【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践18
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お釈迦さまの教えとサマタ・ヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、 体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、 更なる成長を求めて語り合いましょう。 前スレ 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践17 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1559901710/ ※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会や そこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。 日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など 多種多様な団体があります、 諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違い もあります。 そこを踏まえてご参加ください。 第二章は物質の分別 v i b h ā g aです 。 日本語で 「分別する 」と言うとあまり好ましくないですが、初期仏教・テーラワーダ仏教では、自分たちのことを分別論者 v i b h a j j a v ā d i nと言います 。 大乗は自分のことを大乗仏教と言いますが、そのように我々も自分たちのことをテーラワーダ・上座部と言うよりも、もし威張って言うならば、分別論者だと言うのです。 我々は、存在という幻が消えるところまできめ細かく分析するのです 。 物事をそのまま、全体的に、大乗が言うように「すべては 」とか「一切は」などとまとめて説明することはしません。 そんな大雑把でいい加減な説明は、始めからどうせ間違っていますから。 ー略ー 真実を知るためには、分析するしか方法がありません 。 総体的に大雑把にまとめてみても、いい加減なだけで 、何も分かりません。 テーラワーダ仏教の特色は、本当に、とことん分析してみるということです。 その特色だけは守りましょうということで、「 V i b h a j j a v ā d ī B h a g a v ā .世尊は分析論者だ 」と言います。 分析しないでまとめて 、「すべては梵我一如 」などと言えば、それは邪見・邪教です、と簡単に捨ててしまいます 。 森羅万象の中で同じ一つのものはないかと探すのも、またちょっとした心の間違いです。 もし真剣に調べて、分析して、同じ・不変の一つのものを探そうとしたら、見つかるのは「無常」ばかりです。 あるいは今説明した、積集、相続、老性、無常性の四つの共通項目しか、最終的には見つかりません 。 物質をどんなに探しても梵・ブラフマンも我・アートマンも、神も見つかりません 。 byスマナサーラ(ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―第1巻 物質の分析) >>3 >我々は、存在という幻が消えるところまできめ細かく分析するのです 。 テーラワーダ では、幻(妄想)が消えるところまできめ細かく分析して、残った心、心所、色、涅槃の4つ、法数170が真に存在するもの、勝義諦となる。 https://i.imgur.com/5CXInNi.jpg https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BD%8D >>5 それは言い過ぎ 仏教に劣った教えが有るんじゃ無い 劣った理解者が居るだけだよ 未だに上座部を小乗と見下すのはどうせ日蓮患者だろ? 大乗の面汚しだから仏教を名乗らないでくれる? >>5 大乗仏教を代表する龍樹菩薩は般若波羅蜜の完成には三十七菩提分法の修養が不可欠であるとしました 他の菩薩(僧侶)は三十七菩提分法は声聞(小乗)の修行法だから必要ないと力説している中でのことです >前スレ1000 (https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1559901710/1000 ) >仏陀が説いた相手は古代インドの人々だ >今生で何人分の人生を生きようと思うのか? >古代インド人の人生を パーリ三蔵経典、または戒定慧の三学、四諦八正道に 時代を超えた普遍性を見いだせない、という意味ですか? 2500年前が古くて、現代が新しいと思ってるのか。 まぁそうだけど、視野と視点が人間的すぎる。 本当に智慧まで達してるのかかなり疑わしい。 2500年とか、うたた寝ぐらいの一瞬じゃない? 仏教で言う幸福は、身体に依存するものではなく、心に依存するものでさえないのです。 心とか身体のために求めるものではないのです。 我々がヴィパッサナー(観)瞑想をずーっと続けていても、それによって求めているものが、身体がよくなるのではないか、健康になるのではないかとか、 そんなことばかりでは、それは仏教の幸福とは相反する性格ですから、どうにも進歩はありません。 瞑想の中で何か安らぎというか、何も求めない心、落ち着いた心 、火が消えた心が生まれたら、それはよいことですが、 それは身体や心の快楽とはまったく別のものと思った方がよいです。 すべてを捨て去る心が生まれないといけません。 身体に基づいて幸福を味わおうということでなく、こんなくだらない身体はどうでもいいやという気持ちにならないといけません。 心についても、心をなんとか鍛えて、智慧を発達させて才能抜群の人になろうということではなく、 瞬間瞬間に変化するこんな心はとんでもないゴミだと気づいて、心を入れ替えないと、本当の解脱の世界は見えてきません 。 byスマナサーラ(ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―第1巻 物質の分析) スマナサーラ長老はもう禅定なんか私はやりませんよと仰っていたけれど それって八正道を守ってませんよね、卒業したということですか? スマナサーラ長老は阿羅漢なのですか? >>8 パーリ三蔵経典という言い方はおかしい。 パーリ三蔵というのはパーリ語で書かれた阿含の経蔵、分別説部のアビダルマ論書のパーリ論蔵、それとパーリ語の律蔵、の三つで構成されている仏典群のはず。 パーリ語の阿含(ニカーヤ)はともかく、パーリ論蔵やパーリ律蔵なんて日本人の仏教徒でもテーラワーダ 僧侶や学者を除いて読んだことある人は少ないんじゃないの? パーリ論蔵よりもどこかの部派の三蔵には入らない中論や清浄道論の方が読まれてそうだが。 ここで赤の他人が推測してても仕方がないので、本人に直接聞いてみて。 ただ、スマ長老がしゃべってくれなかったら、いまの日本で現代人に向けて 日本語でストレートに説教できる人って、そうそう居ないと思いますよ。 現代人のほとんどは自分が賢くて正しいと思ってて、悟りの智慧とオカルトの 区別もできない状態だからね。 大事にした方がいいです。 >>17 貴方が書いた>>15 のレスの後段も随分と尊大な書き方だよ。 自分はそれに合わせただけ。 悟り智慧について説明できないのならしなくてもいいよ。 わたしの理解するところでは、智慧は概念ではなく洞察、知識ではなく体験なので、 言葉を解釈して概念化したものではないと思います。 言い方を変えると、わたしの言語運用能力では表現、伝達できません。 ただし、無明に基づく主観的な解釈が入り込む余地がないほど徹底した分別と、 正確な分析ができるのでない限り、という但し書きがつくのでしょうけれども。 それをやっているのがアビダルマ(論蔵)なのだろう、と理解しています。 >>19 なるほど、ありがとうございます。 では、その説によれば、体験が無明に基づくオカルトではないと分別できるようにアビダルマの勉学をしなければなりませんね。 それと、その言語運用能力を駆使して表現、伝達する智慧を後得智などと大乗仏教では呼称します。 有名な般若心経の色相是空に続く空即是色が後得智であり、これがないと智慧は完成しないとされています(あくまで大乗仏教の話)。 https://www.e-sogi.com/guide/14635/ >(A)(色即是空)は言葉によって実体に執着することを否定する智慧の段階を表現しています。 >それに対して、(B)(空即是色)は何も存在しないという極端な考え方を否定すると共に、言葉のない体験に執着することも否定する智慧の段階を表現しています。 >(B)は大乗仏教が重視する智慧で「後得智」と呼ばれるものです。 >言葉による 認識はあっても、それらを実体視せず、執着もない状態であり、最終的には、言葉のない直観的な認識と言葉をともなう認識が完全に一致・両立します。 >この智慧があってこそ、人を救うことができるのであって、小乗仏教の阿羅漢とは異なる大乗仏教の仏の智慧であると考えられました。 知能指数が200以上あると説明されている苫米地博士によると 般若心経は間違っているということだけど、彼がここで般若心経について肯定されていることについて どう言うのか興味があるね。 特にスマナサーラ長老も指摘していた、空即是色は間違っていると主張しているんだけど。 無著や世親も阿羅漢だったそうだから、テーラワーダ仏教が小乗仏教なのではなくて 方便力のある解脱者と、ない解脱者との違いがあるだけじゃないの? しかも後得智というからには、段階的に身につけていくものでしょう。 小乗仏教という概念を実体視しているのは、自分は大乗なんだという執着(見取)から でてくる幻想でしかないと思うんだけど。 智慧が無いのに後得智の勉強だけして、おれたちは大乗なんだって威張ってたら そりゃ形骸化して没落するよね。 >>22 概念を実体視してるのは一部だけでしょ? ちゃんと調べる人は説一切有部が現存しないって知ってるから 上座部を小乗と呼んだりしないし 自分を龍樹と同じ位相だと勘違いする人も多くは無いですよ 小乗の呼称を用いた日本の記者にダライ・ラマ倪下が「小乗と呼んではいけない 根本仏教と呼びなさい」とたしなめられた話も知る人ぞ知るです 大乗を学べば学ぶ程に根本から学ばないと流れの解らない所とか出てくるので 真面目な人ならスッタニパータやダンマパダを読んだりしてますよ >>21 彼の超訳般若心経はスマナサーラ同様に空を概念視しているから余計にぎこちなくなってしまってますね。 概念を否定したものを空というのに空は色の上位概念であるという把握で超訳般若心経を作ってしまったからぎこちないのですよ。 直リンは貼れないので 苫米地 般若心経 超訳 でググってください。 空包摂無はYouTubeの苫米地氏の般若心経批判の動画では空包摂有無だったような気がしますが、どの道この説明文は不要でした。 数学者らしく公式に当てはめようとして表現するのが良くないのだと思います(もっとも、良くなと思ってるのは私であって、彼は良いと思っているでしょうが)。 色即是空の根本智を得るためにも空包摂無(空包摂有無)の言葉は余計だと思います。 >>22 無著は化地部、世親は説一切有部の出身ですからテーラワーダは関係ありません。 もっとも、テーラワーダ側ではスマナサーラが世親が書いた唯識三十頌にある阿頼耶識を批判していますw 後得智はその通り、根本智を得た後に得る智慧です。 後得智 pṛṣṭha-labdha-jñāna पृष्ठळब्धज्ञान (S) 仏教の説く智慧の一つで、「根本無分別智」の後に獲得される智慧。 根本無分別智とは究極の真理である一味・平等の真如を無分別に見る智慧のことであり、その根本的な智慧を得たのちに、ふたたび現象的な差別の世界を分別をもって眺める智慧のことを後得智という。 真如を見る以前の「分別智」とちがって、この後得智はすでにそのなかから汚れがとり除かれ、清浄になって世間を観察するから、詳しくは「世間清浄分別智」とよばれる。 この智によって具体的に世間の中で人びとを救済することができる。 http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%94%E3%81%A8%E3%81%8F%E3%81%A1 根本無分別智とは究極の真理である一味・平等の真如を無分別に見る智慧→色相是空 その根本的な智慧を得たのちに、ふたたび現象的な差別の世界を分別をもって眺める智慧のことを後得智という→後得智 小乗仏教という概念を実体視というのはどうでしょう? 小乗仏教は歴史的に使われていた言葉ですからね。 穢多非人という概念を実体視するな、と言われても「そりゃ概念ではなくて実際に使われてきた言葉でしょう、でも今は人に向かって穢多非人を使うのはやめましょう」と返すだけですよ。 ただし、大乗側は自らを大乗とは称しましたが、対立する部派を小乗ということはあまりしなかったようですが。 小乗 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E4%B9%97 (語の成立と用法 参照) 般若経註釈文献における「小乗」につ い て https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/64/2/64_KJ00010250881/_pdf それともう一つ、何でもそれは概念に過ぎないというのはテーラワーダでもNGなはず。 世間で使われてる常識的な存在や用語は世俗の真実、世俗諦として認めるというのが、部派仏教以来の仏教の伝統で、もちろんテーラワーダもその例に漏れてはいません。 https://i.imgur.com/38q1pTS.jpg https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/64/2/64_KJ00010250881/_pdf 日本人は漢文経典の多くを鳩摩羅什訳で読んでいるので(特に日本で人気の法華経は鳩摩羅什訳のものでしょう)、本場インドよりも小乗を多用した可能性はあるようです。 ただ、本場インドでも小乗は使わなくても声聞乗は多用していたとは思います。 >>26 の訂正 >その根本的な智慧を得たのちに、ふたたび現象的な差別の世界を分別をもって眺める智慧のことを後得智という→後得智 ↓ その根本的な智慧を得たのちに、ふたたび現象的な差別の世界を分別をもって眺める智慧のことを後得智という→空即是色 みなさま、興味深いお話を聞かせて頂き大変ありがとうございます。 個人的には、中論を読んで自分は大乗だと威張ってる人が声聞だよな、とは思ってます。 個々の仏教徒の資質を離れて、大乗仏教、小乗仏教というものがあるとは思っていません。 >>30 スリランカで大寺派、今のテーラワーダだけが残った理由は王権と結びついて大寺派以外の二つの部派の大粛清に成功したからで、個人の資質とはあまり関係ないと思いますよ。 まあ、王様の資質・気質とそれに取り入った大寺派の僧サーリプッタ(もちろん舎利弗とは別)の政治的資質は大いに関係しているとは思いますが。 自分の外にある形式的なものが仏教だと思っているんだね。 個人の資質云々の前に仏教に触れたことがない人は仏教を知らないでしょう。 仏教は自分の外からまず来るんですよ。 スリランカで大乗仏教や密教が廃れてしまったのは信仰していた人が自主的には改宗したからではありません。 外からの力で改宗させられたのですよ。 個人の資質ではどうにもならないことですよ。 これは歴史的事実ですからね。 話の腰を折って申し訳ないんですが、わたしのことをスマナサーラ長老の信者か スリランカのテーラワーダに所属していると思ってるようですけど、わたしは そこに所属していません。 昨今の日本仏教の残念なところは、せっかく大きな乗り物があっても 岸からどこにも渡っていないケースが多いようにみえることです。 一方、たとえ1人乗りの舟でも、100人が渡り越せば、動かない舟よりも よほど役立つと思います。 スマナサーラさんのことそんな風に言うなよ テーラワーダの理論に則って、般若心経は私には読めませんと言ってるだけだぞ 尊大でも高慢でもない >>35 え?日本の仏教が一番渡れるのですが。 死んだら凡夫でも四十九日の中宥の間に仏弟子となって四十九日後には仏になれるのですから。 あるいは、阿弥陀仏の本願を信じて正定聚を得れば死んだら浄土に渡り即涅槃です(もちろん凡夫でも可)。 あるいは題目を唱えれば即身成仏できます。 日本仏教が一番渡れますよ。 渡れるならいいよ。 ただ、仏道修行をするために人間に生まれてきてる人もいるんだから、そういう 生きてるあいだに智慧の開発をしている人々に向かって小乗呼ばわりは、やっぱり 何か勘違いしているというか、わかってないんじゃないかと思ってる。 >>40 テーラワーダでは今生で智慧を開発して直ぐに解脱できると言ってますか? だいたい7回転生する間に仏道修行を欠かさなければその間に、遅くとも7回目の転生には涅槃に入れるというのがテーラワーダでしょう。 >>41 はい、それは勘違いでいいのではないでしょうか。 >>42 経典には、今世で阿羅漢になった比丘のお話はたくさん載ってますけども。 お釈迦さまが大念処経でおっしゃってるのは、これをやったら今世で涅槃に行けますよというお話ですよね。 それは違う、と信じて疑わないのは我々凡夫の勝手であって、お釈迦さまの話を素直にそのまま受け取れば 何も難しいことや不可能なことは言ってないと思います。 お釈迦さまの話が理解できない(しない)から、大乗仏教が必要になったのであって 仏説をダイレクトに受け止められる人には、わざわざ仏説を捨ててまで他の方便(処方箋)を 選ぶ理由がないんですよ。 本気でやれば7日で一皮むけるぐらいのことは起きます。 これについては、「思います」ではなくて自分自身の経験に基づいて 言い切れます。 >>45 それは出家者向きの教えで、出家するためにはまず物欲を断つために無所有となって執着を捨てることが必要(三衣一鉢など生きるための最低限の所有のみ許される)。 貴方のようなスマホ若しくはパソコンを捨てられない人のための教えではありません。 そのような物を所有している限り智慧の開発は無理だと思いますよ。 貴方は智慧を得たいのですか?そうでないのですか? 【中部 三明ヴァッチャ経】 ある時、釈迦たちはヴェーサーリー近郊のマハーヴァナ(大林)クーターガーラ(重閣)講堂に滞在していた。 そこに外道の修行者ヴァッチャが訪れ、仏陀は何でも知っている者であるのか問うと、釈迦は正確には三明を備えた者が仏陀だと答える。 釈迦は更に、ヴァッチャの質問に答える形で、在家は天界へは行けるが、涅槃には到達できないこと、 外道ももちろん涅槃には行けないが、天界に至った者は例外的に一人いたと答える。 ヴァッチャは歓喜する。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%98%8E%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A3%E7%B5%8C 思考も感覚も手放した状態に、自己や、自己の考えや、自己の所有物なんてものはありません。 >>49 禅の指導でも基本的には同じだと思いますが、 経典の記述、長老の判定、瞑想体験あるいは観測されたものとの整合性だと理解しています。 参考までに、在家での修行については経典にも在家預流果の存在が示されています。 在家でも可能か不可能かと問われれば、ある段階までは可能なことは確かなようです。 ここは多少推測も入りますが、 瞑想中の比丘は袈裟や鉢すら心の中で捨ててると思いますよ。 >>50 >在家は天界へは行けるが、涅槃には到達できない 浄土宗も、いったん浄土を挟んでからの涅槃でしょう。 同じことではないんですか。 多分ですが、浄土で八正道(四念所)やる羽目になると思います。推測です。 >>39 >題目を唱えれば即身成仏 佛随念によるサマーディとか、そういうことでしょうか。 日蓮宗の信徒さんたちのなかに、外からみて明らかに佛になったと 分かるような事例も知らないし、ちょっと判断できません。 >>51 それは完全に解脱した人の話であってあなたは違うでしょう。 それに完全に解脱した人でも所有は許されてはないですよ。 少なくともパーリ律では比丘の財産の所有は禁止です。 >>52 貴方はその経典の記述、長老の判定、どちらとの整合性でオカルトではないと確信したのですか? あと在家では預流果がやっとでは、やはり日本仏教の方が渡れるということですか?w ちなみに大パーリニッバーナ経に出てくるナーディカ村の釈迦の直弟子の優婆夷・優婆塞は預流どころか後の部派仏教で不還と呼ばれる所まで達した優婆夷・優婆塞がたくさんいますよ。 しかも、この経典成立時はまだ四向四果の概念がないらしく、不還で般涅槃です。 もちろん優婆夷・優婆塞といっても三結を断じて尽くしていたり、五下分結を滅尽してので、そういう位に達したのは言うまでもありません。 (ちなみにこの経典には五上分結という言葉も出てこない) 凡夫の優婆夷・優婆塞では到達できないということです。 >>53 瞑想中は自由、それと実生活で所有欲という煩悩を滅することができるのかは別です。 少なくともスマホを手放せないようでは煩悩を滅することは出来ないと思いますw >>54 それはインドや中国の浄土教。 極楽浄土にはスマホはもちろん、あらゆる煩悩の根源がなく、また諸仏が直接指導するので娑婆世界よりも涅槃に容易に至るとされています。 しかし、日本の浄土真宗では浄土即涅槃(この場合は往生したら即仏)、時宗では阿弥陀仏の本願が成就した時点で信不信を問わず死後の往生決定。 どの道凡夫でも仏になれること確定です。 題目は分からなくてもそれによって救われて苦滅に至れば彼岸到達です。 >>55 サマディに入った段階で欲界の自己は一時的にせよ消えますからね。 問題はそこから先ですが。 在家に比丘戒律を守れとは誰も言っていないはずですし、言う人がいたら完全に勘違いというか 門外漢ですな。 いずれにせよ、知識だけあっても中身がない状態で、中身に取り組んでいる人々を蔑む というのは根本的に間違っていると思いますね。 フィギュアファンが、フィギュア選手を見下すようなものというか。 そんなことをしているようでは駄目です。 >>55 パソコンって道具ですよね。 筆や硯や紙は道具ですよね。 昔のお坊さんは、何でお経を読み書きしていましたか。 >>5 >諸仏が直接指導する わたし(佛)を見るものは法を見る。 法を見るものはわたし(佛)を見る。 最初っからそう言ってますし、わたしは同じだと思ってます。 実際、ちょくせつ見ます。 見るというか一体化します。 とりあえず私としては、現代人として、原始仏典にあたれるというのはありがたいです。 昔の人は何が原始仏典なのか解らなかったわけですし、そもそも字が読めない人が大半なわけですから。 三十七菩提分法、八正道、観瞑想、止瞑想、など大事なことは何なのか分かりますからね。 自分としては、現代人として、それらが分かっていることはありがたいことだと思っています。 異論はもちろん受け止めます。 原始仏教にある智慧を得るとどうなるか? 長老偈テーラーガータの常套句 >そののち、わたしに、根源のままに意を為すこと(如理作意:固定概念なく思い考えること)が生起した。〔世俗の〕危険は明らかと成り、厭離〔の思い〕は確立した。 智慧とは世の実相をありのままに観ること、観ると無常や無我が皆苦などが概念ではなく確信的なものとなり、この長老方のように世を厭うようになる。 この世を捨て去り出家するようになる。 しかしインドでは出家した聖者は自ら生産しなくても托鉢行で命を繋ぐことはできる、他人の生産に依存しているので他力本願ではあるが。 現在のテーラワーダもこの形で食べていける。 しかし日本では厭世、厭離の思いはニートもしくはピッピーへの道かやはり出家への道しかない。 出家の場合でも托鉢には頼れないので社会性は保たないといけない。 それでもニートやピッピーのように軽蔑の眼差しを向けられることは、生臭坊主でない限りはないが。 智慧を深めれば深めるほど厭世観が強まり出家以外はニートやピッピーへの道まっしぐらになる。 だから出家を心がけている者でない限り、智慧(仏智)などに過度な価値を置くものではない。 大乗仏教の場合は空即是色で世俗に還ってこれるので、般若波羅蜜でいくら智慧を深めようとも大丈夫とされているようだ。 >>59 どのような姿ですか? 差し支え無ければ教えてください インドだからとか言わないで 日本でもやってみればいい 生活することが目的じゃないんだし 人が一日生きるのに 食べ物さほど要らないよ 私は日本でも今も そんな風に生きて死ぬ 人が居ると思う 会う機会はないけどね 似たようなことやってないと 会う機会は生まれない >>58 スマホやパソコンで5chの宗教板に書き込む場合、スマホやパソコンは道具は道具でも戯論をもて遊ぶための遊び道具。 まあスマホなどを純粋に通信におけるコミュニケーションの手段として使ってる人の場合でさえも、 瞑想合宿なるものに行ったらスマホは取り上げられるみたいですけどね。 現代では智慧の道は大層難しいよ 贅沢に慣れきっているからね 木の実だけ食べて生きていけるならともかく何度決心しても肉体を私だと思う感覚は抜けないよ インターネットも法を語り合う道具としては良いんじゃね つか、在家一般の指導だと、怠惰に気をつける、遊びほうけない(やることはキチンとやる) 見せ物に耽溺しない、みたいなのは言われるけど、そこまで厳しくない印象なんやけど >>61 般若って知識ではないので、瞑想しないで勉強だけしてても 般若波羅蜜にならないのと違いますか。 >>62 慈悲の大海でした。 しかし、瞑想の段階や、修行者の状態に応じて様々な見え方があり得るのかも知れません。 その辺は分かりません。 >>61 また、>>7 の >龍樹菩薩は般若波羅蜜の完成には三十七菩提分法の修養が不可欠であるとしました との指摘に関しては、どのように考えておられますか? 般若心経は、観が自在な菩薩(だからこの経では観音菩薩ではなく観自在菩薩となる)が空観という瞑想によって、 深淵なる般若波羅蜜という修行を完成(多)させた時に(行深般若波羅蜜多時)五蘊はみな空であることを正しく見極め一切の苦厄から解脱したことを説いているお経。 (参考) 般若心経は観の瞑想の勧め https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=15480& ;id=37298927 般若波羅蜜は六波羅蜜の最後だから他の五波羅蜜の修行は既にしていて、般若波羅蜜の完成による六波羅蜜の完成で無上の覚り(得阿耨多羅三藐三菩提)に達する。 無上の覚り(得阿耨多羅三藐三菩提)× 無上の覚り(阿耨多羅三藐三菩提)◯ >>71 補 般若波羅蜜は智慧波羅蜜とも呼ばれるが、他の五つの波羅蜜も畢竟智慧の育むための行であるので般若波羅蜜に含まれると言える。 波羅蜜 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C 龍樹は『宝行王正論』[注釈 2]においてこの6項目を以下の3つのカテゴリーに分けて解説している[6]。 布施・持戒 -「利他」 忍辱・精進 -「自利」 禅定・智慧 -「解脱」 龍樹によれば、釈迦の教えとは要約すれば「自利・利他・解脱」の3つに尽き、「自利・利他・解脱」はすべて六波羅蜜によって包摂されるため、 阿含経に根拠を持たない大乗独自のこれら六波羅蜜も仏説であるという[6]。 空とは何でしょう? ―中観派の教えを学ぶ― http://www.chisan.or.jp/chisanha/center/forum/detail/id=355 これは空を学ぶのに分かりやすくて良いページ 空は概念ではないので体得するしかない 維摩経ではまだ空という言葉が使われてないが似たような概念を不二という言葉で表し、この不二の説明を最後に求められた維摩は沈黙をもって答えとした 空というのも本来的には言葉では説明できないものでそれでもなんとか説明しようとすると不とか無とかの否定形でしか説明できないことになる 上のページはそこまで書いてはないが結局は同じことをより丁寧に書いていると思う >>74 ほぼ同意だけど >空は概念ではないので体得するしかない ここは 空は概念でしかないので(本質を得るには)体得するしかない じゃないかな? 仏教徒なら瞑想などの修行も良いけど物惜しみせずに財を手放すことによって執着をなくしていくことも大切です。 もちろんただ散財すれば良いというのではなく正しいことのためにお金を使うへぎとは思います。 そこで、今回台風の支援募金をスーパーやコンビニなどでしていますが、買い物した時の釣り銭を募金箱に入れるなどしてみるのはいかがでしょう。 余裕がある人は赤十字やYahooその他にまとまったお金を募金するのも良いと思います。 物惜しみをする人は来世において貧乏人となると世尊も言われています。 >>74 いいですね! 「空」がブッダの哲学と矛盾するものではない、ということが端的に説明されていて良いページだと思いました。 同じような趣旨の本として下記もおすすめです。 史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309414812/ ヤージュニャヴァルキヤ→釈迦→老荘思想→龍樹→大乗仏教 と時代を経て登場した東洋哲学の思想はお互い矛盾するものではなく、覚者が到達した同じ真理をどのように伝えるか、その「変奏」の違いである、ということが分かりやすく述べられていて目から鱗でした。 >>74 >自我と我所(自我の所有するもの)が空であると観察する「空三昧」、 >無常を知るために事物には固定した特徴がないことを観察する「無相三昧」、 >過度に期待することなく願い求めるものがないことを観察する無願三昧の、 >三つの瞑想を実践する「三三昧」が説かれるようになります。 oh... 完全にニンジンケーキ。 「釈尊のことば」 真理を伝えることは他のすべての施こしにまさり、真理の妙味は他のす べての味わいにまさる。 真理によりうける喜こびは他のすべての喜こびにまさり、欲望に打ちかつ ものは、すべての苦渋をのりこえる。───『真理のことば354』 仏教の中での施こしには次の三つがあります。 1. アーミサ ダーナ 物を施こす 2. アブハヤ ダーナ いのちを守る 3. ダンマ ダーナ 真理を伝える [1-3] ─ものの施こし─ アーミサ ダーナ、いろいろなものを施こすことは宗教に係る者すべて の行っていることで、きわめて当然のことであります。 食料、衣料、住まうところなどが、その不足で困っている人々とか難民 などに各種の宗教団体、社会団体の手を経て施こされています。 飢えた人々や渇えた人々にその飢えや渇をみたすことは、疑いもなく良 いことであります。このような施こしは、仏教においてはきわめて大事な ことであって、アーミサ ダーナといわれるものであります。 ─いのちを守る─ 次はアブハヤ ダーナ、火事や水害或いは襲われたりして危険にさらさ れている人々の生命を守ることであります。時として輸血の不足から死に 至る人々のことを聞きますが、血液を施こし他人の生命を教おうとするの はたいへん良いことであります。 眼や腎臓の施こしも仏教においてはたいへんよいこととされております。 これらのことはアブハヤ ダーナとよばれるものであります。 [2-3] ─真理を伝える─ 最後にダンマ ダーナ、真理を伝える、或いは教理の弘宣とよばれるも ので、あらゆる施こしのなかでもっとも大事なこととされるものでありま す。 真理を伝えることは釈尊の教えを人々に教え、語り、誤まった道から離 れさせ、正しい道へと導くことであります。何が道徳に沿わぬかを教えた り、釈尊の教えについてはなしあいや学習のつどいをひらいたり、脈々と 生きつゞけている釈尊の教えを刊行したり、図書センターを設けたりする ことであります。 人は、出来得る限りの方法で衣食住薬をすべての釈尊の弟子達に扶け与 えることができるでしょう。また市中の困っている人々にいろいろな物を 施こし与えることもできるでしょう。しかし釈尊の教えの中の、たった4 行の詞句で、人々を正しい道に立たせられるのなら、これこそ最善かつあ らゆる施こしの中で最高のものといえるのではありませんか。 聴く者に、教えを説き、光明を与え、確信をもたせ得る人はそう多くは いないでしょう。しかし真理への道を書き記した書籍は、仏教を広めるの にたいへん重要な役目を果しています。 [3-3] 以上、千葉県にある蘭華寺の前身、日本・スリランカ仏教センターが東京 で活動していた頃、頂いた書「Buddha's Teaching」の巻頭言からでした。 >>75 空は世俗諦として概念ということもできるけど、本来的にはあらゆる概念を否定したものが空なので、 空を実体視するのはもちろん概念視こともできないんじゃないかな!? >>77 ありがとうございます🙏 面白そうな本なので読んでみます あらゆる概念を否定したというのはどうかと 概念は空から生じてくるものでしょうから >>84 空は世俗諦として概念(戯論)ということもできるけど、本来的にはあらゆる概念を否定したものが空なので、空そのものを実体視するのはもちろん概念視こともできない 空という言葉は概念、しかし言葉が指し示すものは概念を否定したもの 夢相、無分別、無差別など否定形でのみその相を表すことができるもの 中論 24-7の考察 さあ、これに私たちは答えよう。 あなた方は、空のもたらすものも、空そのものも、空の意味もわかっていないのだ。だからあなた方はこのように論難するのだ。 24-8の考察 二諦をもって、すべてのブッダは法を説かれた。世俗諦と勝義諦だ。 24-9の考察 この二つの真理を区別できない者は、ブッダの法の深く微妙な所をまだ理解しているとは言えない。 24-10の考察 世間の言葉に頼らなければ究極の真理を説くことができない。 究極の真理に到達しないなら、涅槃を体認することはできない。 24-11の考察 不完全にとらえられた空は、智慧の浅い者たちをつまずかせることになるだろう。ちょうど、不完全に捕まえられた蛇や、半人前の魔法が人を害する結果になるように。 24-12の考察 だからブッダも、その法が智慧の浅い者たちによって誤解されることをおそれて、伝道をためらったほどだ。 1.布施波羅蜜 2.持戒波羅蜜 3.忍辱波羅蜜 4.精進波羅蜜 5.禅定波羅蜜 ←ココまでがあって 6.智慧波羅蜜 ←初めてコレ 三学 戒 ←コレと 定 ←コレがあって 慧 ←はじめてコレ 戒 ・・・ 持戒と忍辱 定 ・・・ 精進と禅定 慧 ・・・ 智慧 分類が違うだけで、中身というか本質的な部分は、実は全く同じだと思う。 法然 経典にはさまざまな教えが説かれているが、詮ずるところ、戒・定・慧の三つの修行法に集約される。 小乗と大乗、顕教と密教、それぞれにこの三つの修行方法がある。 ところが私自身は、戒(不殺、不盗などの仏教の戒め)に関しては一つの戒すら守ることができない。 定(精神集中の修行)についても一つも体得できなかった。 ある高僧が言うには、「戒(インドの言葉でシーラ)が清らかに守られていないと、心の集中状態は現れてこない」とのことだ。 また私たち凡夫の心は、ものごとに引きずられて移ろいやすい。それはまるで、猿が枝から枝へと動いているようなもの。 まことに散乱して落ち着きが無く、一処に静まりがたい。 このような状態で、煩悩に汚れぬ正しい智慧が、どうして起こり得るだろうか。 もし汚れなき智慧の剣がなければ、どうして悪業や煩悩の絆を断つことが叶おうか。 悪業煩悩の絆を断たずして、どうして迷い苦しみの輪廻世界から解脱することができようか。 ああ、まことに悲しき哉、一体どうしたらよいのだろうか。 「私のような者は、もう戒・定・慧の修行を全うできる器ではない。この三種の修行法のほかに、私の心に相応しい教えがあるのだろうか。 私の身体でも行なえる修行がはたしてあるのだろうか…」 かように思い直し、多くの賢者の教えを請い、様々な学者を訪ね歩いた。 だが、それを教えてくれる人はおらず、道を示してくれる仲間もいなかった。 そこで、歎き歎き経藏に入り、悲しみ悲しみ経典に向かい、みずから手に取って開き見た、 善導和尚(7世紀中国の高僧で、法然上人が師と仰いだ)が書かれた『観経疏』という本の中に見出したのが、次の一文である。 「一心に専ら阿弥陀仏のお名前を念じなさい。 行住坐臥、日常生活のどのような状態にあっても、時間の長短を問わず、片時もやめてはならない。 これを正定の業と名づけよう。かの阿弥陀仏の本願にしたがう行であるゆえに。」 その後は、 「私のような無智の身は、ひとえにこの一文を仰ぎ、ここに説かれる道理を頼みとしよう。片時もやめない念仏行を修めて、必ずや極楽往生を得るための備えとしよう」 と心を定めたのである。 https://www.rinkaian.jp/column_archive/c201108.html >>88 念仏もテーラワーダの実況中継も一緒のようなものなのかもしれませんね しかしスマナサーラの般若心経の本は酷すぎて笑えるな 空即是色、大乗の勝義諦と世俗諦、これらが全く理解できてないから般若心経は虚無主義で修行の役には立たないどころか有害だなどと書いていまうんだな まあテーラワーダの理解はこの辺までというのを示すには格好の本だとは言えよう 他のテーラワーダ僧はスマナサーラほど酷くはないとも思うがね >>91 智慧も慈悲もない、怒りからの陰口・悪口。 大乗仏教というより、日本仏教の形骸化の問題をよく示した発言じゃないかな。 >>92 いや、実際に本を読んでみれば分かるが単に般若心経は欠陥だらけであることを指摘しているだけの本。 日本仏教は関係ないよ。 一つ、部派仏教系・小乗系では空は無常苦無我のことだが、大乗になると空は無分別であるから平等という観念も出てくる。 そこに踏み込まないから、般若心経の不生不滅不増不減不垢不浄は単なる言葉遊びの観念論で意味がありませんと言ってしまうんだろうな。 大乗の観点で読むと是故空中が最初についているのだから不生不滅不増不減不垢不浄で当然となるんだけどね。 空即是色は“小乗”の智慧が完成した後、八正道を回していけばついてくるので “大乗”という区別も悟っていない段階の人の頭のなかの概念でしかない。 小乗仏教という、頭の中のわら人形と戦ってる時点で そして普遍的真理に大小優劣をつけている時点で、自分自身が小乗になってる(平等に達していない)。 悟りに達するまでの八正道の実践と、悟りに達した後の八正道の実践とでは、 実践の在り方に質的な変化がでてくるはずです。 個人的な経験として言える範囲で言い換えれば、智慧が出てくるまでの八正道と 智慧が出てきてからの八正道とでは、質的な違いがあります。 例えば医療に関して言えば、患者、医学生、医師、教授という立場の違いはあっても、 医学そのものに大小があるわけではありません。 仏教にも、患者の立場もあれば、教授の立場に相当するものもあります。 仏教そのものに大小があるわけではありません。 普遍的真理に大小優劣があるのではなく、普遍的真理“について”の概念に 区別がついてまわるのではありませんか。 小乗仏教に対比して大乗仏教が優れているのではなく、 大乗仏教に所属しているという自意識に基づいて、ありもしない小乗仏教をでっちあげ 他の仏弟子を蔑むという、その行いが小乗なのです。 >>94 ごちゃごちゃ書いてるけどスマナサーラは空即是色は間違いと言ってる、それは恐らくはテーラワーダの教理では空即是色はないから、だから般若心経を読み取れない、畢竟それだけの話ですよ。 >>98 >スマナサーラは空即是色は間違いと言ってる、 >それは恐らくはテーラワーダの教理では空即是色はないから それは単純に論理飛躍ですよ。 スマナサーラさん個人をテーラワーダ仏教全体に敷衍して断定している時点で間違い。 般若心経を否定しているテーラワーダ僧侶は、むしろわたしの周囲では見かけてことがありません。 空即是色が分からないと空が分かっていないというのであれば、 仏陀金口の仏説は空即是色そのものですから、仏説を小乗と蔑んでいる時点で 空が分かっていないと自白しているのと同じなんです。 >>100 >仏陀金口の仏説は空即是色そのものですから、仏説を小乗と蔑んでいる時点で 誰が仏説を小乗と蔑んでいるの? 般若心経は間違いは仏説なの?テーラワーダは全て仏説なの? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる