【坐禅】白隠禅師【和讃】
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悟りの世界は
全ての生きとし生けるものに平等に与えられており、
多くの人々と共にその世界へ行こうと互いに努める教え。 人の心は、さまよいやすい。
そのさまよいやすい心から抜け出す手段。
呼吸を整え、
身体意識を整え、
最後に心を整えていくという。
調息、調身、調心。
「拳禅一如」
「力愛不二」
『空手と禅』湯川進太郎 著 空気は見ることは出来ない。触ることも出来ない。しかし、確実に存在している。 衆生本来仏なり
水と氷の如くにて
水を離れて氷なく
衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして
遠く求むるはかなさよ
譬えば水の中に居て
渇を叫ぶが如くなり 長者の家の子となりて
貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は
己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏みそえて
いつか生死を離るべき
それ摩訶衍の禅定は
称嘆するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜
念仏懺悔修行等
その品多き諸善行
皆この中に帰するなり
一坐の功を成す人も
積みし無量の罪ほろぶ
悪趣いずくに有りぬべき
浄土即ち遠からず なくも此の法を
一たび耳に触るる時
讃嘆随喜する人は
福を得ること限りなし
いわんや自ら回向して
直に自性を証ずれば
自性即ち無性にて
すでに戯論を離れたり 因果一如の門ひらけ
無二無三の道直し
無相の相を相として
往くも帰るも余所ならず
無念の念を念として
謡うも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく
四智円明の月さえん この時何をか求むべき
寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国
此の身即ち仏なり 子守り唄をばうたうて聞かしゃ
うたやよいよい、よい子に成るぞ
その子どこにと尋ねてみれば
どこに居るやら無明の闇で
ありか知れねど余所ではないぞ
母の胎内宿りしよりも
ついに離れず身に引き添うて
熱い冷たいよしあし共に
指図次第に任せて置けば
悪い事せず善い事ばかり
神の仏もほかには無いぞ されど日々悪智慧ついて
気随気儘の手勝手仕出し
いつの間にやらこの子宝に
凡夫頭巾をかぶせて仕舞ひ
あたら宝の持ちぐさらしよ
酒と色とにその身はただれ
遊楽夜あそび朝寝と小言
欲に目のないばくちの勝負
勝てば勝ちたし負くれば惜しく
山をこかそか山からこかそ
うそで世渡りや浮かべる雲よ 栄耀栄華も昨日の夢じや
とかく正直正路に習へ
天地国王、主人や親の
恩の重きを心につけて
衣服食事におごりをするな
寒うひだるう無ければよいぞ
家財諸道具かざりはいらぬ
雨露にあたらず用さへかなひ
すめば住吉おごらぬ心
伊勢の太神三杵の御供 宮は茅葺きおごらすまいと
神の恵みのアラ有り難や
貧と福とは天命なるぞ
知らで無理せばその身の過よ
心正直、少欲なれば
貧は貧でも不足はないぞ
結句、金持ち苦労の種ぢゃ
へらすまいとて貪欲すれば
親の金をも盗むに同じ
ついに家庫空しく成るぞ
宝へらさぬ工夫というは
我が身つづめて仁心、発し 慈悲と情けで人をば助け
家内眷属一家をはじめ
友と知音も成丈すくへ
金は限りのあるものなれば
入るを計りて出だすが好いぞ
倹と吝とをよく弁えて
倹は我が身の奢りを省き
吝は内外に辛き目みせて
不仁不義から為す業なれば
我に足ること知らぬが故ぞ
餓鬼の苦患と言ふのはここよ 信さへありや貧者も仁は
出来るものだよ、貪欲瞋恚
愚痴を離れりやみな慈悲心よ
身にも口にも意は猶も
人の助力や世界の道に
よかれよかれとなすわざなれば
直に神なり菩薩の行よ
士農工商みな受け得たる
己が家職を大事にすれば
我と天地と相応いたし
四海兄弟、他人はないぞ しかも佛の御法の教え
きけば一切男子も女子も
共に生々のわが父母ぞかし
しかし他人の気に入るとても
主と親とに背いた時は
神や仏の守りは無いぞ
主は日月、父母天地
これに仕へて忠孝すれば
神や仏を祈らずとても
常に身に添ひ守らせ給
後生極楽ほかでは無いぞ
子供そだてが大事でござる 子供よければ我世を譲り
隠居したとこ安楽世界
現世安穏未来は浄土
後生願いがたらわぬ時は
隠居しながら子の世話焼いて
鬼の呵責や閻魔の役目
親子もろともこの世が地獄
子供はじめは性善なれど
愛が過ぎれば気随になるぞ
友を選ぶが先ず第一よ
友が悪けりや悪いがうつる
友がうそつきや、うそつき習ふ 麻につれたる蓬の草よ
親の仕業がみな子に移る
親がよければ子もよいぞ
親が欲なと子供も欲な
子供不孝で片親ないは
なおも育てが大事でござる
父は与楽の慈の教訓に
母は抜苦の悲の愛憐よ
これが片よりゃ片輪になるぞ
五体人なみ、心は片輪
慈悲の二つを一人の親が
兼ねて勤めしためしもあるぞ むかし孟母は織りける機を
切って怒って子を励ませば
その子一途に学師につかへ
今も孟子と尊とばるるも
母の慈悲より起こるときけば
子供しつけが大事でござる
奉公さすなら情けをかけな
殊に女子には教えがいるぞ
嫉妬深いと衣類のかざり
これも愚痴から起こるといへど
母の仕方がみな従ふぞ
母の気随が娘に移り 母が奢れば娘も奢る
母が癇癪娘が短気
母を習ふが娘の道よ
外へやろふが跡目にせうが
妻は夫にしたがふ習ひ
内をおさむる役目となりて
気随気儘に身勝手すれば
家内乱れて修羅くら煮へる
修羅の道こそなお遠ざけよ
たとい夫は愚かにあろと
神や仏や主人と頼め
舅姑我が二親よ 下をあはれみ身を高ぶるな
夫婦和合は則ち天地
心正直内外の神よ
慈悲の仏に五ツの道は
人の人たる道こそ是れよ
儒仏神道みなこの事よ
寝るも起きるも立っても居ても
いかに如何にと一心不乱
信をこらせばよい子が知れる
年はいくつか無量寿ぼとけ
いやな顔せずさて愛らしい
又と二人は無い御子さまよ 唐や天竺十方世界
どこも此の御子ひとりの沙汰よ
何宗角宗もひとつの月よ
須磨も明石も姥捨て山も
吉野竜田の紅葉も花も
外を尋ぬる事では無いぞ
寒さこらへりや暑さが来る
ここは娑婆とて堪忍国土
忍をなす故、人ではないか
しとも無いとも親孝行と
主人忠義と家業を励め
是れをこらへてしなれりや遂に
実に忠孝礼儀になるぞ 万芸万能学問とても
始め上手な物では無いぞ
すべて堪忍その功積もり
妙に至りて師と仰がるる
むかし南都の明詮僧都
学をうとんで夜の間に寺を
出でて雨降り大仏殿に
宿るあしたが雨強く降り
軒の雨だれ当たりし石に
穴のあきしも天然自然
堅き石さへ穴あくからは
堅い文字もしばしば見れば ついに了解も成りそなものと
倦むをこらへて勤学あれば
法相一宗の知識とよばれ
今の代までも名のかんばしき
したい事にはよい事ないぞ
うそか遊戯か奢りの沙汰か
色かばくちか朝寝か酒か
心よごれて地獄の種ぢや
是れもこらへてせぬのがよいぞ
こらへさへすりや人には成るぞ 悪い癖よりよい癖つけよ
浄い汚いも分けたがよいぞ
地獄きたなし 清いは浄土
神も仏も皆我なりと
我意を立つれば即ち邪見
家に伝はる宗旨を替へな
国の御法度先祖の家法
堅く守るは祈祷の札よ
欲な願いで作善をこめる
神や仏は非礼を受けず 念仏、題目、経読むことも
悪と欲心忘れぬ時は
やはり今生地獄におつる
在家却って極楽往生
我を離れた香華の供養
わずか一食を備ふるとても
功徳大いに罪咎のがる
思案分別みな妄想よ
我心自空は世尊の御法
有り難いぞやかたじけないぞ
心清浄、正念にして 日々に新たに日々うたへ
念仏、題目、子守りの唄よ
この子大事に守りさへすれば
生死離れて無漏土に至る
願ひ次第に十方浄土
寂光極楽いずれへなりと
儒仏神祖も手を引き給ひ
往きて生まれて蓮の臺
ついに子守りも仏の位
家内安全、目出たかりける
以上、白隠禅師の子守唄 煩悩には終わりがありません。
1つ満たされたとしても、またすぐに次の煩悩が湧き起こってきます。
つまり苦しみ悩みもまた、尽きることがありません。
ところが見方を変えてみると、
煩悩があるお陰で私たちは過去を省みることができるし、また明日への希望を持つことができます。
煩悩があるから眠りたい欲が湧き、食べたい欲が湧いてきます。
煩悩があるから悩み苦しみは尽きない一方で、煩悩があるお陰で私たちは生きていけるのです。
今ここ
https://www.myoshinji.or.jp/houwa/thismonths_houwa/1152 延命十句観音経
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 禅とは、精神を統一することによって、ほんとうの自己に徹することである。
『茶と禅』伊藤古鑑 茶の湯は禅宗より出たるに依りて、僧の行を専にする也。珠光・紹鴎、皆禅宗也。 珠光(じゅこう)、紹鴎(しょうおう)は室町時代の後半に活躍した茶人。
「茶禅一昧」の源流と言われている。 珠光(1423〜1502)は茶人であると共に禅僧でもあり、一休宗純の弟子。
紹鴎(1502〜1555)も、31歳の時に出家し大徳寺の末寺である南宗寺に参禅。 無い智慧を絞り、目の前のことを死ぬ気で、全力で。
どうせ死ぬのなら、今、死んだ気で生きる。 しんめんぼく【真面目】
本来の姿・ありさま。転じて、真価。「―を発揮する」 衆生本来仏なり
水と氷の如くにて
水を離れて氷なく
衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして
遠く求むるはかなさよ
譬えば水の中に居て
渇を叫ぶが如くなり 坐禅に取り組んでみよう
せっかくの自宅で過ごす時間。15分でも静かに坐って、身体と呼吸と心を調えましょう。
ちなみに坐禅の時は、「整える」ではなく「調える」という漢字を用います。
身体と呼吸に心(意識)を留めることで、調和を図る意味が込められています。
おうち禅センター
https://www.myoshinji.or.jp/tokyo-zen-center/1120 仙豪`梵(せんがい ぎぼん)
寛延3年(1750年)4月〜天保8年10月7日(1837年11月4日))は、江戸時代の臨済宗古月派の禅僧、画家。
禅味溢れる絵画で知られる。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E3%81%8C%E3%81%84%E7%BE%A9%E6%A2%B5 『十句観音経』(じっくかんのんぎょう)は、
仏教経典のひとつ。
別名を『延命十句観音経』(えんめいじっくかんのんぎょう)とも言う。
「延命」の二字を付け加えたのは江戸時代の臨済宗中興の祖といわれる白隠である。 白隠禅師は、
「この御経を何度も唱えよ」
「千回唱えよ」と言われる。
「さすれば、あなたの悩みも苦しみも救われる」というのだ。
経を何度も唱えるというのは、
その経と自分とが一体となり、
唱えることにより、
観音様の心と自己の心が一体となることから、
観音様の功徳によって、
自己の心が清浄となる。
それが「常楽我浄」なる世界に安住することになる。 延命十句観音経
(えんめいじっくかんのんぎょう)
観世音 南無仏
(かんぜーおん なーむーぶつ)
与仏有因 与仏有縁
(よーぶつうーいん よーぶつうーえん)
仏法僧縁 常楽我浄
(ぶっぽうそうえん じょうらくがーじょう)
朝念観世音 暮念観世音
(ちょうねんかんぜーおん ぼーねんかんぜーおん)
念念従心起 念念不離心
(ねんねんじゅうしんき ねんねんふーりーしん) 延命十句観音経
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心
南無大慈大悲観世音菩薩
南無大慈大悲観世音菩薩
南無大慈大悲観世音菩薩
オン・アロリキャ・ソワカ
オン・アロリキャ・ソワカ
オン・アロリキャ・ソワカ 人身受け難し 今已に受く
仏法聞き難し 今已に聞く
この身今生に向かって度せずんば
さらにいずれの生に向かってか
この身を度せん
南無観世音菩薩
南無観世音菩薩 延命十句観音経
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心
南無大慈大悲観世音菩薩
南無大慈大悲観世音菩薩
南無大慈大悲観世音菩薩
オン・アロリキャ・ソワカ
オン・アロリキャ・ソワカ
オン・アロリキャ・ソワカ 延命十句観音経
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 延命十句観音経
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 姿勢と呼吸を整える。
わいてくる雑念。
丹田で静かに呼吸する。
卵ぐらいの大きさの軟酥の丸薬を頭上に乗せたとイメージする(酥とはバターのこと)。
丸薬が頭上から足の裏まで流れ込んでくると想像する。 延命十句観音経
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 延命十句観音経
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 延命十句観音経
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 延命十句観音経
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 延命十句観音経
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 「南無地獄大菩薩」
地獄とは、
人の不安や恐怖心から生まれるもので、そのことに気づかせてくれた地獄こそ、私を仏の道に導いてくれた。
ありがたい。ありがたい。 延命十句観音経
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 延命十句観音経
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与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
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念念従心起 念念不離心 延命十句観音経
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
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与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
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観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
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観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 延命十句観音経
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 延命十句観音経
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 延命十句観音経
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 延命十句観音経
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 延命十句観音経
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 延命十句観音経
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
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観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 南無釈迦牟尼仏
南無本師釈迦牟尼仏
南無本師釈迦如来
南無本師釈迦如来大和尚 延命十句観音経
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 放下着(ほうげちやく)
心中のモヤモヤしている雑念をすべて吐き出し、心をからっぼにすること。
たとえば、気に入らない上司や部下や友人のことなどを忘れ、
また仕事がうまくいかないことや失敗などを一切放り出し、
心の中をからっぽにする。 延命十句観音経
観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 延命十句観音経
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