元禄15年12月14日(1703年1月30日)、47人の浪士達は午前4時頃に集合場所を出発した
雪は積もって降りやんでいたようだ
寝静まる吉良邸の表門と裏門の二手に分かれて侵入し、その際、陣太鼓を鳴らして討ち入りを知らせたとも言われる
(玄関前に口上書の箱を置いたのは、確か)
このように討ち入り(戦争)を宣言すると、藩同士の戦いで、他藩は手出しできないと言われる
浪士達は手早く吉良邸の敷地にある長屋の出入り口を外から釘付けにし、長屋内にいる吉良家の家臣達数十人が出て来られないようにした
その上で、邸内の残りの家臣ら(40人足らず)と戦った
47士達は胸に鎖帷子を着込み、防備をしていたし、吉良家の家臣達は寝ていて丸腰だったので、刀を取る前にやられた者達も、いた
こうして2時間程の戦いで、吉良側の死者は15名、負傷者は23名、赤穂浪士側の負傷者は2名だった
が、肝心の吉良上野介が見当たらない