悟りは有り得ない。
自我を消す無心の坐禅を続けることに意味がある。無心に成れたという思いがあること自体、無心に成れていない証拠である。
公案に答える者は自我が残っている。自我を消すなら、公案は受け流すのが妥当である。
これを批判しても事実は変わらない。