ということで、明治初めの日本語のキリスト教書を見ると、ほとんどが「神」または「真神」、「真(まこと)の神」という言葉を使用しています。
絶対主という概念をまったく持たない日本人には、本物の神、という説明をする方が話が早かった、というのも、もしかするとあったかもしれません。
 しかし、「神」という言葉を使用した瞬間に、絶対主Godは相対の位置に引きずり降ろされることになりました。
この世の中、世界を超越する絶対主であるもかかわらず、八百万の神の一柱になってしまったわけです。
その昔から、日本でも絶対ではないけども、一番偉いような神仏というのは存在しました。神道で言えば初源の神である天之御中主大神、国常立尊、あるいは天照大御神ですし、
仏教では全世界が仏である、という思想の大日如来や、これだけに頼めと信仰された阿弥陀如来などですが、これらはすべてGodのような唯一絶対、万物を超越する主ではありません。
ですから、神と訳してしまうと、真の、とかを付けても同じで、八百万の中で一番偉い神、としか認識されなくなってしまいます

明治維新以後、また第二次大戦後にも日本において、キリスト教の布教が熱心に行われました。
投下された人的資源、お金、そして布教者の熱意は相当のものだったと思いますが、信者はあまり増えませんでした。
理由は多々あると思いますが、私はこのGodに「神」をあてたことも一因であると考えます。

絶対主Godが八百万の神の一柱になってしまえば、キリスト教は理解できません。
そういう面では戦国時代の宣教師達の方が正解であると言えます。