>>344 垣根っ子 さん
> >>338
>  一本の道を行けと。そういう事でしょうか。 本当にいたか銅か、分からないけど、 その道の人はいたことを前提として修業をしたり説法している。
   あっち行ったりこっち行ったりが良くないのでしょうね。 群れるな、めだかの学校ではない。とは銅いう意味でしょうか… 』


仏陀の教えは何処へ行っても誰からにも受け入れらる優しい教えであるから、隣り村、隣り町、へ布教におもむくとき、
一人で行きなさい、
二人で行くような無駄をしないでください、
その姿は
たとえば、
インド犀の角はイッポンヅノなので、一人歩めの例えに引用されています。
また、修行者は道で出会うと、Buddhaの言葉をお互いに詩の形で一句ずつ言いあって確認したようです。
聖句は文字であらわさず、こころからこころへ伝わることが、最上でした。
そういうわけで、最初期のものは文字で伝わる事は無かったのです。
後に
教団は女性の出家首位業者も受け入れ、出身階級も平等でした。
それで、律(りつ、〜しなさい、あるいは〜してはいけません)と言うイマシメとでもいうものが出来ました。
ですが、真理(さとり)を求めて出家修行者は、先ずは自己のさとりを得る事です。
誰さんがああ言った、こう言った、
誰誰さんが、どうした、こうした、
と余計が出ます。
前にも何度も申し上げていますが、わたしは禅宗だと自分を思いますが、
黄檗、臨済、曹洞、の門内に入ったことが有りません。
無師独悟(むしどくご) 独覚(どっかく)とは、良くないぞ、と言われますが無師です。
まずは自分の事を取り扱うのに、ワイワイと学校通いをするのは、いかがなものかと政治家ふう。。。