【仏教】 仏教思想について考えるスレ 【思想】
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多元主義の立場から仏教思想全般について紐解いていこう、という趣旨のスレとなります。
1.sage進行でお願いします。
2.包括的な意見は構いませんが、排他的な意見、シンクレティズムはお断りします。 >僧、智門に問う、『如何なるか是れ般若の体 』
>智門云く、『蚌、明月を含む』
>僧云く、『如何なるか是れ般若の用』
>智門云く、『兎子懐胎す』
>(碧巌録第90則 智門般若の体 )
禅宗で交わされる問答は分かりづらい言葉が多いのですが、これは体と用の関係について分り易く書かれてると思います。
体と用を同じではなくまた別ではなく、その関係について言葉の妙というか大変美しく表現されていると思います。 >>2
体と用
恥ずかしながら初耳でした
ググったのですが
悟った人の心が本体
その悟った人の振る舞いが作用
ですか?
もっと勉強いたします(´・ω・`)汗 >>3
そうですね。
体用相というツールを使って仏教を理解するやり方の様です。 世に宗教といわれるものは、他宗教(宗派)との関係において、
1.排他主義
2.包括主義
3.多元主義
4.混淆主義
があると思うんです(意味については其々ご自身でお調べください、4.はシンクレティズムとも言われます)。
仏教は基本的に2.に立場でしょうが、このスレでは3.の立場でお願いします。 無我思想について、ちょっと考える(その1)
”仏教は無我にて候(蓮如)”といわれるように、無我は仏教思想の中核を為すものです。
しかし、その内容については時代の変化があり、我々が一般に存じている無我はあくまでも大乗仏教のそれとなるのでしょう。
勿論、大乗仏教のそれが過ちということではなく、思想の深化や時代の要請に応じた方便という視座から、その思想の変化について簡単にまとめてみようと思います。 >>4
その禅語録の意味を検索しました
体と用は同じである
つまり精神は物質、物質は精神、同じである
この心は肉体が作り出し、この肉体は心が作り出す
肉体と宇宙は同じ物質なのだから、心が宇宙を作り出す
これが仏教の真髄である
すべての禅語録は、この体と用の論理で一貫してる
と言う解釈をしたのですが(´・ω・`) >>5
このスレはふざけず、大真面目に育てようや(´・ω・)
>>6
なぜ3なのですか?
立場を限定する時点で、排他主義的ではないですか(´・ω・`)? 無我思想について、ちょっと考える(その2)
無我思想の変化を考えるとき、前時代の流れを把握しておく事は必須だと思うんです。
お釈迦様といえば古代インド、古代インドの思想の巨人といえばヤージュニャヴァルキヤではないでしょうか。
詳細は省きますが、彼のアートマンは「〜ではない、〜ではない(ネーティ、ネーティ)」思想は仏教思想を知るうえで欠かせないと思うんです。
先般「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち (河出文庫) 飲茶」を読みましたけど、私のようなビギナーには大変分り易いものでした。
ここで、後の無我思想の源流となる部分について彼の著作から抜粋させて戴きます。
>実に、アートマンこそ見るべきもの、聞くべきもの、考えるべきもの、認識すべきものなのだ。
>マイトレーイーよ。ああ、アートマンさえ見られ聞かれ考えられ認識されたなら、万物が知られるのだ。
>(中略)
>この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは捉えることができない。捉えられないから。
>壊れることがない。壊されないから。
>こだわりがない。こだわらないから。
>つながれず、動揺せず、損なわれない。
>ああ、認識の主体を何によって認識することができようか
>(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド) >>8
依りてあるという意味であればそうだと思います。 >>7
無我ではなく、非我という解釈もありますな(´・ω・`)
>>11
つまり否定することでしか我を肯定できない
〜は無い、のでは無く、〜では無い
無我では無く、非我という立場が正しい
仏教は、否定によって我が有ると肯定してる
という立場が正しいのかな(´・ω・`)? >>12
縁起のことですね(´・ω・`)
>>13
OK(´・ω・`)👍 無我思想について、ちょっと考える(その3)
ところで、仏教を学ばれた方は、先のブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッドの引用を一瞥されて あれ? って思われるかもしれません。
そうです、仏教思想の巨人、龍樹が中論で最初に説かれた八不や般若心経等に説かれてる不生不滅の思想との類似です。
さて、本題にかえりますけど、問題となるのは
>ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。
つまり、認識し得ない認識の主体=アートマン(我)の探究ではないでしょうか。
仏教思想はこのアートマン(我)の探究がその起点だと思うんです。 >>16
アートマンの探究をしても釈迦は無理だと思ったのかも
アートマンの正体を捉えることは、原理的に構造的に絶対に不可能だと
だから縁起を悟ったのかも
アートマンも依りて有るんだと
それが五蘊・・・(´・ω・`)?
>>17
OK!👍
すいません、飛ばしすぎで(´・ω・`)汗 無我思想について、ちょっと考える(その4)
>>ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。
>つまり、認識し得ない認識の主体=アートマン(我)の探究
これについて少し掘り下げて考察してみましょう。
我というと誰しもデカルトのコギト問題を想起されると思います。
”われ思う、故にわれあり”ってやつで、西洋哲学の流れにおいての基点探究の末にデカルトが行き着いた結論だと思います。
何故、認識の主体が我なのかは一旦おいといて、認識の主体としての我という点では、ここでは東西の見解の一致をみる訳です。 無我思想について、ちょっと考える(その5)
”我とは認識するものである”という結論に至った過程は他の機会に譲るとして、認識について考察してみましょう。
認識は、眼・耳・鼻・舌・身・意によって受容された色・声・香・味・触・法といえるんでしょうか。
仏教用語でいうと、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)が起こる六境(色・声・香・味・触・法)として認識されるという事でしょう。
つまり、そうした認識をするもの、認識の主体が我という事になるんでしょう。 ×六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)が起こる六境…
○六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)が起き、六境… アートマンとは自性、そのものが本来備えている真の性質という意味もありますな
アートマンである自性は、永遠で不滅
輪廻転生の主体ですな(´・ω・`) 20.認識の主体が、我、である、か。
バカ丸出し、である。
認識しない主体も、我、である、よ。
バカには理解できない。
大爆笑である。 >>19
確かに一致してます
でも、スッタニパータ十四章で
師(ブッダ)は答えた、「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。
これは異色な考えですな(´・ω・`) >>14
我は原因と条件に依って仮に成立しているに過ぎない
基本条件の身体が朽ちれば一旦我は解消され 異なる別の身体に相続される
この原因と条件の結びつきを原因の解消に依って永続的な不再生に依って輪廻から解脱出来ると考え 成し遂げた人がブッダと呼ばれ その教えが仏教と呼ばれた >>25
縁起を悟ると輪廻から解脱できると理解してよろしいですか(´・ω・)? >>20
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ阿頼耶識が識転変して認識する働きがなければ外界も存在しないことになると思うのですけど
>外界(境)を認識する働きを能縁といい、認識される境は所縁といいます。
これは縁起の法である「空・無我」をいいあらわしているのです
認識する働きを縁起として扱っていると思うのですけど ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ龍樹は縁起するものは非自性としていましたね >>26
因縁の具体的な永久分離が完全解脱だと思う 無我思想について、ちょっと考える(その6)
>ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。
>(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド ヤージュニャヴァルキヤ)
さて、認識の主体は何故認識できないのでしょうか?
実は、西洋哲学でも同じような結論に達した方は大勢いらっしゃいます。
例えばカントはこう言ってます。
>「私は思考する」という概念(判断)はすべての概念の乗り物であり、それゆえ、それらの概念とつねに一体である。
>(中略)
>われわれは、この主観をめぐってつねに循環に陥っている。
>すなわち、この主観について何らかの判断を得ようとすれば、われわれはいつでもつねにこの主観の表象を用いなければならないからである。
>(純粋理性批判論 カント)
難しいですね。 無我思想について、ちょっと考える(その7)
例えば ”バスが走っている” とか ”鳥が鳴いている” というのは、 ”「バスが走っている」と私は思考している” ”「鳥が鳴いている」と私は思考している” って置き換えられると思うんです。
で、ここまではいいのですが、これを自己(私)に当て嵌めるとおかしなことが起こるんです。
先程の ”〜と私は思考している” を加えて置き換えられるという前提で ”私は見ている” とか ”私は歩いてる” と言う言葉を当てはめるとどうなるでしょう?
”「私は見ている」と私は思考している” とか ”「私は歩いてる」と私は思考している” となりますよね。
……一つの文章に二つの”私”が出てくるのですが、これは同じものなのかそれとも違うものなのか? 無我思想について、ちょっと考える(その8)
それについて考察してみましょう。
例えば ”「私」は見ている” と ”「私」は見ていない” という概念を同時に持ったとしましょう。
その場合の「私」は見ているか見ていないかのどちらかであり矛盾はありません。
どちらかが偽という事です。
では、 ”私は見ていると『私』は思考している” と ”私は見ていないと『私』は思考している” という概念を同時に持ったとしましょう。
その場合、つまり、「私」は見ているの私ではなく、『私』は思考してるの私が基準になりますので、”私は見ている”と”私は見ていない”が同時に成立してしまい矛盾が生じます。
つまり、『私』の上に ”私は見ていると私は見ていない” が同時に乗っかってるという事です。
>……一つの文章に二つの”私”が出てくるのですが、これは同じものなのかそれとも違うものなのか?
これに対しては上記の理由により矛盾が生じるので同じではないと思われます。 無我思想について、ちょっと考える(その9)
それでは、一つの文章出てくる二つの私、 ”私は見ていると『私』は思考している” の私は別物でしょうか?
後者の『私』を”思考される私”に、前者の「私」を’思考する私’にして考えてみましょう。
……思考する私が思考される私???
これは循環論法です。
”””私は見ていると私は思考している”と私は思考している”と私は思考している”…∞という事になりますからね。
つまり、無限に循環するという事は、最終的な私にたどり着くことは不可能という事です。
>われわれは、この主観をめぐってつねに循環に陥っている。
>(純粋理性批判論 カント)
とはこうした意味となります。 無我思想について、ちょっと考える(その10)
さて、先程の考察から ”最終的な私にたどり着くことは不可能” という結論をみました。
ところで、これ、
>この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは捉えることができない。捉えられないから。
>ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。
って事と同じですよね。
余談ですがサルトルも
>われわれが出会うことのできる唯一の存在は、『認識されるもの』である。
>『認識するもの』は存在するのではない。『認識するもの』は捉えられない。
>(中略)『認識するもの』が、担いうる唯一の性質づけは、まさに、『それは、これこれの対象であらぬ』ということである」
>サルトル 『存在と無』
と述べていたそうです。 無我思想について、ちょっと考える(その11)
さて、前半のまとめです。
>仏教思想はこのアートマン(我)の探究がその起点だと思うんです。
という視座から、先行するインド思想家であるヤージュニャヴァルキヤを中心に考察してみました。
補足しておきまと、先程の循環論法の件については龍樹も中論の中で主体とその作用の項で考察しております。
ともあれ、アートマン(我)の探究については、
1.最終的な私にたどり着くことは不可能
2.この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは捉えることができない。捉えられないから。
という事を念頭に置いて、仏教の無我思想についてこの先紐解いていこうと思います。 てか
アートマンを我っていうのは違うくないか?
アートマンは真我だろう
我っていうと煩悩を指してる事にならないか? >>29
因縁を否定するという意味ですか?
つまり縁起でいう逆観・・・(´・ω・`)? >>36
どちらも縁起を根幹としてるから同じでは(´・ω・`)? すいません、アゲてしまいました
以後、注意します(´・ω・`)汗 >>37
鋭い指摘だと思います
しかし仏教は我を否定するだけに留まって肝心の真我を説いてませんよね
それが問題だと思います(´・ω・`) 無我思想について、ちょっと考える 2 (その1)
さて、無我の問題について、お釈迦様が降誕される前の思想的な背景について考察してみました。
前半において
1.最終的な私にたどり着くことは不可能
2.この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは捉えることができない。捉えられないから。
という一応の結論をみたという事しにてここでひとつの疑問が生じます。
”最終的な私にたどり着くことは不可能”であって、”捉えることができない、捉えられない” アートマンとは?
捉えられないものを捉えようとすること自体、おかしな話ですけどね。
そのアートマンを巡ってどういう見解が成り立つかテトラレンマを使うと
1.ある(→真我論へ)
2.ない(→無我論へ)
3.あるのでもないのでもない
4.ありかつない
となるのでしょうか? >>37
>梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること([1])、
または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。 >>38
寧ろ因縁果を認めた上で将来の原因を無くせば新たな果は無くせると言う理屈だよ 無我思想について、ちょっと考える 2 (その2)
ひとつ補足しておきます。
>最終的な私にたどり着くことは不可能
という事については、あくまでも
>「私は思考する」という概念(判断)はすべての概念の乗り物
という前提の上に成り立っていうものだとご理解ください。
あくまでも現象の言語的分節によって生じる矛盾って事です。
この事については、機会があれば龍樹やウィトゲンシュタイン等の思想とともに考察したいと思います。 閑話休題
ところで、鹿野園というコテハンは勿論仏教にちなんだものですが、当時の様々な思想家が集まった場所だそうです。
勿論、お釈迦様が初めて法を説かれた場所とされてますが、愚生にはそのような意図はありませんのでご了承ください。
また、テンポ悪く下らないことを長々と書き連らねさせて頂いておりますが、それはご理解ください。 45.私は思考する、か。
私は思考しない、場合はどうなる、か。
答えよ。
大爆笑である。 48.ここは、クロ禅師が登場する場面となる。
他人のクロ禅師の功績を私が横取り、することはない。
大爆笑である。 >>27
仏教では識という心が縁起するから我を含んだ外の世界を作ってると(´・ω・`)
>>28
縁起しない物って、あるんかな(´・ω・`)?
>>44
そっかー(´・ω・) >>22
仏教ではアナートマン=無我によってアートマン=常住の我を否定する
それでは何が輪廻するのかについては様々な解釈があるけど業輪廻説が主流やね
つまり自らの行為が輪廻の因となり 行為の止滅が転生の止弁となる >>50
ブッダと五百羅漢はそれ以上縁起しないから転生しないというのが仏教の共通理解
大川隆法が釈迦の転生を名乗って仏教側から否定されるのもこの仏教の共通理解を知らないからやね ラクに生きるには煩悩を滅するしかない。煩悩を滅するには我を捨てるしかない。我を捨てるには坐禅するしかない。
坐禅、坐禅、坐禅人生。 >>51
>>52
そっかー
さては、その物言い、真言宗氏やな?
役者は揃った
てゆーか、悟りスレのいつものメンバーやん
アカン、雑談NG(´・ω・`)マジレスオンリーや 「一には体が大なり、謂わく、一切の法の真如は平等にして増減せざるが故なり。
二には相が大なり、謂わく、如来の蔵にして、無量の性功徳を具足するが故なり。
三には用が大なり、能く一切の世間と出世間の善の因果を生ずるが故なり。」『大乗起信論』 体は、真如・法身・彼岸・平等
相は、現象・此岸・差別
用は、悟りや迷いを生じさせるはたらき 「阿弥陀仏の本願が「体」であり、その実現の「相」が生起であり、一切衆生をさとりの界(さかい)である浄土へ往生せしめる衆生の称える〔なんまんだぶ〕の法の用(はたらき)を本末の「末」とされたのであろう。」
http://labo.wikidharma.org/index.php/体・相・用 「心の真如とは即ち是れ一の法界にして、大総相、法門の体なり。
所謂、心性は不生不滅なり。一切の諸法は唯だ妄念に依ってのみ差別あり、もし心念を離れれば、即ち一切の境界の相なし。」 「所謂、心性は不生不滅なり。一切の諸法は唯だ妄念に依ってのみ差別あり、もし心念を離れれば、即ち一切の境界の相なし。
是の故に、一切の法は本もとより已来、言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ、畢竟平等にして、変異あることなく、破壊すべからず、唯だ是れ一心なり。故に真如と名づく。」『大乗起信論』 衆生心、一心が
不生不滅の真如そのものであり、この一心によって悟りや迷いの相(現象)が生じる
人の認めてる思い執着という妄想によってそれが眩まされてるけど
その妄想にも全く関わらず、真如の一心は傷付かず破れず輝いてる
妄想に執着すれば凡夫の迷いの相
妄想が解かれれば仏の悟りの相
凡夫も仏もともに一心、真如であると 「心は工みなる画師の如く 種種の五陰を画き
一切世界の中に 法として造らざる無し
心の如く仏もまた爾り 仏の如く衆生も然り
心と仏と及び衆生との 是の三に差別無し」 「諸仏は悉く了知す 一切は心より転ずと
若し能く是の如く解せば 彼の人は真の仏を見ん
心も亦是れ身に非ず 身も亦是れ心に非ざるも
一切の仏事を作し 自在なること未だかつて有らず
若し人三世一切の仏を求知せんと欲せば
応当に是の如く観ずべし 心は諸々の如来を造ると」『華厳経唯心偈』 迷いの衆生と、悟りの仏は、ともに真如・一心より現れる
心と仏と衆生は一如なんですよと >>55
大山が来とらん。
知識自慢にはふさわしいスレだ。
うっぷん晴らしてね。
悟りスレとは程遠いが。 いつものメンバーだな
知識執着と悟り執着、お互い嫌いあい、「自分が正しい!」と主張するもともに一心・真如であると >>65
鹿野園=大山です
正体を隠しても私の目はお見通です
みんなの知識自慢大いに結構だし勉強になる
みんな絶対に荒らさないでね(´・ω・`) それぞれがおのれの執着煩悩に気付き
煩悩それそのものになる
そのものになったとき消える
一心であると >>66
暴露したらまた余計なのが集まってぐだぐだになるから 知識自慢のスレには、反大山さんの人はあまり来ないでしょう 程度の低い悟り自慢は要らない
また偽者オールスターズになるだけ 好き嫌い、真か偽か、悟りか迷いか
実はこれが妄念ってことなんです
人が認めてるものが全て妄想、それを解きほぐすと真如が現れますよと 菩薩清涼の月は 畢竟空に遊ぶ
衆生の心水清ければ 菩提の影中に現ず 真如の月は、人の妄想に関わらず涅槃にたゆたい続けてる
人の妄想が解かれ清くなれば、真如の悟りは影(現象)に現れますよと 「知識を捨てろ!」と言う人の言葉、実はその通りなんですね
「知識」は人の思いだから、それによって真如の月は眩まされる
でもそれを言う人はたいてい自分の「悟り」「悟った自分」を認めてる
それも実は妄念なんですね 基本的に傍論はどうでもいい
経典と世界的な名僧の注釈以外は余計な事だよ
基本を理解せずに応用ばっかりやっても乗り物が壊れるだけ だから結局、誰かのことが問題じゃない
自分が何を認めてるか、何を思ってるか、なんですね
よそに向かってる心を己に向け直し、自分の思い気付いて解きほぐす
それしか方法はない
「回向返照の退歩を学すべし」ですね 自業自得、己の認めてるもの(業)によってその果を得る
己の生死の解決より仏教学が欲しい人は仏教知識を得る
悟り的体験が得意で大事な人はそこにとどまる とにかく、解脱した人以外は、自分が認めてることは全て違うということ
好きだも嫌いだも、正しいも間違ってるも、善も悪も、悟りも迷いも
それに気付いて、やる人はやる、やらない人はやらない ちょっと脱線していい?
このスレは仏教の思想を披露する場所なのかな?
仏教の思想を考えるとこだよね
考えるって何したらいいの?
わからない所があれば黙って検索すれば良いし
つまり、ワシ、何を発言したらええんやろ(´・ω・`)? 仏教思想、仏教理解を多元的な視点で考察するスレだったのかな
いつもの悟りスレの調子で書き込みしちゃダメだったかな >>83
「宗教多元主義」でググってウィキをみてみ!
1 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [sage] 投稿日:2020/05/13(水) 00:55:21.34 ID:KJiNgGLZ [1/22]
多元主義の立場から仏教思想全般について紐解いていこう、という趣旨のスレとなります。 わたしの書き込みはスレの趣旨からズレたみたいですね
邪魔をしてすみません >>50
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ唯識で言われる大円鏡智が解脱身だそうです
>認識活動が現象をまったく感知しないようになれば
となっているので縁起しないのでは?と解釈しました
Wikipediaより
>認識活動が現象をまったく感知しないようになれば、「ただ識別のみ」という真理のなかに安定する。
なぜなら、もし認識対象が存在しなければ、それを認識することも、またないからである。
それは心が無となり、感知が無となった。それは、世間を超越した認識であり、煩悩障(自己に対する執着)・所知障(外界のものに対する執着)の二種の障害を根絶することによって、阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)。
これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し、善であり、永続的であり、歓喜に満ちている。
それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれる(大円鏡智=だいえんきょうち)。 せめて多元的なネタを一つ書き込み
「形而上なる者、これを道と謂い、形而下なる者、これを器と謂う。化してこれを栽するこれを変と謂い、推してこれを行なう、これを通と謂い、挙げてこれを天下の民に錯く、これを事業と謂う。」『易経繋辞上伝』
儒教でも、
現象を超越したものを「道」
現象として現れたものを「器」と呼んでますね
彼岸を仏道、此岸を器界と仏教でも呼ぶのと対応してますね >>85
わかった!
理解した(´・ω・`)つもり
>>86
いや、あれでええんやで
あの仏教思想をワシらが宗教多元主義から考察して突っ込んだらええんやろ(´・ω・)
>>87
宗教多元主義の立場から言ってええか?
縁起しない
つまり絶対的な「無」の境地を仏教では悟りとして理想としてる
それって西洋キリスト教の絶対的な「有」である神と対立するやん
どーやって根本的に対立するのに相手を認めて調和させんの?
絶対に無理やろ!!!!
・・・・こんな感じでネタ投下したけど、ええんかな?
鹿野園さん(´・ω・`)汗 >>89
仏教では不立文字っていうように、言語自体を認めないって立場だけど
キリスト教では「初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった。」という
この、言語自体を認めるかどうかで根本的に対照的なんだな >>88
それってヤバくない?
つまり中国人の思想である道教や儒教こそが宗教多元主義から言えば理想
つまり、中国人が世界を征服するってことじゃん!!!!
パネェ!!!!
悟りどころじゃねーじゃんwwwwwwwwww
・・・・スマン、悟りスレのノリや(´・ω・)反省 中国人は偉大だからね
ってか、仏教に限らず「悟り」って
人間が生きて死ぬってどういうことかを超越的な体験で知ることとすると
インド中国日本西洋と、世界中で過去に悟った人がいたってことだろう
その教えが色んな宗教でのこされてる スマン、興奮して、ついアゲてもうた
>>91
そうですね
スタート地点からしてもう違う
釈迦も文字を忌み嫌ってたのか口伝でしたもの(´・ω・`)
>>93
難しい問題ですな
ならば、イエスも孔子も老子も荘子も悟ってることになる
悟りとは何かって話になる(´・ω・`) >>93
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ会話は会話で一如ですね♪ そういう「悟り」的な体験でもって限られた人だけが気付いたことが書かれてるのが
西洋では形而上学
それと形而上学を理論として取り入れたキリスト教神学
それに対して近代以降は、科学の方法が発展して
科学は、そんな限られた人間の特別な体験とか認めない
誰もが観察できる事実のみを基点として世界をとらえなおすとしてきてるんだろう >>95
いつでもどこでも誰とでも、常に一如ですね
でも一如であるということは知り得ない 94.悟れない栄進バカが言うことである。大爆笑である。 >>97
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ無分別の分別 分別の無分別
即非ですね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています