものとして、あなたたち尊者がたは、自在天による所作、梵天による所作を、師伝なる世界の起源として説くのでしょうか』と。
私に問われた彼らは答えられず、答えられないまま、私へ反問します。
問われた私は、彼らのうちで答えます。
『友等よ、いつの時にか、長い時代が経過して、じつにこの世界が滅亡するような時期となります。 世界が滅ぶ時、ほとんどの有情たちは光音天に転生するものとなります。
(以下長々と自在天梵天起源論を沙門婆羅門に解説)
このように整えられたものとして、あなたたち尊者がたは、自在天による所作、梵天による所作を、師伝なる世界の起源として説くべきなのではありませんか』
彼らは、このように言います。『友、ゴータマよ、まさしく尊者ゴータマが仰るとおりに、我々は聞きました』と。 >>270
「中論」第一五章 <それ自体>(自性)の考察
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9529952
七 カーティヤーヤナに教える【経】において、「有り」と「無し」という両者が、有に無とを説き給う尊師によって論破せられた。
八 もしも本性上、或るものが有であるならば、そのものが無はありえないであろう。何となれば、本性の変化することはけっして成立しえないからである。
九 【物の】本性が無であるとき何物の変化することがあろうか。また本性が有なるとき何物の変化することがありえるであろうか。
一〇 <有り>というのは常住に執著する偏見であり、<無し>というのは断滅を執する偏見である。故に賢者は<有りということ>と<無しということ>に執着してはならない。
一一 <その本性上存在するものは、無いのではない>というのは常住を執する偏見である。<以前には存在したが、今は無し>というのは断滅を執する偏見となるであろう。
無だけではなく有でも変化はしないと龍樹は説いています。
有だと常住論に陥るということでしょう。 >>269
> 名称のみの存在であり、実体を欠く
これがおかしいんですよ。動物に言語を認めるのか不明ですが、例えば猿がリンゴを掴んで食べるとき、丸い物体を掴み、それを食べるということは認識しているはずです。
つまり、言語や名前がなくてもリンゴにあたる丸い物体は実在しています。 いえありのままに言うならそのままです
無は無のままに広がっているいつでも誰の回りにでも
認識出来ないから無いとは言わない
それともそこに見えない壁や岩でも仮定できますか?
有る所に別の有るものをそのままに置けない
もしも置くのならそれは別の何かに壊れて変化する
認識出来なくても無は無のままに我々は利用する
単純にそれだけの話し無は無のままにただ広がり在るものです >>269
後段については、前段と矛盾しているように思います。
前段では名前には意味がないと言ってるのに、
> 親が死んでも子はその親の子であるということは変わりません。
> 二人の間柄での親という名称、子という名称には変化はありません。
はないでしょう。名称の話として、
「一旦産まれてしまえば、親が死んでも子供は消えません」
と言ってませんし。 >>276
完全にヴァイシェーシカの無の実在論ですな >>272
世界が消滅するとき、大部分の生ける者たちは光音天(アーバッサラ神の世界)に転生します。
と言ってるんだから、無じゃないでしょう。 >>273
あれこれ説いておいて、結局神とか出しちゃうの?というがっかり感。
神も空でしょ。神は有なの?え?
散々説いていた空はどこ行った? >>274
無と有の定義が違うだけのように思えて来てしまいます。
お互いに定義を合わせた場合、違いがあるのか不明です。
変化するものがあることを「有」と呼ぶ人に対して、「有」は永久不変だ!と返しているだけのようです。 逆に、説一切有部は永久不変の要素があると主張しているんですよね?
どうして、説一切有部はそれにこだわったのでしょうか?
普通に考えれば変化するものがあると解釈するはずです。また、そのような立場で有を認識する立場も当然あると思いますが。 >>278
ふうん・・・まあ良いけど
実在するもしないも人の認識の都合ですね
ただし実在なら実在とぶつかるからこれまたおかしい
領域として扱える無は無じゃないとでも? 「無」が有るとか「無」が存在するという表現が矛盾するのが解らないのかな? >>284
矛盾はするが人の認識はそれを解消する
無は無のままに変化の有り様も無い
矛盾して困るのは表現としての言葉の上だけでの事でしょうね >>282
我々は世界は宇宙は、有ると同時に無いからさ
そもそも矛盾しとるんや(´・ω・`)ハナホジ >>286
仮定としての認識はしたかな?
完全に認識しようとしたら突然恐ろしくなってやめた
なんとも形容し難いものに自身が塗り潰されて消える感覚とでも言うのかな?
それ以来難しく考えずにただの領域として考える様にしています >>289
「無でも有でもない」よりはよっぽど普通だと思うが。 >>275
ですから仮有として実在していることは認めていますよ。
>>277
何も矛盾はありません。
徳川家康は徳川秀忠が生まれた時から徳川秀忠の父であり、家康が死んでからも徳川秀忠の父であり、今日でも徳川秀忠の父と呼ばれるのには変わりありません。
徳川秀忠は徳川秀忠が生まれた時から徳川家康の子であり、家康が死んでからも徳川家康の子であり、今日でも徳川家康の子と呼ばれるのには変わりありません。
>>279
無であったとは言ってないですよ。
生成までに起こった(ことは)何もなかった、と言っています。
※ (ことは)、は記入漏れ
>>280
神とか出してるのは沙門婆羅門ですよ。
ブッダは貴方達の言う起源説は自在天や梵天による所作でしょう、とうろ覚えな沙門婆羅門に逆に教えているというわけです。
>>281
仏教の経論の中において有が空と対して使ってある場合には、その「有」は、きわめて広汎なかつほとんど無内容な「有」の概念を意味するのではなくて、「実有」の意味に解して良いと思う。
有と無とは、思惟一般にとって不可欠な基本的な概念であり、あらゆる哲学思想に共通であるけれども、実有と空とは全く仏教的な概念であるといいうる。
(中村元)
ここは、仏教とくにスレタイがそうであるように空論ついてのスレなので、有の定義は実有で良いと思いますが。
「中論」第五章 要素(界)の考察
六 有(もの)が存在しないとき、何ものの無が存在するだろうか。有とも異なり、無とも異なる何人があって有無を知るのだろうか。
※有と無はそれぞれ独立には存在しえないで、互いに他を予想して成立している概念である・・・ 有と無との対立の根底に「相互依存」を見いだした・・・
七 それ故に、虚空は有(もの)でもなく、非有(無)でもなく、特質づけられるものでもなく、また特質でもない。そのほかの五つの要素(地・水・火・風・識)も。虚空の場合と似ている(同様であると考察すべきである)。
八 しかるに、もろもろのものの有と無とを観る愚者は、(見=固定概念の故に)経験されるもろもろの対象がやすらぎに帰し、めでたいありさまを、見ることがない。 >>291
> ですから仮有として実在していることは認めていますよ。
そんなことは分かっています。
「無分別というのも理解しかねる」に対して、あなたが名前を持ち出したんでしょ。
それに対して、名前なんて関係ないと指摘しました。 ふつうかどうかは関係ない
あなたは無を認識したんじゃなくて無を想像したんだ >>291
> 徳川家康は徳川秀忠が生まれた時から徳川秀忠の父であり、家康が死んでからも徳川秀忠の父であり、今日でも徳川秀忠の父と呼ばれるのには変わりありません。
ここでは、名前…。名前と存在は関連しないと主張してるくせに一貫性がありません。 >>291
> 生成までに起こった(ことは)何もなかった、と言っています。
それは、世界に生も滅もないんだから物事が空なのは当然でしょう。
そもそも無などないというのが仏教の立場だというのは、あなたがおっしゃったことです。 >>291
あなたが有をどう定義されても構いませんが、一般的な用法としては変化するものについて「ある」と言います。
通常の意味での「ある」と言っている相手に対して、永久不変のあるではないと返すのは会話として成立していません。
そして、
永久不変のものはない 「実有」
変化するものが縁起する 「仮有」
として、一般的な人の言う「ある」を仮有に対応させた場合、仏教の独自性はあるんですか?
特殊な言葉遣いをしてるだけのようにしか思えないのですが。 >>291
もっと分かりやすく言えば、
「ある」といった場合にそのものが永久不変だと考えていることはまずあり得ないでしょう。
永久不変だなどとは誰も意図していないのに、「永久不変ではないからあるではない」といちいち訂正している印象なんですよ。 >>292
まだ色即是空空即是色が理解できてない様子
後得智
でぐぐりましょう
>>294
徳川家康と秀忠は例えであって、誰でも良いのですよ。
だいたいにして父と子というのも名ですし。
その父と子という名は相依関係にあり、それが中観派にとっての「これがあるとき、かれがあり、これが生ずることから、彼が生ずる」の縁起の解釈であるということです。
(注)「父が滅したときに子も滅する」などと間違って解釈しないように注意願います。
>>295
>>242
>そうでしょうか?空は有でも無でもないのだから、の世界ないし宇宙が滅んで何も無い状態ではないのでは。
空は有でも無でもないのだから、の世界ないし宇宙が滅んでも空性は保たれている、が貴方の考えでよろしいですね。
>>296
仏教についてのスレですから仏教の定義を第一義とするべきです。
そうでないと話が噛み合わなくなります。
有無
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%89%E7%84%A1-35201 >>270
>無なるものは永久不変である
>有なるものは変化変滅を繰り返すものである
これも仏教では、空なるものは変化変滅を繰り返すものである、となるでしょうね。
改めて
「中論」第五章 要素(界)の考察
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9507413 >>298
うーん。言葉遊びをしているだけ実態がないという印象です。
用法を明確に提示しても、「自分の定義はー」と繰り返してるだけで無意味に思えます。
まさに、
「変化するものがあると日常では言うよね」
「いや、それは有ではない」
「分かった、分かった。でも、日常的な用法でのあるは分かるよね?」
「いや、それは有ではない」
延々それの繰り返しで話がまったく進まない。 まあ、仏教は不明瞭な説明しかできてないんだろうなあ…。
実際、仏教が宗派に分かれてしまっているのが、その証拠。
合理的な説明をできず、思想的な進歩も発展もないのだろう。
ブッダが現状を知ったら嘆くと思う。
世界の理を理解するのが本来の教えなのでは。
自分の中でちゃんと理解せずに、権威や妄信に堕落してしまっている印象。 「ここに、りんごがある。」
「あることはない。」
「ん?どういうこと?」
「変わるものはあるではない。」
「りんごは永久にはないね。知ってる。」
「ないでもない。」
「うん。ないではないね。」
「…」
「で?」
「それが空。」
「なるほど…。」
こんな感じ。独特の用法を剥がすと、あまりにも平凡で「知ってる。」「もともとそんな意味で言ってないし」という印象になる。
そこから引き出す真理だったり、新たな視点みたいなものはないんですか? >>302
それこそが「あるがままの」(ヤター・ブータ)真理であって「りんごの無が存在する」、「無そのものが存在する」etc.の「新たな視点」を引き出すのは妄想 >>303
小学生だって永遠に不変のものが存在しないなんてことは知ってますよ。
現実世界で永遠に不変のものなんて見たこと有る人は誰もいないでしょう。
そんなんで真理と言われてもねえ。 >>304
>現実世界で永遠に不変のものなんて見たこと有る人は誰もいないでしょう。
その通り
だから無が存在するのは妄想の世界だけ >>304
その通りじゃ
そのままでは真理でも悟りでもなんでもない 色即是空空即是色は悟りによって得られた世界を
言葉という不完全な道具でなんとか表現したにすぎん もとよりちゃんと表現できておらんのじゃ
それを空即是色は間違いとか言い出す方がとんちんかんなんじゃ
話のレベルが違うのじゃ
間違いじゃと言い出す者は、おそらく悟っておらんし、
木を見て森を見ずの状態になっとるということじゃ というわけで>>1の太上天君は赤っ恥なのじゃ
もうスレッド削除依頼出したい気分じゃろうて >>293
「無」=「0」が存在せんとコンピューターは動かん
「0」と「「1」の二進法でコンピューターは動くからの
「0」を想像した釈尊が如何に偉大かわかるやろ?
そしてコンピューターで計算せんと原子爆弾は設計できない
大量破壊兵器の基礎を作りあげたのも釈尊や
世の中を便利にしかつ破滅させるのも「0」という悟りを想像させた釈尊や
くわばらくわばら(´・ω・`)笑 >>310
ゼロをつくったのは釈尊ではない。釈尊とほぼ同時代のインドの数学者・ブラーマグプタだ。 >>312
そいつが仏教をパクッだだけやん(・ω・`)わら >>307
いや、だから修行なんてせずとも、永遠に不変のものが存在しないことなんて、小学生の俺でも知ってた。 >>315
何を言うか!
あなたは永遠に不滅です
mg(´・ω・`) >>311
と説いたところで、仏陀も食欲という現世の欲望に負けて、飯を食ってました。
現世に囚われるなというなら食事すんな。
食事しといて何言ってんだ? 「自分などない」ムシャムシャ
「欲望などない」パクパク
「だから自分の食欲などない」ガツガツ
「ほらなくなった」ゲプー >>317
お前、バカか
釈尊は苦行を辞めて悟ったやん
断食なんてアホらしいと(´・ω・`)笑 >>318
アホ
仏教は欲望を無くすことが目的では無い
禁欲するのは俗世間と出世間を分断する為
在俗信者から餌を巻き上げる為に、世間から超越してると演じとんや(´・ω・`)笑 >>321
だからさ、欲なんてないんだろ。肉体もないんだから食欲なんて起こりえない。
肉体がないんだから飯食う必要もない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています