如来蔵思想は仏教ではない
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>>467
F=maも不変の法則ではないです。特異点にあっては、一切の物理法則は通用しませんので。 >>364 >インドの古代思想が大乗仏教に大きな影響を与えた
宮元氏は、「自己」は「五蘊」から独立し、「五蘊」を照射するから「五蘊非我」であって「無我」ではないと主張する。
しかし、パーリ仏典長部・戒蘊篇U「第9 ポッタパーダ経」(片山一良訳)の「想と我の話」の中でポッタバーダ遍歴行者は世尊に
「想は人の我なのでしょうか。それとも想と人の我は異なるものでしょうか」と質問する。世尊から「あなたは、我をどのように了解しますか」と
問われたポッタパーダは世尊と三回の質疑応答を行う。
【1】我は、粗い、色があり、四大要素からなり、物質食を食べるものと了解。
これに対し、世尊は「想と我は異なるものになる」と答え、「諸々の想は別に生じ、諸々の想は別に消滅する」からだと述べます。そこで、
ポッタパーダは別の考えを述べます。
【2】我を、意から成り、大小すべての四肢があり、欠けるところのない感官を具えたものと了解。
これに対し、世尊は「想と我は異なるものになる」と答え、「諸々の想は別に生じ、諸々の想は別に消滅する」からだと述べます。そこで、
ポッタパーダは別の考えを述べます。
【3】我を、色がない、想から成るものと了解。
これに対し、世尊は「想と我は異なるものになる」と答え、「諸々の想は別に生じ、諸々の想は別に消滅する」からだと述べます。 /イ: : : : :/: : : : : : : : : : : /{: : : : : : : 、: : ‘。 \ \ '. \
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'"ニニニニニニニニ^ー=ァ=ァ=/ | \ ー― / ′ニニ| ト、_____j乢,ィ'¨^´ニニニニニニ=-
ニニニニニニニニニニニ/ /ニ/ | ` ー―‐ ´ {ニニニ| |ニニ} ヽニニニニニニニニニニニニニニ >>470
たとえばあらゆる真理は存在しない場合があるとしても
「あらゆる真理は存在しない」という真理はあるのではないですか? 梵天勧請や相応部バカ梵天や
長部梵網経などにある瞑想で天界を観じての世界の起源と一部常住論の見解を持つことの否定
などは仏教の権威づけに梵天を始めとするバラモン教の神々が利用されてるだけ あらゆる真理は存在しないという真理はパラドキシカルだな >>478
あらゆる物事が私ではなく 私のものではないとすれば我もまたそうなのではないか? アートマンは存在しないというのが釈迦の説
存在しないものが私のわけがない
しかし、アートマンは存在しないという真理を
アートマンとする神がいれば話は別
釈迦の説は矛盾をはらむことになる >英語圏でもパーリ仏典全体が歴史的なブッダの言葉だと言い張る研究者がまれにいますが、
パーリ仏典が上座部大寺派というスリランカの一派の伝承であって、
それ以外の派には別の仏典伝承があったことは疑う余地がありません。
現存パーリは異端の流れ、
と見る立場もあるようだよ。
釈尊その人の言ってたことから離れてしまっている、と。 スリランカはインド思想を正しく理解していない
また今のスリランカなどの南伝系は上座を自称しているが、
本当の上座部では勿論無く、
分別説部が本来の呼び名である。
経典も後代の不届きものによって改竄された怪しげなものが一旦散逸し、南百年も経ってから
外国から再輸入して復元したと
主張する代物である。また六神通が説かれるが、
そんな力のある者は現在いない。
第一結集は、仏教学というより、教科書的な極めて粗い世界史の話。
スリランカ島史 大史に書かれた伝承の説。
仏教学でわかっているのは
南伝パーリ経典は紀元前後にスリランカでシンハラ語訳され
5c頃、ブッダゴーサによってパーリ語に書き換えられたが散逸し
東南アジアから、12c前後に再輸入されたということ。
現在の我々が使うPTSは、19cに英国がまとめたパーリである
パーリは古くて仏説に近いといった共同幻想を
ばら撒いて多くの人に感染させようと謀る輩がいる >>1 このスレタイより生産的な視点があるとすれば、
ブッダに影響を与えブッダが引き継いだバラモン教との共通項、または
ヒンドゥに残っている真仏説
という観点 大乗とは、
仏説とバラモン教の共通項を
哲学的に発展させた教えという視点も
あるからだ 確かに大乗、密教の中には
悪い俗信の復活でしかないものもある 小乗は我空法有。
大乗は我法倶空。
如来蔵は大乗の仏性。
空の世俗諦の一つ。
仏教の核心の一つ。 現代のカルトも在家も
ただの俗信ですよね
お笑いでしょう
wwww >元が分別説部ですから、やはり弱いのです。
その上、ブッダゴーサの改竄で除名
さらに一旦途絶えて、散逸したのを数百年後に国外から拾い集めたものがパーリなので
すから、抽象度の高い記述は信頼性が低い >われわれは、言葉によって、意味を限定して分節化する。
その全体が真理から遠い虚妄分別ということ
たとえば世界は一つなのだが、
我々は国境で線引きし世界地図を色分けする
しかし実際の世界は色分けされていない。
あるいは同じ人を、男と女。賢者と愚者。金持ちと貧乏人など
細かく分節化し価値づけ、序列化していくのがコトバ。
その一切が虚妄分別ということ トランプの敵の正体。ディープ・ステート黒幕説の嘘と本当と中国の影=吉田繁治
https://i.mag2.jp/r?aid=a5fdab10bef6ca 以下は正宗信者のレスだが、如苑も同じ「殺人犯」という訳だな、何が授戒だよ
人殺し容認w
532晃 ◆HOKKEvxAGE 2020/12/16(水) 07:45:52.50ID:diUV5RLn
涅槃経に大乗非仏説論者は殺していいともある 如来蔵思想は仏教の真髄だね。
これにより仏教の平等思想は大きな発展をとげ世界宗教としての道が開かれた。 496 はなんか洗脳されてる奴のレスっぽいね
仏教を銭儲けのための道具にしようと企む輩に見えるな。
釈尊は仏教を世界に広めよ等とは説いていない。自分は教主ではないという
意味のことは言ってる。 >>497 さん大正解です。やっぱりすぐ見抜かれますね真如苑霊能者は。w
如来蔵思想は仏教の真髄 どころか無我を否定してますから。
如来蔵だ、仏が常住だということにすれば、商売に都合がいいからそういうことにしたわけです。
仏教を、商売のために汚したんですね。w 知恵袋で如苑関連質問がバンバン消されてたことからして
工作員がいることの証拠。
私もBAを何個か消されたり非表示にされたり、非如苑コメントとのバランスがヘンで
厨房の工作員まで居たのが判り成程だった。 ベルギーが浄土真宗 禅 上座部仏教をセクトに分類したようだ 確かに自称・上座部や禅宗は海外でセクト指定されてる しかしネットでだけはテーラワーダ過激派が頑張っているな >異部宗輪論で言われるところのいわゆる小乗と呼ばれる伝統的部派仏教の部派の話と、スリランカ上座部と称しているものと、
現代上座部と称しているテーラワーダを分けて考える必要があります。
ご存知かとは思いますが、そこは同じではないです。
>スリランカ上座部は「島史」による伝承が根拠なので、あくまで自称の話であって、分からないことだらけです。
また、テーラワーダも途中2度途絶えたものを復興したもので、これらを根本分裂時代に遡り一連のものとして考えるのは、
そもそも無理があります。
>部派の系譜に関しては、テーラワーダの主張は違うということ。
>テーラワーダは、根本分裂時の上座部の直系ではないです。
それをブッダゴーサ教と呼ぶ人もいます。 「原始仏教」とかで多くの現代人がはまってしまう落とし穴だね
現代人は近代学問という、
唯物論、科学的実在論的な世界観を自明の正しいものとして教育を受けるから
だな 少なくとも、仏滅後七百年までは仏像はつくられなかったし、カルトが拝む
大乗未了義の創作姜典も存在しなかった 故野村克也氏が、自球団の選手を指導する時の言葉、
「己のスタイルの変化を恐れては前に進まないし、勝利投手も無理」
何を云うか?と思うであるけれども、こういう事。
仏陀に成ろうと、口では言うがちっとも進行せず行儀ばかり立派な僧侶。
諸法皆空、如来蔵思想,この説法対象は、前に進みたがらない僧侶に向けて
固着している心を剥がせと、判り易く説いた。
君の清浄なる本心は、眠っているとでも説いたのだろう。
仏教哲学的にどうこう言う前に、
手を変え品を変えて説く先達の姿を思うべきであろう。
全てのお経は取材した者が残したレポート、如是我聞とは雑事を省いて仏説に直す体。
経を読むには翻って実際に何かが有ったのだろうか?と推測が大事。 大乗経典は大袈裟だ
在家の変なおばさんが釈迦に説法したりとか
実際問題として、
有得ん カルトか宗教か……創価学会構成員の実態を知れば一目瞭然!!
尾行、妨害工作の実態をモロに暴く
人類の敵、創価学会を銀河系から叩き出せ☆ ┏┓ ┏━━━┓ ┏━━┓ ┏┓┏┓ ┏┓
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┗┛┗━━━━┛ ┗━━━━┛┗━━━━┛┗━━┛┗┛┗━━━━┛┗┛ ┗━━┛ 業自性正見というように、
正しく見て業報因果に実体ありとする考え方の場合、
十二因縁の「有」=生存の苦しみという概念の含む意味とは、
清算すべきカルマの集積全ての結果みたいなことを言ってる訳ですかね?
単に取=執着があるだけでは、必ずしも「有」へ縁起しませんよね 十二因縁では、九番目の取のあと「有」に縁起し、さらに生老死に縁起します。
たとえば、女が欲しいという「取」を抱えた男が
仕事で知り合った女と意気投合してHして子供ができて結婚したという場合、
女と出会ってことに及ぶまでの巡り合わせの因縁と行為の完遂〜妊娠までの全プロセスを
生存の苦=「有」と呼ぶわけですかね?
十二因縁の取から有までの縁起は、かなりディープな問題を含む、というか、
生老死を次世代の誕生以降の話と解釈した場合ですが、
そうだとすると、十二因縁は益々子供に説明しずらい
仏教用語です 分別
南伝 相応部経典12-2 分別
漢訳 雑阿含経12-16 法説義説
(前略)
また、比丘たちよ、有(存在)とはなんであろうか。比丘たちよ、それには三つの存在がある。
欲界すなわち欲望の世界における存在と、色界すなわち物質の世界における存在と、無色界すなわち抽象の世界における存在である。
比丘たちよ、これを有というのである。
比丘たちよ、また、取(取著しゅじゃく)とはなんであろうか。
比丘たちよ、それには四つの取著がある。欲に対する取著、見(けん 所見)にたいする取著、戒(戒禁)にたいする取著、我(が)にたいする取著がそれである比丘たちよ、これを取というのである。
比丘たちよ、では、✽愛(渇愛)とはなんであろうか。
比丘たちよ、それには六つの渇愛がある。物にたいする渇愛、声にたいする渇愛、香にたいする渇愛、味にたいする渇愛、感触にたいする渇愛、✽法にたいする渇愛がそれである。
比丘たちよ、それを愛というのである。
(後略)
分別(Vibhanga=division)とは、分かつこと、分析である。十二縁起の各支を、一つずつとりあげて説明しているのである。
したがって、そこには、仏教術語の基本的なものが、簡明に説かれている。珍重すべき経である。
✽愛(tanhâ=thirst) 渇愛と訳する。欲望の激せるありようを喉の渇きに比していうことばである。
✽法(dhamma) 観念というほどの意。
✽名色(nâmarûpa=name and shape) 五蘊すなわち人間存在である。
五蘊のうち、受・想・行・識の四は、ただ名をもって知られる。ただ、色蘊は物質であって形をもって知られる。人間はそれらの構成するところである。
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama7050602.html 十二支縁起説は、後代の仏教徒が男女のいやらしいカルマの進み具合や事後の成り行きなどを、ある部分細かく、また肝腎な点は端折って要約したものかな。 そのようなこともあり、また釈尊が諸経典の中で必ずしも十二支縁起だけではなく、より支の少なく単純な縁起をも所々に説いていることから、「十二縁起など釈尊は説かなかった」という説を言い出す学者輩まで現れています。
釈尊は十二縁起を説かれたでしょう、いや、説かれました。そのように我々仏教徒は伝え、信じています。
いや、ただ闇雲に信じているだけではなく、それが明瞭に経典に説かれ、また自ら修習して確認していくに、それが確信されるものです。
そして、それは当然のことなのですが、その前提として、輪廻も自明のこととして説かれていた。いや、ただ前提として輪廻を「設定した」などというのではなく、むしろそれは我々生物の真実なるあり方として、説かれた。
いわば仏教学信徒・仏教学信者とでもいうべき者らには、それを受け入れられない者があるかもしれません。しかし、それが仏教徒通じての態度です。
そもそも仏教学信者には、そのように伝えてきた仏教徒無しに存在し得ないものであったのが、いつのまにやら仏教学信者こそ仏教を真に理解しえる者である、と思うに至っている人が現れているようです。
(まぁ、仏教学者といってもあまりに様々で、そのような側面が認められる場合もあるでしょうけれども。)
また日本の場合、仏教が単なる文献学や考古学、宗教学などの研究対象でしか無い純粋に学究の人であるならばわかるのですが、
仏教者自身が、仏教の理解も実践についても極めて過度に学究的となって自己撞着となっている感が、その他諸国に比してかなり強いようです。
己が抱えるいずれか宗義への信仰に基づく偏見を捨て去ること無く、それを無理やり行おうとするが故に。あるいは「ヒューマニズム教」とでも呼んだらよいような、実に現代的理解を仏教にねじ込もうとするが故に。
このようなのをいわば、キリスト教で神学と聖書学との区別が付かなくなり、迷ってしまったのに迷っていることに気づかぬ神父の如きものとしえるでしょうか。
いずれにせよ世間には、ただ地図を眺めてあれこれ舌先を振るうのみ、空想にふけるのみで、決して自らの足で現地には赴かない机上の人で溢れているようです。
[縁起(十二縁起とは何か)]
http://www.horakuji.com/BuddhaSasana/Theravada/paritta/Paticcasamuppada.htm 確かに勝曼経とかも良くできた経典だとは思うのですが、
しかし得体の知れない在家のおばさんが釈迦に説法する等というお話を
そもそもお経としてよいものか違和感を感じるし、大乗経典もそれと似た
おふざけなのでは? との疑問も起きるかもしれませんね ヒンドゥー教は、仏教も内包したバラモン教の事。
チベット仏教はラマ教とも呼ばれ、仏教と言いながらヒンズー教。
日本仏教は実は当初は朝鮮仏教で道教と仏教が合同した物。
朝鮮仏教はシルクロード仏教で、キリスト教から多大な影響を受けている。
その後日本仏教は次々と外来仏教を取り入れたり、独自仏教を創造したりして、
神仏習合仏教と言う摩訶不思議な物となった。 中沢新一が世界にも日本にも通用しなかった理由
チベット仏教≒インド後期仏教≒ヒンズー教≒ヨーロッパ≒ユダヤキリスト教
なんだけど、中沢新一は西洋への劣等感から、
「いや、チベット仏教はユダヤキリスト教と正反対である。つまり、それは日本文明の高貴さだ」と、
やっちゃったわけ
西部邁や西尾幹二や内田樹と同じだね 日本文明はアニミズムであり、それはインディアンやアフリカ人と同じ劣等文明であった
中沢、西尾、内田、水島総らはその事実を拒絶した
ヘンリー・キッシンジャーが周恩来に言った様に、
日本人は自分たちの文明が世界で最もチャーミングだと思っているからだ
しかし、西洋文明に叩きのめされた
そこで日本人は認知不協和に陥る
右翼は白人が自動販売機や水道水に感動する姿を渇望し、
左翼はインドやチベットや中国をヨーロッパ文明への傭兵にした 真実在など無い
と断定し、切り捨ててしまった点が
南伝系とか、それから影響・洗脳された輩が嵌ってしまった
誤謬 仏教は遂に如来を生じなかったが、バラモン教はブッダを生じた
とも言える。が、実には
如来は如来の法に依りて、自ら是の如く来た
のである 大乗仏教は如来としての成道より衆生救済に主眼がある 十牛図
作者は、中国北宋時代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵(かくあん) 自他ともに苦滅する
大乗の菩薩は、心解脱しても
あえて涅槃に入らず、衆生救済のため衆生界へ降り
是の如く来る 衆生救済のために法を説くに至ったブッダの動き
それ自体が
大乗仏教の起源なのでは
? ヴァスバンドゥの「世品」などにしても、
仏入滅後九百年くらいで、そう仏説からかけ離れた創作的な話が出現したとも思えない。
したがって、仏滅後千六百年頃復興された南伝に大乗的教説の大部分が残ってないだけ
とも解釈できるね 律蔵だってスリランカとかの土人が改竄したもので二千五百年前から続いてきたものとも
限らんぞ。
いや、それこそ現実の風紀の乱れに応じて、後付けで次々追加されていった
可能性のほうが高いな
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000686.000013640.html 兎に角、南伝は
元来が有部から破門された分別説部という異端者の末裔であるうえ、ブッダゴーサの
経典改竄があったうえ、何度も途絶え、仏滅後千五百年も後に散逸してた経典を国外から
輸入して復刻したと称するものだからね スマナサラ本について。現代では少しぐらい才能ある人は掃いて捨てるほどいるの。
カネの力で無理くりネジこんだり、有名人なら一寸刺激的な体験談とかチクリ話を
披瀝すれば、あとは百戦錬磨の編集者が何とかするワケ。だから変な外人だって立派な本を
出せちゃう スマには才能など全くない
奴にあるのは、ずる賢く銭を掠めとる狡猾さだよ 森で釈尊に会った。
釈尊は「狸が死んでおった」と言いました。 南伝えも大般涅槃経は
北伝より遥かに優れている。
というか北伝はなんかヘン
。。 >>546
大乗涅槃経と比べてない?
北伝の大般涅槃経に相当するのは法蔵部のアガーマの長部を漢訳した長阿含経だよ
諸比丘。汝等當自熾燃熾燃於法。勿他熾燃。當自歸依歸依於法。勿他歸依。
云何比丘。當自熾燃熾燃於法。勿他熾燃。當自歸依歸依於法。勿他歸依。
於是比丘内身身觀。精勤無懈憶念不忘。除世貪憂。外身身觀。内外身身觀。精勤無懈憶念不忘。除世貪憂。受意法觀亦復如是。
是爲比丘自熾燃熾燃法。不他熾燃。自歸依歸依於法。不他歸依。如是行者魔不能嬈。功徳日増。
「比丘たちよ、汝らはまさに自己を灯明とし、法を灯明として、他を灯明とすることなかれ。まさに自己に帰依し、法に帰依して、他に帰依することなかれ。
では、どのようなことを『比丘が自らを灯明とし、法を灯明として、他を灯明とすること無く、まさに自らに帰依し、法に帰依して、他に帰依することが無い』と云うのあろうか」
「ここに比丘あって内身を身観し、勤め励んで怠らず、よく気をつけて忘れることがなければ、彼はこの世の貪欲と憂いを除く。外身を身観し、勤め励んで怠らず、よく気をつけて忘れることがなければ、彼はこの世の貪欲と憂いを除く。受・心・法とを観じることもまた、同様である」
「これを、『比丘が自己を灯明とし、法を灯明として、他を灯明とすること無く、自己に帰依し、法に帰依して、他に帰依することが無い』と言うのである。このような修行者は、魔の惑わしえるものでなく、その徳はいや増していくであろう」
佛陀耶舍訳『長阿含経』巻六 「転輪聖王修行経」
[現代語訳:沙門覺應] 秘すれば花(読み)ひすればはな
故事成語を知る辞典の解説
隠すということの中にこそ、感動がある、ということ。
[由来] 一四〜一五世紀、室町時代の能の役者・作者、世ぜ阿あ弥みの「風姿花伝」に出て来ることばから。「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず(秘密にすれば花となり、秘密にしないと花にはならない)」のしばらくあとに、観客に思いも寄らぬ感動を与えることこそが「花」である、と述べてい 思うにヒトは集団になると悪くなる
建前に関わらず法人組織は如来を蔵さず
ただ仏性を曇らせるのみ。涅槃は己の外部に求めるものに非ず。集団に如来は無い以上、
悪道への途上にある場と知るべし 仏法僧三宝一体
という概念は原始仏教に
ありましたか? 僧団=仏?
?? 釈迦仏教以外はグノーシスやニューエイジと同じ神秘主義だからね 像法以後で「宝」と呼べる僧なんて
あんましいないんでしょ ヒンドゥー教は、仏教も内包したバラモン教の事であり、
チベット仏教はラマ教とも呼ばれ、仏教と言いながらヒンズー教だ
釈迦仏教ではない
だからこそチベット仏教には魔力がある
輪廻転生できず、死ねば焼かれて灰になって終わり
釈迦以外は仏陀になれず阿羅漢止まり
肉を食べるな、性行為もするな
神秘体験禁止
マントラや占いも禁止
釈迦には魅力が無いのだ(´・ω・`) 釈迦の言葉なんて残ってるの?
後世の捏造ばかりちゃうん? >>340
建築技術として考えれば難しい計算式が無くても糸で真っ直ぐな線が張れればズレの小さな勾配は簡単に出来るよ
大工さんなんかはこの方法で階段の角度を揃えて造れるしね >>344
白と黒を等量混ぜればどちらとも言えない中間色の灰色になるから白という訳でも黒という訳でもないというブッダの言い回しが当てはまるね
青と赤を混ぜれば紫 黄色と青を混ぜれば緑 黄色と赤を混ぜればオレンジという様にどちらにも属さない中間色が出来る
空と色も混合すれば色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 となって どちらか一方の属性に偏らず中性となる >>523
私は仏教と関わる以前から退行催眠で幾つかの過去世の場面を見て それらが事実であると言う前提で仏教を学んでいるので仏教の説く輪廻説にそれほど違和感は有りません
但し六道はまだ未確認ですので前世への知見が開くに連れて魑魅魍魎が夢枕に立つ理由も知りませんでしたし 密教に入信する前に起こった様々な不思議現象が何であるのかも知りませんでした
私の様な平凡な者ですらこのような経験をするのですからブッダや阿羅漢達が語るそれらの出来事を事実ではないという断定は出来ず 寧ろ多く有ったのではないかと考えています 只の在家信者でしかない勝曼夫人が仏陀釈迦牟尼に説教してしまう勝曼経の問題点に触れるまでもなく
中期大乗の涅槃経も創作経典なのであって、
仏滅後七百年あたりで仏教は根本的に変質してしまった セネガルの新興宗教を学ぼう Project Majalis(majalis.org)
https://aziz-mbacke-majalis.netlify.app/ 菩薩とは
「まよいに気付きながらも輪廻する求道者」というほどの意味
なのかな
? 龍樹も文才はあったけれどもブッダではない。
それどころか、元は只の煩悩の徒であり、滑稽な逸話も残されている。
もしかしたら、言葉だけ、文章上の空念仏を見て騙されているのかも知れず、実際は「袈裟を着した猟師」なのかも。
その視点は重要だ。 変なのが龍樹を引用してるのを見て感じた話なのだがね ダライラマも、もはや只のボケ老人だ
CIAのパシリであり、
国際金融資本に使われる道具。ニセのグローバリズムを吹聴する営業マン。
金髪ブスに生まれ変わるんかい? 犬作にレイプされた女性幹部は
「池田の体臭はキムチのようだった」と言っている ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています