日本におけるシヴァ神信仰の変形verとしての不動信仰
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不動信仰から派生したカルト、新宗教の可笑しなこと も含め考究しませう
護摩は元来ヴェーダ聖典に出て来るバラモン教
の宗教儀礼としてのホーマ
『バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると
考えるな。
それは単に外側に関することであるからである。
外的なことによって清浄が得られると考える人は、
実はそれによって浄らかさを得ることができない、
と真理に熟達した人々は語る』
(サンユッタ・ニカーヤ) 情弱だから幻想にやられる。
無党派層は情弱ではない筈だが、巧みな騙しの報道や広告に騙される。
だが欺く者は、見せたくない本質に関わる特色を捨象して大衆に虚像を提示し、
宣伝する。 本当は無価値なモノでも隠せば
勘違いして魅力を感じたカモが引き寄せられて来るということはある。
実体の無いものでも隠すことによってターゲットの心に価値を生ぜしむる
手法なのである。 (真如苑は反社を使っている)一如社も土地転がしで儲けるヤクザ屋と言われてた。 唯一の死亡体験者である木内鶴彦さんは
自身の経験から、臨死体験として多くの人が語っているのは幻覚であると結論
付けていました。木内さんの話は説得力もある一方、織田信長は殺されずにバチカンへ行っていた等、興味深く必ずしも否定しきれない”目撃談”を残してます。
臨死体験と死後の世界
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1605926920/ またブッダがウパニシャッドの伝統を完全否定したというのは誤りである。
生前、梵我一如に到れぬ者は死後も到れぬと説かれた経もあり、それに矛盾する587等こそ捏造であろう。
古代インドの否定者がヒンドゥーで神とされることは実際問題として
有り得ないのだ。 誤解したまま突っ走る者が出たとしても、それは致し方ない。
現に仏教は
分別説部以降そうなってしまってる いわば
ガラクタだ >195神も仏も名無しさん2020/11/24(火) 11:46:14.83ID:XC+2sMwI>>196>>201
あと南伝系、テーラワーダにしろ、日本の大乗系にしろ、インド思想も
きちんと学んでないのに、なんでわかったフリして梵我一如を否定できるのか? 敬意を
払ってるのは、インドにいるダライ・ラマくらいで、ブッダは本来バラモン教で修行した人。
元を辿らねば、実はわからん事がある。
201神も仏も名無しさん2020/11/24(火) 11:55:10.09ID:Yi8bBlCS>>203
>>195
釈尊がアンアートマンと言ったので
お約束として「梵我一如」が否定されているだけで
実は、形を変えて「梵我一如」が肯定されている。
唯識では、「我」が「阿頼耶識」と言い換えられ数々の複雑な過程を経て
転識得智されて「大円鏡智」となるし、
禅でも無分別になって、すべてと一体化すると悟りとなる。
つまりは「梵我一如」や。
念仏でも最終的に「自然法爾」が説かれている あまり一般に知られていないが
>初期仏教が否定した三定型は
・etaM mama, それはわたしのものである
・eso ham asmi,それはわたしである
・ eso me attAそれはわたしのアートマンである
つまり真我じたいを否定したのではなく、それへの執着ですね
それなら、現代の南伝も日本の諸大乗も全て自分らの「見解」に執着してる訳ですから
ブッダの戒めに背いているのは同じで、醜いことです。 低能粘着在家真言の正体・・・実は、生粋の
日蓮フリークと解く。そのこころは?
誰しもが真言を嫌いになる。→真言亡国は正しかった!と大衆は納得し、
日蓮さんのカブは上がる >アナートマンに固執して、ブラフマンどころかプルシャも見てない
南伝系や
その亜流は全部、
デタラメ
ちなみにインド哲学の宮元啓一名誉教授によれば、
龍樹はインチキ、となるようだ。当方は、その見解には同調しない。
また彼からすれば、上座部や分別説部も傍流の小者であり、方便や立場によって、色ん
な見方が有り得るのが見えるというだけ。 >> 871
>業務妨害罪レベル
の発言について、問い質します。なんの業務をあなた方はしているのですか? 誰かが書いてたように
どこかのカルト集団が大衆洗脳のために何かの活動でもしてるのですか? 5chはあなた方の所有する場ですか?
スポンサーかなんかなのですか?
原始仏教とも大乗とも異なる独自見解でありながら、知識もなく、
悟ってない輩を真言宗氏などと呼んで人々を混乱させるためですか?
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1606043705/879
を見るとコイツ、大山擁護派ともとれるし、
でおー自演説をかわすためのフェイントにも見える。いずれにせよ天部を否定するのは
既に真言密教に非ず。しんごん宗氏などと呼ばせるのは偽りである >はじめて来訪したのですが何だか異様な気配が漂ってますね!
同じようなスレに似たようなレスが無数に並ぶ・・・これは何を意味してるのですかね? で聞きたいのは幾つかあるのですが、まず
ダライ・ラマも弘法大師をラマだと認めてる。
その点には同意する。
ただ一つ良くわからないのは彼の遺言の件で、
56憶7千万年後の弥勒の世にどうたらというのは、
自分は弥勒菩薩だったと言ってるのか?
それとも弥勒以外の脇侍尊格として再臨すると言ったのか?
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/kyoto/1605263849/
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/kyoto/1595173130/ 宇宙の森羅万象一切は大日如来の働きであり、顕われであり、
大日如来から発し、大日如来に還るという事を
仮に諸仏諸菩薩・様々な仏で表わしたのが曼荼羅である 日本人の心は米国由来の浮薄なる価値観に影響され
電波や活字をはじめとした広告媒体による洗脳で
大きく歪められている。宗教も例外ではありません。
目覚めるべし 5ちゃんにも
>さとってないバカ現役信者、低能疹ゴン
栄進、犬山など糖質は大勢いる
大爆笑である 阿含経とかテーラワーダとかしかわからないのに、わからない大乗を批判するのがいるか
と思えば、真言宗しか知らないのに、わからないインド思想系を否定するのがいたり、
連中は同根であって、井の中の蛙君たちであり、願望で未解の対象を否定しようとしてるが、
とてもお粗末な知識でしかなく、かえって浅薄さが一気に露呈したって事やなw >第一結集は死の翌年という説があり、経と律について編集されたそうで
約百年後に第二結集がされたそうだが、これは世界史のアバウトな話で
いま南伝として伝わる4ニカーヤは仏滅後千年以上あとに作られたものらしく、複数
の部派で異なる内容のものが伝えられたらしい
第一結集の内容がそのままであるとは言い難く
上座部が滅びブッダゴーサの改竄を経た今となっては、
確かめようがない
世界史で教えられてる翌年結集された内容が
そのまま今残ってるということじゃない
世界史の話と、いまある経典は
リンクしてない 件の粘着忍者疹言臭の新通名が、真言肛門徒
に決定しました!! これは施餓鬼供養であります
在日さんには高級すぎる呼び名ですが、5ちゃん粘着の誉を称えて授与します
よかったね在日さん!! 犬山=栄進=シンゴンはグルです。一味です。
気付いた人々の力を結集して
犬どもの陰謀をうち破るのです。
たたき潰すのです スリランカもそうだが、大乗発展以前の部派も真我や無我の解釈がおかしい。今の真我否定者の真我理解が錯誤である。
現代言われる真如や一心と同じ意味で捉えて問題ない。五蘊を越えた世界なのである。
所謂、大乗におけるそれらの文言は、行き過ぎた無我観の修正としての意味もある
4ニカーヤと呼ばれるものは、かなり変形されたものである。
ちなみに
「空」も古代インドで
とうに説かれている。他にも大乗で復活したキーワードはあるが、
空も実は焼き直しなのである。 アナートマンにしろ真言俗信にしろ
ブッダが否定し戒めた非合理な迷信への
しがみつきが現代に残っていて、カモが狭い知識の檻で奴隷に
されている >良く存在とか言われてるの、仏教的な解釈だけでは本質は掴めないよ、特に唯識はマナ識に対してアラヤ識を立てるけど、
ヨガでは我執(マナ識)を挟んで貯蔵庫で、大我執(アラヤ識)と真我(真の鑑賞者)の3つをたて、真我の上にブラフマン(宇宙的存在意識)をおきます、
そして、臨済が言った面前を出入りする生き物(悟りの当体)と、展開する世界をも含めたものを真我とするのです、般若心経はこのことを言っています、
素領域理論でも同じことを言っていますね、自分の見ている世界はその個人だけの世界空間であって、それを素領域と言い、その素領域は他の素領域と部分的に重なりながら全体の無限個の意識空間の塊を形作っていると、
サーンキャでも無限個のアートマンの総体がブラフマンであると言ってて、同じです。
金剛般若経の否定の否定とか、最後の最後に解るのが、存在そのものを在らしめる「多次元空間=多次元意識」この空間だけでは無いので、光と同じこと、紫外線赤外線は目で見えないが、それ用のカメラでは像として映ります、同じ理屈で色界の上に無色界が説かれていて、それが多次元宇宙です、
そして、釈尊の悟ったものとは、この多次元宇宙を在らしめている、一つの空間意識であって、これを神の命、大生命とも言います。
非常に広大で深く高い無限ではありますが、空にして無でもあり、名状しがたく、これを如とし、如来と言います。 現代の在家真言などは、
悪いヒンズー俗信と同じ穴のムジナであります。 インドの神であったシヴァを
=正法輪身の観音、教令輪身の不動明王として
自性輪身・釈迦の化身であるように取り込んだのは、大日如来の法身観からで
密教由来か スリランカはインド思想を正しく理解していない
真我と五蘊の自我は、全く別物なのである
真我は仏であり、五蘊は悪魔である 五蘊皆空とは勝義の立場から、悪魔の儚さを
如実に喝破した言葉である 究極的には
さとりは言葉ではない
ということになる
勝義諦 古代の創造神話や伝説に共通しているのは、
この物質世界が
或る精神的な中心から作られたという事で、
物質的なものは最後には再び精神的な世界に帰ってゆくのです 【量子重力理論】時空間は存在しない「この世界はデジタルだった」
https://youtu.be/id7r8YISpEk
b.
時空の最小単位=
超高密度の特異点からビッグバウンス → ビッグバン → ビッグクランチ → 収縮 → 最初に戻る
↑==========================================↓
量子電磁気学、電磁気学、ニュートン力学、量子論、相対論、熱力学
量子色力学、ビッグバン宇宙論
など学びましょう
?
ループ量子重力理論 空間の量子
https://www.youtube.com/watch?v=8E6BMFi-9B8 AD170年ごろ 第一中期大乗の大般涅槃経、勝曼経
AD200年ごろ 仏像彫刻開始
仏滅後七百年まで仏像はつくられなかった。 大乗の涅槃経では像及び仏塔を作れと言い出し、
このあたりに「問題」の淵源があるようです 完全に真実な法則なんですよ
つまり速度が光速に近付けば質量はゼロに近付き、
速度が極小なら質量は極大に・・・ こういうのにピンと来る人なら、サイエンスも
そのベースにある事柄も判る 三界
いっさいの衆生の生死輪廻する三種の迷いの世界。すなわち、欲界・色界・無色界。
平家‐三「三界広しといへども、五尺の身置き所なし」 常識的には無著と世親は兄弟ではない。
http://bukkyosalon.com/2019/09/25/%e4%bd%90%e4%b9%85%e9%96%
93%e7%a7%80%e7%af%84%e5%85%88%e7%94%9f%e3%82%92%e5%
9b%b2%e3%82%80%e4%bc%9a%ef%bd%9e%e4%b8%96%e8%a6%aa%
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b6%e3%80%80%e3%80%80/
特別講座 2019.9.25(水)10:00~12:00 佐久間秀範先生を囲む会〜世親について学ぶ
「弥勒から教えを受けたというアサンガ(無著)は、ヴァスバンドゥの実兄と言われ
るが、それも神話的伝承であろう…ということでした。」
「「唯識」を漢字で解釈することの落とし穴→ものはあるのかないのか→唯識を理解
するための行法の重要性→再び、ものはあるのかないのか→「ある」ことと、概念で
ものを理解・認識することの違い→執着を問題視するべし→しかし意欲がなくては行
もできない→「意欲」と「欲」の違い」
鹿野園おばさんの唯識誤解の問題点は二点につきる
1.「ある」ことと、概念でものを理解・認識することの違いを誤解している
2.唯識を理解するためには「行法」が重要であるが、
鹿野園おばさんには「行法」が完全に欠落している。
唯識は頭の体操ではないのである。 名前:福音伝道 2020/12/19(土) 05:44:37.09 ID:Vd9BkwzG
http://ameblo.jp/yeschan2011/entry-12505884961.html
『摂大乗論 ―和訳と注解 (上)』 無著 (著), 長尾 雅人(和訳と注解) を
紹介するブログ
次に、『中辺分別論』と『摂大乗論』の滅諦に共通するのは唯識独特の<三性>である。
しかし、この<三性>は、瑜伽修行の観点から次のように理解すべきである。
(1)「依他起性」≡「十二支縁起」
無明 → 行 → 識 → 名色 → 六処 → 触 → 受 → 愛 → 取 → 有 → 生 → 老死
(2)「遍計所執性」≡「流転縁起」:迷界流転の十二支縁起
無明の生 → 行の生 → 識の生 → ・・・ → 取の生 → 有の生 → 生の生 → 老死の生
(3)「円成実性」≡「還滅縁起」:還滅解脱の十二支縁起
無明の滅 → 行の滅 → 識の滅 → ・・・ → 取の滅 → 有の滅 → 生の滅 → 老死の滅
「三性」の真義が分かった上で「転識得智」をよく観察すると、
ブッダ釈尊の三十七菩提分法の「四念処」を「識」に対応させたものであることが分かる。
それは、十二支縁起の「無明 → 行 → 識 → 名色 →」を見れば分かるように、
二元性である「名色」が生まれるのは「識」に依るからである。 Pure consciousness = True yourself プルシャ、純粋意識=我、涅槃(真我・至上我・真諦)
自分も真理を覚って解脱し、同時に一切を救える求道者と成る みんな共有してると思いきや、かなりドライに対象化して観察してる人もいる
たとえば国家や宗教も明日から変われば、ああ共同幻想でしたね、で終わり。
明日から米国人になっても、ここじゃ誰も反逆しない。GHQで証明済み。ただ中国
だったら、どうだろうか? 武装反乱する?
何百年か続いた菩提寺の本堂とかは、何とも言えない「気」はあるね。
幻想では済まない、大昔からの膨大な祈りの集積みたいなね。それは日本の大乗仏教で
の風景だが、ブッダの智慧とかとなると、本来はインドであって、しかし途切れたりして、
しかしずっと共有されっぱなしの「気」もあるとは思うんだ 最初から何も対立などしていなかったという真実を
ありのままに観じる 識別作用を残りなく離れ止滅するならば
再び苦が生起することはない。 識別作用とそれから生じた妄執こそが
苦しみの因なのである。 大乗仏教の如来の基本像として
「スブーティよ、あなたは、どう思うか。
如来は、特徴を得たから、菩提を得たのか。
スブーティよ、このように、見てはならない。
特徴を備えたところで、菩提を得ることはない。」
「『如来が来る、去る、座る、寝る』
もし、このように説く者がいるならば、彼は、わたしが説いた、法を解してない。
というのも、如来は、普遍に存在しており、どこから来ることも、どこに去ることもない。
それだからこそ、如来と名付けられるのである。」
(金剛般若経)
一四 しかし如来はそれ自体としては空であるから、この如来については「死後に存在する」とか、あるいは「死後に存在しない」とかいう思索は成立しない。
一五 戯論(形而上学的論議)を超絶し、不壊なる仏をいろいろ戯論する人々は、すべて戯論に害されていて、如来を見ない。
一六 如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない。
※では真実のブッダとは何であるか。それはわれわれの経験している世界にほかならない。
(中論第二十二章 如来)
ということで、如来(仏)には特質がなく、我々が存在している世界の実相(真如)であると
実相は空であり分別というものがないので自他不二であるというのが大乗仏教 行とは因縁によって起こるこの世の現象のこと
諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽
万物はすべて変転し生滅するもので、不変のものは
一つとしてない 諸法空相と見て
現象への執着を完全に捨て去った状態が
滅諦の実性を覚る事であり、涅槃寂静 虚空と涅槃は常と知り
生滅滅已、涅槃寂滅を楽と為し
仏陀・如来の我を覚り
滅諦の実性を体悟して、最高の清浄に達する 自力を「頼るべき自分」による修行完成に向けての正しい実践努力
他力を仏の慈悲 及び入我我入により一体化する加持力
と見るなら、その双方共に大事であって、自力単独や他力のみ説くのも片手だけで、
他力とは無我の境涯より得るものなり >ものごとは見えている通りにあるのではない。
「対象物」の実際とその本質は
写真で見るほど良くも有意味でも無い。真実の相は、
また違ったものである 真実在は無い
と断定し、切り捨ててしまった点が
南伝系とか、それから影響・洗脳された輩が嵌ってしまった
誤謬 仏教は遂に如来を生じなかったが、バラモン教はブッダを生じた
とも言える。が、実には
如来は如来の法に依りて、自ら是の如く来た
のである 『京都 高山寺と明恵上人 - 特別公開 鳥獣戯画 - 』紹介動画
https://youtu.be/JK7OH3bceIk 日本のメディアには事実の伝達も「教育」も無い。「洗脳」があるだけだ。
だから現代の日本人は「考える力」が身に着かない
読むだけで脳が劣化する『絶対に買ってはいけない本』をご紹介します
https://youtu.be/_Sh59h3l1pE >自他ともに苦滅する
大乗の菩薩は、心解脱しても
あえて涅槃に入らず、衆生救済のため衆生界へ降り
是の如く来る 誰もが何かの役に立っている
全てのものには存在価値や意味がある
という考えは、深い哲学的、宗教的命題と
かかわって来る 老醜晒す婆が僧団にいるのは意味があることだったのでは?
つまり「西鶴一代女」にも、そのような件があったけれども
醜い老女を見れば「ああ女とは、すべからくこのように変わり果てるものか」と智慧ある者は
正しく観察し、対象物や自らの性欲までをも恥ずかしく感じ、そうした仮初の幻を
厭い離れることができるようになる。
勿論、若い娘を見て、そう思うようになるまでは少し距離があるにせよ、まず迷いから醒める第一歩ではある。
同様にテレヴィに瀬戸内寂聴のような尼僧やマツコのようなオカマが出たり
役所や銀行など公共性の高い場所に色気のある女がいないのも意味のあることである。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1612267353/35- 才能というものも「幻想」に過ぎん。所謂天才と呼ばれた芸術家も優れた成果物の裏には
夥しい数の「駄作」が隠されているものである。初期の叩き台から傑作にまで昇華させるには
膨大な推敲や書き直しを経たケースも多く、作家の中には「書き直し作業こそが創作」と公言
する者もいた。ベートーヴェンみたいに同じ楽想を何度も使いまわしたり、新規で何かを
産むというのは実は至難の業なのだ。
但し書き直していくと、どんどん変なのにしてしまう人もいて
そういう人は編集者はやってはいけません。
そうなんだよ。確かに一番大事なのは批評能力なのだが、
ミシマや中上健次型の作家や詩のボクシングに出ても良い詩が即興的に詠める詩人は
絶対に書き直しちゃダメなんだよ 【睡眠用BGM】ヒーリングミュージック♪ 宇宙を感じさせる幻想的なBGMが心を癒す♪
https://youtu.be/-7IFIhgdd6A 優れた判釈なら幾つ出て来てもよいでしょう。
ただ、それらには各人の境涯に応じた深浅、段差も生じ、
その人には自分の境遇、波長に合った答えが都度見える というだけ
なのです ニーチエは脳梅毒だった
狂気は神聖なものでない
西欧思想の中には、狂人の妄想に影響され、それが発展して肥大した
共同幻想が隠されている。 Gustavo Dudamel, Wiener Philharmoniker - Nechledil March
https://youtu.be/AxIwLQlI6WY
Franz Lehár - Nechledil Marsch (aus "Wiener Frauen") (Stuttgarter Philharmoniker, Peter Seiffarth)
https://youtu.be/gyK14bGed3k 耳なし芳一のモデルは明石覚一で、明恵上人ではありません。
しかし、明恵上人は二十四歳の時に右耳を切り落とした
と伝えられています。 チョナン派 (英語表記)Jo nang pa
チベット仏教の一宗派。中央チベットのツァン地方チョモナンの地にトクジェ・ツォンドゥー (1243〜1313) が寺を建て,
ここに拠ったトゥルプパ (1292〜1361) らが,チベット仏教一般から唯識説の異解として退けられた説を唱えた。
悟りの主体は相対を超えるが空ではなく,勝義において恒常不変の仏性であるといった。
この派に属するターラナータ (1575〜1640?) は蔵巴汗の師僧として黄帽派と対立したため,
ダライ・ラマ政権の成立後その宗義の版木は封印され,寺院は黄帽派に改宗させられた。 >>92
仏教に於ける天部は仏部や菩薩部よりも下位だと言ったら何故天部を否定したと誤読する?
天部を上位に置く神教と仏教の違いも理解出来ない頭で知識だけ集めても無駄だからやめとけ >>94
兎卒天で修行し弥勒菩薩と共に衆生を救いに戻ると言われてるから それ以上ではないよ 同格という可能性も残されてはいるけどそればかりは直接確認するしかない 大きい⇒近い
小さい⇒遠い
というだけで、実は大小の差別も幻想である。ビッグバンの遥か前から宇宙の全体は不変であり、個別物のほうが収縮し続けているに過ぎない 大悲心陀羅尼にもシヴァ神みたいな菩薩になってるのかな出てくるね
虎の腰巻青い首毒を飲んだだったかな 病は気から。
病の原因になっている気を代えれば
病は消える
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