>>234
慧 (智慧) は、禅定 (悟り) から発する。これは正解ぢゃが、如何なる方法で悟るのも
悟りは悟りなのぢゃ。そもそも大山は悟っておらんから、智慧も禅定も分かるまい

経典という「教科書」の引用や、坊主という「先生」が言ってたから、という理屈だけで
知った気になるのは良くない。それに古い教科書は普通はどうなる?書き換えられるのぢゃ

>>236
悟っておらん大山は、何の意味を理解しとると言うのか?
正しい観察は、悟った者の禅定から見て分かるものぢゃ。智慧は禅定のオマケなのぢゃ

現代口語で喋れ。古語の相手はせん

数息観の「数え」や、阿字観や月輪観の「見る」、虚空蔵求聞持法の「連呼」などは
禅定に至るまでの、意識集中のための代用法に過ぎず、それ自体は単なる行法なのぢゃ

その代用法にのみ帰結してどうする?

>>237
坐禅をする時間や回数は、何の意味も為さない。瞬時に悟る者もおれば
大山のように30年以上も座り続けて、悟れぬ者もおる。お主がよく自覚しておろう

>>241
用語ばかり持ち出すな。誰も興味ないぞ。己の体験をもとに現代口語で喋れ
できねばただの「本読み」に過ぎず、仏教を語る資格などあるまい

(-人-) ♪