宗教とは何か?
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洗脳の一種ですから、言語化して突き詰めると破綻します。 仏教の問題は、仏典と言われる本が多過ぎることにある。
こんなものを真面目に読んでいたら、それだけで人生が終わる。
本を読めば悟れるならまだしも、いくら本を読んでも悟れない。
仏典を数多く読んで知識を増やしても悟れない。
おのれの貪瞋痴を退治することによって悟りに到達する。
聖書や仏典という古文書を捨てて、町に行こう。
フロイトや、正反合の唯物弁証法を見つけて学ぼうじゃないか。
この二つが貪瞋痴退治に絶大な効果がある。
それに大学在学中で学び終わる。 宗教に嵌ってムダな時間を費やすより、
いっそのこと、すべての宗教書をいったん捨ててしまおう。
その方が早く悟れると思う。
本代などいくらでもないのだから、
必要になったら、また買えばいいじゃないか。
要するに、貪瞋痴を退治すれば、それでいいのだ。
私はねえ、宗教書ゼロでたまたま神と出会い、
想受滅を体験している。みんなもガンバリ。^^ 会話する時、私はいったい誰と向き合っているのか?
私 〜 無意識←(抑圧)←自分→言葉
誰 〜 無意識←(抑圧)←相手→言葉
この図から、両者が言葉で向き合っていることがわかる。
そして言葉のやり取りで相手を理解しようとする。
ところが、実際には両者の無意識を調べないと理解し会えない。
それが違えば、同じ言葉がまったく別の意味を持つからだ。
相手の存在を了解するには
言葉の世界を超えなければダメなのだ。
それを超えることが悟りである。 自分が善と言う時、自分にとっての悪が抑圧されている。
相手が善と言う時、相手にとっての悪が抑圧されている。
この二人は意見が一致したわけではない。
そうではなく否定し合っている。
条件が調えば殺し合う。 371
自分も相手も無意識なのに、
どうしてその無意識がわかるのだろうか。
お互い手がかりは言葉しかない。 この問題を突き詰めれば、すべての人間は自分中心であり、
自己愛を生きているだけになる。
自己愛を卒業することができれば悟りということになる。
宗教の古文書を苦労して読まなくても悟れるのだ。 ポッタンには病的なものを感じるがなぜだろう。
しなくてもよい短レスを繰り返すことで
相手ではなく、自分を罰しているのかもしれない。
パラノイアとか強迫神経症なのかも。^^ "(-""-)" hage
竜樹の「空」はごまかし
世親の「唯識」もごまかし
こんなものに関わると一生悟れないで終わる >>369
フリーメイソンが崇めているのはサタン=ルシファーであり、人間の敵です
上位の階級で初めて明かされます "(-""-)"
みんなも「モーセと一神教」を読んだらどうか
ショックを受けるから >>377
この人は「ごまかし」としてしか理解出来なかった訳だが、(笑)
ある物理学者は空に物理学を見出だし、
ある論理学者は空に論理学を見出だした。
また、バカなオカルティストだと空に自らの愚かな妄想を投影し、(笑)
とある虚無主義者は空に虚無を見出だした。(笑)
このパターンだと、空に「ごまかし」を見出だした人は普段から
「ごまかし」ばかりのクズ
だと言えるよな?(笑)
(^。^)あと、大乗仏教教学を否定しといて、なんで「悟りがー」とか仏教に阿るんだろうね?(笑)
語彙力が無いのかな?(笑)
こういう一貫性の無いところも、ごまかしクズ野郎なんだよなぁ。(笑) 自他の分離
自己の維持
複製的増殖
さて、ウイルスやプリオンは生命と言えるのか? ♪ ♪ \\ ♪ 宗教〜なんて ララ〜ラ〜ラララララ〜 ♪.// ♪ ♪
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U U U U U U U U U U U U >>381
スッタニパータ
>>382
物質でなければ生命になるだろうね。 神は命だが、生き物は命そのものではない。
命そのものは、直に物質と接触することはできない。
物質との間に何らかの緩衝材が必要になる。
その数は別にして、緩衝材はウィルスのような単純な生き物から、
人間のような複雑な生き物までに共通する仕組みである。
それゆえ、神そのものが生き物であるわけではない。 神(命)≠ 生き物
神(命)によって生き物は誕生するが、
命は物質ではなく、見ることも触ることもできない。
生き物を神(命)にした宗教はすべて誤り。
キリスト教は、この世で飲み食いした人間イエスを神にした。
従って、完全に間違えた邪教ということになる。
イエスを神にしたら「偶像崇拝」、十戒のAに違反する!
あなたは、自分のために。偶像を造ってはならない。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。 神 = 命そのもの
生き物 = 物質 + 心 + 霊魂(命)
ーー モーセもイエスもマホメットもここに分類される
心 = 意識 + マナ識 + アラヤ識 ♪ ♪ \\ ♪ エリエリ、レマ、サバクタニ、ラララ〜 ♪.// ♪ ♪
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U U U U U U U U U U U U キリスト教は偶像崇拝を禁止する十戒Aに違反し、
人間イエスを拝んでいる「 邪 教 」である。
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、
また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたり
してはならない。
わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。
わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、
幾千代にも及ぶ慈しみを与える。 by 出エジ20:4-6 大原因(神)との合一
あるいは大原因(神)への強烈な信仰
これが宗教
永遠を求めてその答えを自身のうちあるいは世界の全てに見出して宗教は終わる シェマの祈り
聞け、イスラエルよ。
我らの神、主は唯一の主である。
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、
あなたの神、主を愛しなさい。 by 申6:4-5
* 心と魂とは、別の意味があり、区別されている。 神=命に出会えれば「宗教」は終わる。
なぜなら、実際に神(命)を知れば、信仰は不要だから。 >>393
> 神=命に出会えれば「宗教」は終わる。 なぜなら、実際に神(命)を知れば、信仰は不要だから。 』
ご飯には お信仰、いや お新香が必要不可欠だな。お新香が不要って パン食 なのかぁ!? >>394-395
同じことを繰り返し書くのは面倒臭いから、
このスレの前の方から読んでね。
ちなみにパン食が多いので、お新香は基本的に買わないし、
食べない。酒とつまみがあればいい。 "(-""-)" hage
聞け、イスラエルよ。
我らの神、主は唯一の主である。
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、
あなたの神、主を愛しなさい。 by 申6:4-5
神に会いたければ、自力で欲望、煩悩を完全に捨てればいい。
そんなことをしたら死んじゃうじゃないかと思うことなかれ。
実際、「一瞬」死んでしまう。意識が消えてしまう。
しかし神(命)に出会う。神をアラヤ識ではなく、マナ識で見る。
こんなことは宗教本をいくら読んでもわからない。
言葉の世界を超えたところに、神がいる。
読書の質量ではなく、苦悩の質量が神との出会いを可能にする。 要するに、欲望・煩悩を捨てることができれば、
神(命)に出会うことができる。
これが究極の、釈尊の教えだ www 残念だが、命に出会ってなければ、ここまでは書けない。
このスレの私の発言を吟味してみなさい。 要するに、欲望・煩悩を捨てることができれば、5ちゃんねるにカキコするようなことはない。 今は5ちゃんねるがあってだね、
そこで語れば教団なんかいらないのだー
本を書く必要もない。
金儲けをしたいとは思わないからそれでいい。
いい時代がやって来たー 🙏 5ちゃんするだけで、世の中的には犯罪者か出来損ない確定とみなされる。 釈尊の教えに「筏のたとえ」がある。
筏によって此岸から彼岸に渡ることができたら、
その筏はもう不要だ。川岸に捨てて去る。
私の筏は、フロイトの精神分析と正反合の唯物弁証法だった。
でも、もうとっくの昔に捨てている。
宗教に関しては笑っていたから、聖書も仏典も興味がなかった。
かえってそれが幸いしたかもしれない。
宗教を信仰すると、その信仰を捨てられないからダメだね。
聖書や仏典が自己目的化し、彼岸へ到達できない。 >>408
5チャンのような、吹き溜まりみたいな場所に、
大悟する者が現われると思うけどね。 「モーセと一神教」を再読したが、やっぱしフロイトはすごい。
80歳近いのに、その内容は「神」に迫ろうという鬼気迫る情念だね。
そして無神論の唯物論者フロイトが動揺している。
その文章に動揺が見える。
たぶん、モーセのように、「神」を見つけたのかもしれない。 鬼気迫る情念と真偽は関係ないし、動揺とも無関係だ。
宗教は駄目だねえ。 >>414
たぶん、フロイトの「モーセと一神教」を読んでませんね ^^
かなり長い論文なので読み通す努力が必要です。
>>415
モーセは「見神」してますね。
釈尊もイエスも。ただフロイトは微妙かもしれない。
でも、無神論から有神論へと宗旨替えをしたのは間違いない。 一神教よりギリシャ日本北欧などの多神教の方が、信仰の強さ、裏切られた時の落ち方
のような悩みと無縁。一人の主婦と一人の種神じゃ世界のモデルが短絡的。 イスラムが危険といわれてみてられないのもその点。しかしイスラムスレッド伸びない。 >>411
>釈尊の教えに「筏のたとえ」がある。
>筏によって此岸から彼岸に渡ることができたら、
>その筏はもう不要だ。川岸に捨てて去る。
釈尊のこのたとえ話は信仰の否定ではないだろうか。
なぜなら、欲望や煩悩を否定することこそが肝心なのに、信仰は
欲望や煩悩をそのままにして救われたとカン違いさせる。
そのため苦からの救済を逆に遠ざけてしまう。
信仰を筏にすることはできない。信仰することによって、
すでに救われているとカン違いしているのだから。
つまり、信仰を捨てない限り、彼岸には行き着けないのである。 宗教を信仰すると、信仰の心的な構造からして
神(命)に出会うことも、悟ることもができなくなる。
そこで釈尊が次のように説いたのでは ・・・
耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。
おのが信仰を捨てよ。 by梵天勧請
耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。
おのが信仰を捨てよ。 by梵天勧請
無駄だ。
全てはホモサピエンスが統合失調の猿であることを示しているに過ぎない。 鬼気迫る情念と真偽は関係ないし、動揺とも無関係だ。
宗教は欺瞞 。
「見神」は基地外。 今まで三億円以上財務上納しました
今はあばら家住まいです 宗教は = ずる賢いサギだ www
・信者が幸運で順調だと ← 信仰のお蔭・・・(もっと献金を)
・信者が不運で逆境だと ← 信仰が足りない・・・(もっと献金を)
⇒ 信者はどちらにしても献金や布施を迫られる
⇒ サギ師はどちらにしても金儲けの材料に使える
⇒ サギ師にとっては、聖書や仏典が使いやすくできている (TT
⇒ どんな宗教にも近づかないのが吉 既成宗教や新興宗教から、
できるだけ早く抜け出した者が勝利者になるだろう。
宗教を信じていいことは全くない。
自分の人生なんだから、自分の頭でよくよく考えよう。
十年でも二十年でも三十年でも考えようじゃないか。
私は二十年考えたのだね。v "(-""-)" v >>429
神を引き合いに出して教祖が災害の予言はしない
世の中や世界を動かす特別な使命を持った信者の祈りと献金次第でその未曾有の大災害は回避されるのだ
という口実で毎月多額のカネ集めもしない
信者が何十時間も何日も何日も必死に祈ってなおかつ多額の献金をしないと
日本に原爆が投下されるだの
北朝鮮が攻めてくるだの
未曾有の地震や災害が日本が襲うだの
洗脳された信者を脅して毎回多額の献金させるような事はしない
だから、反社会性を帯びたインチキ〇〇ト宗教と言われて司法のご厄介になったり世間に断罪されるような事はない
本物の神様が強力に護っているので俗世のトラブル裁判沙汰も皆無
反社会的な宗教的活動の典型的サンプルとして日弁連のサイトに掲載されることも無い
労力や金銭、時間の一方的な搾取に不満を抱えて脱会した信者がひとりも存在しない
だから元信者のブログやサイト、某巨大掲示板の書き込みに対し
「これ以上教団に都合の悪い書き込みをやるな」というスラップ訴訟を仕掛ける必要が無い
災害が起きなければ教祖と信者の祈りのおかげ
災害が起きても
「必死の祈りと神(教団や教祖)に捧げられた献金で本来起きるはずの災害よりはだいぶ縮小された」
などと言ってやっぱり教祖と信者のおかげ
あるいは
「信者の祈りと献金額が全く足りていないせい」
と教祖が信者を叱りつけ次のイベントで更にカネを吐き出させる口実にすることは一切やっていない
こんな模範的で清々しい宗教団体があるならば是非紹介してください! 私にとっては
私が産まれて生きることに満足して
どんな死に方でも
その瞬間に喜んで死ぬために
役立てばいいなと思っている >>431
宗教のパラダイスは、
釈尊たちが乞食をした時代で終わったのかもしれない。
イエスも浮浪者たちと一緒に放浪した。
今の時代は、犀の角のように独りで歩むしかなさそうだ。
>>432
気負いがなくて、静かな文章でいいね。
何があっても、自分が幸せならそれでいいのだろう。
凡夫だとそんな心境にはなかなかなれないが。 ^^ 創価学会は
戦後戸田会長の指揮のもと、 広宣流布を目指して躍進を続けてきた。
折伏に次ぐ折伏で会員数を増やして、
もう十分、自分たちで会を運営維持できると自信を持った時。
宗門離れに 拍車をかけてきた。
その方法とは、宗門にあらぬ限りの不満をぶつけ、 宗門から破門を言い渡されるのを待っていたのだ。
それを学会では『 これほどまでに宗門に尽くしてきたのになぜ?』と会員に 吹聴して行った。
お蔭で 会員もろとも宗門から脱出できたのはそのためだ。
学会が独立後も、会員を宗門に戻さないために、あらぬ限りの宗門攻撃したために、最小限の会員を流出しただけで、
安泰状態を保っている。宗門からの脱退作戦は大成功裏に終わったが、 その事とは、つゆ知らず 会員は哀れな限りで、まるで ロボット的に飼育された羊の群れに等しい存在だ。 人間には三つの選択肢がある
@ 間違った霊の道 → 世俗 (地上の財宝を求める)
A 完徳の狭い小道 → 無・無・無・無・・・(山には何もない)?
B 不完全な霊の道 → 信仰 (天上の至宝を求める) >>435
> 創価学会は
> 戦後戸田会長の指揮のもと、 広宣流布を目指して躍進を続けてきた。
> 折伏に次ぐ折伏で会員数を増やして、
> もう十分、自分たちで会を運営維持できると自信を持った時。
> 宗門離れに 拍車をかけてきた。
> その方法とは、宗門にあらぬ限りの不満をぶつけ、 宗門から破門を言い渡されるのを待っていたのだ。
> それを学会では『 これほどまでに宗門に尽くしてきたのになぜ?』と会員に 吹聴して行った。
> お蔭で 会員もろとも宗門から脱出できたのはそのためだ。
>
> 学会が独立後も、会員を宗門に戻さないために、あらぬ限りの宗門攻撃したために、最小限の会員を流出しただけで、
> 安泰状態を保っている。宗門からの脱退作戦は大成功裏に終わったが、 その事とは、つゆ知らず 会員は哀れな限りで、まるで ロボット的に飼育された羊の群れに等しい存在だ。
それが宗教の何なのですか、
私にはさっぱり、
何が何だわかりませんが。 それが宗教の音何なのですか、
私にはさっぱり、何が何だかわかりません。 人間には三つの選択肢がある
@ 間違った霊の道 → 世俗(地上の財宝を求める)
・ 間違った道に従ったから、山へ登ることが出来なかった。
・ 要求されればされるほど少なく持って行った。 人間には三つの選択肢がある
B 不完全な霊の道 → 信仰(天上の至宝を求める)
・ 至宝を求めたから、小道を登った場合より少なく儲けた。
・ 小道を進まなかったから、時間がかかり少なく登った。 人間には三つの選択肢がある
A 完徳の狭い小道 → 無・無 ・・・ 山には何もなかった。
・ 何もなかった所に自分自身を置いた時、何も不足していない。
・ 自我愛で愛さなかった時、求めないで全部を与えられた。
義人らのためには掟がないから
ここにはもう道がない ・・・ 完徳の狭い小道
休息 これもなし -- 無 -- 知識 それもなし
学識 これもなし -- 無 -- 慰め それもなし
名誉 これもなし -- 無 -- 愉悦 それもなし
自由 これもなし -- 無 -- 安全 それもなし
喜悦 これもなし -- 無 -- 光栄 それもなし
より欲することが -- 無 -- 益々何かあるだろう
少ない
------------ 山には何もない ------------ 完徳の狭い小道
やっとここまで来たのに、またしても目の前に断崖絶壁が
聳え立っている。いまさらもう死ぬ以外にない ・・・ 待て
そこに何か書いてある。希望・安心・信仰 ・・・
愛・喜悦・平安・堪忍・忍耐・善良・慈恵・温良・真実・謹慎・節制・真操
叡智・聡明・賢慮・剛毅・知識・孝慈
ーー 自分に足りなかったものは何だろう。
ーー ああそうか、そういうことか。💡 完徳の狭い小道
そして、神的沈黙と神的叡智の、愛の饗宴が始まる。
我は汝らを導きてカルメルの地に入れ、その実と良き物を
食せしめたり。エレミヤ2:7
この山こそ嘉(よみ)し給う。
この山の上には神の光栄と御栄とのみが住む。
生命に至る門は狭くして、
これを見出す人少なきかな。 マタイ7:13−14 断崖絶壁に行く手を阻まれ、眼下の海を見つめるだけなら、
ヨーガはただ道をしめして、命ずるのみである。
ーー古き衣を脱ぎ捨てて、眼下の海に身を投げよ
しかし、「完徳の山」を登っていくと断崖絶壁が逆に聳え立っている。
これ以上は進めない。死ぬこともできない。どうしたらいいのか。
ーー自分の命を、他者のために使えばいいのではないか。
ーー肉体的ではなく、精神的に死のう・・・ そう考え直したら、断崖絶壁のはるか彼方から、
「命の雫」が一滴、頭の中、額の中央あたりに静かに落ちてきた。
人間が神の御座へと登るのではなく、
最後の最後は、神のほうから人間のところへやって来る。
ーーこれが「十字架の聖ヨハネ」の教えである。 十字架の聖ヨハネ 1542年〜1591年12月14日 49歳没
アビラのテレサと共にカルメル会の改革に取り組む。
孤児院育ち。25歳で洗足カルメル会の司祭。
周囲から批判され35歳の時、トレドの修道院に幽閉される。
翌年脱出したが、病のためにウべダの修道院に送られて49歳没。
カトリック・聖公会の聖人。12月14日は聖ヨハネの日。 聖ヨハネは、「完徳の山」の図で「信仰」を
不完全な霊の道として否定している。それに聖書の言葉はあるが、
イエス・キリストの名は書かれていない。
聖ヨハネはスペイン人だから、異端尋問の厳しかったスペインで、
周囲からの批判は受けたが、よくぞ無事だったと感心する。
しかし、「完徳の山」の図を見れば、
王様の顔のようなものが一番上にあり、聖書の言葉も書かれていて、
言い逃れができるように工夫したのではなかろうか。
王様はイエスであり、イエスの言葉も書かれているではないかと。
信仰を否定しているのに、カトリック・聖公会の聖人になるとは!
聖ヨハネの作戦勝ちだね "(-""-)" 聖ヨハネは36歳ごろ、「暗夜」と「カルメル山登攀」を書いている。
前者の解説書が→後者「カルメル山登攀」である。
ここでは「暗夜」の詩を少し引用しよう。
1 暗き夜に、炎と燃える、愛の心のたえがたく、
ーおお恵まれし、その時よ 気づかるることもなく、出づ
ーすでに、わが家は、静まりたれば
2 闇にまぎれて 恐れなく それとは見えぬ姿にて、
ー隠れし梯子をのぼりゆき おお恵まれし その時よ
ー暗闇に身をば かくして すでにわが家は 静まりたれば
3 恵まれし その夜に 気づかるるなく しのびゆく
ー目にふるる ものとてもなく 導く光は ただひとつ
ー心に燃ゆる そが光 聖ヨハネは霊的な喜びを詠っている
1 おお恵まれし、その時よ・・・すでに、わが家は、静まりたれば
2 ・・・おお恵まれし、その時よ・・・すでにわが家は、静まれたれば
3 恵まれし その夜に・・・ 教皇ベネディクト十六世が聖ヨハネについて語っている。
信仰や三位一体やイエスキリストは余分だが。
https://www.cbcj.catholic.jp/2011/02/16/8127/ 455は失敗したので
「教皇ベネディクト 十字架のヨハネ」で検索してください。 信仰を否定する聖ヨハネが、
「十字架のヨハネ」という洗礼名を選んだのはなぜなのだろう。
幼児洗礼での洗礼名は「ヨハネ」だったようである。
しかし、修道院では「聖マチアスのヨハネ」に変わった。
このマチアスは、12弟子のユダの代わりに選ばれた人物である。
ユダは主としてエチオピアで宣教、64年ごろ十字架で殉教。
その後さらに聖ヨハネは、修道院上長の許可を得てから
「十字架のヨハネ」と改名した。この経過を見れば、
聖ヨハネは最初、信仰の道を熱心に歩んでいたことになるだろう。 >>460 の訂正
× ユダは主としてエチオピアで宣教 ・・・
〇 マチアスは主として ・・・
聖マチアスは、大工・仕立屋・アルコール依存症の後援者である。
孤児院育ち、修道院生活の聖ヨハネには強い違和感があったのだろう。
聖ヨハネは、親兄弟との縁が薄かったがゆえに、
神との出会いを切実な思いで求め続けていたのではなかろうか。
「十字架のヨハネ」という名前にはその思いがこめられている。
それはイエスに従おうという決意表明である。マタ11:38 十字架の聖ヨハネ 1542〜1591 49歳没
本名 ファン・デ・イエべス
洗礼名(幼児洗礼) ヨハネ 〜 ヤコブの兄弟のヨハネ
原罪ゆえに人が生まれるので守護聖人を決めて守ってもらう
修道院名 聖マチアスのヨハネ 〜 本人の希望
その変更 十字架のヨハネ
修道院名は本人の希望によって決まる。
ただし、いったん決めたら簡単には変更できないようである。 聖ヨハネが「不完全な霊の道」として「信仰」を否定した理由
これについては、アビラのテレサ(1515〜1582、67歳没)との
カルメラ会修道院改革が関係している。ヨハネとテレサの年齢差は27。
テレサは女子修道会の改革に成功したが、ヨハネの場合は難航し、
ついには修道院に9か月幽閉される事態になる。ヨハネは、
聖書に精通した修道士たちと議論し対立し、激しく争ったことであろう。
たぶんこの争いによって、ヨハネは「信仰」の限界を知ったのだ。
そして、信仰は不完全な霊の道だと ・・・ 悟った。 なぜ女性のテレサが改革に成功し、男性のヨハネは挫折するのか。
それはたぶん、キリスト教信仰における男と女の違いにある。
三位一体の教理から、男性のイエスが信仰対象にされているからだ。
女性の場合、イエスキリストへの信仰が恋愛感情と重なっている。
テレサの神秘的な恍惚感にはイエスとの合一が読み取れる。
テレサに憧れたマザーテレサにも同じような神秘体験がある。
他方、男性の場合は事情が異なっている。
イエスが男性であることが邪魔し、簡単には信仰に集中できない。
男性は基本、理論的にしかイエスを受け入れない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています