いかに九次第定を極めるか
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まず初禅をどのように修めるのがベストか 諸賢のアドバイスをいただければ幸いです。 加えて、不幸にしてカルト幼稚園で心の傷を負わされた園児さんの心のケア、 邪師から受けた催眠暗示の解除、その他仏教全般の課題についての議論の場になり、 彼岸中学(見諦道中学校)に入学できる、加行道小学校」の授業を開講したいです。 虚空と涅槃は常と知り 生滅滅已、涅槃寂滅を楽と為し 仏陀・如来の我を覚り 滅諦の実性を体悟して、最高の清浄に達する 自力を「頼るべき自分」による修行完成に向けての正しい実践努力 他力を仏の慈悲 及び入我我入により一体化する加持力 と見るなら、その双方共に大事であって、自力単独や他力のみ説くのも片手だけで、 他力とは無我の境涯より得るものなり そうですとも。左脳と右脳の関係ですよ それが五蘊と真我=如来相です。 サンスクリットの心経では、「五蘊もまた」 と説かれてますね どっかの板の「いま行きたい神社」ってスレに ディズニーランドの動画が貼られてたの見た時はワロタw その如く、人が行きたい、とか、▽〇をしたいと思う志向作用は、何に対しても働き得るし、 神社へなど行きたがるのはヘンだという風にも言える 世界の真実のありようというものは 人の五蘊が分別して得た見解を越えたところのものである。 それは、実には五蘊で計り知ることはできないものである https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202010100000/ 世界の真実のありようとは空であり また勝義においては 浄真如である。真如にも浄と染がある。如来の智慧により 照見された蓮華蔵世界を言う 執着するもの一切を忘れよ 手離せ。 生と滅とが滅しおわった寂滅 こそを楽と為せ 明恵(みょうえ) は、鎌倉時代前期の華厳宗の僧。法諱は高弁(こうべん)。明恵上人・栂尾(とがのお)上人とも呼ばれる。父は平重国。母は湯浅宗重の四女。現在の和歌山県有田川町出身。華厳宗中興の祖と称される https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%81%B5 明恵上人その生涯と足跡(1/3) https://youtu.be/KkM5ovnNpvU 明恵上人その生涯と足跡(2/3) https://youtu.be/RI70PfJuOKo 明恵上人その生涯と足跡(3/3) https://youtu.be/7hvKjG60K80 >>1 おそらく汎用的な御手本はないでしょう。 各人各様、最適な仕方で自ら開発し、最善の法を 見つけるのです。 物質界とは見掛けだけの空虚なものである それらから仮初の印象を受ける五蘊もまた、 変転して定まらない、不確かなものであり、 実体は無く、空虚である 六道輪廻は迷界 大乗では仏の慈悲により 発心した衆生も直ちに迷界より出離 解脱する 菩薩は たとえ輪廻すると雖も心迷界にあらず 既に六道に住さずして 菩薩道に入る トップダウン式に まず全てわかる、見える ということが最も大事なこと 誰もが何かの役に立っている 全てのものには存在価値や意味がある という考えは、深い哲学的、宗教的命題と かかわって来る 衆生救済のために法を説くに至ったブッダの動き それ自体が 大乗仏教の起源なのでは なかろうか 三悪道への途上である悪い煩悩から離れようと真剣に希求する心を生ずるのが 目覚めの第一歩である(初禅に入る段階) 無為法の慧より出世間上上智を生じて涅槃寂滅を知解する 無明があるから あらぬ幻想を持って執着が生じる 無明滅すれば如実に観じ、大智慧(無為法の慧)より菩提生じて涅槃解す 本来、照見する我は一つでは? ただ個別的な因縁によって下階層に位置する各人の五蘊に分岐してるだけ 大多数の人は覚ってないから五蘊が「我」と思い込む。 無為法の慧に拠ればわかる。 4時台は、あっという間だ。 その如く、 もう卒業だ。証書を準備 せねば。 公案の答え、が悟り、である。 バカには理解できない。 大爆笑である。 正法眼蔵随聞記を語る 第11講の(1) 昭和44年 紀野一義 真実を超えた真実 https://youtu.be/_yUu5KS_97M よい判釈なら幾つ出て来てもよいでしょう。 ただ、それらには各人の境涯に応じた深浅、段差も生じ、 その人には自分の境遇、波長に合った答えが都度見える というだけ なのです もし心清らかにして、禅定と智慧を生む瞑想を続けたならば 神通力は 自ずから生じるものなので あります。 ニーチエは脳梅毒だった 狂気は神聖なものでない 西欧思想の中には、狂人の妄想に影響され、それが発展して肥大した 共同幻想が隠されている。 世界は見えている通りにあるのではない と、まず気付くことである。 迷いの中にいることに気付き始めた 第一歩である。 末法以降では、明恵上人という坊さんは 唯一語るに値する人だな 一遍や親鸞以下、みんなエキストラ に見える >>764 気付きに上中下とあるなら まず下の悟りから始めて、煩悩の克服の度合いに応じ、 中、上と進んで行く訳です 一心はこれ本居なり しかし、実際には、われら衆生がそなえて持っている、ただ一つの心が、本来の拠り所なのである。 色とは迷界の幻に過ぎない 色即是空の反対語は、 一心即是本居 なり 良い因縁も 良くない縁起も あるように見えて、実は本来実体は無い だが、それらを形にするものは 心なのである 山下清が もったいを大事にした とかいう床屋談義は仏教とは関係がない。 寧ろ過剰に”もったいない”と騒いでモノに執着する貪欲を捨てよ というほうがブッダの教えに近い 私は多くの河や山を見るため 世界を旅し、多くの金を使った。 どのような苦労も惜しまず あらゆるものを見た。 だが、私は忘れていた 家の庭の、 草の葉に宿る ひとしずくの露が 全宇宙を映しとっていたのを つくられたものは実に無常である すべての形あるものは 原因と縁に依って、つくられたものである 五蘊・諸法は、その物自体として最初からあった訳ではない(し永続するものでも無く、固定したものでない) >ウパシーヴァ(修行者の一人)がたずねた、 「シャカ族の方よ。わたくしは、独りで他のものにたよることなくして 大きな煩悩の激流を渡ることはできません。 わたくしがたよりにして、この激流を渡り得る《よりどころ》をお説きください。 あまねく見る方よ。」 師(ブッダ)は言われた。 「ウパシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、《何も存在しない =空〜諸行無常・諸法無我》と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。 諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」 (南伝仏典『スッタニパータ 経集』第1069、1070) セネガルの新興宗教を学ぼう Project Majalis(majalis.org) https://aziz-mbacke-majalis.netlify.app/ 思慮深き人の正思惟を解さず 他に個我世界の妄想を投影するは 仔細な規則を知らぬ者が烏鷺の争いを眺め意味不明でいる のと同じ事なり 暖かくなったら馬鹿が大声で喋ってる うるせーな マヂ迷惑 外で騒ぐな カス野郎 まず己の五蘊を客観視して 正すべきは正し、 怠りなく八聖道を実践 せよ カルト化したインチキ宗教に影響されるよりは 世間的な常識を きちんと身に着ける方向で努力することのほうが 遥かに有益である 現代にあっては 観音菩薩の化現を称する者でさえ 無明の中に沈淪している ようだ 僧に非ざる者が僧を名乗る 末法の世の僧は ただ形骸化した役割を演じているに 過ぎない 像法以降の世において、 如来を知らぬ 菩薩ならざる者どもが「あの方は菩薩だ」とか言ったとて、彼が菩薩である証には ならぬであろう 決心することが社長と大将の仕事である。 (松下幸之助) 如来は自性か無自性か という風な論議は 実は、あまり意味が ない。 凡夫は なにゆえ己の貧困なる見解を 他に押し付けようと するのか。 自ずから本源を知る心 おのずから(‥づ‥)【自ずから】 〔副〕(「己(おの)つ柄(から)」で、「つ」は「の」の意の格助詞、「から」は、その物に本来備わっている性質の意) 1 もとからあったそのままに。また、物事が行なわれて行くうちにひとりでに。おのずと。 「隠しても自ずから知れる」*源氏‐行幸「この女御殿など、をのづから、つたへ聞えさせ給てむ」 煩悩も固定したものでなく いつかは滅ぶ 全ては是の如くで ある 色とは迷界の幻に過ぎない。 色即是空の反対語は、 一心即是本居 である 覚とは正思惟、正思惟とは (中略) 渇愛・妄執を滅ぼす事。 正しい無我の実践とは ヘッドパワー過剰な状態を解消して、 真我=ブッダの意識に切り替える事 であろう 普通の人は 本当の自分を 普段は意識できない。 しかし、多くの時間を本当の自分のまま過ごせる人も 稀にいるのである。 今ある自分というのは 死んでしまえば消えてしまう 表層的自我にすぎない 当人が心を変える以外に 欲界の罠に嵌って堕落した 悪趣を巡る魂を救う術は存在しない という事 善男子善女人よ、将に知るべし 今のカルト諸信者連は、せいぜい餓鬼である 餓鬼が畜生を崇め奉っているようなもの なのである 即身成仏したものには 堕落し穢れた諸教の垢は関係ない 欲への執着からも離れ、 また離欲も貪らず と、ありますね シナにやられた 呆けて堕ちた天人は 早く引退したほうがよい Know about truth of spacetime. Energy is always moving. 宇宙の成り立ちや 時空の真実も明らかになってきている現在 仏教を名乗るカルトが科学の発展を阻害しようとする のはナンセンスだ ただ記憶や学問によってだけでは 高められた質的なものを 維持するのは 難しい 科学の発展とは理論の積み重ねではなく、個人のひらめきでもたらされる飛躍によるものだが 科学的な大発見をするような人は、信仰心や神秘体験を語ることもままあることだ 仏教は既存の考えにとらわれることのないところから物事を見ることでもあり ひらめきや洞察力というものを非常に鋭くするので 本来は科学の発展を阻害するということはあり得ない しかし、仏教といっても既存の不完全な経典解釈に囚われてる頭で考えただけの理解からは 科学の発展を阻害するかもしれない いわゆる悟りなども得られない いずれにせよ科学は仏教に従属するものではないのだから 発展を阻害するというのは杞憂というものだ そういう陰謀めいた思考を巡らすことこそが妨げているw スマナサラは科学の発展を阻害するような発言を 平然としてるね。 あ! アレは仏教じゃないよな。ウィキからも消さないとね スマの名詞は全部。 ヒンドゥ教も輪廻からの解脱は説いている 方法論が違う? 釈迦のほうがストイックだよね 悟りの内容が違う? 本当に? まあ悟りを求めてもいない方が色々言っても 違うのでしょうけどね そもそもシナ人も東 南アジア等の者らも古代インドの叡智は適切に理解できず、ベースになっている風土も 背景もよくわからず、予めコンテキストも用意されていない訳だから 完全には伝わっていないし、残されてもいない テキストから学ぶ場合は、そこを意識することはとても重要だと思いますね 弟子たちの見解ではない真仏説は、まずインド人のための教えだったのであり、 往時前提として用意されていたコンテキストを完全に理解しなければ 釈尊の真意は全くわからない であろう。 護摩は不要です。 あれは古代印度近辺に残ってた俗習 にすぎません。 シナ発の特定の宗派とかを経由すると本来の行法も歪み、 ブッダの教えのピュアな美点がかき消され、汚されてしまっている。 八正道はシンプルなもの。誰でも理解でき、すぐに実践可能 な行である。 夢が示す意味は結構深い 明恵上人のように 夢を分析するのは 大変意義深い事かも 知れない 南伝は 必ずしも仏説の忠実な再現ではない 全ての経典が入滅以前より伝承された内容を 正確に保持している という訳でもない サマーディでは幻覚が現れることもあるが それには意味はない、意味を見出したら執着する だから捨てろ、切り捨てろというのが仏教瞑想 夢も同じ 「スリランカと日本仏教の共通項が真理だ」とかの読み難い書き込みも 「凡夫衆生とは、是の如く自説に固執するものか」とか 「何ゆえ虚偽のドグマに騙され、邪教が跳梁跋扈するかの理由」と見るなら、 全ての情報は資糧となり得る。 >>824 夢の中でも瞑想している。 また夢にも二種あり。ただ前意識、無意識を意識化してるだけの場合もあるが、それも心念処と言えなくもない。 しかし、実際は、もっと深く潜行して広大な領域に出る場合もあって、そういう時に「報せ」もある。 いずれにせよ、仏教というものを狭く限定してはいかん。 ・五蘊を照見してるのは一体だれか? それ大事です。 五蘊しかない「堕ちた仏教」の世界観では、どう足掻いてもプアー な解き方しかできない。仏教出現前からのコンテキストを再考する必要がある。 悪い論書もあって、影響されてる 一度 五蘊皆空と照見したならば、もはや五蘊に囚われた人ではない ラーダ「大徳よ、よく悪魔、悪魔と申されますが、いったい悪魔とは何でありましょうか?」 ブッダ「ラーダよ、色受想行識が悪魔である。すなわち肉体・感覚・思い・意思・意識が悪魔である。 悪魔とは、われわれ自身の肉体と精神のいとなみの迷いに他ならない」 (サンユッタ・ニカーヤ) >>454 433 《スッタニパータ》 1094 いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと、──これが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。 それは老衰と死との消滅である。 1095 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、悪魔に伏せられない。 かれらは悪魔の従者とはならない。 初禅とは まず、般若(智慧)を実践する観自在(観察する人)と成ることから ですね。確かに。 阿吽 五禅支を生成して精神統一しないと智慧の瞑想にならないし、 智慧を発現するための妨げとなっている覆いが、各人各様の方法で取り除かれれば、 普段の生活でも、一日観自在でいられるとは 思います >相応部の経において、片方では五蘊は苦であり、もう片方では五蘊を空としている。 また相応部の他の経では五蘊は無常であり、また他の経では五蘊は無我(非我)であり、また別の経では五蘊を悪魔と観じるのが正しい 観察とし、 五蘊を厭い離れることによって、貪りを離れる。 貪りを離れることによって、解脱するのである。 そして、すでに解脱するにいたれば、ああわたしは解脱したとの智が生じて、 <わが迷いの生活はすでにおわった。清浄なる行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。もはやかような迷いの生活に入ることはあるまい> と知ることができるのである 五蘊は苦の因を集める器であり 悪魔の棲家と見做されるべきもの。 苦の因を集めるのが我執。それを晴らすのが 空=道諦 釈尊が悪魔を降伏して成道したという伝説は 完全に五蘊を去った という境地の比喩 心経は 識を超えて欲界も色界も消えている菩薩が説法者の設定ですから とうに彼岸に渡った解脱者による説法です。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる