いかに九次第定を極めるか
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まず初禅をどのように修めるのがベストか
諸賢のアドバイスをいただければ幸いです。
加えて、不幸にしてカルト幼稚園で心の傷を負わされた園児さんの心のケア、
邪師から受けた催眠暗示の解除、その他仏教全般の課題についての議論の場になり、
彼岸中学(見諦道中学校)に入学できる、加行道小学校」の授業を開講したいです。 大乗は
何よりもまず、全ての有情、在家者のための教えである。
本来ならば、出家修行者のように
痴気に塗れた世間の有情たちから遠く離れ、僧院に籠って
修行に適した静かな環境で仏道を実践するところを
在家は世間の泥と隣り合わせの劣悪な環境で修行に取り組まねばならない。
これは考えようによっては、出家者よりも厳しい難業ともいえる。
しかも利他という目的がある。これは守旧派が何と言おうと、守旧派には無い眼目である。
他の三毒までをも空じて自他ともに救うには
まず(コイツは何だ といった)私的な思いを綺麗に空にして
自他差別など遥かに超越した大乗菩薩の慈悲心を生ぜずには済まぬのである スッタニパータ
356 [ヴァンギーサいわく、]第七の仙人さま。あなたのおことばを聞いて、わたしは慶びます。わたしの問いは、決してむだではありませんでした。
バラモンであるあなたは、わたしをだましません。
>過去から数えて七人目のブッダという意味?
>ゴータマ・ブッダ以前にブッダがいたことがそれだけ知られていたという事
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/46/1/46_1_391/_pdf
初期仏教の仏陀観は「―世界一仏」論が原則
部派仏教の時代になり大衆部所有の仏教説話集(アヴァダーナ)のマハーヴァストゥでは大乗仏教を彷彿とさせる複数仏陀観が説かれ、
「空間的には仏国土が多数あるので一つの仏国土に一人の仏陀が存在する」、「時間的には釈迦牟尼仏は過去世に色んな仏に授記され
最後に過去七仏が置かれ、また釈迦牟尼仏は未来仏として弥勒に授記する」
というスケールの大きな話となり、大乗仏教との親近性を窺わせるとのこと。
スッタニパータ
355「かれはこの世において、名称と形態とに関する妄執を断ち切ったのである。長いあいだ陥っていた黒魔の流れを断ち切ったのである」五人の修行者に
出会った尊き師はそのようにかたった。
>勝義に於ける自他の別は無く世俗に於いては各人の差別が生じる 一つ言えるのは、大乗では
ひとたび菩提心を起こして求道者となったならば
(その菩提心が正しい菩提心であるならば)その瞬間より菩薩道に入る
とのこと 色として認識された物は、実は虚妄分別された結果としての情報に過ぎないのである
>すべての現象は幻のごときものと知って
執着を離れ、束縛から解放されます
金剛般若経
第三章
師は、このように話し出された。
「スブーティよ、菩薩の道に向かう者は、
次のような心を、起こさなければならない。」・・・
ありとあらゆる生けるものを、
>私は、無余涅槃に、導かなければならない。
>しかし、こうして、永遠の平安に導こうとも、
>実は、誰一人、永遠の平安には導かれていない。」
>「それは、何故かと言えば、スブーティよ。
>もし、生きものという実体に、囚われるなら、
>もはや、かれは、菩薩と、言えないからである。」
この説法から
他(他人)とは言語表現だけのものであり実体はない
https://gamp.ameblo.jp/0358rainbow/entry-12291549474.html 増一阿含経 三一、五
『盲目のアヌルッダは、自分で裁縫をするとき、針に糸を通すことができない。そこでいつも誰かに助けてもらっていた。
ある時、「お願いしたい」と声を出した時、「では、わたしが功徳を積ませていただこう」と、釈尊がアヌルッダの手から針と糸をとられた。
アヌルッダはびっくりして、「わたしは世尊に申し上げたのではありません」と、答えた。
そうすると、世尊は「どうしてだね?アヌルッダよ。わたしもまた、幸福になりたいと思っているのだよ」と、答えられた。
そして続けて、
「そうではないのだよ、アヌルッダよ。仏陀であっても、なお求めるものがある。最高の仏陀であっても、これで十分と満足してはならないものが六つある。その六つのものは、・・・
まず第一が、「施」。人に施しをするのに、これで充分ということはない。
第二は、「教誡(きょうかい)」。弟子の指導に、ここまでで充分というところはない。
第三は、「忍」。じっと耐え忍ぶことに限界はない。
第四は、「説法」。信者に法(真理)を説くのに、これだけ説けばもういい、という限界はない。
第五は、「衆生の愛護」。これにも限りがない。
最後に、「無上正真の法を求めること」。仏道は無窮であって、仏陀はいつでも最高の真理を求めつづけている。
だから、仏陀はいつでも幸福を求めているのだよ。仏陀はいつでも精進を続けているのだよ。もうこれでよいという限界はない。つねに前進をつづけるのが、仏教者なんだよ・・・。』
こう語られる釈尊の姿に、悟りを得るということは何か、そして悟りを得たとしてもなお衆生に苦しみがある限り真理を求めてやまない、無上の幸福を求めてたゆまぬ精進をする仏教者の姿があります。
その一方経典は、悟りを得た後も魔の誘惑があることを伝えています。既に勝利したことであっても再び誘惑されるのです。
もちろん、既に勝利した内容なので乗り越えることは容易であるのですが、試練はその後も訪れるのです。 >>心経の批判は
有部の法有の見解にずぶずぶ嵌り込んでる方を対象
としたピンポイント爆撃的な面もあった
というより
もっと広い意味があったんでは? たとえば有部や諸派がブッダのさとりから
如何に堕落したかを戒める狙いがあったのでは
つまりニカーヤにしても言葉っちりや経の体裁や表層的な概念への固執や
因縁なるもののマニアックな分類だのに執着して実体視し、押しつけがましく
説教するだけで、それよりそこから解放されるすじ道を明らめるほうが大事だと。
釈尊は教義などゴリゴリ説かなかったでしょ 仏の身体のすがたをもって仏を見てはならない、いかなる相も虚妄であり、
諸々の相は相に非ずと見るなら、即ち如来を見ることになる。
仏像を(その物自体を)仏と思ったのでは、実体が無い物であるから錯誤に陥るのである
認識は幻想=いかなる「個としての枠組み」も、思考による妄分別が作り出した幻影、妄想=戯論に過ぎず
認識したものは真の実在ではないと如実に観察するなら
即ち無為法の慧より出世間上上智を生じて涅槃寂滅を知解する(宇宙の一体性をさとる)事ができるのである
像法(ぞうぼう)とは、仏教で、正法に似た仏法のことをいう。「像」とは「似」の意味である。
また、釈迦の入滅後の500年から1,000年の間(又は1000年から2000年の間)の時期のことをいう。前の時代を正法、後の時代を末法という。正・像・末の三時のひとつである。
像法の時代には仏法と修行者は存在するが、それらの結果としての証が滅するため、悟りを開く者は存在しないとされる。
形式化されて仏法が伝えられ利益をもたらす時代
日本では、1051年(永承6年)で像法の時代が終了したとされ、その年限の接近に従って、次第に末法の世の到来への危機意識が高まることとなった。
)【像法】
(「ぞうほう」とも。「像」は映像の意)仏語。釈尊入滅後、正法の時をすぎて、教えや修行が行われるだけで、さとりが得られなくなった時期をいう。
多く正法五百年、像法千年と数えるが、日本では永承六年がその最後の年と信じられていた。像法時。 >要は空海によれば、六大は如来内証の阿字本不生の世界の諸相をいうものなのであり、元素のことではなかったのである。
>すなわち、この六大は、如来内証の世界の本体が、本不生・離言説・離塵垢・遠離因縁・等虚空であり、かつそれらの覚証の智慧でもあること(理智不二)
すなわち本覚真如の世界「仏、六大を説いて法界体性と為す。」
華厳経でいう三界唯心、つまり唯識をベースとしたこころの顕れ、円成実性
>基体に疑似されるのが 縁起(業感縁起、阿頼耶識縁起、如来蔵縁起、法界縁起、六大縁起)ではないのか
第八住心くらいで如実知自心という言葉はでてきますね
この自心というのを真我と言ってよいように感じますが、ただ本来ブッダが
語るべきでなく確かめるべきとした「我」を あえて説くのが密教であった所
大乗の展開において顕教でありながら我を説く枝が生えてしまった訳ですね あまり好きな比喩ではないのですが、脳科学に詳しい人が書いてたこと
で共感できることがありましたので、単純化して説明すると、
人間の左脳には利己的な心、というより五欲や物本位に縛られた下向きの性質があり、
また右の脳には、左と正反対の利他的な仏性、如来がいる。
ブッダが空にせよ我を無にせよと説いたのは、その左に付着していた性質で、さらに言うと
そうした障りをクリアすればストッパーが外れて、仏心全開となるという事です 魂魄という言葉について
>魄については元々、白骨死体を意味する文字とも言われ、
辞書では
精神をつかさどる陽の気を魂というのに対して、陰の気に属して肉体をつかさどり人の成育をたすけるもの とあり、
生まれながらに持っている身体の設計図といった意味も中国医学では持つようで
さらに
「魄に変われば極楽浄土」と書いていた人もいました。
心経は道教と関係があると言う人もおり、自分も
道教由来とまでは行かないにしても、もしかしたら
或るレヴェルで意識が合ってる領域があるのでは、と感じていました。
それはたとえば、仏教的に言えば、五蘊(心経の色など)は魂魄の魄(陰)に該当し、
また非我の我は魂魄の魂(陽)に該当するという視点です。
無論、魂や霊なる概念を実体視したら仏教では無くなってしまうという考え方も
あるでしょうが、少なくとも日本仏教について見る時、どうも
避けては通れぬ根深い問題が存在するように感じる訳です。
また道元の身心脱落も五蘊から解脱して
プルシャ、真我に焦点が合った状態とも言える気が
しますが、如何でしょうか? 四〇
ここなる人が苦しみを見ないというのは、見ない人が(個人存在の諸要素の集合が)アートマンであると見ることなのである。
しかし(すべてが)苦しみであると明らかに見るときに、ここなる人は「(何ものかが)アートマンである」ということを、つねにさらに吟味して見るのである。
(ダンマパダ 中村元訳) このように現在において欲楽なく、静まり、清涼となり、楽しみを感受しつつ、
>ブラフマンとなったアートマンによって住する(解脱している)
>(ディーガ・ニカーヤ)
>真我とは大我ともいわれ「パラマートマン」(parama-?tman)であり、最高の我の意味
仏果の徳の上につけた名で、すなわち涅槃といわれるさとりは真実であるからと、
その悟りの世界はいっさいの繋縛をはなれて完全自由であるからとの両面より、さとりのうえに大我の徳を認める
ウダーナヴァルガ 27 は ”第27章 観察”
”明らかに見る(prapa?yan)” は、
”.『出曜経』にも『法集要頌経』 にも「妙観」
(と訳される真我を探究するための”観察”)
釈尊の死後におこった仏教なるものは所謂自称仏弟子たちによる噂話のようなもの? ただの詩人も大勢いた? 滅尽定まで行って、一切の想を止滅させるほうが重要では?
止観逆かもだが、観を伴った、すぐれた止は煩悩を
よく制する気がする 屁理屈に惑う者が多い
サーンキヤでは梵から阿頼耶識が生み出される
あなたの仰る他者とは欲に囚われてる蘊であって、さとったのは真我であり、
残された衆生を正しい認識に導くだけ。未脱却の他者はいるから菩薩行が出来る。
また主客の妄分別も、仮我・欲我=無明から出た幻想=戯論(というより無明から幻想が縁起する)なので、それを
晴らせば、さとりに到る
建前として仏教はアナートマンだから、本来は我という語は出せない。
チベットでも同じですよね。ところが実には真我=真如であって、如来蔵
チベットでも如来蔵は第三法輪で説きますね。我も如来も同じで言葉の問題。
五蘊無我とは方法論なのに、世界の法則とか誤解してる方が多い >サーンキヤではプルシャは無限にあるとされていますが、あるプルシャが
別のプルシャを救済しよう
という考え方は無く、
サーンキヤは自分の苦悩を救うためだけ ということは小乗に相当するのですかね
梵我一如の上に もっと高いレヴェルのアートマンという見方もあって、それはヤージュニャヴァルキヤ
の言う「この世界は全てアートマンに外ならない」、それ華厳や密教の教主と同じじゃないですか
また大乗の衆生救済への動きについては、ブッダ成道後の梵天勧請伝説と関係すると見てます。 大縁方便経(マハーニダーナ・スッタンタ)
「アーナンダよ、作用する、者に二つがある。
それでは、この二つの者とは、如何なるものか。
第一に、概念を作り出す、心の働き、名である。
第二に、形状を描き出す、物の働き、色である。」
「アーナンダよ、名が現れて、色が現れる。
主体が現れるから、客体が現われるのである。
すべての起源は、二つに分かれたこと、である。」
「アーナンダよ、唯一にして、絶対のもの、
アートマンを想定すると、如何なるだろうか。」
「尊師よ、非アートマンも、想定するでしょう。」
「即ち、真我が生まれて、非我が埋まれる。
アーナンダよ、有ると思えば、無いのであり、
アートマンなど、無いと思えば、有るのである。」
有ると思えば、無いとは逆に ブッダは、無いと思え(沈黙して、ただ確かめよ) と
説いたのだよ
如来=我 であって、それを無にしては逆なので、
そう覚るのを妨げる欲我、小我、自分中心の心、五蘊に繋縛された穢れを
無にせよというのが本来 >>488
>梵我一如の上に もっと高いレヴェルのアートマンという見方もあって、それはヤージュニャヴァルキヤ
>の言う「この世界は全てアートマンに外ならない」、それ華厳や密教の教主と同じじゃないですか
華厳の三界虚妄などと同じにするのだったら「この世界は全てアートマンが創り出した幻影に過ぎない」までしないとね
まさか目や耳の感官までアートマンそのものというわけではないのだから
ま、ヤージュナヴァルキヤが空想したアートマンは後にシャンカラによって「この世界は全てが基体であるブラフマンが創り出した幻影マーヤである」という哲学として完成したけどね >>489
その訳が間違い
「即ち、真我が生まれて、非我が埋まれる。
アーナンダよ、有ると思えば、無いのであり、
アートマンなど、無いと思えば、有るのである。」
こんなことは仏陀はその経典の中では説いてない
こちらが本当の因縁経の訳
https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn15/dn15c00.html
我を想定する者は取るに足らない理由で我を想定する
我を想定しない者は取るに足らない理由で我を想定する
我を誤認する者は五蘊の受を我を誤認するがそこには矛盾がある
だから世間においていかなるものへも執取するなそうすれば解脱できる
という説法が因縁経の教え >>491
レス有難うございます。
まだ見解の相違の段階です。翻訳の優劣について、前者の訳が間違いで
そちらの訳が正しいとの根拠は何でしょうか? 認識者がいなければ何も実在はしない
ブッダは数学や物理学の話をしてた訳じゃないから。
そういうのは、それこそ「無記」だよ
何も説かない。で、覚れる弟子には四諦説法をした
苦の起源についてこそ知るべき
空=ゼロだという見解への妄執こそ苦の起源なのであって、
ブッダは、それに気づくとともに、その執着こそゼロにせよと説いたのだ。ゼロに執着しろ
と説いたのではない
豚魔の低能脳では、色即是空は色即是零になるから誤りじゃ とかなるのであろう
しかし、ある場合には零という語を使ってあらわせる場合もあるにしても
零といいきるだけでは、オマエの脳と同じく幼稚過ぎるのだ。。 慈悲の心に基づいて、全ての誤った見解を断つために、聖なる教えを説き示された ゴータマブッダに礼拝いたします 空=0と解釈しようが、無と言おうが別にどーでもよいが
凡夫の五蘊の顛倒夢想はゼロではない。そもそも仏教は
五蘊はゼロである、とかのテーゼを拝んだり覚えたりする教えじゃなく
五蘊=ゼロとなるよう努力して修行を完成させよ、という教えであって、
実践する気がまるでない只の謎解きみたいな話なら仏教とは関係がない。
悪い煩悩や欲が詰まった五蘊をゼロにしようとの努力を放棄し、
下らん動画拡散で他に苦しみのみ撒いてたら
先は暗い
777 名前:神も仏も名無しさん 2020/09/02(水) 14:59:42.26 ID:M6YbIj2j
空がゼロとしてあらわれることもある ならそれもよかろう
だが、∞としてもあらわれ、その時には、マイナス∞もどこかにペアで
生じていて、ただし生じたものは必ず滅するので、生滅繰り返す現象は
仮の相であって、真の実体とは呼べない。それが空の大意
仮のものは仮の現象とわかる観察者の心を仮に空の中と表現してるのでは。
さらに仮の立場より見るなら、欲がゼロになったら、それが覚り
煩悩がゼロと呼べるほど微細になったら、それこそ悟り。真実には大小の別さえ無く、極小である微細な意識が
全宇宙を究め尽くしているのがブッダ・マインド (中論24)
二二 それ自体として存在するものが、どうして再び(註:自律したものとして)生起するだろうか。それ故に<空であること>を排斥する人
にとっては、苦しみの起こる原因【の真理】(集諦)は存在しない。
無も有も誤解錯覚で
実には空より空へ遷移してるだけ
それ恰も氷が溶けて水になり、蒸発して水蒸気になって雲となり
雨雪降らして水氷に転ずるが如きで状態変化繰り返し
可視不可視に関わらずH2Oの本質不変なのと同じ事なり 色即是空;如去
空即是色:如来
無も有も誤解錯覚で
実には空より空へ遷移してるだけ
それ恰も氷が溶けて水になり、蒸発して水蒸気になって雲となり
雨雪降らして水氷に転ずるが如きで状態変化繰り返し
可視不可視に関わらず水分子の本質変わらざるが如し
苦滅のための道諦と苦滅そのものである滅諦、或いは四諦を直観で見る事を空といいますね
それから色即是空 の一つの解釈として 水とは即ちこれ、水分子の集まりである とも言え
水分子、あるいは、その集合体という(容易に肉眼視できなかった)本質を指して「空」という、というか
科学的にも立証可だけれども直ちには確認し難い本質(縁起など)を指すと。
初撮影!原子が結合する様子を映像で
https://www.youtube.com/watch?v=IlJ54qk_IvY >「因縁生の法。是を空相と名づけ、また仮名となづけ、また中道と名尽」
(大智度論)
「因縁生の法。是を空相と名づけ、また仮名と名づけ、また中道と名づく」
(中論)
縁起の自在な観察者=空=仮名と観じる=中の道 「衆因縁生の法、我即ち是を空なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦た是れ中道の義なり」
(中論)
三密加持 即疾顕
有頂天にもとづき心と心所法を止滅する 「五蘊は非我なり」と覚る
五蘊の顛倒夢想を除く 五蘊に我無し(欲我消え、また識を越えて、智慧生如来顕)
即身成仏 ダンマパダ
278 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
これこそ人が清らかになる道である。
釈尊は
五蘊=苦と、その因と、苦を滅する方法=空=乃至 滅した状態を
説いたのです 五蘊が綺麗にゼロになったと言えるくらい執着を捨てさえすれば、
苦は消滅する と説かれた訳でしょうね
また諸法つまり欲色界が消える=五蘊非我を本当にさとった心のあり方とは
仏=我を覚った境涯、つまり成仏(真の自己に目覚める事)を意味する ブッダは真我(真の自己)も無我も肯定してる。(アートマンは輪廻と同様に前提としてあって、沈黙としてあらわされる)無我とは、
個我・欲我・小我・エゴを無にせよ と言ってるだけ
ブッダの教えたブッダになる方便(九次第定・三十七道品・四諦を直観視する空・五蘊無我相の修習など)の実践で
大日如来(本来具わる法界体性智)の目覚めに導く事が本旨 (8) 二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。
〔その二つの真理とは〕
世俗の覆われた立場での真理と、究極の立場から見た真理とである。
(9) この二つの真理の区別を知らない人々は、
ブッダの教えにおける深遠な真理を理解していないのである。
(10) 世俗の表現に依存しないでは究極の真理を説くことはできない。
究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。
(11) 不完全に見られた空は知慧の鈍いものを害する。
あたかも不完全に捕らえられた蛇あるいは未完成の咒術のごとくである。
(12) それ故にその法が鈍いものどもによってよく領解されえないことを考えて、
聖者(ブッダ)が教えを説示しようとする心はやんだ。
— 『中論』24:8-12 人の身体を開いて中いじる医者は、少なくとも
表面に見えるかたちの空はさとってると思う。大半はね。あと、受、
想、行の空も。ただ識の空まで悟れてるかは微妙で、だから古い知識に
縛られて誤診をやる時がある
邪見を抱えたまま眺めても、それじゃ何も理解できないのは何事も同じ
「阿含経を読めば誰でも分かる」等と居丈高に我見呟いて空の正しい解釈頑固に拒む御仁を前から見掛け
ましたが、つまり、阿含経への偏執は、空の見解育む上での妨げになり得る という事を示してるのかな?
不完全に見られた空は智慧の鈍いものを害する。恰も不完全に捕えられた蛇、或いは未完の咒術の如し
ここで不完全という語が出ましたが、全ては無常で不完全で確率的にしか予測
できないというのも、空像である世界の一つの性質といえるかも知れないですね。
ただ医学知識も無常で不完全なものと本当に気付いたら、或る種の正直すぎる人は、
医者などやっていられなくなる気はします。 明らかな智慧によって
対象物と主観の空(五蘊皆空)を観察している
「真の自己」がいる(諸法非我)
という事です。 ちゃんと正定を実践されてるのですか?
どの段階までかにもよりますが、
少なくとも「止」で一境性を体験すれば。空や無我の何たるかもわかる筈ですよ
理論でなく実践してわかる世界ですから
>龍樹菩薩
大智度論 巻第十九(上)
大智度論釋初品中三十七品義第三十一
問うて曰く、四念処は、則ち能く具足して、道を得しむれば、何を以ってか、三十七を説く。
若し汝、略説を以っての故に四念処、広説を以っての故に、三十七なれば、此れ則ち然らず。
何を以っての故に、若し広ければ、応に無量なるべければなり。
答えて曰く、四念処は、具足して、能く道を得といえども、亦た応に、四正懃等の諸法を説くべし。
何を以っての故に、衆生の心は種種に不同にして、結使も亦た種種あり、所楽、所解の法も亦た種種なり。
仏法は、一実、一相なりと雖も、衆生の為めの故に、十二部経、八万四千の法聚に於いて、是の分別を作して説けばなり。
若し爾らずんば、初転法輪に、四諦を説けば、則ち足り、余法を須たず。
有る衆生は、苦を厭うて楽に著すれば、是の衆生の為めの故に、四諦を、『身心等の諸法は、皆是れ苦にして、楽有ること無し。
是の苦の因縁は、愛等の諸の煩悩に由る。是の苦を尽くる所の処を、涅槃と名づく。方便の、涅槃に至る、是れを道を為す』、と説きたまえり。
有る衆生は、多念、乱心、顛倒の故に、此の身、受、心、法中に著して、邪行を作せば、是の人の為めの故に、四念処を説く。
是の如き等の諸の道法は、各各、衆生の為めに説きたまえり。
譬えば、薬師は、一薬を以って、衆病を治すを得ず、衆病同じならざれば、薬も亦た一ならざるが如し。仏も亦た是の如く、
衆生心の病に随いて、種種に衆薬を以って、之を治したもう。
http://tubamedou.egoism.jp/Daichidoron/Daichidoron11-20/Daichidoronn19a.htm?20200909-2021 世俗における真理は無数にあるが、勝義においては涅槃であり、無為の慧。
それは涅槃寂滅、涅槃寂静である。一方、色即是空や五蘊皆空の勝義は諸行無常に近く、
また凡夫からは一切皆苦と見え、聖者には諸法非我
と了知される。 内観 自己の内部を見つめる
ダンマパタ やスッタニパータを読んでも
>とにかく自己の内面を観察するのが主なる教えだったらしい
紙は無かった、
>木の葉や、皮、石板、粘土板、等、古代文明世界は王の業績等を記録していた。
釈迦牟尼は、文字で残さなかった。
ただ語った。
人々の不要な食べ物を1日、1回、午前中に食した。
働かず自由を確保し、真理を探究することに没頭するための最低限、最小限度の生き方をした。
これならば、許されるであろう、と言う事である。
一日(あるひ)釈迦牟尼は炎天下、農作業に忙しい農民のそばの道を次の村へ足を急がれていた。
それを見た農民が、言う。
何もせず、ただ生きていると言うのは、理解できないなあ。
これを聞いた釈迦牟尼は言われる。
あなた方は 田を耕す、わたしはこころを耕す。
これらの事を、お弟子さんは、詞の覚えやすい形にして覚え、修行僧が出会えば、互いが覚えている詞を言いあって、確認し合った。
如是我聞
にょーぜーがーもん
>>509 無為法の慧 人の心には二つ、我があって
一つは小我とか個我とか我執とかエゴとか言い、もう一つは真我とか
仏性とか法性とか円成実性等と呼ばれる
梵我。至上我はどっちも右脳です。
五蘊は、凡夫の場合、ただの曇りであって
全部錯覚、テン倒夢想に支配されてる
さらに言うと五蘊は苦の因を集める器であり
悪魔の棲家と見做されるべきもの。
苦の因を集めるのが我執。それを晴らすのが
空=道諦 五蘊がさとるのではない
如来(我)が覚るのである
本来悟っている仏を自覚
する事である >全ての物は他に依存して存在している
無い訳では無い
>全ての物ごとには(独立性は無く)関係性・相互作用だけがある
五蘊・自我も世界→周囲との繋がりによって
形作られた仮初のものに過ぎない
>いま見えている橋も何時破壊されて消滅するかわからない危険を孕んでる時、それは幻同然だと言われ
崩落直前のWTCビルヂングのように、今見えている物でも何時かは消滅するのだから幻のようなもの。
何十年とか、場合によっては数百年保存できたとしても何時かは消え去り、その時間も幻想で、この星で
の長い時間もどっかの天体では一瞬であり幻
>ガウタマシッダールタさんが出家して森の中で師事した二人の師は、瞑想を教えた。
三昧(ざんまい)の達人であった。 >フロイト的に説明すると、ヒトの精神にはエスと超自我が葛藤を繰り広げる領域があって、通常そこを”自我”と呼んでる。
統失者の書き込みを見てわかるのは、
もう超自我もへったくれもなく、超自我がぶっ壊れてるのか最初から良い按配に
出来上がらなかったかで、ただ闇雲に欲望充足の運動のみに五蘊が支配されてるような
感じだ。題目唱えるのもそうした低級な心のはたらきでやってる。仏教と無関係。
本来ブッダの無我とは、そうしたエスのほうを
限りなくゼロにして
自己の内面を見つめ、煩悩を滅ぼすことである。またブッダの意識も
エスが住み着いてる五蘊も超自我をも遥かに超えた普段は滅多に立ち
あらわれることのない至上我の世界であって、それを自覚するのが
瞑想の一つの目的である筈 ブッダは入滅するまで生涯、九次第定を続けておられたのだと
観察しますが、第三禅はどのような内証であったかは大いに興味があります。
弟子たちが行うような四念処観や四諦正見より、また進んだ観察であったような気は
しています。
>タイの20世紀の坊さんでブッダタートという人がいたが、
三蔵中の「たった一粒の金剛」は、何ものも私、私のものと
執着すべきでない、それは涅槃でさえも同じだと言ってる。(所謂 小乗圏で、この方は阿羅漢でしょ)それが空の意味です
「何ものも私、私のものと執着すべきでない」というブッダシャキャムニの教え
こそが、たった一粒のダイヤモンドと南伝系の人も言っていて、
それは般若のエッセンスと同じで、ただ密教においては、般若を空と解くは
浅略とも言ったりはします
>この宇宙のものごとというのは、
おしなべて何かを犠牲にしなければプラスは得られない。
労働をしなければお金は得られない、糖質のフリをせねば障害年金は得られない、
智慧方便に依らねば(これ犠牲じゃないかね?)無上の覚りは得られぬ…
単に言葉の問題で
智慧方便・般若波羅蜜多と大乗では呼んでるだけで本質は同じ。
ただ菩薩の覚りを説いてるのだから、当然、ブッダよりは一歩ひいて
て控え目だね 5chや知恵袋を見てると
ヴィパッサナー瞑想だけでも悟れたという風な話をなかなかよい感じで書く方がいて、
書きっぷりからして、(どの段階の悟りかは別として)必ずしも嘘ではないようにも感じたりします。
そうとするなら、ヴィパッサナーを含む第三禅だけでも、色界の禅だけでも大変な功徳のある実践行という事だと思います。
>>105-109
>六神通ろくじんづう
仏・菩薩などが持っているとされる(完全な精神統一などを行なって得られる)6種の超自然的な力。
止観の瞑想修行において、止行(禅定)による三昧の次に、観行(ヴィパッサナー)に移行した際に得られる、自在な境地を表現したもの 「執着して取ること」が無いならば涅槃を得る、ということは、執着して取ることがないならば生死輪廻が滅尽する、という意味です。
十二縁起、無明〜渇愛〜取(執着)〜生老死。
渇愛・取(執着)がなければ、生老死(生死輪廻)は滅尽するという教え、それが涅槃
釈迦の悟り・涅槃は、五道輪廻からの解脱と煩悩からの解脱
>十結煩悩解脱=五道解脱=阿羅漢、です。
五下結煩悩解脱=四悪道解脱=不還、です。
三結煩悩解脱=三悪道解脱=預流、です。
三結煩悩断じ二結(欲貪・瞋恚)薄れて、
三悪道尽きて、人間界にあと一回だけ生じるだけまでに、五道解脱が進んだのが一来です。
「中論」第二五章 涅槃
九 もしも【五蘊、個人存在を構成する五種の要素を】取って、あるいは【因縁に】縁って生死往来する状態が、縁らず取らざるときは、これがニルヴァーナであると説かれる。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530374
(鳩摩羅什訳 漢訳)
諸の因縁を受くるが故に、生死中に輪転し、
諸の因縁を受けざる、是れを名づけて涅槃と為す。
大般若波羅蜜多経卷第四百三
舍利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識不異空。空不異受想行識。受想行識即是空。空即是受想行識。
舍利子。是諸法空相。不生不滅。不染不淨。不増不減。非過去非未來非現在。
如是空中。無色。無受想行識。無眼處無耳鼻舌身意處。無色處無聲香味觸法處。無眼界色界眼識界。無耳界聲界耳識界。無鼻界香界鼻識界。無舌界味界舌識界。無身界觸界身識界。無意界法界意識界。
無無明亦無無明滅。乃至無老死愁歎苦憂惱。亦無老死愁歎苦憂惱滅。
無苦聖諦無集滅道聖諦。
無得無現觀。無預流無預流果。無一來無一來果。無不還無不還果。無阿羅漢無阿羅漢果。無獨覺無獨覺菩提。無菩薩無菩薩行。無正等覺無正等覺菩提… 1094 いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと、──これが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。
1095 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、悪魔に伏せられない。かれらは悪魔の従者とはならない。」
「名称で表現されるもののみを心の中に考えている人々は、名称で表現されるものの上にのみ立脚している。
名称で表現されるものを完全に理解しないならば、かれらは死の支配束縛に陥る。
しかし名称で表現されるものを完全に理解して、名称で表現をなす主体が{有る}と考えないならば、
その人には死の支配束縛は存在しない。その人を汚して瑕瑾となるもの{煩悩}は、もはや
その人には存在しない。 」
サンユッタニカーヤ 識(grAhaka)と境(grAhya)が消えるのは無想定か滅尽定に入った時と涅槃に入った時だけ
パーリ仏典で「渇愛・見解・思考について考えないこと」→最終的に識別が終わるので、主客を超越する
大乗仏教で「主客に二分して考えないこと」→主客を否定することで一元的且つ世界を否定するので
溺愛、妄執、見解、戯論、妄分別を却下できる
>諸々の汚れと執著のよりどころとを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない。
>三種の想いと汚泥とを除き断って、妄想分別に赴かない、かれを〈すぐれた人〉と呼ぶ。
欲愛等の破壊するものが、「三種の想い」である。〔そしてさらに〕感官の喜びという名の「汚泥」を除いて、
〔三種の想いと汚泥を〕除いた〔者〕は渇愛・見解・思考のどれか一つ〔について〕でさえも「妄想分別に赴かない」
妄想分別を構成するのは三つ(渇愛・見解・思考)
世俗諦を説かないと勝義諦が説かれ得ない
そしてその分別(世俗諦)は、勝義諦に於いて虚妄分別として否定される >相応部の経において、片方では五蘊は苦であり、もう片方では五蘊を空としている。
また相応部の他の経では五蘊は無常であり、また他の経では五蘊は無我(非我)であり、また別の経では五蘊を悪魔と観じるのが正しい観察としています。
結局はこれら色々な喩えは、
「そのように観じて、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、色を厭い離れ、受を厭い離れ、想を厭い離れ、行を厭い離れ、識を厭い離れる。
厭い離れることによって、貪りを離れる。
貪りを離れることによって、解脱するのである。
そして、すでに解脱するにいたれば、ああわたしは解脱したとの智が生じて、
<わが迷いの生活はすでにおわった。清浄なる行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。もはやかような迷いの生活に入ることはあるまい>
と知ることができるのである」
というように解脱して苦滅に至るための筏(方便)であり、解脱の時にはそれらへの見解も手放さないといけない 識が消えるのは滅尽定
>プルシャ純粋意識は五蘊を越えたものと。
胎蔵=大日経系密教はインド東部で、金剛界=金剛頂経系密教はカシュミールあたりで誕生しているので、
系統的には全く異なった密教といわれますが、こうした理性・智慧という区別を分かり易く説明すると
どう言えますか?
参考
ヨガのお話|プルシャとプラクリティ|10月23日朝ヨガライブまとめ
https://www.youtube.com/watch?v=f2i13XX6NxY
>nakさん2019/7/16 0:45 のご投稿から引用させていただきます
>悟りは全くの個人的体験です。
そして悟りは仏教者の身の上にのみ生じるわけではありません。
早い話、お釈迦さんは一度も仏教徒だったことはありません。
「北枕西向」
お釈迦さんは、神々の住むヒマーラヤに足の裏を向けなかったのですよ。
つまり、この一事を以てお釈迦さんが敬虔なバラモン教徒であったということが判ります。
仏教は、バラモン教の非合理的部分に対するアンチテーゼなのであって、バラモン教を否定したわけではないのです。 空海の代表作。秘密曼荼羅十住心論
https://youtu.be/K4xM0yrKiyc
【十住心の紹介(1/3) 私たちの物の見方に合わせた段階】<空海に学ぶ仏教入門>
https://youtu.be/XGi1dDgNZEU?t=1
【十住心の紹介(2/3) 神仏習合が起きるわけ】<空海に学ぶ仏教入門>
https://youtu.be/bxNW4E2JbD0
【十住心の紹介(3/3) 仏教固有の段階】<空海に学ぶ仏教入門>
https://youtu.be/0k79lr_9IBM 色界の四禅から四無色定を経て滅尽定に到る九次第定は、
現世で有余依涅槃を知る方便なのです。
また三密加持で即身成仏する秘密の教えもあります。 >>95
「遍行者よ、滅想受定は、無色界を越えてます。」
「尊師よ、アートマン、即ち、真実の自我、つまり、真我なるものは、存在するのですか。
それとも、真我なるものは、存在しないですか。」
「行者よ、有るとも言え、無いとも言える。無我を観じられないと、真我を感じられない。
これは、確かめるべきであり、語るべきではない。」
釈迦はケーヴァッダに識を越える時、色界も消えて欲界も消えると説き
内側に外界があり外界に内側など無いことを説く。
自我を越えて大我にいたるを梵我一如や即我宇宙や真我や眞如(さとりの真理)というが
主体は真我(己)であり悪魔や神は外界の客体であり
客体を生み出しているのが主体の囚われ(煩悩・カルマ・末那識・アーラヤ識)による五蘊で形成された実体の無いエゴで、
それらを空と悟ることで悪魔は己に調伏され神は己に帰依すると説かれている >龍樹の大智度論や十住毘婆沙論には九次禅定、無色界定(無空定とも)などの言葉がどんどん出てきて
はいたが、
また天台系の宗祖は一切経で知ってはいたものの
龍樹も智もあまり評価してなかったということですね
>現在の仏教の中で未だに無色界禅定まで極めようとしているのはチベット仏教
とのことですが、ダライラマもさほど九次禅定について、言及しているようには見えませんし、
ということは、やはり、おそらくは、正法後期以降の仏教の実践において
その認識と、実践それ自体が忘れられていた可能性がありますね。
実は確かに色界の四禅まででもじゅうぶんに実践の功徳はあるのは確かですし、
第三禅に当たるヴィパッサナーだけでも実践した結果さとったと言う方がたはいます。
しかしブッダが生涯、実践を貫いた九次禅定を言葉のみできちんと行おうする人があまり
見られないのは、大変不思議です。少なくとも
何故九段階必要かというと、まず五蘊を越える事と滅尽定を完成させる為
なんです。そして九番目まで行かねば涅槃は体験できないと思われます。
もちろん有余依涅槃ですけど。
第四禅では受が捨てられますが、色想行識を完全に消すのは大変な努力を要する事で、
とりわけ想蘊を止めるのは難しく、だからこそ8番目の非想非非想処定が最後に
置かれたと気付きました。 テーラワーダの藤本氏って、第四禅から第三禅に戻れと言ってるような話なので
変だと感じました。また智慧を得るための禅定とは初禅と第三禅で、徹底的に行い、
第二・四および無色定は一点集中の精神統一、止で一境性がどんどん深化していく
ことになります。自分の方法論としては止と観を交互に六回繰り返し
次第に完全な止を完成させるよう試みるのです。 >有部において静慮いわゆる禅とは、止と観とが拮抗した心の状態、『倶舎論』における玄奘三蔵の訳語をもって言えば、
>止観均行なる勝れた心の状態を示すもの
そうです。理想の無色定は、「止観均行なる勝れた心の状態」にあると常々感じていました。
私見を述べれば、初禅から滅想受定にいたる流れを止と観の関係より大雑把に要約すると
以下のように止と観を七度ずつ反復して
完全な止={五蘊皆空」を完成させる流れとなります。
@瞑想を始めるに当たって、まず欲界から離れ、五禅支の生成=(日常的な思いの)止 → 初禅=観
A第二禅=止(尋・伺が捨てられる) 三昧
B第三禅=観(正念・正智・正見)
C第四禅=止(一境性単独状態) サマーディの完成
D四無色定=色界が消え、観より止へ ×4 止観均行
E滅想受定=完全な止、涅槃 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxzsxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxsssssssssssssssssssssssssssssssssssssssss 唯識的な世界の見方でも統一的把握は可能で辻褄が会うこともあるけれども、
しかしそれは本来密教的な事柄であって、
あまり大きな声で語るべきでない話かも知れず、執着してしまうと
カルト妄信の偏執病に陥る 平川彰氏は、「阿含経では、四禅は決まり文句で、次のごとく説かれている。」として、次を引用する。
「比丘等よ、ここに比丘あり。諸欲を離れ、諸の不善の法を離れ、有尋・有伺にして、離より生ずる喜と楽とある初禅を具足して住す。
尋と伺とが止息することより、内清浄となり、心専一性となり、無尋・無伺にして、
定より生ずる喜と楽とある第二禅を具足して住す。
喜を離れることより、捨に住し、正念正知にして、身に楽を感受し、諸の聖者が「これ捨にして、正念ある楽住なり」と宣説する第三禅を具足して住す。
捨を捨て苦を断ずることより、さきにすでに喜と憂とを滅したるが故に、
不苦不楽にして、捨による念の清浄なる第四禅を具足して住す。」
平川彰「法と縁起」春秋社、1997年、381頁。
に引用。「南伝大蔵経」16巻下、174頁。「増阿含経」巻14、大正、2巻、97a。「長阿含経」巻8、大正、1巻、50c。 長時間の座禅を行う者には
断食、
または厳しい糖質制限は必須 三界の中にある分段生死と、三界を超えて外にある変易生死との中間
である中の道に仏は
大般涅槃で入滅していかれたという解釈も
あるのかな? 涅槃というのは死んでから行くものではありません
毎日、生きながら涅槃を楽しんでいる人もいるのです
そして仏教修行者にのみ涅槃は訪れるわけ
でもありません 禅問答も創価の屁理屈もどうやら同根だな。
というのも、双方ともに顕教の戯論から派生した
表層的な只の言語的遊戯であり、それこそブッダが無記とし
戒めた論争の行いに過ぎぬからだ。 いまの仏教からは、正定などの正しい実践はほぼ姿を消していて
いま続けられているのは、やたらに金ばかりかかる
形式にのみ囚われた禅問答とかの屁理屈の応酬紛いの遊戯に
堕しているということ 人無我
人間という存在(有情)は五蘊が仮に和合した無常なるものに他ならないから、
生死輪廻において
恒常不滅なる自我の存在、実体的な生命の主体というようなものは、常見として否定する。
法無我とは、あらゆるものは縁起・因縁によって仮に成り立っているものであるから、そのものに恒常不滅なる本体、本来的に固有な
独自の本性(自性)はないということ 言語や思考を越えた絶対否定の理が諸法空相で、
空・有を越えた絶対肯定の中道の理が諸法実相? >『創世記』における世界の創造。一日目 神は天と地をつくり、(宇宙と地球を創造し)暗闇がある中、
神は光をつくり、昼と夜ができた。
『新約聖書』「ヨハネによる福音書」
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、
言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。
・・・神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするために・・・
ゾロアスター教
ミスラは司法神であり、光明神であり、闇を打ち払う戦士・軍神であり、牧畜の守護神としても崇められた。
ミスラ(Miθra)は、イラン神話に登場する英雄神として西アジアからギリシア・ローマに至る広い範囲で崇められた神。インド神話の神ミトラ
と起源を同じくする、インド・イラン共通時代にまで遡る古い神格。
『リグ・ヴェーダ』
アディティの産んだ十二柱の太陽神(アーディティヤ神群)の一柱
ミスラ神の光明神としての性格が強調され、太陽と同一視された結果、中世ペルシア語では日曜日のこともミフルと呼ぶようになった。
これがソグド語に借用されてミールになり、「蜜」と音写された。
宿曜道とともに平安時代の日本にも伝えられ、当時の具註暦では、日曜日に「密」「みつ」「みち」などと朱書きされていた。
ミトラス教
最大のミトラス祭儀は冬至の後で太陽の復活を祝う12月25日の祭で、キリスト教のクリスマス(降誕祭)の原型とされる。
仏教
諸事象の無常・非我なることを知り、如実に見るとき、無明が滅して明が生じる。
無明滅するが故に行滅し、乃至純大苦聚集滅す。 〔雑阿含経、12〕 要するに大乗の涅槃経や日蓮の教義ってのは、
自己の内部の魔と戦うんでなく、
外に見えた虚妄なる他宗などの幻影を敵と見立てて闘いを挑む世界であって、それ
仏教じゃないし、凄い悪影響あるね。 思っても思わんでも五蘊は幻想だから、実には五蘊に我は無く、
勝義の我は、見ることはできる。
だが、涅槃像や板曼荼羅の類は、五蘊の作した業である故、
実体は無い。 『(師ブッダが現われていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアータヴィ・ブッダが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。
そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。ビンギャよ。」』(『スッタニパータ』第5章<パーラヤナ篇> Sn.1146 =『ブッダのことば』中村元訳・岩波文庫)
信者さん方は。思い込みに支配されてますよ。
正宗の教義も
世間に数ある「共同幻想」のうちの一つに
過ぎません。
本来、ブッダの教えは
低い次元の思い込みや幻を幻と気付いて
魂の覆いを打ち砕き、深い眠りから目覚めさせるもの
だったんですよ
涅槃
仏教では究極的目標である永遠の平和,最高の喜び,安楽の世界を意味する。本来は風が炎を吹消すことを意味し,自己中心的な欲望である煩悩や執着の
炎を滅した状態をさす。このような状態は「涅槃寂静」と呼ばれて初期仏教の根本的教えの一つであったが,人が生命または肉体をもつかぎり完全な涅槃
の状態は達成されないとして,これを「有余 (依) 涅槃」とし,死後に実現される完全な状態を「無余 (依) 涅槃」と呼び,釈尊の死を涅槃に入るというようになった。 >pariを般、nirv??aを涅槃と音写した語。「入滅」と訳す。
pariには「完全な」という意味があり、完全な涅槃をいう。あらゆる煩悩を滅し尽くした完全な静寂の境地、さとりの心境、あるいは、そのような心境に入ること。
梵に般涅槃と云う。般は此れ円を云い、涅槃は此れ寂を云う。 〔倶舎論光記23〕 >>544
仏教と関連する創造論はリグ・ヴェーダだね
(辻直四郎先生訳)
「宇宙開闢の歌」(10.129)======
1 そのとき(太初において)無もなかりき。
有もなかりき。
空界もなかりき。その上の天もなかりき。
何ものか発動し、いずこに、誰の庇護の下に。
深くして測るべからざる水は存在せりや。
2 そのとき、死もなかりき。
不死もなかりき。夜と昼の標識(日月・星辰)もなかりき。
かの唯一物は、自力により風なく呼吸せり。これよりほかに何ものも存在せざりき。
3 太初において、暗黒は暗黒に覆われたりき。
この一切は標識なき水波なりき。空虚に覆われ発現しつつあるもの、かの唯一物は、熱の力により出生せり。
=========== 自分は日蓮系じゃないが曹洞地獄鬼の妄執を見ると日蓮の存在意義が理解できる
日蓮にも一理ある。いやバカが二人いれば二理になり、三名いれば三理にもなる。
結果、日蓮系の勢力拡大を招く。独善的地獄鬼が醜態晒していては
道元禅師も泣くであろう テーラワーダや現代の分別論者への教化として、おそらく大変適切と言える言葉を見つけました。
それは
「自分がそうだから他人もそうだろうとは思わない方がよい」
という言葉です。これは知恵袋の次の質問
諸法空相と色即是空の違いをわかりやすく教えてください。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10224252255
に対するsam********さんという方の回答(BA以外)です。
確かに、空について自分らがよくわからないからといって、誰しもがわからないと思い込むのは変
だと思いますし、それこそ妄分別です。
批判対象へのきちんとした理解も一切ないまま
自分らが理解できないからというだけで、ただ闇雲に
心経を攻撃するのは如何なものか。
その程度の軽薄な誤解で本を出版したり、
多勢の前で法話をとくとくと説いたりしているということは、
その他のディスクールも(苫米地関連商材も含めて)
全てが心経批判と同水準の
ちまちました愚痴の羅列に過ぎなかったということか?
というお話なのです。 そもそも分別論者の邪な企みこそ、「狼子野心」に基づく業と見做されるべきことと観察されますが、
龍樹も
「行為と煩悩を滅すれば解脱に到る。行為と煩悩は誤った認識から生じ、それらの妄分別は戯論から生じる。
そして戯論は空によって滅される」というようなことを言っています。
空を否定しようとして攻撃している分別論者らの妄分別さえもが
空によって滅されてしまうのです。
また先に挙げたsamさんによれば、「正解が分かりにくい時、分かりやすく誤解するくらいなら、分からないままにしておいた方がよい」
とのことですが、しかし、それも一理はありそうではあるのですが、これまでに空について説かれた膨大な論書、
現代にいたる学術書や出版物等によるディスクールはどう扱えばよいのでしょうか? 近年でも
スマナサラ長老や苫米地氏による極めて粗雑な誤解に基づく本が出版されたり、あやしげな動画が氾濫しており
今更分からないままにしておける状況にあるとは思えません。・・・
https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202009300000/ 十力(じゅうりき)は、仏と菩薩が人々を救うために使う10種の力のことである。
仏の十力
仏(如来)のみが具える10種の智力のこと。
処非処智力 - 道理と、非道理との違いをはっきりと見分ける力
業異熟智力 - 業とその果報因と果の関係を知る力
静慮解脱等持等至智力 - 禅定を知る力
根上下智力 - 衆生の精神の優劣を知る力
種種勝解智力 - 衆生のまことの望みを知る力
種種界智力 - 衆生の本性を知る力
遍趣行智力 - 衆生が地獄や涅槃など種々に赴くことになる行因を知る力
宿住随念智力 - 自分や他者の過去世を思い起こす力
死生智力 - 衆生が死ぬ道理、むこうに生まれる道理を知る力
漏尽智力 - 涅槃に達するための手段を知る力
菩薩の十力
十廻向の第九無縛無著解脱廻向にある菩薩の具える10種のはたらきで、深心力(探心力)・増上深心力(深心力)・方便力・智力(智慧力)・願力・行力・乗力・神変力(遊戯神通力)・菩提力・転法輪力のこと。
参考文献
中村元、福永光司・田村芳朗・末木文美士・今野 達 編『岩波仏教辞典』岩波書店、2002年、第二版。ISBN 4-00-080205-4。
多屋頼俊、横超慧日・舟橋一哉 編『仏教学辞典』法藏館、1995年、新版。ISBN 4-8318-7009-9。 仮に全人類が阿羅漢に達し、子孫が絶えたとしても、解脱できることのほうが
優先されるべきだろうね。だが、そうおいそれと解脱はできるものでもなく、
子孫を残してから出家するものもいる訳で、禁欲が原因で人類が滅ぶこと
は無いよ。
また本当に正しい方法論なら
出家でなくても解脱できる。 般涅槃でブッダはまず如去として空(想受滅)に到り、
次に如来となって仮・色(初禅)まで戻り、
最後に中(第四禅→色・無色界の間)の道に入って無余依涅槃入りしたとも
解ける トムこそ低能じゃねえのか?
餓鬼以下の禅天魔(5ちゃん悟りスレの数匹については日蓮は正しい)の妄執を全否定するものなら
”皆さん”の批判は,至極真っ当なものだよ。臨済犬山・曹洞トム等が、ただやってるのはブッダ
の説く正定では有り得ない。 哀れな者の五蘊の空が意味するのは、empty=「物に囚われる五蘊は徳が無い」である。
が、断見の者には「唯物論の完全否定」を示し、常見には「カルト御花畑全否定」になり、
また分別論者や有部の見解に執着する石頭には、脱構築=真理を捉え直す方法論
とも説かれよう。 ブッダは「スジャータのおかげで覚れたのだよ」と言うかもしれません。
また「我が衆生を救ったというより、梵天さんが利他をすすめてくれたから説法しただけなのだよ」と言うでしょう。
決して衰退のおべんちゃらの出鱈目詭弁で史実を曲げ過大評価するのが道理な訳はなく、
いわんや日蓮が持ちだしたとされる鎌倉時代の真言僧(いったい誰!?)のような
仏を卑下する言説に理があるという訳ではありません 瞑想して仏に成る事が正定
仏であるための実践 が八正道(菩提分法) つまり
仏である事を妨げない行が
道諦(仏道) 世間法即涅槃、生死即涅槃、煩悩即菩提
>この、今こうして当たり前に生活してる
この様子を捨ててどこか超越した何かに涅槃とか悟りとかがある訳ではない。
>「この生死は、すなはち仏の御いのちなり、
これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり。
これにとどまりて、生死に著すれば、
これも仏のいのちをうしなうなり。
仏のありさまをとどむるなり。
いとうことなく、したうことなき、このときはじめて、仏のこころにいる。
ただし心をもてはかることなかれ、ことばをもていうことなか れ」正法眼蔵 生死 臨死体験者とか、一度本当に自分は死ぬかもしれないと覚悟した者が強いのは
所有観念を完全に手離すから、そういう人は意識として、出家してなくても出家して全て捨てたのと同じ気になれる 意識が第七識を意識して言語化したものが
「自我執着」だよ。そしてほんとうに一たび覚ったなら
以後は平等と見て、エゴは醜い幻でしかない
内観で「エゴは醜い幻でしかない」と
見るようになれば、もう平等性智だよ。
ただ現実の社会では、エゴがないと
対応できない世界もあるようだ。あと万一、暴漢とかに
襲われてまだ死ぬべきでないと思うなら身を守る。昔の阿羅漢は、それも
因果と思い、そのままやられた
悟った境地にあっては、
もう相場などという騙し合いのゲームも馬鹿らしくてやれなくなる。
そもそも覚者は手を出さないが、エゴはないとやれないことは
世間に多い。
仏の教えという「法」を
ただ知識として論争に用いて、自我執着を膨らませてしまうか。
本当の実践の手引きとして生かすかで、かなり
差は出るよね
ブッダの無我を「我執を無くすこと」と本来的な意味で理解するなら
第七識を転識得智する でおしまいだね。
阿羅漢は頭割られて死んだとかいう話も、彼らが無我に達してた証拠にはなるが、
他人に業を積ませないという発想はなかったのか 5chの悟りスレは、
ブッダの覚り
じゃなく、仏滅後のダメな仏教に執着するスレみたい。
ブッダは仏教がなかった時代にさとったんだし
ブッダ以後にブッダが出てないとすれば、
仏教って多分、未完成だったか、仏に成れる教え
じゃなかったという事
ブッダも梵我一如には達したんだと思います
そのための方法がアナートマンで
それはバラモン教では、かなり独自な教説な
だけ
>「今ここ」って書いてるのいた。
つまり禅の方のさとりなるものを 良く目にするのですが、それ殆どが
実質・和風梵我一如、中華風梵我一如
です ヒンドゥでもブッダは神です。梵我一如も悟れてない者が
神扱いされることはありえません。 IQにもいろいろあって、テストでわかるIQとテストでは評価できない
裏の、といったほうがよい智慧の水準がある
たとえばオウムをはじめカルトの幹部には高学歴のものが多いけれど
とんでもない邪師につかまったりするのは人を見る智慧の眼が劣っている、
肝腎な裏IQが劣っているということで、同様に子供の時から勉強ばかりで異性を見る目がじゅうぶん
できてない人が悪い異性にひっかかって痛い目に遭うとか
健康リスクを甘く見て食事や飲酒などの生活習慣リスクに注意ができなかったり
老年までうまく生きれたとしても高齢運転のリスクに気づけず適切なライフスタイルの改善をしないで事故を起こしたり
幾らでもテストIQでは測れない諸問題が人生には山のようにあり、
その意味でも、ブッダの言うよう人生は苦なので
その解決法がまさに道諦の実践ということになる。
まよいの縁起を超越するほんとうのIQともいえる仏の智慧を輝かせる
方法はふつうの学校では教えてもらえません ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています