明治7年、おふでさきで、やまいたすけの根本原理を示した親神は、
人から人で人材を三人、道に寄せた。
 先ず、西浦彌平
 明治7年長男・楢蔵のジフテリアをご守護頂き入信
 上田嘉治郎(嘉助)、ナライト等を導く
 泉田藤吉
 明治4年にはお地場帰りをしていたが、明治7年2月入信。
 増井りん、明治7年3月入信。

 因果応報の教理を、やまい助けの教理を説く、
 お助け人泉田藤吉から、弟子の中川弥吉、よし、北初代。麹町初代、そして愛町初代。
 増井りんも因果応報の教理の達人であった。針のさづけをいただく。

 天理教は、実の箱時代にお助けの名手泉田藤吉を手本として、おさとしで病を治した。
 それが、扉開いて一気に、病人を治しては、お地場帰りさせ、信者を増やす。
 これは、うまいやりかただと、病治し信仰は国内にあふれる。
 宗教ビジネスの仲間が増え、政府は拝み祈祷の禁止を法律化し、ただちに弾圧する。

 5の理の間違いの、基本形が実の箱時代にはあって、偽教祖やあらゆる異端がはびこるが、
これははびこらしである。
 運命ではやがて枯れるが、その泥海の中から、
 裏天皇を信奉する大日本立教皇道会に、百戦錬磨の新宗教の立教願望者が集合する。
 ここまでも、すべておふでさきは理を知らせてある。