【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践18
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
お釈迦さまの教えとサマタ・ヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践17
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1559901710/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会や
そこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など
多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違い
もあります。
そこを踏まえてご参加ください。 般若波羅蜜は六波羅蜜の最後だから他の五波羅蜜の修行は既にしていて、般若波羅蜜の完成による六波羅蜜の完成で無上の覚り(得阿耨多羅三藐三菩提)に達する。 無上の覚り(得阿耨多羅三藐三菩提)×
無上の覚り(阿耨多羅三藐三菩提)◯ >>71補
般若波羅蜜は智慧波羅蜜とも呼ばれるが、他の五つの波羅蜜も畢竟智慧の育むための行であるので般若波羅蜜に含まれると言える。
波羅蜜
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C
龍樹は『宝行王正論』[注釈 2]においてこの6項目を以下の3つのカテゴリーに分けて解説している[6]。
布施・持戒 -「利他」
忍辱・精進 -「自利」
禅定・智慧 -「解脱」
龍樹によれば、釈迦の教えとは要約すれば「自利・利他・解脱」の3つに尽き、「自利・利他・解脱」はすべて六波羅蜜によって包摂されるため、
阿含経に根拠を持たない大乗独自のこれら六波羅蜜も仏説であるという[6]。 空とは何でしょう? ―中観派の教えを学ぶ―
http://www.chisan.or.jp/chisanha/center/forum/detail/id=355
これは空を学ぶのに分かりやすくて良いページ
空は概念ではないので体得するしかない
維摩経ではまだ空という言葉が使われてないが似たような概念を不二という言葉で表し、この不二の説明を最後に求められた維摩は沈黙をもって答えとした
空というのも本来的には言葉では説明できないものでそれでもなんとか説明しようとすると不とか無とかの否定形でしか説明できないことになる
上のページはそこまで書いてはないが結局は同じことをより丁寧に書いていると思う >>74
ほぼ同意だけど
>空は概念ではないので体得するしかない
ここは
空は概念でしかないので(本質を得るには)体得するしかない
じゃないかな? 仏教徒なら瞑想などの修行も良いけど物惜しみせずに財を手放すことによって執着をなくしていくことも大切です。
もちろんただ散財すれば良いというのではなく正しいことのためにお金を使うへぎとは思います。
そこで、今回台風の支援募金をスーパーやコンビニなどでしていますが、買い物した時の釣り銭を募金箱に入れるなどしてみるのはいかがでしょう。
余裕がある人は赤十字やYahooその他にまとまったお金を募金するのも良いと思います。
物惜しみをする人は来世において貧乏人となると世尊も言われています。 >>74
いいですね!
「空」がブッダの哲学と矛盾するものではない、ということが端的に説明されていて良いページだと思いました。
同じような趣旨の本として下記もおすすめです。
史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309414812/
ヤージュニャヴァルキヤ→釈迦→老荘思想→龍樹→大乗仏教
と時代を経て登場した東洋哲学の思想はお互い矛盾するものではなく、覚者が到達した同じ真理をどのように伝えるか、その「変奏」の違いである、ということが分かりやすく述べられていて目から鱗でした。 >>74
>自我と我所(自我の所有するもの)が空であると観察する「空三昧」、
>無常を知るために事物には固定した特徴がないことを観察する「無相三昧」、
>過度に期待することなく願い求めるものがないことを観察する無願三昧の、
>三つの瞑想を実践する「三三昧」が説かれるようになります。
oh...
完全にニンジンケーキ。 「釈尊のことば」
真理を伝えることは他のすべての施こしにまさり、真理の妙味は他のす
べての味わいにまさる。
真理によりうける喜こびは他のすべての喜こびにまさり、欲望に打ちかつ
ものは、すべての苦渋をのりこえる。───『真理のことば354』
仏教の中での施こしには次の三つがあります。
1. アーミサ ダーナ 物を施こす
2. アブハヤ ダーナ いのちを守る
3. ダンマ ダーナ 真理を伝える
[1-3] ─ものの施こし─
アーミサ ダーナ、いろいろなものを施こすことは宗教に係る者すべて
の行っていることで、きわめて当然のことであります。
食料、衣料、住まうところなどが、その不足で困っている人々とか難民
などに各種の宗教団体、社会団体の手を経て施こされています。
飢えた人々や渇えた人々にその飢えや渇をみたすことは、疑いもなく良
いことであります。このような施こしは、仏教においてはきわめて大事な
ことであって、アーミサ ダーナといわれるものであります。
─いのちを守る─
次はアブハヤ ダーナ、火事や水害或いは襲われたりして危険にさらさ
れている人々の生命を守ることであります。時として輸血の不足から死に
至る人々のことを聞きますが、血液を施こし他人の生命を教おうとするの
はたいへん良いことであります。
眼や腎臓の施こしも仏教においてはたいへんよいこととされております。
これらのことはアブハヤ ダーナとよばれるものであります。
[2-3] ─真理を伝える─
最後にダンマ ダーナ、真理を伝える、或いは教理の弘宣とよばれるも
ので、あらゆる施こしのなかでもっとも大事なこととされるものでありま
す。
真理を伝えることは釈尊の教えを人々に教え、語り、誤まった道から離
れさせ、正しい道へと導くことであります。何が道徳に沿わぬかを教えた
り、釈尊の教えについてはなしあいや学習のつどいをひらいたり、脈々と
生きつゞけている釈尊の教えを刊行したり、図書センターを設けたりする
ことであります。
人は、出来得る限りの方法で衣食住薬をすべての釈尊の弟子達に扶け与
えることができるでしょう。また市中の困っている人々にいろいろな物を
施こし与えることもできるでしょう。しかし釈尊の教えの中の、たった4
行の詞句で、人々を正しい道に立たせられるのなら、これこそ最善かつあ
らゆる施こしの中で最高のものといえるのではありませんか。
聴く者に、教えを説き、光明を与え、確信をもたせ得る人はそう多くは
いないでしょう。しかし真理への道を書き記した書籍は、仏教を広めるの
にたいへん重要な役目を果しています。
[3-3]
以上、千葉県にある蘭華寺の前身、日本・スリランカ仏教センターが東京
で活動していた頃、頂いた書「Buddha's Teaching」の巻頭言からでした。 >>75
空は世俗諦として概念ということもできるけど、本来的にはあらゆる概念を否定したものが空なので、
空を実体視するのはもちろん概念視こともできないんじゃないかな!?
>>77
ありがとうございます🙏
面白そうな本なので読んでみます あらゆる概念を否定したというのはどうかと
概念は空から生じてくるものでしょうから >>84
空は世俗諦として概念(戯論)ということもできるけど、本来的にはあらゆる概念を否定したものが空なので、空そのものを実体視するのはもちろん概念視こともできない
空という言葉は概念、しかし言葉が指し示すものは概念を否定したもの
夢相、無分別、無差別など否定形でのみその相を表すことができるもの
中論
24-7の考察
さあ、これに私たちは答えよう。
あなた方は、空のもたらすものも、空そのものも、空の意味もわかっていないのだ。だからあなた方はこのように論難するのだ。
24-8の考察
二諦をもって、すべてのブッダは法を説かれた。世俗諦と勝義諦だ。
24-9の考察
この二つの真理を区別できない者は、ブッダの法の深く微妙な所をまだ理解しているとは言えない。
24-10の考察
世間の言葉に頼らなければ究極の真理を説くことができない。
究極の真理に到達しないなら、涅槃を体認することはできない。
24-11の考察
不完全にとらえられた空は、智慧の浅い者たちをつまずかせることになるだろう。ちょうど、不完全に捕まえられた蛇や、半人前の魔法が人を害する結果になるように。
24-12の考察
だからブッダも、その法が智慧の浅い者たちによって誤解されることをおそれて、伝道をためらったほどだ。 1.布施波羅蜜
2.持戒波羅蜜
3.忍辱波羅蜜
4.精進波羅蜜
5.禅定波羅蜜 ←ココまでがあって
6.智慧波羅蜜 ←初めてコレ 三学
戒 ←コレと
定 ←コレがあって
慧 ←はじめてコレ
戒 ・・・ 持戒と忍辱
定 ・・・ 精進と禅定
慧 ・・・ 智慧
分類が違うだけで、中身というか本質的な部分は、実は全く同じだと思う。 法然
経典にはさまざまな教えが説かれているが、詮ずるところ、戒・定・慧の三つの修行法に集約される。
小乗と大乗、顕教と密教、それぞれにこの三つの修行方法がある。
ところが私自身は、戒(不殺、不盗などの仏教の戒め)に関しては一つの戒すら守ることができない。
定(精神集中の修行)についても一つも体得できなかった。
ある高僧が言うには、「戒(インドの言葉でシーラ)が清らかに守られていないと、心の集中状態は現れてこない」とのことだ。
また私たち凡夫の心は、ものごとに引きずられて移ろいやすい。それはまるで、猿が枝から枝へと動いているようなもの。
まことに散乱して落ち着きが無く、一処に静まりがたい。
このような状態で、煩悩に汚れぬ正しい智慧が、どうして起こり得るだろうか。
もし汚れなき智慧の剣がなければ、どうして悪業や煩悩の絆を断つことが叶おうか。
悪業煩悩の絆を断たずして、どうして迷い苦しみの輪廻世界から解脱することができようか。
ああ、まことに悲しき哉、一体どうしたらよいのだろうか。
「私のような者は、もう戒・定・慧の修行を全うできる器ではない。この三種の修行法のほかに、私の心に相応しい教えがあるのだろうか。
私の身体でも行なえる修行がはたしてあるのだろうか…」
かように思い直し、多くの賢者の教えを請い、様々な学者を訪ね歩いた。
だが、それを教えてくれる人はおらず、道を示してくれる仲間もいなかった。
そこで、歎き歎き経藏に入り、悲しみ悲しみ経典に向かい、みずから手に取って開き見た、
善導和尚(7世紀中国の高僧で、法然上人が師と仰いだ)が書かれた『観経疏』という本の中に見出したのが、次の一文である。
「一心に専ら阿弥陀仏のお名前を念じなさい。
行住坐臥、日常生活のどのような状態にあっても、時間の長短を問わず、片時もやめてはならない。
これを正定の業と名づけよう。かの阿弥陀仏の本願にしたがう行であるゆえに。」
その後は、
「私のような無智の身は、ひとえにこの一文を仰ぎ、ここに説かれる道理を頼みとしよう。片時もやめない念仏行を修めて、必ずや極楽往生を得るための備えとしよう」
と心を定めたのである。
https://www.rinkaian.jp/column_archive/c201108.html >>88
念仏もテーラワーダの実況中継も一緒のようなものなのかもしれませんね しかしスマナサーラの般若心経の本は酷すぎて笑えるな
空即是色、大乗の勝義諦と世俗諦、これらが全く理解できてないから般若心経は虚無主義で修行の役には立たないどころか有害だなどと書いていまうんだな
まあテーラワーダの理解はこの辺までというのを示すには格好の本だとは言えよう
他のテーラワーダ僧はスマナサーラほど酷くはないとも思うがね >>91
智慧も慈悲もない、怒りからの陰口・悪口。
大乗仏教というより、日本仏教の形骸化の問題をよく示した発言じゃないかな。 >>92
いや、実際に本を読んでみれば分かるが単に般若心経は欠陥だらけであることを指摘しているだけの本。
日本仏教は関係ないよ。
一つ、部派仏教系・小乗系では空は無常苦無我のことだが、大乗になると空は無分別であるから平等という観念も出てくる。
そこに踏み込まないから、般若心経の不生不滅不増不減不垢不浄は単なる言葉遊びの観念論で意味がありませんと言ってしまうんだろうな。
大乗の観点で読むと是故空中が最初についているのだから不生不滅不増不減不垢不浄で当然となるんだけどね。 空即是色は“小乗”の智慧が完成した後、八正道を回していけばついてくるので
“大乗”という区別も悟っていない段階の人の頭のなかの概念でしかない。 小乗仏教という、頭の中のわら人形と戦ってる時点で
そして普遍的真理に大小優劣をつけている時点で、自分自身が小乗になってる(平等に達していない)。 悟りに達するまでの八正道の実践と、悟りに達した後の八正道の実践とでは、
実践の在り方に質的な変化がでてくるはずです。
個人的な経験として言える範囲で言い換えれば、智慧が出てくるまでの八正道と
智慧が出てきてからの八正道とでは、質的な違いがあります。
例えば医療に関して言えば、患者、医学生、医師、教授という立場の違いはあっても、
医学そのものに大小があるわけではありません。
仏教にも、患者の立場もあれば、教授の立場に相当するものもあります。
仏教そのものに大小があるわけではありません。
普遍的真理に大小優劣があるのではなく、普遍的真理“について”の概念に
区別がついてまわるのではありませんか。 小乗仏教に対比して大乗仏教が優れているのではなく、
大乗仏教に所属しているという自意識に基づいて、ありもしない小乗仏教をでっちあげ
他の仏弟子を蔑むという、その行いが小乗なのです。 >>94
ごちゃごちゃ書いてるけどスマナサーラは空即是色は間違いと言ってる、それは恐らくはテーラワーダの教理では空即是色はないから、だから般若心経を読み取れない、畢竟それだけの話ですよ。 >>98
>スマナサーラは空即是色は間違いと言ってる、
>それは恐らくはテーラワーダの教理では空即是色はないから
それは単純に論理飛躍ですよ。
スマナサーラさん個人をテーラワーダ仏教全体に敷衍して断定している時点で間違い。
般若心経を否定しているテーラワーダ僧侶は、むしろわたしの周囲では見かけてことがありません。 空即是色が分からないと空が分かっていないというのであれば、
仏陀金口の仏説は空即是色そのものですから、仏説を小乗と蔑んでいる時点で
空が分かっていないと自白しているのと同じなんです。 >>100
>仏陀金口の仏説は空即是色そのものですから、仏説を小乗と蔑んでいる時点で
誰が仏説を小乗と蔑んでいるの?
般若心経は間違いは仏説なの?テーラワーダは全て仏説なの? 智慧の開発段階は、個人個人で違う。
話が噛み合わない原因は、単にそれだけのことだと思います。
そもそも小乗仏教といえるものが、現代のどこのどの宗派のことなのか、具体的に指摘できますか。
できないと思いますよ。
テーラワーダと呼称されている部派は、実践上は釈尊とその教えを奉じているわけですから、テーラ
ワーダ批判は釈尊と釈尊の仏法批判ということになってしまいますから。
大乗仏教の祖師のいったい誰が仏陀を批判していましたかね。
していないんじゃないですか。 >>102
分別説部(上座部)の心所説 ―真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺―
http://www.horakuji.com/treasures/vibhajjavadin_cetasika.htm
https://i.imgur.com/2uFMYmk.jpg
実際に玄奘三蔵などの三蔵法師はインドに行ったときに大乗以外の部派仏教を小乗と記している、これは歴史的事実なのだからそんな事実はないといっても仕方がない。
自分も最初に>>93にて部派仏教のことを小乗と別称していたことを示唆するために部派仏教・小乗系と書いた。
>テーラワーダと呼称されている部派は、実践上は釈尊とその教えを奉じているわけですから、テーラ
ワーダ批判は釈尊と釈尊の仏法批判ということになってしまいますから。
そしたら全ての仏教は仏説でしょう?
でもね、パーリ経典の中には我空法有の教えとか刹那滅の教えとかはないと思うよ。
パーリのアビダルマ論蔵にはあると思うけどね。
そこはテーラワーダのドグマじゃないのかね?
いや、ドグマはあっても良いとは思うよ、ただドグマではなくそれが釈迦の直伝の教えですと誇大広告するのはよろしくないとは思うけどね。 言語を越えた部分の言語化の仕方の違いは、
観測された時点で無意味になるので、あまり拘る必要はないと思う。 >>104
>言語を越えた部分の言語化の仕方の違いは、
テーラワーダでは言語を超えた部分は涅槃しかないよ。
五蘊とかは施設(概念)ではなく自性を持つ勝義の法だよ。 普遍的真理というのは、人種や年齢性別で変わるものではないし、
宗派や宗教が違うからといって変わるものでもないはずです。
医療や人体構造で例えると、例えば人間の血圧の上下する仕組みは
東洋人でも西洋人でも同じです。
東洋医学でどういう説明の仕方をしていても、人体の構造というのは
西洋でも変わるわけではありません。
西洋医学でどういう説明の仕方をしていても、人体の基本構造や血圧
の上下する仕組みが、東洋人と異なるわけではありません。
心の仕組みも同様だと思います。
異なるのは、あくまで説明の仕方、言語的概念化の段階の話であって
観測事実としての心、あるいは生命の成り立ち、その現実が異なるわけ
ではありません。 >>103
>三蔵法師はインドに行ったときに大乗以外の部派仏教を小乗と記している、
>これは歴史的事実
なぜ、>>102
>現代のどこのどの宗派のことなのか、具体的に指摘できますか
この部分を読み落とすのでしょうか。
その心理的プロセスと、その後の言動に気づくこと(正念)が智慧のはじまりです。 宗教もそういうものさ。ハイレヴェなお経じゃないと泣く子も多い。 >>106
いや、テーラワーダ僧がいうにはテーラワーダは元々は説一切有部だったけど、有部の三世実有を批判して分裂したと言ってるぞ
(史実ではどうやら説一切有部とテーラワーダに接点はないようだが)
説明の仕方とか言語化概念化とか批判して有部から分かれたテーラワーダのことを君が言ってるのなら君の言ってることも説得力があるけどね 仏陀の言葉は真理を指し示してるもの、方便であって
テーラワーダみたいな言葉通りの解釈が真理、仏陀は完璧なわけではないと思うんだ >>107
じゃあ一例を挙げるよ
7世紀には玄奘三蔵がスリランカの寺院について書き残している (『大唐西域記』、第11巻)[7]。
玄奘はセイロン島の上座部に二派があったと報告しており、マハーヴィハーラ派(大寺派)を小乗上座部、アバヤギリ・ヴィハーラ派(無畏山寺)を大乗上座部と呼んでいる[8]。
玄奘は、スリランカでは「大乗上座部」(大乗と上座部の兼学と解される)が行われていると報告しており、考古学資料はアバヤギリ・ヴィハーラ(無畏山寺)で大乗経典が学ばれていたことを裏付けている[9]。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A9
ちなみに小乗上座部と玄奘三蔵に書かれた大寺派が現在のテーラワーダの祖 スマナサーラ
「般若心経は十二因縁や四諦なども無としてお釈迦様の教えを骨抜きにする虚無主義のお経です」
これも間違い。
観自在菩薩は五雲皆空と照見して一切の苦厄を度している。
苦滅を成し遂げ彼岸に渡った人は釈迦の教えという筏を捨てても良いという筏の喩えはパーリでも中部蛇喩経に書いてあり有名な説話。
決してお釈迦様の教えを骨抜きにしているわけではない。
また是諸法空相とわざわざ事前に書いてあるのもスマはスルーしている。
空という相においては実体であるものはないので無〜無〜で正しい。
空観にて諸法空相であると体得したものが苦厄を度すことができ、釈迦の教えと言えども実体視することはない。
智慧もまた実体視はしないので空相を体得した修行者にとっては無智亦無得で正しい。
そして、前述の中部蛇喩経にて釈迦の教えの方が虚無主義だと当時の識者に思われていたことについてもスマはスルーしている。
仏教はもとから虚無主義と言われやすい性質を持っていたことに触れていればあの本も少しは良くなっていたかもしれないのに。
比丘たちよ、このように説き、このように論ずる私を、一部の沙門婆羅門たちは、不実ゆえ、虚偽ゆえ、虚妄に、偽って、誹謗します。
『沙門ゴータマは虚無論者であり、存在する有情の断滅、消失、非有を説く』と。
比丘たちよ、私はそのようではありません。私はそのように説いてはいません。
〔にもかかわらず〕彼ら沙門婆羅門たる者たちは私を、不実ゆえ、虚偽ゆえ、虚妄に、偽って、誹謗します。
『沙門ゴータマは虚無論者であり、存在する有情の断滅、消失、非有を説く』と。
比丘たちよ、私は昔も今も、苦と、苦の滅のみを説いています。
(蛇喩経) スマさんにとって空即是色は「自分にはわからない」なら良かったけれど
「出鱈目」とレッテル貼ってるだけだからなぁ >>113
経典に書いてあるとおりの輪廻があるかはわからないけど
生まれ変わりとかはある程度存在する可能性を考えておいたほうが良いとは思ってるで
その上で無我ということみたいやけど >>118
ブッダの説いた無我という言葉が先行して有情の断滅、消失、非有を説いたと見做されてしまったからブッダは虚無論者だと思われたりもした。 Loving Kindness and Compassion
Random Acts of Kindness - Faith In Humanity Restored - Good People 2019
https://www.youtube.com/watch?v=oYuQLxartcM
Random Acts of Kindness - Faith In Humanity Restored - Good People 2019 Part 2
https://www.youtube.com/watch?v=1VE6v1Xhqic&t=59s
Random Acts of Kindness - Faith In Humanity Restored - Good People 2019 Part 3
https://www.youtube.com/watch?v=H_PU1_vCHV4 >>7
↑コレに尽きる。
川を渡る前に筏捨ててどうすんのか、と。 >>121
どの教えが川を渡る前に筏を捨ててるのかね? 論理哲学的に空の説明を論証した書物なりお経を読んで、その証明過程を
理解した段階で空を体得したぞ、と思い込むケースがね、
非常〜・・・に、多いんじゃないですか。
かくいう私もそうでしたけどもね。
それは空についての概念であって、空じゃないですからね。 お餅の説明を完璧にした論文を読んで理解しましたと。
いいですよ、でもね。
そのお餅食べられますか。 教えが問題なんじゃないんですよ。
教えを解釈した人間自我が問題なんです。
テラワダだろうと大乗だろうと同じでしょ、実践しなかったら。
絵に画いた餅、机上の空論。 >>123
それは空だけではなく無我、無常、苦、などにも言えるんじゃないか?
無我の教えだけを聴いて人間には芯となる実体(アートマン、魂)はないと頭の中で言い聞かせている人も多そうだが。
ちなみに、だが、ヒンドゥー教ヴェーダーンタ学派不二一元論者のシャンカラという聖者は
「知識のみが無明(無知)を滅することが出来る」
「無明が〔ひとたび〕正しい知識根拠によって除去されてしまったならば、どうして再び生ずることが出来ようか」
と説き、修行よりも正しい知識を得ることが解脱には必要とした。
(もちろんシャンカラ自身は瞑想などの修行もしている) そうでしょうね。
善知識との出会いがなければ、妄想概念を永遠に回転させ続けることしかできない
無明のかたまりである凡夫が、偶然悟るなんてことはまず考えられないしな。 >>125
その通り。
いや、自我は自我としてその事が問題であるということに、原理的に気づけない。
原理的に気づけないから、自分で実践して言葉をこえた意識に目覚めて自分の身にするしかない。
釈迦の教えは、只実践であり、人々に説いていた説話は、あくまでも方便。
禅は釈迦の教えを、その身に体得した者が偏見も思想もなしに、実践のみのものとして連綿と繋いで継承してきたもの。
禅は、釈迦を崇めない。祖師を崇めない。信仰しない。信仰という不安の投影をしない。
釈迦は誰の御父上でもなければ、達磨も誰の教師でもない。真実の自己たる無我、無我という言葉以前の究極にして純粋性としての無自己の自己に目覚めるために、付き合いもヒステリックな平和運動もなんぞもいらない。
釈迦の残した、"自己を灯明とせよ""犀の角のように一人進め"を実践することを継承しているものは禅だけ。
あとは、テーラワーダだろうが、大乗だろうが、コミュニケーション・ツール。文化。芸術。
いくら形骸化していこうが、文化の存続として広く禅が残っている日本で、テーラワーダのようなカルトがいちいち出てくる余地はいらない。
賢い人なら偽物とわかる。わからないのは、まだそれだけ本質を見極める観察眼が備わってないだけ。 あ〜あと。
スマナサーラでは、念仏やマントラが、呪文などといってばかにしているようだが。
一心に、一点に唱える事によって、音声と自己が一体になって無自己の自己となる、という瞑想法としてちゃんと有効だから残っているのである。
哲学的解釈として、念仏の意味を考えてどうにかなるものではない。
極端な事を言えば、南無妙法蓮華経だろうと、ナムアミダブツだろうと、コカ・コーラだろうといいのだ。
要は、一点に唱え続けるという瞑想方法だという点にある。
それは、ことばというものはそれ自体まやかしを産むので、そこで言葉を一心にとなえ、いわば"ゲシュタルト崩壊"的な認識を音声に引き起こして、意味に囚われない認識を得るために発声を繰り返すのである。
きちんと有効な瞑想だからあるのだ。 患者とその症状に応じて応病与楽ということが分からないなら、
分かったつもりでまた概念化して固執してるんだよ。 人々はみな機根も違う、波羅蜜が違う。
業が違う、性格傾向が違う、主観(思い込みのフィルター)が違う。
人それぞれに人生の目的というか使命といったものが違う、と言った方が
分かりやすいかも知れない。
そこに自分の尺度を当てはめて裁いているというのは、まだ概念化と
自我の視点からの自由を表していないと思いますよ。 嘘だと思うなら、カラオケボックスにでもいって思いっきり歌うかどこかで同じ言葉を繰り返し叫ぶかしてみればいい。
きっと、なにもかも忘れているということに気づく。その時の自分は、考えている時の自分より無自己である。
現代は、形式的にやっておるが、本来は喉が潰れるまで意識が朦朧としてもやる、という一心さが必要なのである。
なんにせよ、頭だけ立派に詰め込んだ連中が好き勝手に思い込みでやっているスリランカ産のカルトに付き合う必要はない。 信仰対象も観測によって確認された時点で確信に変わる、あるいは体験としての知識に変わるので、
仏法僧に対して信を抱くのは問題ないよ。
それが善知識との出会いの始まりでもある。
信が確立された段階で、依存的な信仰心は脱ぎ捨てられる。
そもそも迷信を信じることと、人間より正しいものを信仰することとは明確に違う。
子どもたちが、誘拐犯と親族や教師とを見分ける必要があるのと同様、信仰と迷信は区別される必要がある。
人智を超えた領域については概念として捉えている段階では、普通は迷信と区別がつかない。
そのため、形式的にも伝統的な仏法僧が残っている必要があるのだと思う。
仏道は素直に進んでいけば、洗脳もマインドコントロールも自然と解けていく。
そういう風になってる。 >>133
それが思い込みだっていうねん。
人智を超えた領域、例えば輪廻一つをとってもテーラワーダ僧と中観の僧と唯識の僧ではそのメカニズムにおいて言ってることが違う。
方便として違うだけではない。
テーラワーダのスマナサーラなどは唯識の阿頼耶識はおかしいとあの手この手で理屈をこねて多数の著書で批判している。
自分はKindleでいろいろなスマナサーラの本を読んでるからそれを知っているw 群盲象を評すにしかならんから、その辺の議論はやらん。
考えるアプローチでは、一生掛かっても解答まで辿り着くのは無理なはず。
構造的に無理。
二次元の紙の上で、立体モデルを解明しようとしてるようなもん。
間接的に分かったつもりになるだけ。
しかも凄まじく時間がかかる。
死ぬ。 >>135
>考えるアプローチでは、一生掛かっても解答まで辿り着くのは無理なはず。
で、考えないアプローチで解答まで辿り着けるの?
何か見えたとしてそれが錯覚である可能性はないの?
釈迦が日本に生まれたとしても悟ったら輪廻からの解脱を説いていただろう、だって輪廻は観察して見えたもので虚ではないから、とでも言わはるつもり? 象がいるのは知ってるし、想像の象との区別もできる。
象の全体を見渡して、知り尽くしているわけじゃないので、その状態で話しても無駄。
少なくとも、自分が仏法を知らないってことは知ってるよ。
その自覚はある。
知識だけの場合、その自覚すらないのが問題。 如来という単語ひとつとってもそう。
昔から如来という言葉は知ってたよ。
如来って、そういう意味か、と。
なるほどなー、て思ってた。分かってる、知ってると。
でもある時、瞑想していたら、あーなるほどなーってなった。
如来って、そういう意味だったのか、と。
なるほどなー、て思ってた。分かってなかった、知らなかった。
いまでも知らないし、分からない。
知らないし、分かってなかったという自覚はある。
これから分かっていくのだという確信のようなものもある。
如ってそれかー、と。
だけど仏教は知らないよ。
ぜんぜん分からない。 其れって何?と言われて、其れは其れだろ。
其れの如し。
これって言語上は100%回答だけど、なんも分からんでしょう。 仏教学者の中村元によれば、「タターガタ」(tathāgata)とは本来、「そのように行きし者」「あのように立派な行いをした人」という語義であり、
仏教・ジャイナ教・その他の古代インド当時の諸宗教全般で「修行完成者」つまり「悟りを開き、真理に達した者」を意味した語であるが、
「如来」という漢訳表現には「人々を救うためにかくのごとく来たりし者」という後世の大乗仏教的な見解がひそんでいて、初期仏教における語義とは乖離があるという[6]。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%9D%A5
想像するのは自由だけどこういう歴史的背景も知っておいた方が良い
じゃないと独善的な論を生み出すかもしれない
そしてそのような独善的な論をもてあそぶものも戯論する者に入るのだろうな はやり教行証と言われるように、善知識から正しく教えを学ぶことと、
その実践とが車の両輪となって無明の河を渡る原動力になるんでしょうな。 ダンマパダ
184 忍耐・堪忍は最上の苦行(修行)である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。
他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は<道の人>ではない。
瞑想も良いですが忍辱こそが最上の修行です。
その忍辱を行するのに日頃から止観の瞑想をして落ち着いた心を育むこともまた肝心ですが。 うむ、あと誰かも書いてたが台風募金がスーパーやコンビニで始まってそこに募金をすることは財への執着を捨てる修行になると思う
そして瞑想は手放していくものだから瞑想での修行は募金する時に惜しむことなく募金するための心を作るにも良いと思うよ
ただ瞑想をして智慧がどうこうと言葉だけで語るよりも、その智慧を活かして財産は無我・非我だから執着せずに施そうとか、
屈辱を受けてるのは我でも我ものでも我がアートマンでもないので耐えられるとか、そういう風に実生活に活かすことが大切なんじゃないかな
それではなく、本当に智慧を完成させてこの世とあの世を共に捨て去りたいと思ってる人は、まずこの世を捨て去る意味で出家か浮浪者になる覚悟を決めることだね インドの呪文は、om オームで始まって、svāha スワーハで終わります、
その点『般若心経』の呪文には om オームがないので、呪文として不完全です。
呪文にはなんの意味もないし、効き目もないけど、om オームが抜けてるからなおさらです。
効き目を期待するなら、 Om gate gate pāragate pāra-saṃgate bodhi svāhaḥと唱えないと。
玄奘訳以外の他の『般若心経』(大品系)には、呪文にオームを補ったものもあります。
「これじゃあマズイ」と誰かが気づいたのでしょう。
とスマナサーラは「般若心経は間違い?」という本で書いているが、果たしてどうか?
不動明王真言
「のうまく・さんまんだーばーざらだん・せんだん・まーかろしゃーだーそわたや・うんたら・たーかんまん」
これにはオームもスワーハ(そわか)もないが
光明真言
「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらはりたや うん」
これはオーム(オン)はあってもスワーハ(そわか)はない
漢訳で消したのではなく元のサンスクリット梵語の時からないのだが
他にも陀羅尼系のお経でもオンやソワカ(ソモコ)が使われてないのもある
マントラの効力の有無は仏教とヒンドゥーで解釈が違うので、呪文に意味はないというのは仏教原理主義的には正しいのかもしれないが、
オームがないからこの呪文は欠陥だとするのはどうなのだろう? 悪友とは交わってはいけないということだけれど、
慈の瞑想で生きとし生けるものに友愛の念を持つということです。
これってどうとらえたらいいんでしょうか?
この点においてなかなかうまく瞑想できません。 >>146
あくまで私個人の理解にもとづいた意見として述べさせて頂きます。
悪友にも慈悲の念を起こすのは、瞑想の話であり、自分自身の心の持ち方の問題だと思います。
一方、悪友と交わらないというのは、人間関係の話であり、日常の社会生活の問題だと思います。
実践の中で気づきを重ねていくなかで、矛盾のない視座が開けてくるのではないでしょうか。 生きとし生けるすべてのものに対して無量無辺の慈しみの心を起こします。(正念)
慈しみの念が起こらない時は、奮起して起こします。(正精進)
日常生活においては、反射的に反応せず、その場その場で適切な言動を選択します。(正語、正業) >>147
ありがとうございます。
理解が深まりました。
まだ消化できない点は多いので、今後も取り組んでいきたいと思います。
教えて下さりありがとうございました。 >>76
>物惜しみをする人は来世において貧乏人となると世尊も言われています
この出典はありますか?あったら教えていただきたいです。 すいません、自己解決しました
人が身体で行ったもの、つまり身体で行った善き行為の報い、
身体で行った悪しき行為の報い、また言葉や心で行ったもの、
つまり言葉で行った善き行為の報い 言葉で行った悪しき行為の報い
また心で行った善き行為の報い、心で行った悪しき行為の報い等
それこそが、その人自身のものである。
人はそれ(自己の為した身体と言葉と心でなした業)を受け取って
(死後の世界 来世に)行くのである。
それは(死後の世界 来世で)かれに従うものである。影が人に従うように。
それ故に善い事をして功徳を積め。功徳は人々のよりどころとなる。
ーサンユッタ・ニカーヤー
お布施をすることや惜しみない施しをすることは善行為であり、
善行為は自分にとっての功徳となり、やがて天に生まれる因となる
ということらしいです 天界に行くってのは、牢屋のなかで出世することだろう。
牢屋から出た方がずっといい、つまり解脱した方がいい。
善と悪というコンセプトのなかで上がったり、下がったりするのは
結局、牢獄の中で浮沈を繰り返しているに過ぎない。
そうした人生に使命や人生の目的を想定しているのだとしたら、
それこそが錯覚なのだと思う。
少なくとも、牢獄で過ごす生に使命や目的などいらない。
まず出所するべきだ。 人生の目的や使命感というのは、真善美や異性を追い求める心と並んで
最大の罠といっていいかも知れない。 >>152
>まず出所するべきだ。
まずは世捨て人となるべきだ
と言ってるのとほぼ一緒
社会からドロップアウトするための自己正当化の理屈だな
もっとも本当に発心して出家して覚りを目指すというのならそれも良いと思うけどね 牢獄はこの五蘊であって、自分の外にある何か、たとえば社会ではないよ。 牢獄を抜け出すとは、少なくともまず有身見を捨てることを勧めています。
この話を、有身見を前提に解釈されることを考慮していないと、うまく伝わらないわけか。
なるほど。 youtubeで預流果について検索したら浄土真宗講義っていうのが出てきて、
見てみたら親鸞や龍樹が預流果に言及していたと知ってビックリした。
大乗とは全然関係ないと思っていたんだけど、違うみたい。
大乗では52の悟りの階段があるけど、親鸞はそれと関係していると考えていたようですね。 わたしもずっと長いこと、初期仏教と大乗仏教は全くの別物だと思っていました。
しかし、ここ数年でその認識は大分変わりました。
空海さんも、「仏法の無二を現ず」といいますし、他宗派では三車火宅の喩えを
もって、同じことを述べているような気が致します。 あるいは、拈華微笑のエピソードもそうかも知れません。 ※知恵袋からコピペ
ビクサンガを釈尊自身が外道=非仏弟子であると判断したことは歴史的・客観的・合理的な事実です(『ディーガ・ニカーヤ』和訳『ブッダ最後の旅』62ページ)。
テーラワーダを主観的に仏教であると捉えたいのなら客観的な釈尊のことばを否定する必要があります。
歴史的・客観的・合理的な釈尊のことばを肯定するならテーラワーダは恣意的・主観的・情緒的にどうであれ合理的・客観的・理性的に外道です。
皆さん感情的に認めたくないだけ、合理的に反論されたことは一度もありません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
ブッダ最後の旅の62ページにそんなこと書いてありませんが? 日本は呪われてる
真敵・職人気質が格差の根元である。
職人、職人気質が格差をつくり、イジメを生み、犯罪を生み、戦争を生み、地域振興を阻害し、治安が悪化し国力が低下する。
職人気質を廃してこそ日本は平和かつ生産的かつクリエイティブな国家になれるのだ
職人気質は存在自体がパワハラです。緊急事態です。
職人気質は悪しき文化
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/rail/1573270987/755
ddf 悟りとは、俗っぽい言葉で言えば、「無常だ」と納得してしまうことです。
普通の納得とは違います。修行してとことん観察して、徹底的に自分の身体の現象、心の現象を観続けるのです 。
「それでも生きていきたい」という自分の心の渇愛を体験して、「なんで生きていきたいか」と観続けて、あるところで、「もう諦めよう。無常だから」と、何かすごい納得が生まれるのです。
それは予想しない瞬間に、パッと瞬時に生まれる心なのです。
悟りの心が生まれる前、人はだいたい、徹底的に落ち込んでいます。
普通の人間には堪えられない、極度の落ち込みに陥るのです。
だから長い間修行をしてしっかりした人間になって、性格が力強いものになって、人間としての基本ができたところで、本当のものが見えてくるのです。
恐ろしいものを見る前には、「恐ろしいものを見ても大丈夫」と言えるだけの精神的な準備が必要なのです 。
(スマナサーラ師) >>162
これ読めばスマが悟ってないことがわかるね >>165
では、もしよかったら悟りを説明しては頂けまいか。 >>165
破壊僧は地獄行き、預流果以上は戒律を守る。
他ならぬ破戒僧スマナサーラ自身がそう言っているんだが。 >>167
比丘戒律の律のことなのか、基本的な戒の話なのかで
大分意味が違ってくるのだが、どの話なんですか。 日本人に差別されたという妄想に取り憑かれた煩悩まみれの破戒僧スマナサーラ
https://youtu.be/1AKWTg1vXFo @YouTubeより >>168
気になるならおまえがスマナサーラに聞け。
おまえは戒と律の違いをきちんと説明しろよ。
どちらもしないしできないんだろ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています