【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践17
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お釈迦さまの教えとサマタ・ヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践16 [転載禁止]
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1551435418/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会や
そこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など
多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違い
もあります。
そこを踏まえてご参加ください。 >>555
これを見てもスリランカ仏教にろくな効果がないことは明白。
先の内戦ではヒンドゥー教徒のタミル人と争い大虐殺を行った。
それが仏教徒のシンハラ人。
今でもキリスト教徒やイスラム教徒などの少数派弾圧を続けている。
植民地支配時にはクリスチャンがほとんどだったシンハラ人。
その前にも何度もサンガが滅んで伝統なんてろくにない。
それを「初期仏教」などと言いくるめてマハシ式が連綿と続いてきたと騙す。
嘘がばれても同じ嘘を繰り返し微妙に情報を変えながら開き直る。
自分が教える修行にありもしない効能を謳い信者をより一層、ポンコツにする。
スリランカ仏教は平和でミャンマーの過激派坊主にはみんな反対だと嘘を吐く。
そんなにスマナサーラ教に効果があるのならスリランカに逆輸入しては?
破戒僧のスマナサーラさんは日本で豊かな生活がしたいのだからアホな信者が。
もちろん、そんな気骨のある真っ直ぐな人間はスマナサーラ教なんか信じるわけないが。 >>635
つまりスリランカの僧侶も俗人と同じだって事かな? 車を趣味で3台も4台も保持している人とかが、使ってない1台をお布施とかはありそうではあるけど
(わたされたものは良いものでも不満があるものでもそのまま使う感じやろし)
どんな車を日本テーラワーダ仏教協会で使っているのか知らないけど 見た人の話だとベンツ
物でお布施したのか購入したのかは不明だけどね まあね・・。
「来賓を乗せる」こともあり得るから、
そこそこの乗り心地と安全性を具えたものになるのは、
組織等が所有する車としては当然かな、と。
とはいいながらも、
これがアスリートや有名人なら、
やっぱり、最高レベルのものを所有してこそ、アメリカンドリームじゃないが、
目指されるべき目標として、高質高級ハイスペックなものの所有可能性を
子供たちに提示しなきゃならないから批判は当たらないけど、
宗教者となると事情が違ってくるから、
八資具じゃないが、必要最小限のスペック(&値段)で押さえておくべきなのかな・・・。 >>645
なら同じ事で日本の仏教団体にあれこれ言うのも違うでしょ?
お布施であれ購入であれ 信徒からの浄財には違いないし ある程度の高僧ならそれなりの車が必要なのも一緒でしょ? >>647
草加の話なんかしてないけど?
日本の僧侶がお金を取ってる事を批判しながら 自分達は高級外車っておかしくないかって話でしょ? 京都の浄土真宗西本願寺派の僧侶住職の後継が多く在籍している龍谷大学文学部真宗学科の偏差値は35。
浄土真宗の坊主はバカ集団。 >>648
方や自分で車を所有して、自分で運転している。
方や自分で車を所有しておらず、在家に乗せてもらっている。
この二つが同じように比較されている時点で、認識が噛み合ってないと感じる。 >>650
個人で所有してる車は給料から購入 寺費の場合は寺有だから個人に所有権は無いんだけど 日本の宗教法人の仕組みも知らないで妄想で悪し様に言ってるって事かな?
単立寺院でもない限り 寺のお金は住職の都合で勝手に使えないし 個人名義の場合は免税されないよ?
在家に乗せて貰ってると言えば聞こえはいいけど 単に無償で運転手やらせてるだけなんじゃないの? >>639
プラユキさんもテーラワーダだからな
忘れるなよ > 単に無償で運転手やらせてるだけなんじゃないの?
慈悲の瞑想のおかげで元気になれた、とか、お経で何となく知っていた無我を理解できた等で
それを支援したいと思った、とかなら良いんじゃないの、とは思うけど #スマナサーラ長老 式 #慈悲の瞑想 は
所詮自慰行為と私は主張しています。
脳波とかの効果はあるのでしょうけど
やらないのは無慈悲の証拠とか言って
強要しないで
#山下良道 ワンダルマSO
気色悪いから
posted at 10:27:18 恩田無境尊師は覚醒を得て覚者になりました。
もとオウムでありながら麻原を否定しオウムを超えて仏陀になりました。
あなた方も恩田無境尊師に帰依して仏陀への道を歩いてください。
http://onnchou.namaste.jp/
ID:TwGWcn3A師匠へ
検索したけど.わからなかったので
リンク貼り憑け願います
たとえば
https://twitter.com/phrayuki/status/1160749175094431744
プラユキ・ナラテボー(公式)
@phrayuki
フォローさせて頂きました m(_ _)m
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>656
rxNyQnGqmjzFyim/status/1074838484349706241
ご教示ありがとうおじゃります
意味がわからなかったけど
それでも
@rxNyQnGqmjzFyimさまへ
フォローさせて頂きました ヨロ m(_ _)m >>653
「何事も信ずる前に確認せよ」が仏教の最も基本的な教えではないの?
大乗だから悪くて上座部だから良いというのも正しいとは思えないし その逆もまた然り
共に正しいでも共に誤りでもなく どちらか一方の立場を取らないとゴータマブッダなら言うかも知れないよ? >>655
弥勒降臨は遠い未来の話
もし それ以前にブッダが現れたならゴータマブッダや初期の高弟が嘘を吐いた事になり 仏教が正統性を失ってしまう 恩田無境
こんな詐欺師に簡単に騙される人間って、やっぱりいるんだよね。
悟りも金次第なのか?
<魂の解放セッション-料金>↓
http://onnchou.namaste.jp/kyoumei/price/
>どちらか一方の立場を取らない
「テラワダだけが」という我執にも
「大乗だけが」という我執にも
そして
好き嫌いにも囚われることなく
今、この瞬間の…
マインドフルネス(mindfulness)
認知行動療法
自動生起する思考にとらわれることなく
呼吸や、感情が生じては去っていくまでを行動せずにただ観察する >>660
653ですが、もし他の、IDの違う書き込みを同一人物(私だ)と判断されたのなら
それは別の人のものです(回線のせいでIDが変わってしまう人もいるみたいですが) >>665
IDは必ずしも当てにはならないから相手が誰かではなく内容に対してレスする様にしています
同一人物かどうかよりも話の流れというか脈絡ですね >>666>>660
返答ありがとうございます
653については、大乗を悪いものだ、と言いたい目的はないので テラワダには、「業」に関する考察はあるのかな? 余り聞かないな。
それに、調べてみると
ウィキペディア アルボムッレ・スマナサーラ
>仏教は釈迦の「教え」であって「宗教」では無く、論理的で実践的な「心の科学」だと説き
とある。
ゆえに
>上座仏教は神も 「信仰」 も無いことで他の宗教と異なる。
であるから、「心の科学」なのか。
「幸福の科学」みたいなものだな。
つまり、テラワダは「信仰」という次元の教えでは無いので、特定の「本尊」や「師匠」は存在せず、
各個人が好きな坊主の経典の解説書を読んで、自分の知力に応じて理解する。
当然、個々の理解度は違うので、悟りの深さも内容も違う。(検証不可能)
だから、仏教なら何でも(小乗だろうが大乗だろうが)いいんだよ。って事なんだろうね。
※自分さえ満足なら。 「心の科学」というのは、なんとなく理解出来る。
しかし、仏法は凡夫に智慧で理解出来るほど底の浅い教えではない。
生活環境が恵まれ、何不自由なく暮らし、親に守られ、少々の仏教解説書を読んだ程度で
覚者気取りで慢心を起こし、悦に入っているような者が、釈尊の十大弟子のような大阿羅漢の境涯に
わずか数十年の人生でたどり着けるとでも思っているのだろうか?
釈尊が生きていたらこう言うだろう「無駄!無駄!無駄!無駄あ〜っ!!」とね。
釈尊は末法の衆生は「法華経」すなわち
日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」でしか救われないと明言なされている。
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等比の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」
「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、
竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり」
禅定や瞑想で悟りを得るのは、天台の摩訶止観までだ。
末法の衆生は「南無妙法蓮華経」以外の教えは無益であること知るべきです。 仏法の悟りは、「頭」で理解するものではなく、瞑想で得るものでもない。
凡夫は「信」の一字で得るのです。
法華経方便品第二
「諸佛智慧甚深無量。其智慧門難解難入。一切聲聞辟支佛所不能知」とある。
「諸仏の智慧は、(甚深無量)深くはかり知れない。その智慧の門に入ることさえも難しい(難解難入)。
一切の声聞や縁覚では知ることはできない」という意味である。
ここでいう、「一切の声聞や縁覚」とは二乗の修行者であり、「辟支佛」とは縁覚つまり「阿羅漢」も含みます。
では、何を持ってこの「難解難入」である智慧の門に入れるのか。
法華経譬喩品には「汝舎利弗すら 尚お此の経に於いては 信を以て入ることを得たり」とある。
大阿羅漢の「舎利弗」ですら、「信を以て入ることを得たり」※仏の究極の法を悟り得たとある。
「以信得入」又は「以信代慧」とも言います。
「時」と「衆生」の機根にマッチした「正法(仏法)」とそれを説く仏「師匠」、そしてそれを受ける弟子の「信」があって初めて仏の悟りを得ることが出来るという訳です。 従って、「信仰」を否定するテラワダは無益だとわかる。
自他共に「宗教ではない」単なる「経説」とスマさんが言明してんだから。
もはや、仏の教えを無視してんだから仏法でもないかもしれない。
「法に依って人に依らざれ」という「依法不依人」は、釈尊が説かれた涅槃経の文です。
※ここで言う「人に依らざれ」とは、法師(論師)を指します。
※仏の経典を用いず、勝手な解釈で仏の教えをねじ曲げてはならないと言う戒めです。 【創価学会は朝鮮族支配のカルトです】
オウムに人材と資金提供していたようです。
犯罪教団のお手本であり創価学会は、現世利益を看板にしてし、おびただしい数の出版物を半強制的に買わせる異常に気持ち悪い卑劣鬼畜外道ドブネズミです。
創価学会は、批判者や脱会者に対し、脅迫、尾行、見張り、嫌がらせ、怪電話、怪文書、暴行、傷害、盗聴等々、あらゆる犯罪的手段を用いて攻撃します。
創価学会を私物化した池田大作の野望は、日本の国家機構を乗っ取り、絶対支配者となる ということです。
同時に、創価学会は、司法界、官僚、警察、マスコミ界等へ、池田大作私兵を送り込む作業を長年にわたり組織的に続けています。
創価学会の会員は何かにつけ込まれ、無理矢理入信されられた方がほとんどです。
つまり、被害者なわけで救い出すチャンスはあると思います。
皆様とともに、どうしたら彼らを救い出すことができるかどうかを話し合ってみたいと思います。
池田大作を信じ、崇拝したところで、幸せが訪れるでしょうか?
創価学会は撲滅するべきです
その他の入ってはいけない宗教
アレフ、統一教会、顕正会、エボバの証人、法の華 u'
創価学会被害者の会 浪速建設 岸本晃(キシモトアキラ) ☆
>>668 桃太郎 ID:jq/XQQGU師匠へ
>テラワダには、「業」に関する考察はあるのかな? 余り聞かない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD
業(karman)
増支部経典
比丘たちよ、意思(cetanā)が業(kamma)である…
(大乗阿毘達磨経ではなく)
仏陀逝去の後まもなく
弟子の僧たちが集まって
記憶していた仏陀生前の教説をまとめ伝承したとされている
アビダンマ
阿毘達磨では
十二支縁起の第十支の「有」は業を意味するものと解釈されている
これを業有という
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AB%E7%BF%92
仮設としての
(輪廻を繰り返し)
無始からの無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習 上座部は、もともと分別説部由来と言われるだけあって、
寧ろ、業や煩悩の分析に特化してるんだけどね・・。
それすら知らない人間が、一体何を批判しようとしてるんだか・・・ ┐(´ー`)┌ スマナサーラのような反仏教破戒僧が有名になってしまったが
これから頑張るテラワダ 悟りは徐々に完成していくものだと思うけどね。
まずは預流果からだよ。
桃太郎もまずそこから始めるしかないと思う。
まあ預流果に悟ったら創価学会を辞めると思うけどね。
宗教をばかみたいに盲信することがバカバカしくなるから。 >>677
ふむふむなるほど。(笑
では、テラワダの瞑想で阿頼耶識に蓄積された過去世の悪業をどう清算するのだろうか?
はい!説明出来る人はどうぞ!
ヒトラーやキムちゃんや、麻原のような外道も瞑想でチャラになるとは思えんが。 >>679
>まあ預流果に悟ったら...
で、君はその「預流果」を得たのかね?すごいなぁ。
そうでないなら、ただの観念論だよ。(笑 預流果以上ですよ。
証明できないからどう思ってもらってもいいですし、
それで馬鹿にされても怒りを表現しようとは思いません。
その程度には悟っています。
一つ言えるのは、悟ったら心が変化して、もう二度と後戻りしないということです。
霊的に変化するので、物質的、肉体的な変化だけじゃないということです。
桃太郎も悟られることを願ってますよ。
もし悟ったら、ここに体験談を書いて下さいな。
心境の変化など、面白いと思いますけど。 >>651
悪し様に言われたと感じたなら、言葉足らずで悪いことをしましたね。
わたしは日本仏教の寺の内実まで知らないけれども、日本仏教批判はしないし、
むしろ無理解な社会でやっていくのは大変だろうと思ってるよ。
>>660
大乗だから悪くて、というのはどこかで誰かにそう言われた経験があったわけですよね。
そこは基本的に気にしない方がいいんじゃないでしょうか。
切りがないでしょう。
主観で反射的に即断されるのは人の世の常で、テーラワーダでも、大乗でも同じだと思います。 スマナサーラさんが大乗仏教や他宗教を悪し様に言うのは、宗教嫌いな
日本人が好みそうな方便としてわざとやってるんじゃないかと、個人的には
推測しています。
人間が頭で考えた宗教(概念)を信じてるのは全部迷信だ、とばっさりぶった切れば
リチャード・ドーキンスのような唯物論の人にも仏門を開けますからね。 常識的理性を下回る妄想を信じることは、ただの迷信だけれども、ただし、
人間の思考概念を超えたもの(人智を超えた般若の智慧)はあります。
仏法を象にたとえるなら、象の話を聞いて人々が妄想した「想像の象」はいない。
しかし、象はいる。
スマナサーラさんにしろ、そのば坊さんにしろ、
そういう人々がぶった切っている迷信というのは、想像の象のことであって
象がいないとは言ってない。
そこを勘違いしないでもらいたい。 >>684
貴方と私の話じゃなくてスマナサーラ長老の発言にそういう傾向が見られる事に不快感を覚える大乗の信徒も居るよっていう話ね ☆
>>680 桃太郎 ID:jq/XQQGU師匠へ
>阿頼耶識に…
説一切有部とか
上座部とかも受け継いで
そして更に
大乗の
(中観自立も含めて.中観帰謬とかの)
空の思想を基礎に置いている
唯識なので
たとえば
桃太郎 ID:jq/XQQGU師匠が
説一切有部とか
上座部とかを批判しているのなら
真如縁起に基づいている
頼耶縁起は
桃太郎 ID:jq/XQQGU師匠には無理かも?おじゃる? >>684
あくまでも日本の大乗各派に対するスマナサーラ長老の物言いに対する意見だから テーラワーダ全体がそうだと見ている訳でもないよ
パーリ語聖典と現代仏教学が無かったら元々の仏教がどうだったかもどういう経緯で現在の大乗仏教になって来たのかも判らないままだっただろうし
物を知らない一部のカルト教団みたいに上座部全体を小乗だという歪んだ認識も持ち合わせていないしね >>685
大乗仏教は人間の頭だけでは考えつかないんじゃない?
人間の頭で考えただけの事が現象として現れるならそれはそれで画期的では有るけどね 無著、世親、達磨といった大乗仏教の祖師たちは阿羅漢だったと聞きます。
話の途中をばっさり省略してざっくり言えば、大乗やら密教がいっていることは
お釈迦さまが最初から言ってることを、別の言語表現に置き換えただけだと思ってます。 龍樹に関しては、
月を指す指を示すべきところで、
精巧な月の模型をつくってみせたので
かえって月を見ようとする人が減ってしまった、
というのがわたしの印象です。
違ったらごめんなさいね。 >>691
完全に同じかどうかは正直解りません
ただ大乗の神話の中に有る神々のブッダに対する帰依はある程度本当じゃないかなと感じます ☆
阿頼耶識は激流のごとく活動している.暴流の如し
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/215935
上座部のパオ・セヤドー
刹那生滅して
現れて→滅して→また現れて→滅して
仮設としての
心の流れの相続を維持している.有分心.生命相続流
_ _ _
>>680 桃太郎 ID:jq/XQQGU師匠へ
>過去世の悪業をどう清算するのだろうか?
https://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空經
仮設としての
業報有るも而かも作者無し。此の陰滅し已らば異陰相續す
…
無明に縁りて行、行に縁りて識…苦が現れる
無明滅するが故に行滅し、行滅するが故に識滅し…苦も滅する
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
ウダーナヴァルガのギルギット写本
(仮設としての.無明に依存している)
縁起したものを離れることがある
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが苦しみの終わりである
(過去世からの悪業をどう清算する.という想いも手放して滅して逝く) >>692
月も模型の月も空で構成されるという点に於いて違いは有りませんよ
彼が示そうとしたのはあらゆる物質が常住でも断滅でもないという事でしょうね >>682
>預流果以上ですよ。
あ〜あ〜そうなの...。(笑
>>694
>阿頼耶識は激流のごとく活動している.暴流の如し
そう。
しかし「活動」という表現は少し違っているよ。
「生命流」と言った方が分かりやすい。
>全体で33章より構成される『ウダーナヴァルガ』は、
>『法句経』と『ウダーナ』が説一切有部教団(あるいは根本説一切有部教団)において編集され、
>一書とされたものと見なされている(33)。
これは説一切有部教団の解釈です。
>>673
で、私が言うように。
>「法に依って人に依らざれ」という「依法不依人」は、釈尊が説かれた涅槃経の文です。
>※ここで言う「人に依らざれ」とは、法師(論師)を指します。
>※仏の経典を用いず、勝手な解釈で仏の教えをねじ曲げてはならないと言う戒めです。
以前も言いましたが、このような教えは初期仏教に於ける方便です。
>(過去世からの悪業をどう清算する.という想いも手放して滅して逝く)
これは、あなたの完全な自説です。
何人もの人を無残に殺戮した人間が、一晩寝たら許される事があるでしょうか?
数億円の借金をもった人間が、一晩寝たらチャラになることがあるでしょうか?
正直に生きた人間も、極悪非道の人生を歩んだ人間も同じなわけないでしょ。
※手放して滅して逝くって簡単に言ってるけど(笑
出来なかったらどうなるの?(笑
あなたのように、仏説をあたかも真実のように少しずつねじ曲げて、釈尊本来の心から遠くかけ離れた邪説となる。
これが、時代の変遷と共に、様々な宗教によって、様々解釈がなされ、人々を混乱に陥れた原因なのです。
ゆえに釈尊は弟子に「法に依って人に依らざれ」という戒めを残したのです。 「業」について分かりやすく、ミリンダ王問経より
王「尊者ナーガセーナよ、次の世に生まれかわるものは何ものなのですか?」
ミ「大王よ、実に名称・形態が次の世に生まれかわるのです」
王「この〈現在の〉名称・形態が次の世に生まれかわるのですか?」
ミ「大王よ、この〈現在の〉名称・形態が次の世に生まれかわるのではありません。大王よ、この〈現在の〉名称・形態によって、「あるいは善あるいは悪の行為(業)をなし、その行為によって」他の〈新しい〉名称・形態が次の世に生まれかわるのです」
王「尊者よ、もしもこの〈現在の〉名称・形態が次の世に生まれかわるのでないならば、人は「悪業から免れる」ことになるのではありませんか?」
ミ「もしも、次の世にまた生まれることがないならば、人は悪業から免れるでありましょう、大王よ、しかしながら〈実際には〉次の世にまた生まれるが故に、「悪業から免れない」のです」
五蘊の法は、まさに、変化しつつ連続しているのですが、その間になす業(行為)によって、次の世の五蘊を結ばせる、といっているわけです。
問題は、前世の名称・形態(五蘊)と次の世のそれとの関係はどうなっているか、ということだが、
「実に、死とともに終わる(現在の)〈名称・形態〉と次の世においてまた生まれる〈名称・形態〉とは別のものではあるけれども、後者は前者から生じたのである。
それ故に、諸々の悪業から免れないのである」という事だね。 <水野 弘元>
日本のパーリ語仏教(原始仏教)の研究者、僧侶。駒澤大学総長を務めた。
同大名誉教授、東京大学文学部教授。文学博士(東京大学)、インドナーランダ大学名誉文学博士。
◆シリーズ(笑
大乗と小乗の違い<一部抜粋>
ここでは水野弘元博士が、いわゆるアビダルマ仏教と初期大乗仏教との相違点として六つを挙げる。
@まず第一に、
小乗部派仏教が「阿羅漢」になることを目的とした声聞思想(声聞乗)であったのに対し、
大乗仏教は「菩薩」の修行・実践によって成仏をめざす菩薩思想(菩薩乗)であった
小乗部派仏教の僧侶達は、仏を自分達よりも、比較にならないほど高い存在とみて、ともかく自分達は阿羅漢(聖者)になることだけをめざしていた。
彼らには、自分達が仏になれるとは、まったく考えも及ばないことであった。
これは、原始仏教団に特徴的な考え方で、そのために彼らは四諦八正道の修行につとめている。
部派仏教は煩瑣な戒律主義に陥り、民衆救済をめざした仏教本来の生き方から遠ざかってしまった。
だいいち釈迦が入滅した後は、誰が阿羅漢果を得たことを証明するのか、わからなくなってしまう。
大衆部系統からの「大天の五事」といわれる阿羅漢批判も、そういった理由から起こってきた。
そこで大乗教徒達は、阿羅漢果よりも、いきなり仏果をめざすようになる。仏は釈尊一人だけではない。
仏が成道する以前に、菩薩としての修行を積んだように修行すれば、誰でも仏になれるはずだ。
彼らは、そのように考えた。これは、釈迦滅後の出家教団にとっては、まさに驚天動地の、革命的な考え方だったわけだ。 「菩薩」
ナーガールジュナ(竜樹)の作とされる『大智度論』には、次のようにあります。
「菩薩の心は、自らを利し他を利するが故に、一切衆生を度するが故に、一切の法の実性を知るが故に、
阿耨多羅三藐三菩提の道を行ずるが故に、一切賢聖のために称讃せられるが故に、是れを菩提薩捶と名づく」
『大智度論』には、また菩薩の資格について次のように書かれている。
「大誓願あり、心動かす可からず、精進して退かず。是の三事を以て、名づけて菩提薩捶となす」
すなわち、一切衆生を救おうとする大願と、不動の決意と、勇猛精進の三条件がそろって、初めて大乗の菩薩といわれること。
簡単に言うと、阿羅漢よりも遙かに高い境涯といえるね。
−−−−−−−−−−
A第二は、
業報思想(小乗)と願行思想(大乗)との違い。
前者が業報輪廻の苦を離れようとする他律主義(業報思想)であったのに対し、後者は成仏の願行のために自ら悪趣に赴く自律主義(願行思想)であった。
釈迦は、この人生は苦であると教えたけれども、そこにとどまっていたわけではない。
苦の人生を離れようとするのではなく、生老病死の苦を明らかに見て、それを克服しようとした。
そこに仏教の真髄があったわけです。
この人生の苦の受けとめ方に二つの姿勢がある。一つは、苦は業としてわれわれを苦しめ、縛りつけるものであるという捉え方で、
小乗教徒は煩悩を断じ、輪廻の苦界を脱することによって、無苦安穏なる境地を得ようとした。
そのために、肉体の死後に「無余涅槃」を得ようと修行したわけです。
このような彼らの人生に対する姿勢は、必然的に受動的、他律的なものとならざるをえない。
それに対して大乗教徒は、この人生の苦は自分が衆生を救済するために、願って受けているのだと捉える。
そして、苦の世界を避けるのではなく、自ら誓願して悪趣苦界に赴き、一切衆生の苦を我が身に受けようとする。
ヴィマラキールティ(維摩詰)の有名な「一切衆生病む故に我また病む」というのは、そうした菩薩の境位をあらわした言葉ですね。
つまり、二乗は受動的、他律的であったのに対し、菩薩の生き方は能動的、自律的であるわけです。 水野博士の挙げる B第三の違いは、
アビダルマ仏教が自己一人の完成のために修養努力する自利主義(小乗)であったのに対して、
初期大乗教徒は一切衆生を救済し、社会全体を浄化向上せしめる利他主義(大乗)であった、とするものです。
「小乗」というのは、大乗教徒がアビダルマ仏教を指して呼んだものだけれども、その呼び方に両者の違いが的確に表現されている。
部派仏教の側は「大乗非仏説」論を展開して対抗したけれども、もはや大乗興起の潮流を押しとどめることはできなかった。
やがて部派仏教側の僧侶も、続々と大乗教団に投じて、そこに一種のなだれ現象が生じた。
−−−−−−−−−−−−−−
C第四点として、
アビダルマ仏教が聖典の言句に滞り、事物に拘泥執着する有の態度(有)が強かったのに対し、
大乗教徒の行動は、すべて般若波羅蜜の空無所得、空無碍の態度(空)であった。
保守的なアビダルマ仏教は、釈迦の説法を金言と仰ぎ、教団統制のための戒律を厳格に守って、仏典の語句をいちいち金科玉条としていた。
その結果、すべて経文を形式的、表面的に解釈するようになり、いきおい訓話注釈のアビダルマ研究に流されてしまった。
それに対し大乗仏教は、経文の文言にとらわれるのではなく、立体的にして融通のきく空無碍の立場に立ち、
釈尊の本来の精神に立ち返って経文を解釈するという「依義判文」の行き方であった、というものです。
原典を厳密に検討することは大切だが、そこにある根本精神が何であったかを忘れてはならない。
その根本精神を、現実世界のうえにどう実践化するか、これが、あらゆる学問・思想の正しい行き方であるはずです。 D第五は
前者が理論的(小乗)であったのに対し、後者は実践的(大乗)であった、としています。
釈迦の開いた仏教というものは、理論や学問として出発したのではない。
当時の思想界にあって、釈迦はバラモン階級が理論のための理論、学問のための学問になりさがっでいたのを批判して、
それを超克するために民衆のなかに入っていった。
ところがアビダルマ仏教は、釈迦が批判したバラモン階級と同じように理論的になり、民衆教化の実践活動を忘れてしまった。
そこで当然、初期大乗教徒は、仏教をもう一度、現実主義で生きいきした釈尊の時代の本来の精神に立ち戻らせようとしたにちがいない。
むろん彼らは、理論的な傾向の強いアビダルマ仏教を批判する意味で実践を重視したけれども、決して理論を軽視したわけではない。
彼らの理論は、あくまで実践と結びついた生きた理論であって、それはバラモン教徒や小乗教徒との間の論争によってとぎすまされ、
教義的にも大乗は部派教団を凌駕してしまった。理論と実践を車の両輪にして進んだわけだ。そこに注目しなければならない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−
E第六は、
アビダルマ仏教が出家的・専門的である(専門化、出家仏教)にもかかわらず、小乗的・世俗的な低い立場であったのに対し、
初期大乗仏教は在家的・大衆的である(一般化、在家仏教)にかかわらず、その境地は第一義的な高い立場であった、という点です。
小乗部派仏教には出家者と在家信者との差別観が根底にある。
宮本正尊博士なども「部派仏教は分別差別観に傾き、階級的・アリアン婆羅門的・北印度的である」といっている。
すなわち小乗教徒は、専門的な出家僧侶によってしか理解できない教義の研究に没頭して、仏教を閉じた宗教にしてしまった。
それに対し大乗教徒は、出家と在家の区別を認めず、仏教を一般化して広く開かれた宗教とした。そこに根本的な違いがあるとみたい。 最後に
この時代に原始仏教にはない新しい傾向として、釈迦が前世に菩薩であった時代の修行過程を描いた「ジャータカ」(本生譚)や、
仏弟子や敬度な信者に関する物語である「アヴアダーナ」が、盛んに作られている。
ということは、僧院にこもってアビダルマ研究に専念する僧侶とは別に、仏教の物語を一般民衆に語り伝える比丘がいたのではないか、とされているわけです。
ちょうどそのころは、バラモン勢力からの影響もあって、部派仏教の教団は経典のサンスクリット化を進めていたわけですが、これは釈迦が生前に禁じていたことです。
つまり釈迦は、仏法が特権階級の専有物ではなく、広く一般大衆にも開かれたものであるとして、各地の巡行にあたっても、
平易なプラークリット(俗語)で語りかけた。
その釈迦の精神を受け継ごうとする比丘達が、部派教団の行き方とは別に、各地に散って平易な仏教物語を説いていったことは、十分ありうる。 比丘集団のなかには、禅定波羅蜜の修行を積んでいる菩薩も沢山まじってると思いますけどね。
わたしは人より上だ、というような慢心があるうちは、まだまだ菩薩道はほど遠いんじゃないでしょうか。 モモなんとかさんの仏教観は非常に観念的で、実体験に基づくものが感じられない。 ☆
>>697 桃太郎 ID:Fs2XT/6k師匠へ
>名称・形態
たとえば
ウパニシャッドとかの
名称・形態
− これに対しての −
スッタニパータ 872
名称と形態とに依って感官による接触が起る
(無明に依存している.欲求.我執という縁起の)
形態が消滅したときには感官による接触ははたらかない
たとえば
大乗の法華経とかの場合は
世俗よりの対機説法かもしれないけど
スッタニパータとかの場合は
戒・定・慧・解脱・解脱智見という対機説法
_ _ _
信教の自由で
その人それぞれなので
解脱智見たかを目指さない人には
世俗よりの
大乗の法華経とかでも良いのかもしれない ☆
>>706の訂正
×解脱智見たかを目指さない人には…
○解脱智見とかを目指さない人には…
_ _ _
信教の自由で
その人それぞれなので
世俗よりの法華経とかを貶めるつもりはないけど
とりあえず
http://www.horakuji.com/BuddhaSasana/Theravada/paritta/Metta_sutta.htm
大乗の真言宗の
空海が『法華経』を「薬の効能書き」と評したように
ただその効能・功徳が列挙されているだけで、具体的・実践的な指南はありません
_ _ _
桃太郎 ID:Fs2XT/6k師匠から
『真言亡国だ〜ぁ!』と.お𠮟りを受けるかも?
ブッダン・サラナン・ガッチャーミ
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m >>700 桃太郎 ID:Fs2XT/6k師匠へ
>業報思想(小乗)は業報輪廻の苦を離れようとする
上座部とか
説一切有部とかの分析を取り入れるようになった
大乗の唯識とかの場合は
http://reigaku.jugem.jp/?eid=424
瑜伽師地論(ゆがしじろん)
人間がまさに死するときに
過去の輪廻に於いて長い間経験され蓄積された『我愛』が現起し
その力により促されて自己に愛着・執着し、無始無終に続いてきた
戯論と善悪業により、中有を形成する
その中有が次に生まれるべき処・縁を求めて、やがて母体に入り
ここで父母の精子が結合する時、中有は滅して同時に生有が生じ
一切の種子たるアーラヤ識がこれに結合して、精子は成長し、胎児を形成し、出生に至る
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E8%A1%8C%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%AD%A6%E6%B4%BE
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)
瑜伽(ヨーガ)の実践の中に唯識の体験を得て教理にまとめ
「仮設としての」という意味で
とりあえず心(識)は仮に存在するとして
阿頼耶識が
自分の意識も
外界にあると認識されるものも生み出している
それでも.やはり
最終的には阿頼耶識もまた空性であるとする
スッタニパータ 21
激流を克服して、すでに渡りおわり
彼岸に到着しているのなら
「業報輪廻の苦を離れる」という想いも手放して滅して逝く
悟りに至るための菩提分法への想いも手放して滅して逝く
もはや筏の必要はない 大乗経典の中には、阿羅漢は菩薩と変わることがない、
その気になればいつでも成仏できる、と書いてあるのがあるようなんだけど、
これについて桃太郎はどう思うんだろう。
この経典の解釈は間違いだと考えるんだろうか。 すいません、今確認したら間違ってました。
阿羅漢は如来と異なることがないということのようです。
阿羅漢未満の聖者は、それぞれ性質の異なる菩薩ということのようです。
涅槃経にこのように書いてあるとのこと。
自分の場合は
一応テラワダも肯定だけど.とりあえず
通常?一般的には?
https://hobbytimes.jp/article/20180314b.html
「もうお釈迦様は別格」との考えが生まれて
部派仏教においては僧侶の最高位とされました
お釈迦様は仏陀、悟りを開いた者と名が変わります
そして、「皆阿羅漢にはなれるけど、仏陀にはなれない」との考えに至るのです
何故お釈迦様だけが別扱いかと言えば、自力で解脱(最高級の悟り)に至った為
仏陀にはなれない
釈迦本人そのものには成れないけど
阿羅漢と成るべくして
お釈迦様の教えを実践する
これに疑問を呈し
「誰でも(阿羅漢果も超えた)仏陀になれる」との考えを持って大乗が生まれた(らしい?)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
ちなみに
(大乗の)唯識とかの場合は
誰もが成仏するわけではない(五性各別)
>阿羅漢は如来と異なることがない
ご教示ありがとうおじゃります m(_ _)m
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%8F%B7
釈迦の異名ともされる.如来十号
如来 − 無住処涅槃
応供 − 阿羅漢とも訳される
仏世尊 −
煩悩を滅し、無明を断尽し
自ら悟り、他者を悟らせる者
仏は仏陀の略で智者・覚者の意 >>710
私は、どちらかと言うと
「悪業」の清算について
※手放して滅して逝くって簡単に言ってるけど(笑
※(今世の修行で)出来なかったらどうなるの?(笑
という答えを聞きたかったのだが...。
どうも君たちは水野博士の仏教史の研究に於ける「阿羅漢の地位」に関心があるようだね。(笑
水野博士の六項目にわたる「小乗と大乗の違い」を見れば、阿羅漢果を目指す小乗仏教と仏(菩薩)を目指す大乗仏教の違いは明らかな筈です。
自ら曹洞宗の僧侶であり、日本のパーリ語仏教(原始仏教)の研究者なんだから、原始仏教に関しては君たちより遙かに詳しいと思うのだけどね。
で、君たちは第一の相違点に異論を唱えている訳だ。
そして如来十号を持ち出して、「阿羅漢=仏」と言いたいらしい。
違いよそれは。小乗と大乗では見ての通り、仏道修行のあり方、方向性に歴史の上からも明らかな相違点があるのは疑う余地はない。
素直に君たちの先輩にあたる水野博士の研究成果を認めたらどうかな。
「如来十号」というのは、その内容をよく読めば分かるように、仏の名称(別名)というより、「仏がそなえた十の福徳を表す」と見た方が理解しやすいと思う。
つまり、「阿羅漢=仏」ではなく「仏>=阿羅漢」という事です。
仏は「阿羅漢果」を含め十の福徳を持つと言うことですね。
ゆえに、仏は阿羅漢と言っても差し支えないが、阿羅漢は仏という事は完全な間違いです。 ☆
>(今世の修行で)出来なかったらどうなるの?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%90%91%E5%9B%9B%E6%9E%9C
四向四果
預流
聖者の流れに入ることで
欲界の人と天の間を最大 7回生まれかわれば悟りを開くとされている >>705
>モモなんとかさんの仏教観は非常に観念的で、実体験に基づくものが感じられない。
「モモなんとかさん」ってオイ!
ひどいよ。(爆笑
どこが観念的なんだよ!
観念的な宗教ならば、創価学会の日蓮仏法がこれほど世界的に発展することはないでしょう。
逆に実践的だし行動的です。
https://www.sokanet.jp/hbk/index.html
一切衆生は「皆仏」である。
これこそが釈尊が「法華経」説きたかったことなのです。
法華経こそ、随自意の仏の真の教えなのです。
その教えに基づき、日蓮仏法の人間主義の大生命哲学を世界に広めているのが「創価学会」なのです。
釈迦仏法を六万法蔵経典とするならば、
日蓮大聖人の仏法は「南無妙法蓮華経」で終わりです。
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等比の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」
つまり、 「南無妙法蓮華経」の中に釈迦のこれまで積み上げて来た因果の功徳を一切含むという事なのです。
なので、禅定、瞑想、戒律等々釈迦時代の煩瑣な修行法などする必要はありません。
ただ、「南無妙法蓮華経」と唱えるただひとつの修行で「仏」になるのです。
これが、法華経に於いて教主釈尊が上行菩薩(地湧の菩薩)に託した「能生の根源の法」そのものなのです。 だから、創価学会の方々は朝夕「南無妙法蓮華経」を唱え、社会の中でこの法を弘め(広宣流布)、世界の平和の為に貢献しているのです。
まさに水野博士の言う「自ら誓願して悪趣苦界に赴き、一切衆生の苦を我が身に受けようとする。」菩薩の振る舞いです。
ほら、ぜんぜん、観念的じゃないでしょう。
観念的な宗教は批判もされなければ、賞賛もされないのです。
世界の平和学者からも相手にされない。
正しい宗教、正しい思想哲学は必ず心ない批判を浴びる。これはもう世界の歴史をみれば仕方のないことです。
法華経にも末法に正法(法華経)を弘めることが如何に困難か「六難九易」の喩えで説かれてあります。
だから、大抵は「創価学会」という属性だけで、低レベルの批判を浴びる。
日蓮大聖人の時代もそうでした。大聖人ほど迫害にあった僧侶はいない。
釈尊在世もそうでした。(九横の大難)まさに不軽菩薩の如しです。
一切衆生を「仏」にする。これは容易な戦いではありません。
人々を苦悩から救うために正法を弘めようとすれば、必ず迫害が起こる、
それを耐え忍んで法を弘める「菩薩」の振る舞いの中に仏法の正しき修行のあり方があるのです。
座して瞑想にふけるのは釈迦の時代の修行法です。
極論を言えば「仏」とは修行の段階を登りつめ到達点に達した境涯を言うのではなく、五濁悪世の娑婆世界で
白蓮のごとく悪縁に染まらず一切衆生の幸福のために戦い続ける菩薩の「生命流」そのものを言うのです。 >>715
ふ〜ん。
じゃ「聖者の流れに入る 」って何をもって判断するの?
だれが判断するの?
パソコンでネットしている私や君のような人でも「聖者」になれるの?
>パソコンでネットしている私や君のような人でも「聖者」になれるの?
宗教を信じないという
信教の自由もあるので
信じる?信じない?
その人それぞれということで ヨロ m(_ _)m
仮設としての
無始からの無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習
↓
預流
聖者の流れに入ることで
欲界の人と天の間を最大 7回生まれかわれば悟りを開くとされている
という
誘い入れるために
教え導く
都合のよい御方便
_ _ _
信仰については
↓
スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ
明知が
信仰と・念いと・精神統一と・意欲と・努力とに・結びついて、頭(無明)を裂け落とさせる
>パソコンでネットしている私や君のような人でも「聖者」になれるの?
悟りに至るための菩提分法とかによって
欲界、色界、無色界の三界の煩悩を断じ滅する
そこに向かうための
預流向
たとえば
パオ・セヤドーとかの実践を途中で辞めてしまっても
預流向
聖者の流れの途中であるともいえるかもしれない
_ _ _
その人それぞれなので
桃太郎 ID:Fs2XT/6k師匠の場合は
衆生(人間)に限らず、山川草木や生類すべてに仏性があるとする
一切悉有仏性とか
法華涅槃時とかを進めて逝けば良いんジャマイカ?
ちなみに
自分の場合は
チベット.ニンマ派とかも良いと思っちょります
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html 阿羅漢は仏とは違うというんは異論はないよ。
仏とは釈尊のことで、阿羅漢はその弟子のことだからね。
まあ釈尊の在世中は両者は同じ意味だったんだけど、後世の修行僧が区別したという事実があるだけです。
だが、仏と阿羅漢の悟りの境地は同じということは、今も同じだと考えられてるはずなんだけどね。
それが違うというのは、その人の信条が違うというそれだけのことでしょう。
仏教の根本の目的は悟りを開くことなんだから、阿羅漢と仏の悟りが同じ境地であり、
それを目指すということで十分な気がするけどね。
人の考え方の違いというだけだと思うが。 慧解脱こそが、仏教が仏教たる所以です。そこ至るにはヴィパッサナーが必要です。 >阿羅漢と仏の悟りが同じ境地であり
そうであれば、菩薩行などしなくても、瞑想行だけでいいじゃん!
と思いたいのだろうけれど、残念ながらそう簡単なものじゃ無いんだよ。
結論から言うと阿羅漢と仏では、天と地ほどの境涯の開きがある。
妙法蓮華経方便品第二
諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり。
一切の声聞・辟支仏の知ること能(あた)わざる所なり。
※仏の智慧は甚深無量であって、その智慧の門は難解難入である。
一切の声聞、縁覚ごときの智慧では到底悟り知ることは出来ない。
※辟支仏とは「縁覚」「独覚」の事を指し、君たちで目指すところの「阿羅漢」の事だよ。
所以は何ん、仏曾て百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、
勇猛精進して、名称普く聞えたまえり。
甚深未曾有の法を成就して、宜しきに随って説きたもう所意趣解り難し。
※理由は上記の通り。
簡単に言うと、仏の過去世の修行は、何不自由なくネットで楽しんでる私たち凡夫が、ちょいと仏教書かじって、
「なんとなく、悟っちゃたーみたいな〜」という浅いレベルでは無い。
仏は過去世から何度も生まれ変わりながら、無数の諸仏のもとで極めて長い間修行を積み重ねてきた結果、
甚深未曾有の法を成就したとある。 しかも法華経如来寿量品において
我実に成仏してより已来(無量無辺百千万億那由佗劫)
※釈尊は今世で仏になったのではなく、久遠の昔から仏であった事を明かします。
そして、その得難き尊き法を「妙法蓮華経」として一切衆生に説いたのです。
その事を
舎利弗、吾(われ)成仏してより已来(このかた)、種々の因縁・種々の譬喩をもって、
広く言教を演べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著を離れしむ。
と、大阿羅漢の舎利弗に諭すくだりがあります。
また曰く
舎利弗、如来の知見は広大深遠なり。
無量・無碍・力・無所畏・禅定・解脱・三昧あって深く無際に入り、一切未曾有の法を成就せり。 仏と阿羅漢の違いは、まぁなんちゅーか。
例えば、王貞治 VS バットも振ったこともない野球オタク な感じかね?
理論や知識は同等かもしれんが、ぜんぜん比較にならないよね。
それに、やってみらないと分からない「感覚」も得られないしね。
同じように、仏は菩薩です。菩薩行の中にしか、仏の智慧は獲得できないと言って良い。 桃太郎は、心解脱と慧解脱の違い分かって無いらしい・・・。
自分が預流、一来、不還、阿羅漢の何処にいるかも分かって無いらしい。
ホケキョ唱えとけば良いんじゃないの? 阿羅漢は理論家や知識があるだけの存在ではなく、煩悩を全て断じた人のことだよ。
その点において仏陀と同等ということ。
それが一番重要な事実であり、それが全てだよ。 >煩悩を全て断じた人のことだよ。
その考えが、そもそも、勘違いなんだよ。
初期仏法に於ける方便なんだよ。
舎利弗、吾(われ)成仏してより已来(このかた)、種々の因縁・種々の譬喩をもって、
広く言教を演べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著を離れしむ。
というのは、その事をいってるんだよ。
>>700
釈迦は、この人生は苦であると教えたけれども、そこにとどまっていたわけではない。
苦の人生を離れようとするのではなく、「生老病死の苦を明らかに見て、それを克服しようとした。
そこに仏教の真髄があったわけです。」
ハイ!ココ注目!
端的に言えば、現実に「煩悩を断ずる」とは、人が生きて生活している以上は不可能です!
仏は観念論ではなく、現実をありのままに観察せよ。(如実知見)と教えたのです。
>明らかに見て
とはそういう事です。
では、「煩悩を断ずる」という事はどういうことかと言うと、
「煩悩に執着する自身を明らかに見よ!」という事でしょう。
だから、「如蓮華在水」と喩えるのです。※蓮は泥水の中で、しかも泥に染まらず美しい花を咲かす。
仏は五濁悪世に自ら飛び込んで、しかも偏った煩悩や執着心に染まることなく一切衆生を救済するのです。
法華経で説かれる一念三千の法門や十界互具を理解すれば、煩悩を断ずることは、そのまま仏の生命をも断ずる事になるのです。
そんなことはあり得ません。それがまだ君たちには理解出来ないのです。
仏が一切衆生を「仏にしたい」という思いはまさに仏の「大煩悩」です。
これを断ち切ったらもはや仏とは言えないのです。 そうかがなんで瞑想スレにいるの?
そうかも瞑想するの? >>729
煩悩を断じるということが分からない、方便であると考えるのは、
あなたが悟りの初門にも達してないからとしか思えない。
あんたは仏教を人に教える資格はない。 悟ってもいないのに自分が信じているある特定の仏教を人に広く教えようとするのは、
教えられる人にとって害であると言っています。
あなたにとってもよい業にはならないので止めた方がいいと思います。 >悟ってもいないのに自分が信じているある特定の仏教を人に広く教えようとするのは
それは君だって同じゃないのか?(笑
悟ってテラワダ教えてんの?
桃太郎ごときに、すぐ怒りを露わにするぐらいなんだから、悟ってるわけないよね。
まぁそれはいい。(笑
末法の御本仏 日蓮大聖人はこのように仰せだ
「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、
我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」
「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、
信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり」
私がここに書き込む理由はそれだけだよ。
それに為にはなっても害にはならないよ。たぶん。(笑 >>733
あんたが言ってることは全部的外れ。
私は特定の宗教を信仰してないし、大事にしてるのは智恵によって理解した事実と真理だけ。
で、あなたに智慧はあるんですかね。あるようには見えないんだけど。
偏屈な、ある特定の宗教を信じてる凡夫にしか見えないんだけど。 宗教を信仰することは否定しないし、いいことだとすら思っているけど、
狂信的になって他を排斥するのは間違っている、というのが私の意見。
創価を否定するつもりはない。いいところも当然あると思っているんで。 >如実知見
何を信じるか?は
その人それぞれだと思うけど.それでも.とりあえず
上座部の
「パオ・セヤドーの瞑想」「如実知見(PDF)」を参照 ヨロ m(_ _)m
邪見 − 間違った.考え方・見方
観禅正見 − 世間的な正見
道正見 − 出世間としての正見
_ _ _
これに基づくなら.世俗的・世間的のような
法華経とかは.世俗的・世間的に留まっている
方便.対機説法という感じがする.それゆえに.やはり
http://www.horakuji.com/BuddhaSasana/Theravada/paritta/Metta_sutta.htm
空海が『法華経』を「薬の効能書き」と評したように
ただその効能・功徳が列挙されているだけで、具体的・実践的な指南はありません
_ _ _
道正見 − 出世間としての正見とかを目指すのなら
テラワダの.戒・定・慧・解脱・解脱智見とか
密教とかも良いんジャマイカ? 桃氏もヴィパッサナーやりなよ。南無妙法蓮華経唱えるのは、一種の念仏
だから、効果あると思ってるよ。ただ、それでは、心解脱にはなるが、
慧解脱にはならないと言うお話。 仮設としての
輪廻を繰り返し
無始からの無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
− この無明薫習に対処する為に −
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/42/2/42_2_574/_article/-char/ja/
心解脱と慧解脱
慧解脱について
止を修習すると心が修習される
心を修習すると貧が断じられる
観を修習すると慧が修習される
慧を修習すると無明が断じられる
貧に染汚された心は解脱せず、無明に染汚された慧は修習されない
貧を離れることから心解脱があり、無明を離れることから慧解脱がある >>734
どうにも怒りが収まらないようだね。(笑
仕方の無い事かもしれないが。まぁ冷静になりなさい。
>大事にしてるのは智恵によって理解した事実と真理だけ。
問題はその「智慧」とやらなんだよ。
釈迦在世に、師である釈尊が認めた智慧ならまだしも、
客観的な検証が出来ない限り、その智慧はあたなの境涯で知る智慧でしかない。
「事実」と言い、「真理」と言ったところで、それは凡夫の貴方の智慧の範疇を越えることはない。
しかも、自身の智慧を何の疑いもなく信じている。そこに瞑想修行の大きな落とし穴があるのです。
自分では相当修行が進んだと思いきや、桃太郎がちょいと意見した程度で、たちまち修羅界を生ずる。
これが現実です。小乗教はこの怒りの心さえも断じようとするのですが、それは、理性に反しているとあなたも気づいたでしょう。
大乗はこの本然的な心の働きを「断ずる」必要は無いのです。また断じてもならないし、断ずとことも出来ないのです。
そしてあなたが、どの段階の悟りを得ているか知りませんが、
果たして舎利弗のような大阿羅漢と同じ悟りなのかどうして検証できるのでしょうか?
あくまでも自己判定するならば、「瞑想ごっこ」と揶揄されても仕方が無いではありませんか。
>狂信的になって他を排斥するのは間違っている
私の意見を言っているのであって、どうして排斥することが出来るのでしょうか?
不可能です。それに私は極めて冷静で理性的に話をしていると思っているのですが(笑 >>736
>>716 を参照してね。
なーにが
>具体的・実践的な指南はありません
だよ。(笑
ちょー具体的、実践的だよ。
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