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いかに九次第定を極めるか

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0001神も仏も名無しさん
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2019/04/16(火) 23:26:06.38ID:vJO4L+E7
まず初禅をどのように修めるのがベストか
諸賢のアドバイスをいただければ幸いです。

加えて、不幸にしてカルト幼稚園で心の傷を負わされた園児さんの心のケア、
邪師から受けた催眠暗示の解除、その他仏教全般の課題についての議論の場になり、
彼岸中学(見諦道中学校)に入学できる、加行道小学校」の授業を開講したいです。
0002神も仏も名無しさん
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2019/04/16(火) 23:36:20.55ID:vJO4L+E7
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディスヴァハー
0003神も仏も名無しさん
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2019/04/16(火) 23:57:08.67ID:vJO4L+E7
初禅・第二禅・第三禅・第四禅・空無辺処定・識無辺処定・無所有処定・非想非非想処定・滅尽定
0004神も仏も名無しさん
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2019/04/17(水) 00:13:05.66ID:Yzxkns9m
釈尊はある経典のなかにおいて、出家される以前、インドの一小国の太子であった
ころのことを回想され、田畑に遊ばれて樹下にて瞑想されたおり初禅を得ていたと
述懐されています(『中阿含経』卷廿九「柔軟経」第一)。この経に対応する
パーリ経典では、その時いまだ幼い太子の身であった釈尊は、この禅なる境地において
「これこそ解脱に至る道であろう」と考えられたと伝えられます。

苦行の無意味さに気づいて極端な苦行に依る解脱を放棄した釈尊は、ここで自ら王子
として野に遊んだかつての頃、木陰で瞑想して初禅に達したおりに「これが解脱への道
であろう」と考えたことを思い出し、再び瞑想し、禅という境地において解脱を果たさんとします。
そして、悟りを獲るまでは決してこの座を立つまいとの決死の覚悟をもって、菩提樹と後代言われる
ようになる大木のもと、結跏趺坐します。インド・ビハール州のブッダガヤーと現在言われる土地においてのことでした。

しかしてついに、釈尊はかつて少年の頃に感じたとおり禅という境地において、
別いてもそのうち最も高い第四禅において、一切の無常なること、非我なること、
それが故に苦であることを完全に悟り、苦の滅尽に至って正等覚者、仏陀となられたと諸々の経典は伝えています。

http://www.horakuji.com/dhyana/sikan/dhyana.htm
0005神も仏も名無しさん
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2019/04/17(水) 02:14:57.91ID:+VXTA9gX
碧巌録(へきがんろく)第28則 南泉不説なんぜんふせつ

本則

南泉、百丈(ひゃくじょう)の涅槃和尚に参(さん)ず。丈問う、「従上の諸聖、還(かえ)って人のために説かざる底(てい)の法ありや?」。

泉云く、「あり」。

丈云く、「そもさんかこれ人のために説かざる底の法?」。

泉云く、「不是心(ふぜしん)、不是仏(ふぜぶつ)、不是物(ふぜもつ)」。

丈云く、「説き了(おわ)れり」。

泉云く、「某甲(それがし)はただ恁麼(いんも)、和尚作麼生(そもさん)?」

丈云く、「我れまたこれ大善知識にあらず。いかでか説不説あることを知らん」。

泉云く、「某甲不会(ふえ)」。

丈云く、「我はなはだ汝がために説き了れり」。

?


南泉 南泉普願(748〜834)。馬祖道一の法嗣。

百丈の涅槃和尚:百丈惟政(いせい)。常に「涅槃経」を講誦したことから涅槃和尚と呼ばれた。有名な百丈懐海禅師ではない。

本則

南泉普願が百丈の涅槃和尚を訪ねた時、百丈涅槃が南泉に聞いた、「これまでの歴代の祖師達もまた人のために説かなかったような真理があるでしょうか?」。

南泉は言った、「あるよ」。

百丈涅槃が聞いた、「それでは人のために説かなかった法とは一体どのようなものですか?」。

南泉は言った、「心でもない、仏でもない、物でもない」。

百丈涅槃は言った、「あなたは人のために説かなかった法と言ったけど、ちゃんと説いたではありませんか」。

南泉は言った、「説いたかどうかわしは知らん、ただこのようだ。和尚は、一体どうなんだ?」

百丈涅槃は言った、「わしは大善知識ではない。どうして、説いたり説けないものがあることが分かろうか」。

南泉は言った、「わしも分からん」。

百丈涅槃は言った、「どうやらわしは説明し過ぎたわい」。

→ つまりは、これ と言うものなど もとから 無いんだよ、と言う。

  一切皆空
  (さぁさ みんなで おかゆをくおう)
0006神も仏も名無しさん
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2019/04/17(水) 12:39:00.56ID:Yzxkns9m
慈悲の心にmicroおとづいて、全ての誤った見解を断つために、聖なる教えを説き示されたゴータマブッダ
に礼拝いたします
0007神も仏も名無しさん
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2019/04/17(水) 12:49:31.58ID:Yzxkns9m
菩提心生起

全ての有情を救済しようという願いによって
仏陀・仏法・僧伽に
悟りの心髄に至るまで
私は帰依いたします
智慧と慈悲を持って精進し
すべての有情を利益するために
私は仏陀の御前に
完全なる菩提心を生起いたします
この虚空が存在する限り
有情が存在する限り
私も存在し続けて
有情の苦しみを滅することができますように
0008神も仏も名無しさん
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2019/04/17(水) 20:17:48.48ID:+VXTA9gX
出家修行者とは、真理(さとり)を求めて 生産活動をせず、自己救済を求める生活に入った人、だろうね。
0009神も仏も名無しさん
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2019/04/17(水) 23:16:32.75ID:kfXDzYxV
豚コレラ餌型ワクチン、74パーセント食べた形跡 岐阜 : 中京テレビNEWS
https://www2.ctv.co.jp/news/2019/04/17/47932/
https://www2.ctv.co.jp/news/files/2019/04/8a55ecf57127d7f85b52705b7046e661-600x338.jpg

 それによると、餌型のワクチンは3月下旬に、県内600か所で合わせて2万4000個を散布、3月末から4月上旬にかけて回収したところ、74パーセントのワクチンに食べられた跡があったということです。
 岐阜県は、イノシシへのワクチン散布を1年計画で進めており、4、5月には、郡上地域なども加えた880か所で、2万6400個の散布を行うことを決めました。
 岐阜県内で豚コレラに感染したイノシシは、15日現在で20市町で300頭にのぼっています。
0010神も仏も名無しさん
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2019/04/18(木) 01:09:26.00ID:Dc4KB44G
四禅(しぜん, Rupajhana)とは、初期仏教で説かれる禅定(ジャーナ)の4段階のこと。
三界の内の色界に相当し、この言葉は、禅定の段階に応じてこの色界を4分割した四禅天の略称としても用いられる。

初禅 paṭhama-jhāna (梵 prathamadhyāna)
諸欲・諸不善(すなわち欲界)を離れ、尋・伺(すなわち覚・観)を伴いながらも、離による喜・楽と共にある状態。
第二禅dutiya-jhāna (梵 dvitīyadhyāna)
尋・伺(すなわち覚・観)が止み、内清浄による喜・楽と共にある状態。
第三禅 tatiya-jhāna (梵 tṛtīyadhyāna)
喜を捨し、正念・正見(すなわち念・慧)を得ながら、楽と共にある状態。
第四禅 catuttha-jhāna (梵 caturthadhyāna)
楽が止み、一切の受が捨てられた不苦不楽の状態。

パーリ語経典長部『沙門果経』では、王に仏教の比丘(沙門)の果報を問われた釈迦が、
まず戒律の果報を説き、次にこの四禅の果報を説き、最後に六神通を説いたとされる。

パーリ語経典長部『大般涅槃経』では、釈迦の入滅の様子が、「初禅から滅想受まで、
「九次第定」を段々と上がって行き、そこから初禅まで段々と下って行き、そこから再び四禅まで上がったところで入滅した」と描写されており、第四禅定をして涅槃とする根拠とされた。
0011神も仏も名無しさん
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2019/04/18(木) 01:29:31.21ID:Dc4KB44G
覚とは 正思惟。正思惟とは出離・無瞋・無害を思惟すること。出離とは
  輪廻からの解脱の覚悟を定めること。
観とは 如来のさとりに心を結合する。即ち、出世間上上智を観じること。

正念
しさん:2017/11/15(水) 11:40:09.19 ID:xTt7t/Psg[26/33]
『四念住(しねんじゅう)』という修行法では、『身体は不浄である・感受は
苦である・心は無常である・すべての事物は無我である』という仏教の法印と
も相関する4つの命題を観想するものである。身体・感受・心・すべての事
物は『不浄・苦』であり、そこに煩悩を働かせて執着する意味や価値などないということを自分に教え込んでいくのである。
煩悩を引き起こさない無漏(むろ)の智恵を得るための修行法として
『四善根(しぜんこん)』というものがあるが、四善根では『四諦(したい)
』の苦・集・滅・道を分析的に繰り返し観察・思索することによって、煩悩を
断ち切るための無漏の智恵に近づいていくことができる
0012神も仏も名無しさん
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2019/04/18(木) 01:34:19.18ID:Dc4KB44G
輪廻からの解脱の覚悟を定める。すなわち、渇愛・妄執を滅ぼすこと。
0013神も仏も名無しさん
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2019/04/18(木) 02:01:17.71ID:Dc4KB44G
まだ物質的な領域にある色界の禅定とは異なり、無色界では色蘊(しきうん)がなく、
この段階に至った修行者は、触覚、視覚、物質的な構成要素において、微細なものからも完全に離れる修行をする。
空無辺処(くうむへんじょ)
漢訳で無限の空の領域の意味。
識無辺処(しきむへんじょ)
漢訳で無限の識の領域の意味。
無所有処(むしょうしょ)
漢訳で有る所が無い領域の意味。微細な対象がいまだある。
非想非非想処(ひそうひひそうじょ)
漢訳で想が非ず非想にも非ずの領域の意味。旧訳では非有想非無想処ともされる。この完成が有頂天
滅尽定だけが釈迦が初めて到達した仏教に特徴的な定だとされる。
0014神も仏も名無しさん
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2019/04/18(木) 02:33:30.25ID:Dc4KB44G

13ではさっぱりわかりませんね。教外別伝などと言わずに、小学正にもわかるよう、
ご教示願えれば、識者の方

空無辺処定 欲界と色界とにおける一切の物質的な形を離れた、一切の作為の無い
無辺の空を観じる
識無辺処定 心を転じて識を縁じ・・・
0015神も仏も名無しさん
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2019/04/18(木) 12:24:07.49ID:Dc4KB44G
識無辺処(しきむへんしょ)とは、無色界の(下から数えて)第2天。認識作用の無辺性についての三昧の境地。
無色界の初天である空無辺処を越えて、その空の無辺なるを厭(いと)い、心を転じて識を縁じ、識と相応し心定りて動かず、
三世(過去・現在・未来)の識が悉く、定中に現じて清浄寂静なる果報をいう。外の虚空の相を厭い、内なる識を観じて、識が無辺であると達観すること。

如来を蔵するアーラヤ識(阿摩羅識→乾栗陀耶識)としての真識が、過去・現在・未来の三世にわたって無限に永続するあり様を観じる定とも

唯識思想は後代に発展を遂げたものですが、釈迦仏説にもその萌芽を見出すことは可能かもしれず、一応精要部だけは引いておきます。


阿頼耶識
唯識思想により立てられた心の深層部分の名称であり、大乗仏教を支える根本思想である。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の8つの識のうち第8番目で、人間存在の根本にある識であると考えられている。
天台宗では阿摩羅識を加えて九識、真言宗ではさらに乾栗陀耶識を加えて十識とする。
ある人の阿頼耶識は、蔵している種子から対象世界の諸現象<現行(げんぎょう)法>を生じる。
またそうして生じた諸現象は、またその人の阿頼耶識に印象<熏習(くんじゅう)>を与えて種子を形成し、刹那に生滅しつつ持続(相続)する。
この識は個人存在の中心として多様な機能を具えているが、その機能に応じて他にもさまざまな名称で呼ばれる。諸法の種子を内蔵している点からは「一切種子識」、
過去の業の果報<異熟(いじゅく)>として生じた点からは「異熟識」、他の諸識の生ずる基である点からは「根本識」(m?la-vij&ntilde;?na)、身心の機官を維持する点からは「阿陀那識」、天台宗では末那識の別名)と呼ばれる。
心に積集、集起の2つの義があって、阿頼耶識は諸法の種子を集め、諸法を生起するので、心という。
0016神も仏も名無しさん
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2019/04/18(木) 12:28:39.65ID:Dc4KB44G
阿摩羅識(あまらしき、梵:amala-vij&ntilde;?na、菴摩羅識とも)は、大乗仏教の論の一つ。
唯識思想(法相宗)では、八識を説く。 すべては阿頼耶識より縁起するとし、主に迷いの世界であるが悟りも阿頼耶識より生じるとする。 一方、心は本来清浄であるとする如来蔵思想があった。
これらの思想を止揚するため、天台宗や華厳宗などの法性(ほっしょう)宗は、この阿摩羅識を加えて新たに九識を立てた。
天台宗では、阿摩羅識をけがれが無い無垢識・清浄識、また真如である真我、如来蔵、心王であるとし、
すべての現象はこの阿摩羅識から生れると位置づけた。したがってこれを「真如縁起」などともいう。真如は絶対なる真我なれば「識」とは言い難いが、前の八識に隋縁生起する本源なることから阿摩羅識と名づけられた。したがって法性宗における仏性の異名である。
なお、法相宗では玄奘がこの説に対し摂論を釈して、第八の阿摩羅識のみを立てて、それは阿頼耶識の果上に至りし時の名称であり、また阿頼耶識が無垢になったものであるとするので九識を別に分けて立てない。

さらに真言宗では、個々人の仏性の奥にある真の根源として、第十識すなわち
乾栗陀耶識を立てます。

乾栗陀耶識けんりつだやしき
確かに悪念は末那識から出るものですが、阿頼耶識はその悪念を経験として蓄積
し、汚れる可能性があります。ならば、悪念のない無垢な阿頼耶識、というものがありうるはず。天台宗や華厳宗では、それを阿摩羅識という第九識とします。別名「仏性」と呼ばれるものです。
0017神も仏も名無しさん
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2019/04/18(木) 12:33:06.51ID:Dc4KB44G
世の中に 我が物とては無かりけり 身をさえ土に返すべければ

無智・亦無得。以無所得故

無所有処(むしょうしょ)とは、無色界の(下から数えて)第3天。 いかなるものもそこに存在しない三昧の境地。
空は無辺なりと観じて、空を破した人が、さらに識が三世(過去・現在・未来)にわたって無辺であるを厭(いと)い、所縁共に所有なしと観じ、
この行力に依って生まるる処であるから、無所有処地という。
何ものも真実には存在せず
と観察し達観する三昧境とも

非想非非想処定
想いが有るのでも無く、無いのでも無い、深い三昧の境地
想いが有ろうが無かろうが、心が主客に分かれない、すべてわかって何も分かれない無色界の有頂天にもとづく
非想非非想処天とは、この天に生じる者は、下地の如き麁想(そそう)なきを以て「非想」、または「非有想」といい、しかも、なお細想なきに非(あら)ざるを以て
「非非想」、または「非無想」という。

参考 非想非非想処と涅槃
http://www.bukkyouoshie.com/tenkai/hisouhihisousyo.html
0018神も仏も名無しさん
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2019/04/18(木) 12:35:41.58ID:Dc4KB44G
無色界の禅定(非想非非想処)の先に、滅尽定(滅想定、滅受想定、想受滅とも呼ばれる)がある。これは、瞑想とも禅定とも呼べるかどうかもわからない状態である。すべての想いが滅した状態である。
これは色界や無色界での禅定ではない状態で、心の働きが一切尽きてなくなり、全く平穏静寂な、心のあらゆる動きが全く止滅した状態とされている。
想受滅では、心の状態が全く止滅し、身体のはたらきもその間ほとんど止まる。

滅尽定(nirodha-sam?patti)では、有頂天にもとづき心と心所法は決められた間において止滅する。
大般涅槃経では、釈迦は入滅にさいして第一禅定と想受滅のあいだを上下し、第四禅定から出定したのち般涅槃に入ったとされている。
滅尽定は煩悩を滅して心を完全に清らかにした阿羅漢でなければできない禅定

十地経の第七では、「(波羅蜜にある)かの菩薩」なる者が、第六の菩薩の地(くらい)において初めて、
「あらゆるまよいの存在が滅尽する定(滅定)」に入定し、第七の菩薩の地において、その定に入定してはまた出定するようになるとする。
入中論』の月称(チャンドラキールティ)の注釈も、十地における滅尽定は第六地から第八地にかけて入定するということである.

最後にニルヴァーナに入る時、
非想非非想処(有想無想定)まで至ったが、またそこから初禅(第一禅)へ戻り、さらに第四禅へと至って、最後にニルヴァーナ(最終的な肉体のない解脱)へと至っている。

初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅 → 空無辺処 → 識無辺処 → 無所有処 → 非想非非想処 → 滅尽定

そして今度は、逆に最後の滅尽定から、無色界の非想非非想処から空無辺処まで戻り、さらに色界の第四禅から初禅まで戻る。
再び、色界の初禅から第四禅へ至り、この第四禅から直接ニルヴァーナへと入り、ブッダは肉体を捨て去ったと記述されている。
0019神も仏も名無しさん
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2019/04/19(金) 04:54:27.35ID:ac5eqS65
しかしアーナンダよ、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく
一々の感受を滅したことによって、相の無い心の統一に入ってとどまるとき、
そのとき彼の身体は健全なのである
その故にアーナンダよ、この世で自らを島とし、自らをよりどころとして、他をよりどころとせず、
法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ
(マハーパリニッバーナスッタンタ)
0020神も仏も名無しさん
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2019/04/19(金) 07:05:15.37ID:ac5eqS65
世間を空であると観ぜよ
0021神も仏も名無しさん
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2019/04/19(金) 07:39:37.56ID:ac5eqS65
四聖諦(苦・集・滅・道) 苦(まよいの生存)の起源としての無明、渇愛、妄執の発見
道諦=八正道の実践→滅諦の実性をさとる
0022神も仏も名無しさん
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2019/04/20(土) 12:43:52.21ID:Yb075SUK
懴悔文(さんげもん)
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞう しょあくごう)

皆由無始貪瞋痴(かいゆうむし とんじんち)

従身語意之所生(じゅうしんごい ししょしょう)

一切我今皆懴悔(いっさいがこん かいさんげ)

五大願(ごだいがん)
衆生無邊誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)

福智無邊誓願集(ふくちむへんせいがんしゅう)

法門無邊誓願覺(ほうもんむへんせいがんがく)

如来無邊誓願事(にょらいむへんせいがんじ)

菩提無上誓願證(ぼだいむじょうせいがんしょう)


舍利禮(しゃりらい)

一心頂礼 万徳円満 いっしんちょうらい まんとくえんまん
釈迦如来 真身舎利 しゃかにょらい しんじんしゃり
本地法身 法界塔婆 ほんじほっしん ほうかいとうば
我等礼敬 為我現身 がとうらいきょう いがげんしん
入我我入 仏加持故 にゅうががにゅう ぶっかじこ
我証菩提 以仏神力 がしょうぼだい いぶつじんりき
利益衆生 発菩提心 りやくしゅじょう ほつぼだいしん
修菩薩行 同入円寂 しゅうぼさつぎょう どうにゅうえんじゃく
平等大智 今将頂礼 びょうどうだいち こんじょうちょうらい
0023神も仏も名無しさん
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2019/04/20(土) 12:46:44.42ID:Yb075SUK
35歳のシッダールタは、ガヤー地区のほとりを流れるナイランジャナー川で沐浴したあと、村娘のスジャータから乳糜の布施を受け、
体力を回復してピッパラ樹の下に坐して瞑想に入り、悟りに達して仏陀となった(成道)。
この後、7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起と十二因縁を悟った。
悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって
考えた。
その結果、「法を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。
ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。
3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた五人の沙門に説こうと座を立った。
0024神も仏も名無しさん
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2019/04/20(土) 12:48:06.14ID:Yb075SUK
パーリ律蔵の『マハー・ワッガ』(和訳:『南伝大蔵経』第3巻)
梵天の懇請を容れた釈迦は、世間には心の汚れの少ないもの、智慧の発達した者、善行為を喜ぶものもいる
ことを観察した上で、最終的に法を説くことを決意した。(「甘露の門は開かれたり 耳ある者は聞け」に始まる有名な偈はこの時説かれたとされる。)
釈迦がヴァーラーナスィーに向かう途中、アージーヴィカ教徒の修行者ウパカに無師独覚を話したが軽く受け流されている。
これは仏法を説いたことにはなっていない(ウパカは後、釈迦に帰依して出家した)。
…自らが阿羅漢であったことを表明した釈迦は、なお教えを受けることを拒む5人を説得して、最初の説法を為した。
このとき説かれた教えは四諦八正道であったとされるが、後代に編まれた経論、経解ほど中道、三十二相、三転十二行相など様々に脚色される。
5人の修行者は釈迦の説法を歓喜して受けた。
また、この時、5人のうちコンダンニャに「生ずるものはすべて滅するものである。」という法眼が生じた(悟りを得た)。
伝統的に、これは四沙門果の第一、預流果に達したことと説明されている。
釈迦は次に「無我相」の教えを説き、五比丘に五蘊無我の修習を指導した。五人は阿羅漢果(四沙門果の第四)に達したとされる。
0025神も仏も名無しさん
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2019/04/20(土) 13:04:56.03ID:Yb075SUK
八正道(形骸化した知識にしてしまっては無意味であり、正しい理解でない。深い意義を認識した上で完全に実践することが、向上に努めるということ)、
@正定…正しい精神統一。つまり、九次第定の完全な実践(への努力)。
さらに瞑想時だけでなく、日常生活においても仏の境涯を常にキープする。そのためには、
正しい生活態度、正しい念い、正しいものの見方・考え方・言動について清浄な行いに徹し
十善戒を守る事をはじめ、常に仏であるように完全な精進努力をする。
(A〜G:正命・正業・正念・正見・正思惟・正語・正精進)
そして世界は縁起によって成り立っていること(因果の道理)をさとり、(人生のあらゆる局面において悪しき種を撒かぬよう細心の注意を払い、悪事象は過去の業報と謙虚に省察して善き種だけを撒く生活に変革し)
正定によって生じた仏の智慧により苦しみの原因となる迷い(無智)を晴らして行くことである
0026神も仏も名無しさん
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2019/04/20(土) 13:05:28.84ID:Yb075SUK
八正道の実践こそ仏道
お寺で修行するにせよ(←参考にならぬ訳ではないが形式のみに囚われても無実体)在家でその如く定められた行動をやるにせよ、八正道から離れた行いでは意味をなしません。寧ろ、
八正道の実践こそ、ほんとうの仏道といえます。そして(縁起より生じた)五蘊に支えられた個我意識や煩悩は常ならぬ幻想であると気づき、(自他差別が滅した)心の本質は仏であると覚るに至るでしょう。

何であれ縁起によって生じるもの、それを空であると説く、それは他に依存して仮設されたものなので、それはすなわち中の道である。
ゆえに縁起していない現象は何ひとつ存在していない。ゆえに空でない現象は何ひとつ存在していない。

まよいの縁起
十二縁起(じゅうにえんぎ)は、仏教において、現実の人生の苦悩の根源を断つことによって苦悩を滅するための12の条件を系列化したもの
無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個の支分において、無明によって行が生じるという関係性を観察し、行から次第して生や老死という苦が成立すると知ることを順観という。
また、無明が消滅すれば行も消滅するという観察を逆観という。
順観と逆観の両方を行って、人間のありように関する因果の道理を明らかにした結果、因果の道理に対する無知が苦悩の原因であったと悟る。
その際には苦悩が消滅し、根源の無明が消滅しているため輪廻もなくなるとされる。
0027神も仏も名無しさん
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2019/04/21(日) 01:14:44.61ID:lYU830Gq
「止」を伴った優れた「観」が
煩悩を克服するのをよく知って
四つの無色界の瞑想を超越した瞑想を修習する
それが菩薩の実践である

三十七の菩薩の実践(菩薩道を実践したい人のために記された聖典)
0028神も仏も名無しさん
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2019/04/22(月) 00:19:22.74ID:2ABdwfxn
止(一点集中の瞑想、禅定)と観(智慧によって思索し抜く瞑想、観察)


導入編 入口はさまざま

瞑想で起こる衝撃の7つの効能と最終到達地点がヤバ過ぎる
https://www.youtube.com/watch?v=AZz4KEvBu8E

初心者でも始めやすい瞑想のガイド
https://www.youtube.com/watch?v=N3z8u00MBI8

マインドフルネス瞑想 一瞬で幸せになれる方法
https://www.youtube.com/watch?v=ym-ueDFcCTU
0031神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/24(水) 01:51:22.25ID:FwqVL+F5
>>26
ただの宗教妄想(迷信・狂信)なのか
正しい菩提心に基づいた道諦の実践なのか
では全く意味が異なるということ
0032神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/24(水) 07:20:26.97ID:FwqVL+F5
IQにもいろいろあって、テストでわかるIQとテストでは評価できない
裏の、といったほうがよい智慧の水準がある
たとえばオウムをはじめカルトの幹部には高学歴のものが多いけれど
とんでもない邪師につかまったりするのは人を見る智慧の眼が劣っている、
肝腎な裏IQが低いということで、同様に子供の時から勉強ばかりで異性を見る目がじゅうぶん
できてない人が悪い異性にひっかかって痛い目に遭うとか
健康リスクを甘く見て食事や飲酒などの生活習慣リスクに注意ができなかったり
老年までうまく生きれたとしても高齢運転のリスクに気づけず適切なライフスタイルの改善をしないで事故を起こしたり
幾らでもテストIQでは測れない諸問題が人生には山のようにあり、それよえブッダの言うよう人生は苦なので
その解決法がまさに道諦の実践ということになるんですね。縁起を超越するほんとうのIQともいえる仏の智慧を輝かせる
方法はふつうの学校では教えてもらえませんね
0033神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/25(木) 02:28:35.71ID:AymIlKzt
https://www.youtube.com/watch?v=cQhZr7DYe5c&;list=RDcQhZr7DYe5c&start_radio=1&t=7

Britney Spears - Gimme More - ほか - 50件の動画
https://www.youtube.com/watch?v=elueA2rofoo&;list=RDelueA2rofoo&start_radio=1&t=20

Jennifer Lopez - On The Floor ft. Pitbull - ほか - 50件の動画
https://www.youtube.com/watch?v=t4H_Zoh7G5A&;list=RDt4H_Zoh7G5A&start_radio=1&t=0

Lady Gaga - Poker Face - ほか - 50件の動画
https://www.youtube.com/watch?v=mz1m0exHTpg

Beyonce - Run The World - ほか - 50件の動画
https://www.youtube.com/watch?v=_686VqoD6uU&;list=RD_686VqoD6uU&start_radio=1&t=2

Throwback hits of the 1990's - 2000's - 1/139
https://www.youtube.com/watch?v=1cQh1ccqu8M&;list=PLyjgHc47unfT3BIZo5uEt2a-2TWKy54sU

Top 10 Worldwide Hits Of Each Year (2000 - 2017) - ほか - 50件の動画
https://www.youtube.com/watch?v=yXMOnfBSMvA&;list=RDyXMOnfBSMvA&start_radio=1&t=3
0034神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/25(木) 05:52:28.12ID:oUeTafEE
初禅にも尋伺があるという。かなりすすんだ修行者にある「尋伺」とは何か。
天台大師の『摩訶止観』では、尋伺について詳細な記述がある。
 それによれば、尋は、身体の八種の触感で、伺は、それを評価・判断することである。
十種の判断であり、これは、智慧ある判断である。それ以前は、同様の触があっても、邪の判断をする。
 修行がすすんでいくと、初禅の境地に達する。そこには、五つの特徴がある。覚、観、喜、楽、一心である。
 「初めの触が身に触れて縁にあるを覚と名づけ、細心に八触および十眷属を分別するを名づけて観となし、
昔はいまだ得ざるをしかもいま得るを慶ぶが故に名づけて喜となし、恬愉なるを名づけて楽となし、寂然なるを一心と名づく。」
0035神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/25(木) 06:03:01.31ID:oUeTafEE
五蘊と別な離れたものであるアートマンをどこに求めるのか

色は無常である。無常なものは苦である。苦なるものはアートマンにあらず。アートマンにあらざるものは、私のものにあらず。われにあらず。われのアートマンにあらず。このごとく正しい智慧によって如実に見られるべきである。
『阿含経』(無我相経)
0036神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/27(土) 08:45:04.29ID:yNNmnvGg
転識得智

阿摩羅識 ⇒法界体性智(ほっかいたいしょうち)
物事の本質を明らかにする絶対的な智慧
五智如来:大日如来


実現方法:一例ハ  三密加持
(即身成仏義)

見道ノ次段階、修道
0037神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/28(日) 00:02:58.38ID:WXZ3dKNc
無学道 無上正等正覚
菩提(さとり)を成就せよ

諸乗究竟菩提証入の義
あらゆる教えの究極的なさとりに入る意義
0038神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/28(日) 10:17:31.92ID:WXZ3dKNc
安直なアートマン思想の否定→梵(仏)我一如と成るにも条件がある(入我我入とは仏法の実践より
生じる縁起に支えられた心境なので)、その一つは三密加持であり、
一切のものにとらわれぬ無上正等正覚を成じて
法界体性智(一切如来の心)を顕わした境地こそが
究竟菩提なり
0039神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/28(日) 11:10:26.56ID:WXZ3dKNc
通常意識される自我(自己中心的ものの見方)も煩悩も(世間の誘惑に騙される妄分別から派生した)
偏見も幻想に過ぎない。自我や幻影に固執する見解を打ち破って、世界を実体の無い「空」なりと観じ、
自他差別も超越した平等性智をもって全てを観察、宇宙意識と一体化する時、浄土は開けるであろう
0040神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/28(日) 16:13:02.26ID:WXZ3dKNc
弟子たちよ、生じないもの、成らないもの、創造されないもの、
構成力から発生したのではないもの、が存在する。
もし、この生じないもの、成らないもの、創造されないもの、
発生しないものが存在しなかったとすれば、生じたもの、成ったもの、創造されたもの、
構成力から発生したものを認識することができないであろう
0041神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/29(月) 08:11:56.14ID:2f8KJ7hd
諸のつくられた事物は実に無常である。生じ滅びる性質のものである。それらは生じては滅びるからである。それらの静まるのが安楽である。

恒常の涅槃寂静なる安楽を受用する真我(本覚仏)が
道諦の実践によって
世界と障りであった末那識を無常・苦・非我なる縁起(無明)から生じた夢幻(空)と正しく覚り、
最高の清浄である解脱(滅諦の実性・宇宙と一体化した、一切のものにとらわれない心境)を悟る
0042神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/29(月) 10:10:27.83ID:2f8KJ7hd
真我
個我意識を滅尽した果てに体現される寂滅
の(本来沈黙され明示はされなかったものの、涅槃寂静としてあらわされる)如来
0043神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/29(月) 11:49:25.38ID:2f8KJ7hd
全ての魂は毘盧遮那仏と一体であり、悟りの一部であると覚って行くのが修行
0044神も仏も名無しさん
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2019/04/29(月) 15:04:24.50ID:2f8KJ7hd
全ての魂は毘盧遮那仏と一体であり、悟りの一部であると覚って行くのが修行
0045神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/29(月) 16:43:08.58ID:2f8KJ7hd
個我意識が滅尽されることで転識得智に至り、
末那識は平等性智に転じ、
阿摩羅識 は法界体性智に転じる。
(五蘊無我の修習→阿羅漢果)
0046神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/30(火) 03:11:26.83ID:U3O83lzQ
頌に曰く、真言は不思議なり
観誦すれば無明を除く(本尊を観想しながら、真言を唱えたならば、根源的な無知の闇が除かれる)
一字に千理を含み(真言のわずか一字の中に、それぞれ千の理法がふくまれ)
即身に法如を証す(そうして、この身のままで真理をさとることができる)
行行として円寂に至り ぎょうぎょうとしてえんじゃくにいたり 去去として原初に入る
(「羯諦 羯諦」と行き行きて、静かな涅槃の境地に至り
「羯諦 羯諦」と去り去りて、根源的なさとりに入る。)
三界は客舎の如し さんがいはかくしゃのごとし 一心はこれ本居なり いっしんはこれほんこなり
(いまださとりを開いてないものにとっては、三種類の生存世界は、あたかも仮の宿である。
しかし、実際には、われら衆生がそなえて持っている、ただ一つの心が、本来の拠り所なのである。)

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶  【秘蔵真言分】


般若心経秘鍵
https://piicats.net/hikkenn.htm   
0047神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/01(水) 00:50:11.28ID:Rm1UoyZB
目的地に行くにも、遠いならマップが必要。(ましてや究極の究竟菩提が目的地なので)まずはマップの準備から

@見諦道(中学校)で本格的に学び修めるブッダの教え、道諦(八正道の実践)をしっかり守って諸大乗菩薩たちの最もすぐれた修行を完成させ、
A正しく彼岸に行く修道(高等学校)では顕教の型を破り、(無苦集滅道・・・と「役割を果たし了えた筏は捨て去られねばならぬ」義をさとって
大慈悲心に基づき衆生を救う菩薩行を実践、密教の奥義を極め)
Bそれらからも離れ(無学道大にては)無上正等正覚を成就する(とも本を忘れず衆生を導け)

現在は準備の段階でもあるので、まず究極に至るための正しい菩提心生起から始めることです
そして四聖諦の完全な理解、道諦・正定(初禅〜、準備的な近行定からでもOk)の実践開始、そして「空」の理解を深め、縁起(十二因縁、この世は縁起で成り立っている法則)を覚ることから
大事なことは修行は小学校で終わらないということで、正しく菩提心をおこしたならば必ず次のステップに進める筈です。
0048神も仏も名無しさん
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2019/05/01(水) 08:50:00.44ID:Rm1UoyZB
迷いとさとりは、自分の内部に存在しているのであるから、
さとりを求める心を起こせば、それがさとりに到達する
0049神も仏も名無しさん
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2019/05/01(水) 09:05:17.56ID:Rm1UoyZB
迷悟我れに在り。則ち発心すれば、即ち到る。
めいごわれにあり。すなわちほっしんすれば、すなわちいたる。
0050神も仏も名無しさん
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2019/05/01(水) 09:06:56.00ID:Rm1UoyZB
真如、外に非ず
さとりの真理は、われわれの外部にあるものではない
0051神も仏も名無しさん
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2019/05/02(木) 06:05:54.14ID:Q/wml3x3
釈尊は三明経において、梵天へと至る梵行として、十善戒、六根清浄、正念正智、三衣一鉢による満足、
五蓋の除去(五禅支の生成)、四無量心(四梵住)について触れ、
それを行う比丘が梵天と共に住み、死後にも梵天へ生じると説いたとされる。

五禅支(ごぜんし、巴: pancangika, パンチャンギカ、五支)とは、仏教における色界の禅定、すなわち初禅以降の四禅において生じる五つの心所の総称。
種類は以下の通り
尋(じん、vitakka, ヴィタッカ) - 認識対象把握
伺(し、vicara, ヴィチャーラ) - 認識対象維持
喜(き、piti, ピーティ) - 喜悦
楽(らく、sukha, スカ) - 安楽
一境性(いっきょうしょう、ekaggata, エーカッガター) - 集中
禅定(四禅)との関係
五禅支の内の「一境性」が、禅定(四禅)における集中が深まった状態としての三昧(samadhi、サマーディ)の本体となるものであり、
これを他の五禅支によって(五蓋など煩悩から)護り、強めつつ、
段階的に他の五禅支を除去していき、強化された「一境性」単独状態にしていくプロセスが、禅定(四禅)である。
まず、五下分結(衆生を「欲界」へと縛り付ける「5つの束縛」としての煩悩の総称)を絶って欲界から脱し、色界の初禅に入った段階では、五禅支の全てが揃った状態にある。
ここから尋・伺の二支を捨てることで第二禅に入り、喜を捨てることで第三禅に入り、最後に楽を捨てることで第四禅に入ることになる。
0052神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/02(木) 18:58:10.84ID:Q/wml3x3
欲界(実体無き物質界の物事に執着する迷いの心の世界)とは二次元の世界で
識が欲界という「地」からの「離」によってポテンシャルエネルギーを高めた結果、
空と色界(入定)が生じるとも
解釈できる
0053神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/02(木) 19:01:01.96ID:Q/wml3x3
「比丘等よ、ここに比丘あり。諸欲を離れ、諸の不善の法を離れ、有尋・有伺にして、離より生ずる喜と楽とある初禅を具足して住す。
尋と伺とが止息することより、内清浄となり、心専一性となり、無尋・無伺にして、定より生ずる喜と楽とある第二禅を具足して住す。
喜を離れることより、捨に住し、正念正知にして、身に楽を感受し、諸の聖者が「これ捨にして、正念ある楽住なり」と宣説する第三禅を具足して住す。
捨を捨て苦を断ずることより、さきにすでに喜と憂とを滅したるが故に、不苦不楽にして、捨による念の清浄なる第四禅を具足して住す。」
0054神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/03(金) 06:54:25.16ID:NxC6djjD
禅定(四禅)における心所の構成要素である五禅支と、その妨げとなる煩悩としての五蓋は、ちょうどトレードオフ(入れ替え)の関係にある。
五禅支と五蓋の対応関係
@尋    →(五蓋のうち)コン沈睡眠 こんじんすいみん  - 倦怠・眠気 (意識を保てていれば倦怠・眠気は起きない)
A伺    →(五蓋のうち)疑(疑い)       (意識が対象から外れなければ、疑いは起きない)
B喜    →(五蓋のうち)瞋恚 - 悪意・憎しみ  (喜と共にあれば悪意・憎しみは起こらない)
C楽    →(五蓋のうち)掉挙悪作(じょうこおさ) - 心の浮動・後悔  (楽と共にあれば、心の浮動・後悔は起きない)
D一境性  →(五蓋のうち)貪欲   - 渇望・欲望  (意識が正しく集中できれば、渇望・欲望は起きない)

したがって、(四無量心(慈悲の瞑想)や仏随念などによって)五蓋を抑え除去しつつ、五禅支を高めていくことで、近行定(禅定に準じる集中状態)、
そして安止定としての禅定に入って行きやすくなる。

上座部仏教圏の指導者の中には、ヴィパッサナー瞑想を修するには近行定で十分だという者もいる。
通常の禅定の場合と同じく、各種の業処をその導入とする。中でも慈愛の瞑想やアーナーパーナ・サティがよく用いられる。
安那般那念(ウィキペディア参照)
安止定については厳しい見解もあります(確かに在家の身でありながら禅定、あるいは安止定に達するには相当なセンスと努力が必要です。しかし-)
https://ameblo.jp/metta-salla/entry-12009923906.html
0055神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/03(金) 06:56:42.55ID:NxC6djjD
五下分結(ごげぶんけつ)
「下分」(げぶん)とは「下の領域」すなわち「欲界」のこと。「結」とは「束縛」のこと。
五下分結の内容
1.有身見(うしんけん):五蘊を自己とみなす見解
2.疑(ぎ):疑念
3.戒禁取(かいごんしゅ):誤った戒律・禁制への執着
4.貪欲(とんよく): 五欲への執着・むさぼり
5.瞋恚(しんに):怒り
四向四果との関係
四向四果における不還果に到達すると、欲界への執着が断ち切られ、この五下分結も消え去る
一来果で4-5が弱まり、不還果で4-5が絶たれ、欲界への再生が完全に断ち切られ天界にも再び還らない段階に入る
阿羅漢果の境地に到達すると、三界にはもう戻らず輪廻から解放される(さらに以下の6-10の上分結からも解放される)
6. 色貪
7. 無色貪
8. 慢, うぬぼれ
9. 掉挙
10. 無明
0056神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/03(金) 17:18:53.32ID:NxC6djjD
離欲地
声聞は欲界の煩悩がなくなった位で、阿那含果、菩薩は欲を離れて五神通を得た位

已作地(所作弁地、已弁地)
 声聞は尽智・無生智を得た阿羅漢果、菩薩は仏地を成就した位

辟支仏地
 因縁の法を観じて成道したもの、縁覚とも

http://www.wikidharma.org/index.php/じゅうじ


十信(じゅうしん)
菩薩修行の位階である52位の中、第1〜10位まで。上から願心・戒心・廻向心・不退心・定心・慧心・精進心・念心・信心の10位。
仏の教法を信じて疑心のない位
0057神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/03(金) 17:53:21.93ID:NxC6djjD


上から願心・戒心・廻向心・護法心・不退心・定心・慧心・精進心・念心・信心の10位。
菩薩が修行して到達する位に五十二段階あり、
最初は @信心(しんしん)
教法を信じる心。一切の妄迷を滅尽し、中道を了知し純真なること。
ウィキペディア「十信」参照。
以降、「十住」(11〜20位)、「十行(じゅうぎょう)」(21〜30)、「十廻向」(31〜40)、
「十地」(41〜50)、等覚、妙覚に至るまで五十二階ある。
0058神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/03(金) 18:27:27.34ID:NxC6djjD
仏の教法に入らんとする者はまず信の心を持つことから十信という
十信の第5位:定心(じょうしん)
静かで動揺しない心。三学の一である定学。智明を執持して周囲を遍く寂湛し、つねに心を一境に凝らすこと。
0059神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/03(金) 18:31:38.33ID:NxC6djjD
無心定には、無想定と滅尽定とがあり、いずれも心・心所を全く滅する定である。四禅(四静慮)・四無色・滅尽の九定は、異心をまじえずに次第を追って順次に修得するときは九次次第、無間禅と名付けられる。
四禅と四無色定の上に、滅尽定すなわち、想受滅定があり、九次第定と呼ばれる。
無想定は、凡夫や外道が無想の状態を真の悟りと誤認して修めるものであるが、滅尽定は、聖者がその定の境地を無余涅槃界の静けさになぞらえて修めるものである。
無想定では、第四の禅定にもとづき知覚の粗いはたらきがなくなり、滅尽定では、有頂天にもとづき心と心所法は決められた間において止滅する。
九次第定とは、パーリ語仏典では9つの定を置く形で説明が保たれており、第一禅定、第二禅定、第三禅定、第四禅定、
空無辺処(定)、識無辺処(定)、無所有処(定)、非想非非想処(定)、想受滅となり、この最後だけが釈迦が初めて到達した仏教に特徴的な定とされる
0060神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/03(金) 18:51:08.22ID:NxC6djjD
「九次第定」は韻文であれ散文であれパーリ経典が成立した時には既に,経典
の どの部分にも同じ九つの内容が同じ名前と順序で確立していた.
項目の幾つかが略説されたものや別 の述語で再分類されたものもあるが,その場合も九つの内
容,名前,順序に異同はない.
よって 「 九次第定 」は,パ ーリ経典成立 まで に成立していたことは明らかである.
一方 この説は釈尊の悟りに基づく想受滅を頂点としているので,その成立は釈尊以前には遡れない.
よって 「九次第定」は,遅くともパー リ経典編纂 に着手するまでの弟子たちによるもの,
より自然な理解としては,経典の記述通り,釈尊自身によるものと考えられる.
0061神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/03(金) 19:37:19.43ID:NxC6djjD
>>46
>一心はこれ本居なり

ゆいしん‐えんぎ【唯心縁起】 仏語
一切の諸法は一心の縁起によって顕現したものであるということ。

一心
宇宙の事象の基本にある絶対的な真実。真如 (しんにょ) のこと。
また,仏陀の救済を信じる心は,その本質が仏陀の心そのものであって,このような信仰を得た人は,凡夫でありながら仏陀の心をそなえているので,このような心を仏凡一体の一心と呼ぶ。
仏語。あらゆる現象の根源にある心。
唯一絶対の心。すべての現象の根源としての心。真如。
絶対なる全を表す。すなわち、万有の事象の基底にある絶対的真実。
仏教の最初期の文献には、このような意味の一心はなかったが、大乗仏教の文献に頻繁にみられるようになった。そこでは、あらゆる現象の根源に存在する心とか、衆生に内在する真実なる心識の意味で用いられた。
『華厳経(けごんきょう)』に「現象界は虚妄であり、それはただ一心のつくりたるものである」と述べられているが、この一心の実体について後世の学僧は、如来蔵(にょらいぞう)とか仏性といい、
さらに阿頼耶識(あらやしき)とも考えた。また、一心は禅定(ぜんじょう)と同義にも用いられる。この場合の一心は心を一つにすること、一つの対象に心を向ける意味である。したがって心の動揺を静めることをいい、
坐禅(ざぜん)時の精神統一を一心で表したり、念仏時に阿弥陀(あみだ)一仏を念じ、他の仏を念じないことを一心で表したりする。
0062神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/04(土) 06:09:21.85ID:jgEVG8Gp
阿羅漢、独覚乗も途中経過に過ぎません
本当の求道者たる菩薩として覚りの階梯を一歩ずつ上って行くことが大事
0063神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/04(土) 06:32:31.28ID:jgEVG8Gp
中道
2つのものの対立を離れていること。
断・常の二見、あるいは有・無の二辺を離れた不偏にして中正なる道
中道の語は仏教において広く重んじられているため、その意味には浅深がある

2つのものの中間ではなく、2つのものから離れて矛盾対立を超えることを意味し、〈道〉は実践・方法を指す。
二辺は、中道を離れた両極端を指す。仏典では『中論』の巻四が〈有・無〉あるいは〈常・無常〉を、
『順中論』の巻下が〈常・断〉を、『摂大乗論』世親釈の巻一が〈増益・損減〉を二辺の語義として挙げている。
総合佛教大辞典は『止観輔行』の巻三が〈空・仮〉を二辺として挙げているとする。

原始仏教において中道は、主として不苦不楽の中道を意味した。具体的には八正道を指す。
八聖道(八正道[21])の実践は快楽主義と苦行主義との偏った生活態度を離れ、それによって智慧を完成して涅槃のさとりに趣く道であるから八聖道を中道という。
0064神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/04(土) 06:41:05.98ID:jgEVG8Gp
初転法輪 パーリ語経典相応部の五六・二
そのとき、世尊は五人の比丘の群れに告げられた。「比丘たち、出家した者はこの二つの極端に近づいてはならない。二つとは何か。
 第一にさまざまな対象に向かって愛欲快楽を求めるということ、これは低劣で、卑しく、世俗の者のしわざであり、とうとい道を求める者のすることではない。
また、第二には自ら肉体的な疲労消耗を追い求めるということ、これは苦しく、とうとい道を求める者のすることではなく、真の目的にかなわない。
比丘たち、如来はそれら両極端を避けた中道をはっきりと悟った。
これは、人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ、すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役だつものである。
 比丘たち、では如来がはっきりとさとったところの、人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ・すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役立つ中道とは何か。
それは八つの項目から成るとうとい道(八正道、八支聖道)である。
0065神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/04(土) 07:04:27.30ID:jgEVG8Gp
常見と断見や、有見と無見などのように偏ったものの見方を離れることであるから、十二縁起を正しく観察することが中道の正見に住することである
「永遠主義」と「消滅主義」の極端を避ける中道である。永遠の自己の存在、また死による完全な消滅という考えを避ける

上座部仏教の救済論においては、無我とは、永遠の自己を否定し、さらに死亡時の完全な消滅も否定するものであり、因果に基づく現象発生と停止のみが存在する
縁起とは、ドゥッカをもたらす十二因縁ともされ、無明から老死までの一連の依存関係である。
「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が張りすぎず、緩すぎもなく、丁度よい度合いを持っていたら、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」
「ちょうど同じように、ソーナよ、行き過ぎた努力は高ぶりを招き、少なすぎる努力は懈怠を招く。それゆえソーナよ、あなたはちょうどよい努力を保ち、感官にちょうど良いところを知り、そこに目標を得なさい」

中論巻一観因縁品では、〈生・滅・断・常・一・異・去・来〉の八の誤った見解(八邪)を離れて無得正観に住するのを中道とし、これを八不中道という
中観派では、般若波羅蜜を根本的立場とし、すべての執着や分別のはからいを離れた無所得の在り方にあるのを中道とする

天台智は『摩訶止観』の中で、「若し行、中道に違すれば、卽ち二邉の果報有り。若し行、中道に順ずれば、卽ち勝妙の果報有り」としている
0066神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/04(土) 10:40:07.17ID:xOTNGL7p
>>65
登山の目的は、頂上を踏む ですが、未登頂峯には何号名の案内板はありません。
九の次第と説く人達は、誰かの体験談を上手く辻褄を合わせて並べたのでしょう。
わたくしが、小学校時代に教師を尊敬した理由とは、先生は物識りと思いこんだからでした、
うん年後の今にして思えば誤解しています。
さて其の登山口は、無分別観なのですが、上手く見付けて下さい。
0068神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:56:54.85ID:NR6eZsDx
臨死体験で有名な(実際には臨死というより死亡と言ったほうが正確)木内鶴彦さんや、
スピリチュアル系でハイアーセルフとか言ってる人たちのほうが、カルトより余程、唯識や梵我一如の正しい認識に(ほぼ)達していると見えます


臨死体験
https://www.youtube.com/watch?v=sIxdeV_gbZU

人は死なない 東大救命医独自の死生観
https://www.youtube.com/watch?v=HLVeGlGYdEw

木内鶴彦さんのお話 1(前編) ← 22分〜
https://www.youtube.com/watch?v=-_etAK6Ftyo
2
https://www.youtube.com/watch?v=72Oz8ubF6bM
0069神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/06(月) 05:16:45.69ID:3skmepKI
最高の智慧の完成(般若波羅蜜)へと至る実践

般若波羅蜜の智慧とは、空・縁起を理解した上で、無分別・戯論寂滅、諸法実相・真如を観て、自利利他・
慈悲の実践のための最高の智慧のことであり、それは菩薩(大乗仏教の修行者)の修行徳目でもあります。
慈悲心……仏法を学び始める時に最も重要
お釈迦様が悟りを開かれ、涅槃に至った喜びの中において、このまま更に深い禅定に入り、もはや
再び輪廻を繰り返さない完全な解脱の境地へと向かおうとされた時、「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」により生じた
「苦しみの中にいるあらゆる衆生を救済するために、この涅槃の境地をあまねくに説いていかなければならない」という意志のこと
自らのみならず、あらゆる衆生も絶え間のない苦しみ(輪廻)の中にいることを知り、
何としても智慧を開発し、自利のみならず、一切衆生の救済を目的とする「利他」をも目指して、
仏道の精進を始めるために大切になるのが、この「慈悲心」


慈悲の心を起こした者が、慈悲の実践へ向けて最高の智慧を得ようとする意志を持つことが「世俗菩提心」

実践行……「方便」と「般若の智」があり、「方便」とは、主に智慧波羅蜜以外の五波羅蜜、布施・持戒・忍辱・精進・禅定(更に、
方便・願・力を加えることもある)の各実践のことを示し、「般若の智」とは、智慧波羅蜜・智波羅蜜の実践のことで、
特に聞・思・修の三慧のことであり、「聞」は仏法における師・先生からの講座や問答を通じて、その教えをよく聞き学ぶこと、
「思」とは、教典・注釈書から仏法の論理を学び、よく思惟して理解すること、
「修」とは、「聞」・「思」より、仏法の深遠なる真実義について実際に修習し、智慧を開発していくこと
0070神も仏も名無しさん
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2019/05/06(月) 05:55:25.08ID:3skmepKI
三慧と平行して行う瞑想修行として「止」と「観」があり、
「止」は、心一境性、つまり、精神を集中させて、心を落ち着け、ある一定の対象に心を統一して止めること、三(ざん)昧(まい)に入ること
「観」は、真理についての観察のことで、この際の真理とは、人無我(人空)・法無我(法空)を言います。
虚妄分別、主客二分を離れ、自ら(主体)にも実体が無いこと、様々に知られるもの(客体)にも、実体が無いことを妙観察するということ


五道
資糧道(しりょうどう)……無始なる過去より、無明と煩悩によって業を積み重ねては、生死を繰り返す輪廻の中で、
苦しみの流転を経てきた今世において、今まさに仏法に出会える縁を得て、苦しみの輪廻からの出離を強く願うに至り、また、
あらゆる一切の衆生も自らと同様に輪廻の苦しみの中にあると、慈悲の心を起こして、
一切の衆生の救済へと向かうために最高の智慧を得ようと「発(世俗)菩提心」して、三宝(仏・法・僧)へ深く帰依し、菩薩の修行(十波羅蜜)を行っていくための準備を進めていく段階
聞・思・修の三慧をしっかり進めて行く段階

加行道(けぎょうどう)……資糧道にて菩薩の修行を進めていく準備を終えた者は、いよいよその本格的な実践へと入り、
聞・思・修の三慧に精進する中で、人無我(人空)・法無我(法空)の真理を見極めながら、十波羅蜜を更に進めていく段階

見道(けんどう・見諦道)……真理なる「空性」を言葉・言説・戯論を超えて、直感認識(現量(げんりょう))によって理解した段階
「凡夫」の域を脱し、「聖者」の域へと入り、もはや煩悩が新たに生じることがなくなり、無始以来の前世より積み重ねてきた
業の根本である煩悩についても本格的に断滅させていくことに取り組み始める

見道に入った聖者は「勝義菩提心」を生じ、いっそう「止と観」に精進し、いよいよこの見道からは「十地」にも取り組んでいくことになる

http://oujyouin.com/engi7.htm
0071神も仏も名無しさん
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2019/05/06(月) 09:12:04.79ID:3skmepKI
勝義菩提心
執着から離れた純粋な慈悲に基づく「空性の現量了解(げんりょうりょうげ,空を直観的に体得する智慧)」に至ることを目指して生じる菩提心、
煩悩を断じた状態での、一切衆生を遍く平等に利益(りやく)できる方便行の準備段階
勝義方便(真なる慈悲・利他行の働き):無所縁の慈悲
縁起には、三つの階層があり、第一に、「原因・条件と結果との依存関係」、第二に「部分と全体との依存関係」、
第三に、「意識作用・概念作用・思惟分別作用により、仮名(けみょう)・仮説(けせつ)・仮設(けせつ)されることによるという依存関係」
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/c5660c472f7f354a74e37de9b7ed4988

@「煩悩障」の原因となっているのは、煩悩を生じさせる根本的な無知、つまり、無明(むみょう)というものですが、簡単には、真理を知らないことにより、存在を実体視執着してしまう性向のこと
その無明によっての煩悩が悪業を生じさせていく根本原因であり、更に悪業を集積させてしまうことにより、迷い苦しみの輪廻をさまよい続けることになってしまう。
A「習気」…実体的存在を思い込む意識。実体的存在を現象させる潜在力を心の中に植え付ける(悪業を生じさせていく潜在力)。
悪しき潜在力を心から浄化するためには、まず、心から実体的存在の思い込み全てを取り除かなければなりません。
悟りを得て一切智者・如来・仏陀となるまで「習気」も浄化して行く



修道(しゅどう)……見道において「止と観」を繰り返し、完全に「空性」を現量した聖者が、煩悩障のみならず、所知障についても断滅させていく段階
無学道(むがくどう)(究竟道(くぎょうどう))……煩悩障と所知障を完全に断滅し終えて、無分別の智・不二の智、
成所作智・妙観察智・平等性智・大円鏡智・法界体性智など全ての智慧の完成をみた段階
もはや学ぶものは無くなったので、「無学」とされ
無学道の聖者は、十波羅蜜・十地の菩薩行を完成させ、勝義と世俗を直感的に了解する「無上正等覚(むじょうしょうとうがく)」を現証し、
一切の智慧を完成し終え、慈悲・自利利他を円満に究竟する者
0072神も仏も名無しさん
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2019/05/07(火) 06:12:04.03ID:gPixc0kl
日光三昧というのは法光定とよばれ、ある特殊な禅定に入った状態でチャクラからエネルギーを一挙に放つものです。
(無著菩薩位登初地。證法光定。得大神通。事大慈尊。請説此論『瑜伽師地論釋』)
そのチャクラのエネルギーが第三者に光となって感ずるもので、初期経典にもブッダが同じような現象を顕した、あるいは空海様が清涼殿での八宗論議の際、大日如来に変身し
全身金色の大光明を放ち、帝(嵯峨天皇)を含めその場にいたもの皆平伏した等、仏典・論書にて伝えられていることであります。

たとえば、初期経典においてブッダが次のような神通を示したとあります。
「世尊隨其所應。而示現入禪定正受。陵虚至東方。作四威儀。行住坐臥。入火三昧。出種種火光。青黄赤白紅頗梨色水火倶現。
或身下出火。身上出水。身上出火。身下出水。周圓四方。亦復如是。爾時世尊。作種種神變已。於衆中坐。是名神足示現〜『雑阿含経』」
要するに、釈尊が火界定という三昧に入ってチャクラからエネルギーを発し、七光の色を放ち、上半身は火炎のように下半身は水のようになり、あるいは逆になったということです。
これはチャクラから放たれるエネルギーが凄まじく、全身が炎に包まれたように見えたということです。
水のように見えたというのは、しばしば身体が透明状になる場合があり、それが水として表現されたということです。
0073神も仏も名無しさん
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2019/05/07(火) 06:14:52.93ID:gPixc0kl
釈尊は、バーラーナシーのイシパタナ・ミガダーヤ(鹿野苑)で5人の苦行者を教化されたあと、ガヤー(ブッダガヤ)へ、ひとりで戻られます。…
そこで釈尊は神通力によって3500の奇跡を現し、火の行者であったカッサパ3兄弟を帰依させられたと伝わっています。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/yowa/yowa18.html



後の仏教では、慈無量心を起こして慈心三昧にあれば、このようなことが可能だと言います。慈無量心というのは、あらゆる生き物への慈しみの心を言います。
その心を常に持ち続け、全身が慈しみで満たされるようになった状態が、慈心三昧です。そうなると、動物や虫など全ての生き物から愛されるようになると言います。

仏弟子群像(1)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/yowa/yowa14.html
仏弟子群像(2)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/yowa/yowa15.html
仏弟子群像(6)釈尊の実子ラーフラ(上)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/yowa/yowa19.html
0074神も仏も名無しさん
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2019/05/07(火) 06:16:51.73ID:gPixc0kl
・智慧の行を完成し三明通を体得すると大法光を放つ(長阿含経・種徳経)
・四聖諦によって眼が生じ智が生じ慧が生じ明が生じ光明が生じた
・八勝処といわれるブッダが示した心理的段階の上位を、青・黄・赤・白と4色で表現しているが、
これはその人の心理的状態によって身心から放たれるエネルギーの色・波長を表している。
・ブッダが火界定に入って瞑想している時、麓から見ると山全体が燃え上がっているように見えた、他


日本では心の「悟り」ばかり強調されるので忘れ去られがちなのですが、心は身体と密接に関係があります。
身体の制御把握なくして心の制御把握はありません。
ですから、本来の(往時の)インド仏教において、クンダリニーヨーガは修行者にとって必修だったのです。
0075神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/07(火) 06:21:15.15ID:gPixc0kl
しかし、ブッダはクンダリニーを上昇させず、そのエネルギーだけを前面のプラーナルートにのせ、さらに頭の中のルートを開発した、とされています。

…なぜそれが判るかというと、後期大乗に至り、修定比丘らによって、中観・唯識理論とともに行法という形でクンダリニーヨーガが秘密仏教(密教)として組み込まれたため、その痕跡が理解されるからです。

日光三昧とは唯識理論に基づいたクンダリニーヨーガを修し、全身のチャクラから凄まじいエネルギーを発して、人々の煩悩を断ずるために修されたものだった
0076神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/08(水) 00:53:20.64ID:NUrq//j7
応無所住 而生其心
(おうむしょじゅう にしょうごしん)
0077神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/08(水) 01:13:01.89ID:NUrq//j7
応《まさ》に住する所無くして其《そ》の心を生ずべし

滞る事無く(執着心をもたず)して真実のさとりの心を生ずべし
0078神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/10(金) 06:15:37.44ID:WiHwCk9a
大縁方便経
「阿難よ、また八解脱というものがある。八とは何か」
・初解脱
 「(心内の)物質(想念)により(外界の)物質を観ずる」
 意識に物質的な貪りの想念があり、これを除くために
 外界の不浄青?(せいお。死体が風雨で変色すること?)等の物体を観て、
 貪欲が起こらないようにする。
 この初解脱は四禅のうち初禅に依り起こり、欲界の物質を対象とする。

・第二の解脱
 「心内に物質想念がなく、外界の物質を観ずる」
  意識内に物質に関する貪りのための想念はないが、それをさらに堅固に
  するために外界の不浄なる物質を観じて、貪欲を起こさせないようにする。
・第三の解脱
 「清らかなる解脱」
  浄らかな対象を観ずるから浄解脱という。
・第四の解脱
 「物質想念を超え、対立想念を滅し、雑多な想念を心に思い浮かべず、
  虚空の(無限であるという)境地に住まう」
0079神も仏も名無しさん
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2019/05/10(金) 06:21:14.44ID:WiHwCk9a
・第五の解脱
  「虚空の(無限であるという)境地を超越し、意識の(無限であるという)
   境地に住まう」

・第六の解脱
  「意識の(無限であるという)境地を超越し、いかなる(心の)作用もない
   という境地に住まう」

・第七の解脱
  「いかなる(心の)作用もないという境地を超越し、
   想念があるでもなく、ないでもない境地に住まう」

・第八の解脱
  「(心と心のはたらきとをすべて滅しつくした)滅尽定」

「比丘たちはこの八解脱において、あるいは順行し、あるいは逆行し、
自由自在に出入りする。このようにして比丘は、
 (心解脱と慧解脱との)倶解脱を得るのである」
0080神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/10(金) 06:24:09.24ID:WiHwCk9a
「第八の解脱は、形なき、無色の世界を越え、
完全に一元を止まっている、境地のことである。」

「有るから有るという、順の序に従っても、
滅するから滅するという、逆の序に従っても、
八の解脱を果した者は、順逆に縁起を超越する。」

「このように、心に於いて、縁起を越えて、
同じように、智に於いて、縁起を越えた者を、
アーナンダよ、至上のもの、倶分解脱者と呼ぶ。」

まさに、このように、尊師は説いたのである。
感激したアーナンダは、これを喜び受け容れた。
0081神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/10(金) 12:47:30.84ID:WiHwCk9a
「アーナンダよ、名が現れて、色が現れる。
主体が現れるから、客体が現われるのである。
すべての起源は、二つに分かれたこと、である。」

「アーナンダよ、唯一にして、絶対のもの、
アートマンを想定すると、如何なるだろうか。」
「尊師よ、非アートマンも、想定するでしょう。」

「即ち、真我が生まれて、非我が埋まれる。
アーナンダよ、有ると思えば、無いのであり、
アートマンなど、無いと思えば、有るのである。」
0082神も仏も名無しさん
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2019/05/10(金) 12:51:16.32ID:WiHwCk9a
「九有情居、すなわち、九つの世界がある。
それは、二つの処であり、七つの識住である。
それでは、この七つの界とは、如何なるものか。」

「第一は、例えば、人間界に見られるよう、
異なる心を持つ者が、異なる体に宿りながら、
多様に別れて、多様に分かる、識別の界である。」

「第二に、例えば、梵衆天に見られるよう、
等しい心を持つ者が、異なる体に宿りながら、
多様に別れて、一様に分かる、識別の界である。」

「第三に、例えば、光音天に見られるよう、
異なる心を持つ者が、等しい体に宿りながら、
一堂に会して、多様に解する、識別の界である。」
0083神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/10(金) 12:52:32.32ID:WiHwCk9a
「第四に、例えば、遍浄天に見られるよう、
等しい心を持つ者が、等しい体に宿りながら、
一堂に会して、一様に解する、識別の界である。」

「第五に、例えば、空無辺処に見るように、
もはや、主体と客体、二元に別れることなく、
空間は無限であると見とめる、無色の界である。」

「第六に、例えば、識無辺処に見るように、
もはや、主体と客体、二元に別れることなく、
識別は無限であると見とめる、無色の界である。」

「第七に、例えば、無所有処に見るように、
もはや、主体と客体、二元に別れることなく、
何物も存在しないと見とめる、無色の界である。」
0084神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/10(金) 12:54:08.12ID:WiHwCk9a
「九有情居、すなわち、九つの世界がある。
それは、二つの処であり、七つの識住である。
それでは、この二つの界とは、如何なるものか。」

「第一に、例えば、無想有情処に見るよう、
思いが無いがゆえに、心が別れることがない。
何も思わない、何も悟らない、無色の界である。」

「第二に、例えば、非想非非想処のように、
思いが有ろうが無かろうが、心が別かれない。
全て分かって、何も別れない、無色の界である。」

「アーナンダよ、これら、九つの界を越え、
その間に、すべてを解して、すべてを悟った、
彼のことを、智慧で解脱した者と呼ぶのである。」
0085神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/13(月) 06:33:24.06ID:7w49s07Z
どうやって滅尽定から戻ることができるのかということだが、あらかじめ、いつ滅尽定から醒めるかを決めておくのである。
決められた期間後に、滅尽定から醒めるのである。そうでないと禅定から醒めなくなってしまう。
0087神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/17(金) 06:33:08.14ID:d/N63j+y
カルトは二次元の世界。
ホログラフィック原理では、全宇宙は宇宙の地平面上に描かれた2次元の情報構造と見なすことができる
けれども、日常的感覚で考えても、カルトは欲界の低次元の心理につけこみ、人を欲界という「地」への執着に縛りつけるので、二次元といえます。
0088神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/19(日) 04:24:40.23ID:hdTqogDV
十信
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参考・引用多数、不備は補正)
十信(じゅうしん)は、菩薩が修行して得られる菩薩五十二位の中、下位から数えて第1番目から10番目の位をいう。菩薩が仏の教法を信じて疑心がない位をいう。
菩薩五十二位の最初の位で、十住の下位にあたる。仏の教法に入らんとする者はまず信の心を持つことから十信という。

一、信心(しんしん)
仏陀の教法を信じる心。一切の妄迷を滅尽し、中道を了知し純真なること。
二、念心(ねんしん)
教法を憶念する心。真信明了にして一切に円通し、あまたの生死を経過するとも、現前の習気を遺失忘失しないこと。
三、精進心(しょうじんしん)
煩悩を雑えず、精明に仏界に進趣する心。妙円純真なる精明を以って真浄に進むこと。
四、慧心(えしん)
智慧を研く心。三学の一である慧学。心精が現前すれば純真の智慧が自然に発起すること。
五、定心(じょうしん)
静かで動揺しない心。三学の一である定学。智明を執持して周囲を遍く寂湛し、つねに心を一境に凝らすこと。
六、不退心(ふたいしん)
三学の定学と慧学を以って退堕しない心。定光発明すれば明性深く入り、ただ進むのみを知り、退かないこと。
0089神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/19(日) 04:40:25.19ID:hdTqogDV
七、護法心(ごほうしん)
仏法を守らんとする心。心進安寧なれば一切仏法を保持して失わず、十方如来と気分(けぶん)交渉すること。

ブッダは仏法を護る事を「戦う行為」や「論争する行為」とは説いていません。ましてやカルト幼稚園関係者の
(掲示板に組織的介入を行い荒らす行為を煽る如き)醜い煩悩は護法の心とは呼べません。
それは、かき乱された心による組織エゴが発する三毒の暴走行為に過ぎません。
人々を奴隷家畜にする誤った信仰は即刻捨て去る必要があります。
自ら法に随い、心進安寧にして十方如来と心相応し、ただ仏の教えを修習実践するのみです。

八、廻向心(えこうしん)
仏果を得んとして修行に全力を尽す心。覚明保持すれば、よく妙なる力を以って、仏光廻照を観じ、また仏に向かい安住すること。
九、戒心(かいしん)
戒を遵守する心。三学の一である戒学。心、光密に廻すれば無為に安住して失うことがないこと。
十、願心(がんしん)
十方諸仏の浄土に往生せんと願う心。戒に住して自在なるがゆえに、よく十方に遊戯し、その所作がことごとく願に随うこと。
0090神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/19(日) 05:01:46.76ID:hdTqogDV
加行道小のカリキュラムとしては、一年次で菩薩位「十信」の段階を修了します。しかし既に願心の菩薩位に達している方は飛び級で2年次
「十住」(11〜20位)に進んでいただいて大丈夫です(以後同様)さらに3〜6年次にて「十行(じゅうぎょう)」(21〜30)、「十廻向」(31〜40)を修了し、
最後に「十地」に入るための準備の修行をします。
菩薩の位を上って行くのは、山登りやカルトの霊媒養成ごっことは違い、二度と後戻りすることはありません。永遠に菩薩の既達位からは退きません。
(その通り、厳しい覚悟で怠る事無く修行を続け、遂に仏と成る修行を完成させることです)

十住
移動

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出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2015年9月)
十住(じゅうじゅう)は、菩薩が修行して得られる菩薩五十二位の中、下位から数えて第11番目から第20番目の位をいう。
菩薩が信を得て進んで仏地に住する位をいう。
十信の上位にあたり十行の下位にあたる。菩薩が十信の位を経て
心が真諦の理(ことわり)に安住するため、十住という。
また十住の位を托胎の順序にならって、初地である発心住から第4の生貴住までを入聖胎、
第5の具足方便住から第8の童真住までを長養聖胎、第9の法王子住において形相具足するので出聖胎という。

十一、発心住(ほっしんじゅう)
真方便を以って十住心を発起し、十信の位の従仮入空観の観法を完成し、真無濡智を発(ほっ)し、心が真諦の理に安住する位。
0091神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/20(月) 05:25:33.10ID:2PcFn7Cy
従仮入空観
三観の一。三観とは天台止観の基本となる観法で、瓔珞本業経(ようらくほんごうきょう)の語に基づいた従仮入空観・従空入仮観・中道正観をいう。
常識的思慮分別により真実とされるものは仏教の真実からすると仮(かり)のものであるという観点から、仮から空に入る、すなわちすべての存在は空であるとする空観、
本質的には実体のない空であるが縁起によって存在している現実に眼を向ける仮観、
空観と仮観を止揚して不二とする中観をいったもので、空仮中(くうげちゅう)・(くげちゅう)三観という。
見思惑(イデオロギー的・本能的煩悩)を破する析空観・体空観といい、塵沙惑(名称もない無数の煩悩)を破する仮観と
無明惑(根本煩悩)を破する中観が別教と円教に配される。
三観を順次に観ずるのを「次第三観(しだいさんがん)」といい、一念のうちに空仮中が融け合って観ずることを一心三観・即空即仮即中の観という。

真諦
勝義諦。仏陀の教えにおいて、言葉を超え、世俗・世間の判断を超えた究極的な最高の真理・悟り、すなわち涅槃。
テーラワーダ仏教においては、主に「世界」を構成する不変・恒常の「法」(ダルマ)のこと。

十住心
「自心の源底」を覚知した[智慧の完成を追求する修行者」の心の段階を示す「秘密荘厳心」
(秘密に荘厳された四種曼荼羅の無量の身を知る三密・平等無尽荘厳蔵 如実知自心)
0092神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/20(月) 05:46:53.78ID:2PcFn7Cy
十二、治地住(じちじゅう)
瑠璃の中に精金が現れるように、心の明浄が前の妙心を以って履修治して地となることをいう。常に空観を修し、心地を清め治める位。
十三、修行住(しゅぎょうじゅう)
前に地を渉知し、倶に明了なるがゆえに、十方に遊履して留礙なく、万善万行を修する位。
十四、生貴住(しょうきじゅう)
正しく仏の気分(けぶんと読む)を受けて、彼此冥通して如来種に入る。法無我の理に安住して種性清浄なる位。
十五、具足方便住(ぐそくほうべんじゅう)
無量の善根を具えて空観を助ける方便とする。仏と同じく自利・利他の方便力を具備し、相貌において欠くることがない位。
十六、正心住(しょうしんじゅう)
相貌のみならず、心相も仏と同じくする。般若の空智を成就する位。
十七、不退住(ふたいじゅう)
心身ともに合成して、日々益々増長し退堕することがない。空無性の理を証して空・無相・無願の3つの三昧より心が退かない位。
十八、童真住(どうしんじゅう)
迷い、謬見(びゅうけん、誤った考え)を起こさず、菩提心を破らざることが、童子が無欲真正なるに等しくして、仏の十身の霊相を一時的に備える。
十九、法王子住(ほうおうじじゅう)
仏の教えに遵い、智解を生じて未来に仏位を受ける位。
二十、灌頂住(かんじょうじゅう)
空・無相の理を観じ、無生智を得る。菩薩が既に仏子(仏の弟子)となり、仏の事業を為すに堪えうれば、仏は智水をもってその頂に潅(そそ)ぎ給うこと。インドの国で皇子が成長し国王たらしめる時に海水を頭頂部に潅ぐ如くであることに由来する。
0093神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/21(火) 01:08:37.61ID:7VKT2O8/
無生智
 不生不滅の理をさとる智慧。すべての存在の真実の相は、生滅がないという真理。
『現観荘厳論』における尽智・無生智
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/45/2/45_2_873/_article/-char/ja/

無限の過去からの作られたものは誤っていて、実体であるものはない。
無上平等覚。「すべての存在が平等である理」をさとる

仏刹
ぶっせつ。; 浄土。仏国。仏土。

四種曼荼羅(シシュマンダラ)
密教の四種の曼荼羅。
諸尊の形像を描いた大曼荼羅、
諸尊の持物(じぶつ)や印契(いんげい)を描いた三昧耶(さんまや)曼荼羅、
諸尊の真言・種子(しゅじ)などを示した法曼荼羅、
諸尊の威儀・動作を表した羯磨(かつま)曼荼羅。 四曼。
0095神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/21(火) 01:14:08.93ID:7VKT2O8/
すべての面から見た本質とは何でしょうか。それは、
「サッペー タンマー ナーラン アピニヴェサーヤ」、何ものも、私、私のものと執着するべきではない、
というブッダの言葉です。これが三蔵経の中のたった一粒のダイヤモンドです。



「アートマンを、どのように捉えてますか。」「尊師よ、意なるもの、法界の我と捉えます。」
「遍行者よ、滅想受定は、無色界を越えてます。」
「尊師よ、アートマン、即ち、真実の自我、つまり、真我なるものは、存在するのですか。
それとも、真我なるものは、存在しないですか。」
「行者よ、有るとも言え、無いとも言える。無我を観じられないと、真我を感じられない。
これは、確かめるべきであり、語るべきではない。」

釈迦はケーヴァッダに識を越える時、色界も消えて欲界も消えると説き
内側に外界があり外界に内側など無いことを説く。

自我を越えて大我にいたるを梵我一如や即我宇宙や真我や眞如(さとりの真理)というが
主体は真我(己)であり悪魔や神は外界の客体であり
客体を生み出しているのが主体の囚われ(煩悩・カルマ・末那識・アーラヤ識)による五蘊で形成された実体の無いエゴで、
それらを空と悟ることで悪魔は己に調伏され神は己に帰依すると説かれている

>釈尊が無限の前世はだれであろう
あなたや私である。
これが真実のブラフマンの奥である。
意識の形態は上に行くほど一つに集約され下に行くほど分裂をする。
>宇宙は三界の頂点の一つの存在が一度に観ている夢である。
0096神も仏も名無しさん
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2019/05/22(水) 01:33:50.24ID:cc/zOx4m
十行(じゅうぎょう)
菩薩が修行して得られる菩薩五十二位の中、下位から数えて第21番目から第30番目の位階をいう。
十住の上位にあたり十廻向の下位にあたる。
菩薩が十信、十住で自利を満足したといっても、利他の行が未満なので、この十行の位でさらに修行する。
十住位の終位に仏子たる印可を得た後に、さらに進んで利他の修行を完全にするために衆生を済度することに努める位。

二十一、観喜行(かんぎ、かんき・ぎょう)
布施波羅蜜を修行し、仏子となった菩薩が、仏如来の功徳を以って十方に随順せんとする行。
二十二、饒益行(にょうやくぎょう)
戒波羅蜜を修行し、衆生と共に無上の学道を成就して、一切衆生を利益し潤す行。
二十三、無瞋根行(むしんこんぎょう)
忍辱波羅蜜を修行し、たとえ刀杖で身に危害を加えられようとも耐え忍び、自覚覚他すれば違逆せんとする行。
二十四、無尽行(むじんぎょう)
精進波羅蜜を修行し、衆生の機根に合わせてその身を現じ、三世(過去現在未来)が平等にして十方に通達し利他行が無尽なるを観じる行。
二十五、離癡乱行(りちらんぎょう)
禅定波羅蜜を修行し、種々の法門が不同なりといっても、一切合同して差別誤解なきことを観じる行。
二十六、善現行(ぜんげんぎょう)
般若波羅蜜を修行し、前の離癡乱をして、よく同類の中に異相を現じ、また一々の異相にそれぞれ同相を現じ、同異円融なるを観じ、一切が無相であることを智慧で観じる行。
二十七、無著行(むじゃくぎょう)
方便波羅蜜を修行し、十方虚空に微塵を満足し、そのすべてに十方界を現じ、一切の執着を離れ、しかも一切の世間に随順する行。
二十八、尊重行(そんちょうぎょう)
願波羅蜜を修行し、前の種々現前はすべて般若観照の力であることから、六波羅蜜の中でも特に般若を尊重して一切衆生を度し、無上の菩提を成就させる行。難得行ともいう。
二十九、善法行(ぜんぽうぎょう)
力波羅蜜を修行し、円融の徳相が十方諸仏の軌則を成じ、十種の身となって一切の衆生を利益する行。
三十、真実行(しんじつぎょう)
智慧波羅蜜を修行し、諸仏の真実の教えを学び、前の円融の徳相がすべて清浄無漏にして、一真無為の性が本来は恒常なるを観じ、衆生を済度する行。
0097神も仏も名無しさん
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2019/05/22(水) 01:48:33.02ID:cc/zOx4m
十波羅蜜
菩薩の実践すべき十種の修行。 『華厳経』などで説かれる(六波羅蜜に、方便・願・力・智の四波羅蜜を加えた)
迷界から悟りの世界へ至るための菩薩行

上座部仏教
パーリ仏典の仏種姓経では十波羅蜜が挙げられ、
布施、持戒、出離、智慧、精進、忍辱、真諦、決意、慈、捨

大乗仏教(悟りの彼岸に至るための修行徳目)
・布施波羅蜜 - 檀那:分け与えること。財施(貪る心・執着(我執・愛執)の心・所有の心を無くしていくために、財物を施す喜捨を行う)
・無畏施(悪感情・煩悩を静めて安心を与える)
・法施(仏法の真理を説いて修行を実践する)などの布施である。檀と略す場合もある。
>空の理解から詳しく述べますと、布施行においては、三輪清浄・三輪空寂が大切となります。
三輪とは、「施者・受者・施物」の三つのことで、それぞれが清浄でなければならないということであります。

 施者においては、やってあげたというような驕りや傲慢な心、見返りを求めて期待するような心を離れていること、受者においては、頂いた行為、頂いたモノに対しての執着心をもたないこと、
また、施されたと自分を卑下したり、更に施されたいと媚びへつらったりしないこと、
また、欲望、特に物欲・財欲にとらわれてしまう心を離れていること、施物においては、
それらが悪行(窃盗や詐欺など)によって得たような不浄なるものではないことが大切となります。
・持戒波羅蜜 - 尸羅:戒律を守ること。在家の場合は五戒(もしくは八戒)を、出家の場合は律に規定された禁戒を守ることを指す。
・忍辱波羅蜜 - ?提;耐え忍ぶこと。
・精進波羅蜜 - 精進毘梨耶:修行の完成に向けて努力すること
・禅定波羅蜜 - 禅那:特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること。
・般若波羅蜜 - 慧波羅蜜:前五波羅蜜は、この般若波羅蜜を成就するための階梯であるとともに、般若波羅蜜を希求することによって調御、成就される。
龍樹は『宝行王正論』において
布施・持戒 -「利他」
忍辱・精進 -「自利」
禅定・智慧 -「解脱」
釈迦の教えの3つのカテゴリー「自利・利他・解脱」に分けて解説している
0098神も仏も名無しさん
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2019/05/22(水) 01:50:26.61ID:cc/zOx4m
十波羅蜜は、華厳教学などでは、菩薩の五十二位の中の十行のことともいわれる。また菩薩は十地において正しくこの十波羅蜜を順次に習得する
・方便波羅蜜 - 烏波野;巧みな手段で衆生を教導し、益すること。
六波羅蜜の行によって集めたる善根を有情に廻向せしめて彼と共に無上菩提を求むる廻向方便善巧、一切有情を済度する抜済方便善巧の2種類を修行する。
・願波羅蜜 - 波羅尼陀那プラニダーナ:(彼岸すなわち仏の理想世界に到達せんと立願すること。今日ではこれらすべての修行を完成せんとする願いを指す。
求菩提願・利他楽顔の2つを修行する。
・力波羅蜜 - 波羅:一義に一切の異論及び諸魔衆の壊すことなきをいい、また一義に十力の行のうち、思擇力・修習力の2つを修行する。
・智波羅蜜 - 智ジュニャーナ:万法の実相を如実に了知する智慧は生死の此岸を渡りて、涅槃の彼岸に到る船筏の如く、受用法楽智・成熟有情智の2つを修行する。
0099神も仏も名無しさん
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2019/05/22(水) 01:53:23.33ID:cc/zOx4m
十廻向
菩薩が修行して得られる菩薩五十二位の中、下位から数えて第31番目から第40番目の位階
十行の上位にあたり十地の下位にあたる。
十行を終わって更に今迄に修した自利・利他のあらゆる行を、一切衆生の為に廻施すると共に、この功徳を以って仏果に振り向けて、悟境に到達せんとする位。
三十一、救護衆生離衆生相廻向(くごしゅじょう・りしゅじょうそう・えこう)
十廻向の初地・始位。一切衆生を救護しながら、しかも衆生を救護する執着を離れる菩薩。
三十二、不壊一切廻向(ふえ・いっさい・えこう)
三宝において不壊の信心を得て、この善根を以って廻向を成する菩薩。
三十三。等一切諸仏廻向(とういっさい・しょぶつ・えこう)
三世(過去現在未来)の諸仏の所作を学し、その通りに衆生を廻向する菩薩。
三十四、至一切処廻向(しいっさいしょ・えこう)
善根を修し、その善根の功徳の力を一切処に至らしめ廻向する菩薩。
三十五、無尽功徳蔵廻向(むじんくどくぞう・えこう)
一切の善根を廻向して、この廻向によって十種の無尽功徳の蔵を得て、一切の仏刹を荘厳する菩薩。
三十六、随順一切堅固善根廻向(じゅうじゅん・いっさいけんご・ぜんこん・えこう)
入一切平等善根廻向ともいう。一切の施行を説き、清浄の布施を詳説し回向する菩薩。
三十七、等随順一切衆生廻向(とうじゅうじゅん・いっさいしゅじょう・えこう)
無量の善根を修習し、衆生のために無上の福田となり、衆生を清浄ならしめ廻向する菩薩。
三十八、真如相廻向(しんにょそう・えこう)
修するところの善根を真如に合わせて廻向を完成する。真如相に如(かな)うて真如の如く廻向の行を修する菩薩。
三十九、無縛無著解脱廻向(むばく・むじゃく・げだつ・えこう)
一切の善根を軽んぜず、相に縛せられず、見に執着しない解脱の心を以って善根を回向する菩薩。
四十、入法界無量廻向(にゅうほうかい・むりょう・えこう)
法界に等しい無量の仏を見(まみ)えて、無量の衆生を調伏し、この善根を以って一切の衆生に廻向する菩薩。
0100神も仏も名無しさん
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2019/05/22(水) 01:58:04.01ID:cc/zOx4m
十地
菩薩が修行して得られる菩薩五十二位の中、下位から数えて第41番目から第50番目の位階で十廻向の上位、等覚より下位にあたる。
仏智を生成し、よく住持して動かず、あらゆる衆生を荷負し教化利益する様子が、大地が万物を載せ、これを潤益(にょうやく)することに似ているから「地」と名づく。

四十一、歓喜地(かんぎじ)……布施波羅蜜に精進し、見諦道に入った修行者が、人無我(人空)・法無我(法空)の真理を理解し、「勝義菩提心」を起こし、
歓喜して修行に邁進することを誓願する位。
菩薩が既に初阿僧祇劫の行を満足して、聖性を得て見惑を破し、二空の理を証し大いに歓喜する位。
仏法を信じ、一切衆生を救済しようとの立願を起こし、ついには自らも仏になるという希望を持ち歓んで修行する。

四十二、離垢地(りくじ)……持戒波羅蜜に精進し、戒律を遵守し、悪を行わずに、心・口・意の三業を清浄にして善を行ないながら、心の垢を離していく位。

四十三、発光地(ほっこうじ)……忍辱波羅蜜に精進し、特に勝義真実に対峙する厳しさに耐え忍ぶ「諦察法忍」によって、智慧を開発していく位。
智慧の光が発し始めてくる。

四十四、焔慧地(えんねじ)……精進波羅蜜に精進し、善行・智慧の光を熾盛(しじょう)(勢い盛ん)に照らして、四方の衆生に対して功徳し、回向していく位。

四十五、難勝地(なんしょうじ)……禅定波羅蜜に精進し、勝義諦と世俗諦における真理の理解を進め、方便と般若の智を併せて実践していく位。
特に方便を用いて利他行を自在に展開していく。

四十六、現前地(げんぜんち)……智慧波羅蜜に精進し、最高の智慧(般若波羅蜜)を現前に観ていく位。もはや仏道の歩みが後退することがない。
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