阿含宗という宗教300
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過去ログ倉庫:ザビビ「阿含宗と桐山氏について」
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前スレ
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1544433675/ >>238 オウムの尊師浅原は、
桐山師を見習ったと仰るが,真似をし損なってるとオウムが盛んな当時は見てましたよ。
その一々の記録を取ってないので、記憶からの感想になります。
浅原が逮捕されてオウムが宗教として広告もせずに終わった事柄の一つに、
『私は病を治す祈りを致します』 『行くへ不明者の足止めもします』とは言わず終い。
つまり祈祷力の表明は出来ない程度の尊師であった。
宗教家、新教祖として肝心要が出来なかった、と評価しております。
さてこのオウム事件の首謀者たちの処刑は、今上陛下の譲位と新天皇即位前に『片を付けた』と
私は看做すわけ、もう幾つか片を付ける案件が控えておりますが、是は日本国家の
強く柔らかな腕の振るい場所と楽しみにしております。
この場でそんな事を言うなよ宗教と無関係だろ!と憤怒される方も居られましょうが,
いえいえそうじゃ御座いません。上野の桜咲くころには何かが在りますでしょう。
皇室の御安泰は我が国の礎で御座います。
深山さんもやってられるのかな?まあ好いか所詮他人事だよねぇ。
考えてみると、四向四果について、ユビくんは過去一度も預流向=預流、などとはレスしたことがないと思う。深山くんを応援するレスをしたものの、シュダオン向=シュダオン、などとはレスしてないと思う。この根本的な間違いを
レスしたのは深山くんだけだね。 しかしついに、ユビくんも「仏弟子千人いたら、千人ともシュダオン向からスタートだろう」と、深山説をやんわりと否定した。間違いを支持するにも限界があるからだろう。シュダオン向からスタートということは、深山説だとシュダオン向=シュダオンからスタートとなる さて止息経だが、初禅は言語止息とある。これは欲界の欲を、言語と表現したのであろう。あれ欲しいこれ欲しいという内なる言葉の言語が止む、それが言語止息。「有覚有観、欲を離れて喜楽生じて初禅に入る」という定型句の欲が言語というわけですよね。 止息経の第二禅は覚観止息とある。初禅の有覚有観が止む、ということだね。第三禅は喜止息とある。これは喜楽生じて初禅に入る、の生じた喜が止む、ということだね。第四から第九は省略するが、最後に勝止息〜無上止息が出て欲界の三毒が出てくる。言語(欲界)止息なのに なぜ最後に勝止息〜無上止息が出て欲界の三毒が出てくるかというと、深層意識までの三毒を止息(滅)させるわけだ。釈迦は心を四層に捉えていたのかも知れない。だから最後に四つの止息が出てくる。これがユビくんへの回答だよ。 気づきの瞑想法というが、あんなのは現代日本人の在家には実行不可能だね、仕事が出来ない。桐山新書のP154に、「自分の心癖との戦い」が、フランクリンの逸話とともに解説されている。あれが阿含宗の気づきの瞑想法だね。 >>231探究者2019/01/14(月) 21:38:59.18ID:D3bETT2k
>安般念とは数息観のことですか?
安那般那念経の安那般那念は数息観と訳されますから、
その意味では上記の質問に対する答えはそのとおりです。
しかし、探究者さんは訳の話ではなく、安那般那念が呼吸法なのか、
と質問しているのですよね?
この答は「否」です。
安那般那念を呼吸法だと誤解している人がいるが、呼吸法ではありません。
桐山さんに限らず、この経典を釈尊が説いた呼吸法であるなどと
解説する人がいますが、いったいどこの何を読んでいるのでしょう?
阿含経を読む時には、大きな前提を常に意識するとわかりやすい。
「煩悩からの解放」
これだけです。
阿含経のありとあらゆることがこれを説いたのだと理解すれば、
細かい文言はともかく、概要はわかります。
逆に、この前提を抜きにした解釈は無意味です。
だから、安那般那念の意味が数息観であるとしても、それは、
「数息観を用いて煩悩からの解放を説いた」
と理解するべきです。
止息という言葉もそうです。
止息という何か新しい特殊な修行法を説いたのではなく、
「止息を用いて煩悩からの解放を説いた」
とみなせば、全然難しくなく、どこかのオカルト教祖みたいに、
勝止息、奇特止息、上止息、無上止息を四つの呼吸法だなんて、
爆笑解釈をして恥をかかずにすみます。 安那般那念@呼吸法なのに托鉢の話?
安那般那念に相当する経典は複数ありますが、
『「止観」の源流としての阿含仏教』(1998年、86頁〜)、
この本などで引用した雑阿含経について見ます。
経典はまず安那般那念を習得したら解脱が得られると前置きがあります。
ところが、次に、呼吸の説明の前に奇妙な文章が入っている。
比丘が朝托鉢に出かけて、戻って、手足を洗い、林の中で座り、
煩悩を断じるように心がけるとある。
こういう一見「余分な話」が長々とあり、それからようやく呼吸が出てきます。
桐山さんの本の引用では経典全体24行のうち、この説明だけで
約6行が費やされている。
呼吸法の説明は約11行ですから、これと比べても、6行はずいぶんと長い。
呼吸法の説明なら、なんだって托鉢から始まり、手足を洗うなんて、
よけいな話まで出てくるのでしょう?
桐山さんのように呼吸法の経典だとみなすから変なのであって、「煩悩からの解放」の
説明をしているのだとみなせば、不思議でないどころか、必要な事柄です。 安那般那念@呼吸法の説明がない?!
大事な呼吸法の説明なはずなのに、約11行と短いだけではありません。
肝心な、一番知りたい呼吸法の説明がないのです。
あるのは呼吸法の説明ではなく、名称が羅列されているだけです。
桐山さんによれば15種類の呼吸法が書いてあるというが、
名前があるだけで、呼吸法の説明がない。
これは安那般那念経が呼吸法の経典などではない何よりの証拠です。
呼吸法を説いているのなら、簡単でもいいから、説明があるはずです。
他の安那般那念を説いた経典も同様で、呼吸法の説明などありません。
呼吸法がないのだから、呼吸法の経典ではないと気が付くべきなのに、
仏陀の智慧をお持ちの教祖様はこんな簡単なこともわからなかった。
桐山説のように、四神足が唯一の成仏法であり、そのスタートが
安那般那念などの呼吸法だというなら、釈尊は丁寧に説明を繰り返したはずです。
だが、呼吸法の説明など経典のどこにもない。
桐山説の成仏法や修行法が説かれていないのです。
この事実を信者さんたちはよく見ることです。
桐山さんはこの矛盾に次のような屁理屈を付けている。 安那般那念@呼吸法など説いていない
「いとも簡単に呼吸法の項目だけならんでいるが、
それはこの講義を聴聞した聴衆が呼吸に熟達したものたちばかりで、
いちいちその内容について説明する必要がなかったからであろう」
(仏陀の法、139p)
比丘たちは呼吸法に熟達していたから、ただ名前を出しただけだというのです。
この桐山さんの説明はなりたちません。
釈尊はこういう手抜きの説明をせずに、しつこいくらい初歩的な
同じ内容を繰り返し説明する人だからです。
だから、この経典でも托鉢から手足を洗う話まででくる。
釈尊の修行法を説明した経典なのに、比丘たちが知っているから、
肝心要の修行法を説明しないなんて、矛盾した話はありません。
一部の経典で略されているというならともかく、あれだけたくさんの
阿含経があるのに、アーナンダはどうして釈尊の呼吸法の説明を
一言も残していないのですか?
桐山説によれば呼吸法は成仏法を体得するのに肝心要な法です。
それを弟子が知っていたから説かないなんて矛盾した説は成り立たない。
阿含経は説いたことは説いたままに、説かれていないことは
説かれていないままに受け入れるのが大原則です。
呼吸法の説明がないということは、釈尊は説明していないのです。
安那般那念経では釈尊は名称を並べただけですから、
実際には呼吸法の説明などしなかったのです。
この事実を見るなら、結論は簡単で、釈尊は桐山さんのいう特殊な
呼吸法どころか、どんな呼吸法も修行としては説いていないのです。 安那般那念@数息観とは心を静めること
「そこで、この安那般那念経も、昔から数息観の呼吸法を説いたものと、解釈されている。」
(『阿含仏教 超奇蹟の秘密』269頁)
桐山さんは「数息観の呼吸法」だと述べているが、これがそもそも嘘です。
『岩波仏教辞典』480頁
「数息観(ana-apana)
出入の息を数えることによって、心の散乱を収め、心を静め統一する方法で・・」
安那般那念(数息観)は呼吸法ではなく、呼吸を用いて、心を静める方法です。
桐山さんは安那般那念とはチャクラを開発するための特殊な呼吸法であり、
その方法を釈尊は説いたのだと言っている。
だが、安那般那念とは「呼吸法」ではなく、
呼吸に意識を向けることで、「心を静める方法」です。
「どんな呼吸をするのでも、心を静める」修行法です。
経典にあるのは呼吸法などではなく、一般的な呼吸の名称を並べたにすぎない。
「長い呼吸」「短い呼吸」など一般的な呼吸にいちいち説明など
つけないのは当たり前です。
桐山さんの呼吸法が書いてあるなどという主張は、経典の主旨すらも
理解できない稚拙な解釈です。
では、心を静めるとは何を指すのか?
最初に説明した、経典を読む時の大前提を思いだしてください。 安那般那念@心を静めるとは煩悩からの解放
「心を静める」とは、心から煩悩をなくすことです。
ところが、仏教を論じている人たちでも、これがわからない人が多い。
ここでも「心の安定」という表現が煩悩からの解放、つまり解脱を表すのだと
何度説明しても理解できず、私を罵っている人がいます。
彼に、安那般那念経の心を静めるとは煩悩からの解放であり、解脱のことだと
説明しても、また嘲笑い、繰り返し小馬鹿にするネタに使うでしょう。
心を静めることの逆は、心を騒がすことです。
釈尊が説いた心を騒がすものとは煩悩です。
心を安定させることの逆は、心を不安定にすることです。
釈尊が説いた心を不安定にさせるものとは煩悩です。
呼吸の名前が複数出てくるのは、その呼吸一つ一つに意味があるのではなく、
阿含経でよくある繰り返しによる強調です。
長い呼吸で煩悩に囚われない、短い呼吸で煩悩に囚われないと、
どのような呼吸でも煩悩に囚われないことを強調するために、
繰り返し述べているだけです。
だから、この経典を簡単にまとめるなら「どんな呼吸をするのでも、
常に煩悩に囚われない」という意味です。
桐山さんは、煩悩からの解放を説いた経典を呼吸法を説いたと解釈した。
これが仏陀の智慧の正体です。 安那般那念@安那般那念は煩悩からの解放
比丘たちは、托鉢や食事など日常に関わることが済んだら、瞑想して過ごす。
仏教の瞑想とは、桐山さんの言うようなチャクラやクンダリニーの
覚醒のための瞑想ではありません。
安那般那念経にあるように、瞑想しながらも煩悩に囚われないようするのです。
瞑想の技法で煩悩を切るのではありませんよ。
何をするのにも常に常に煩悩に囚われないようにするのです。
この経典の最初にも托鉢や手足を洗うことまで出て来るのはそれが理由です。
瞑想や呼吸だけが特殊で大事なのではなく、それらは托鉢や手足を洗うのと
同等であり、これらの行為の中にいなかる煩悩も現れようにするのが仏道です。
身口意の三業(三つの行為)のうち、瞑想中に身体が行っている行為(業)とは呼吸です。
呼吸に心を集中することで心を散乱させず、心はもちろんのこと、
身体に関わる煩悩すらも生じないようにしたのです。
くり返すが、呼吸を使って何かをしているのでも、呼吸の仕方が重要なのでもなく、
単に呼吸はしないわけにいかないから、これを使って煩悩に囚われないという
修行をしているのです。
瞑想するとき、身体の行為は呼吸だから、どのような呼吸をする時も
煩悩が生じないようにと説いたのが安那般那念経です。 >>229 神も仏も名無しさん 2019/01/14(月) 20:27:56.42 ID:7gNEZMoa
>ユビくんがついに「チューダバンダカだけでなく、仏弟子千人いたら、千人ともシュダオン向からスタートだろう」と、まともなレスをするに至った。深山くんも読んだかな?一番弟子が裏切った!と思うかな?やんわりと深山くんの誤りを指摘したレスだと私は思うのだがね。
>>241 神も仏も名無しさん 2019/01/15(火) 08:27:44.34 ID:qQO3riiV
>しかしついに、ユビくんも「仏弟子千人いたら、千人ともシュダオン向からスタートだろう」と、深山説をやんわりと否定した。間違いを支持するにも限界があるからだろう。シュダオン向からスタートということは、深山説だとシュダオン向=シュダオンからスタートとなる
順番の古いものからレスしようかと思いましたが、この時間は、ここからレスします。
本当にヨル公さんは相手の主張のなんたるかが全く理解できていないですね。
私も深山さんも最初から誰でもスタートはシュダオン向であり、今さら気がついたなんてことはありません。
それをあなたは今回私が初めて気がついたと思ったのはまだよいが、それで私はヨル公さんの考えに近づいたと勝手に思い込んでいる。
しかし私はあなたとは依然として平行線であり、あなたとは考えが逆なんです。
私は千人の弟子が千人ともスタートはシュダオン向であることは間違いなく訂正もしないが、
しかしその千人のシュダオン向は千人ともシュダオン向のまま聖者の仲間であるということです。
つまりあなたと私の見解の相違点はシュダオン向を聖者に含めるか否かの1点だけなのですか。
これはたぶんずっと平行線のままであろうが、私が千人が千人シュダオン向の話を出した理由は、あなたがチューダパンダカを引き合いに出す必要があるか?
ということです。
チューダパンダカなんか出さなくても議論の争点はシュダオン向が聖者であるかどうかそこだけです。
シュダオン向なら仏であることはは誰しもスタートはシュダオン向なんだから、わざわざチューダパンダカを出す必要もない。
これを敢えて出し、対日、第三のチューダパンダカなんて話をしたのは、結局あなたが、
チューダパンダカの知的機能が常人より劣っている点に着目して、こんな機能の劣った人が聖者であるわけがないと思ったからです。
それは障害者差別だよねと私は言ったわけです。
私はチューダパンダカは知的学習障害であるが、その為理解も人より遅いが、それでもお兄さんと一緒に理解できるように励んでいるのだから、
学習障害のチューダパンダカも立派に聖者仲間だと見解を示しているのです。
あなたはどうなんですか? シュダオン向なら仏であることはは誰しもスタートはシュダオン向なんだから
↓
シュダオン向なら仏弟子は誰しもスタートはシュダオン向なんだから ユビくんも深山くんも、修行のスタートはシュダオン向だと知っていた?だと?おい、おい!ユビくん、詭弁も休み休み言いな。あんたは深山くんが預流向=預流、だとレスしたのを知っているのか?ドアホウめ。シュダオン向=シュダオンならば、スタートはシュダオンか? ユビくんも学習障害者だと知っているから、私は別に腹立てているわけでもない。本当は私のレスで仏弟子のスタートはシュダオン向だと気づいたわけだろ?正直に言わなくても、読者は分かっているのだからさ。釈迦仏教の聖者の定義は、三結断じた者からと知っているの? 深山ユビくんは黙って、間違えていたことを認めたらそれでいいのにさ。屁理屈こねて否定するからますます醜くなる。仏弟子のスタートがシュダオン向ならば、シュダオン向=シュダオンとしたら、仏弟子のスタートはシュダオンになるよ、と指摘しているのよ。私はね。 >>257 神も仏も名無しさん 2019/01/15(火) 13:09:12.05 ID:qQO3riiV
>釈迦仏教の聖者の定義は、三結断じた者からと知っているの?
だからお互いの議論の見解の相違点は全てそこに尽きるわけです 。
そしてお互いはお互いの見解を認めようとしないわけです。
ならば後は各自に判断してもらおうと思うわけです。
その構図が 理解できたら、あなたはわざわざ 学習障害もあるチューダパンダカかなんか出す必要はない。
学習障害があっても 、理解しようと 努力する者は聖者であるし、学習障害がなく、学力の高い人でも、
仏教なんか理解してやるもんかと 思う人が聖者で あるわけがない のだから。 >>258
ところが今回の桐山さんの新著でも 正しく引用されている 遊行経には四双八輩をちゃんとシュダオン向をも含めて皆聖者であるとしているわけだ。
含まないのならば シュダオン向なんて わざわざ 語りませんよ、文字になって残るのに。
シュダオン果から語るはずです。 桐山新書のP126から法鏡の部分を抜粋した遊行経があるね。ちょうど四双八輩の説明もある。桐山師は僧を僧伽(ソウガ)と訳している。僧も衆もサンガsamghaの訳だからね。八輩を聖者と説明しても、シュダオン向は聖者ではない、とプロの信徒は知っているのさ。 桐山新書では、須陀温向(須陀温に向かう人)と説明し、須陀温果(須陀温になった人)、と説明している。先ず、この説明で須陀温向と須陀温果は同じだと思うかね?深山くんは、須陀温向と須陀温果は同じ須陀温だと主張して何十年のわけさ。 ユビくんが屁理屈こねるなら、付き合ってもいいよ。これまで何十年も、バカバカしいと思いつつ、四向四果を説明し続けてきたのだからさ。深山ユビくんの修行の失敗も、ここに大きな原因があったのだからね。 仏陀の真実の教えを説く上巻で詳しく四果の聖者を説明している。そして、聖者に向かって修行している者が須陀温向だと説明している。それを知らないのが深山ユビくんで、阿含宗信徒には常識なわけさ。だから桐山新書を見て説明が変わったと思う信徒は一人もいない。 深山くんが、聖衆とか聖賢衆とか、私の漢文の引用が違うとか言ってたが、くだらない話だ。四双八輩を聖衆とか聖賢之衆とか単に弟子衆とか、経によっても違うのだ。本質を見ることだ。一字一句に拘って、言葉尻捉えたり、揚げ足とりを狙うでない。人相まで賤しくなるぞ。 ユビくんはビィバサナー瞑想を釈迦の瞑想だと考えているようだが、実践したことはあるのかい?私は二十年以上前に実践して見たよ。今に気づくだけでいいという、簡単そうだったしさ。その結果、捨てたよ。何も変わらなかった。こんなの釈迦の瞑想ではないと思ったよ。 >>267
>ユビくんはビィバサナー瞑想を釈迦の瞑想だと考えているよう
>だが、実践したことはあるのかい?私は二十年以上前に実践して
>見たよ。今に気づくだけでいいという、簡単そうだったしさ。
>その結果、捨てたよ。何も変わらなかった。こんなの釈迦の瞑想
>ではないと思ったよ。
頭のおかしい狂ってる おまえが一万年やっても マトモな結果も
出ないし、何の参考にもならないんだけど。
前提の段階でお話にならないのだが、おまえには今生では
分からないだろうな。
死んだ後に 桐山靖雄さんのいる所に堕ちてゆくだろうから
桐山偽仏と語り合うんだなw
分かったなゴミ屑 WWW ユビキタスさん、深山さん、丁寧な解説ありがとうございます。
呼吸のやり方には何の意味も無いというのは、私も薄々感づいていました。
ゴータマ様の指導された最終目標は、煩悩に対する執着心を無くすということ
ですよね。
安般念を練習して慣れてきたら、四念処法を練習するということですか?
あと、四念処法をマスターするのと、八正道における「正念」とは同じですか?
再質問すみません。 いわゆる経典における「念」の意味は「サティ」のことですよね。
いままで日本仏教では正しい意味が伝わってきていなかったということらしいです。
上座部の修行法やマインドフルネスのブームによってようやく日本にも釈迦の本当の意味での
修行法が伝わったという感じです。
桐山ゲイカのインチキ・オカルト成仏法(しかもまったく中身がないゴミw)とは
まったくちがうことに驚き、また、知りもしないのに偉そうに講義たれてた桐山ゲイカに
怒りさえ感じます。 270さん、ありがとうございます。
「サティ」恥ずかしいですけど、教えていただいてググりました。(笑)
私の勉強不足を実感します。
あらためて、仏教のお勉強は難しいですね。
勉強すると、桐山さんのおっしゃっておられたことが・・・。(笑) >>249 深山 ◆lDoupiXSYZNC 2019/01/15(火) 12:20:11.16 ID:ZxHAdmai
>釈尊の修行法を説明した経典なのに、比丘たちが知っているから、
>肝心要の修行法を説明しないなんて、矛盾した話はありません。
>一部の経典で略されているというならともかく、あれだけたくさんの
>阿含経があるのに、アーナンダはどうして釈尊の呼吸法の説明を
>一言も残していないのですか?
>桐山説によれば呼吸法は成仏法を体得するのに肝心要な法です。
>それを弟子が知っていたから説かないなんて矛盾した説は成り立たない。
ここです!
呼吸法の解説もなしに桐山さんは どうする気だったんでしょうか。
15種類の呼吸法を 別々にでもでもいいですから解説した経典があればそちらを示すべきであって 、
こんな詳しい説明のない経典なんてものを出す意味がない。 単なる思わせぶりですよね。
そして実際にはその詳しい呼吸法を説明した経典もないというのはどういうことですか。
じゃあその呼吸法を桐山さんはどうやって実践したのか?
つまり桐山さんの解説を読むからには なんか安那般那念経にこれ呼吸法じゃないかなあと思うものがあるよ。
え?どうして呼吸法と分かるって ?字面だよ字面。息って書いてあるじゃない。
15種類もあるよ。凄いなあ。 どういう呼吸法?俺知らねーよ。 でもきっとすごいんだろうなぁ。
経典の根拠がなかったら、 自分の修行でも出すしかない 。
密教時代から何でもいいから我流の呼吸の修行をしていた 。
ごちゃごちゃやっているうちにこの呼吸法はこういう効果がある!素晴らしい !
後になって安那般那念経を読んでみたらその15種類の単語は、うん、この効果まさにこれとぴったしだよ !
ということで私はこれを呼吸法だ悟ったとでも 書くしかない。
だとしたら今度はじゃあその15の呼吸を呼吸だと判断した その内容表現について自分はこういう効果を得たから
こういうタイトルの呼吸法なんだなと判断したとか、そういうことを示さねばなりません。
もっっっちろんそんなことは 出来ずにぽっくり逝きました。
修行体験と言えば>>267で喜んさんはヴィパッサナー瞑想を20年前やってみたのだそうだ 。
でも効果がないから捨てたのだそうだ。
そもそもどういう効果を求めたんでしょうかね?
自分の求める自分の気に入った効果がないから捨てるのはいいが、 だから仏教じゃないと判断したのだそうだ。
この人にとって仏教というものは自分のお気に入りでなければならないのだそうだ 。
謙虚に学ぶという気持ちも皆無です。
とにかく 修行でも何でも自分の求めるものは何?お気に入りはなに?こういうことをはっきり書いて、
それに沿うものだった沿わないものだったということをはっきり表現しなければなりませんよね 。
桐山さんも呼吸法だと判断したからには、どうしてそれはこういう呼吸法なんだと判断したかいうこと
をはっきりと表現しなければなりません。
でもできません。
だから結局あれは、僕ちゃんあれ呼吸法じゃないかなあと思うよ 、と書いたにすぎないのです。 >>269 探究者 2019/01/15(火) 18:22:15.55 ID:IbEB+SFb
>安般念を練習して慣れてきたら、四念処法を練習するということですか?
>あと、四念処法をマスターするのと、八正道における「正念」とは同じですか
アーナ・パーナ・サティ、 安那般那念自体がすでに 四念処 の一部です。
一部というのは呼吸に特化してますからね。
アーナパーナとは出る息、吸う息、という意味ですから、ズバリ呼吸のことです 。
しかし念処というものは何も呼吸に限ったことではないから、一部というわけです。
しかし安般念は立派に四念処の一つであり重要なファクターなわけです。
そして四念処=八正道の正念です。
また私も書いたように、七覚支の念覚止は 四念処なわけで、同時に正念でもあるわけです。
このように三十七道品の表現というものは ほとんどが重なり合っているわけです。
重なり合っている中でこのサティというのは 非常に大切な欠かせない話なわけです。
それは止でもあり観でもある 。
集中して 心を散乱させないサマタ(止)であると同時に、ありのままに観察するヴィパッサナー(観)の二つを同時に成し遂げるのです。
この止と観の両方の方法で煩悩をなくしていくのです。 >>203 神も仏も名無しさん sage 2019/01/14(月) 12:03:19.68 ID:l4a+j6gM
>深山ユビくんは業滅を否定し、慢という煩悩が人を再生(輪廻)させるという。しかし、見落としているものがある。慢で再生する場合、人間界に再生するのか、餓鬼界に再生するのかを何が決定するのか?ということです。煩悩と業の二つは、切り離せない問題なのです。
人間界に 再生するのでなく、 餓鬼界に再生するからには 慢どころでは済まないでしょうね 。
貪、むさぼりでしょう。正しい貪瞋癡の煩悩なんてものは万人が万人持っているものです。
持っていない人はもう解脱者ですからね。
だから誰でも持っているのだが、 餓鬼界にまで堕ちる人は よほど恥ずかしいほど酷い貪りの煩悩を持っていたということになります 。
このように持っていたその煩悩の度合いによって行き先が決まるわけです。
あなたは仙尼経ては、人間というものはすべからく慢という煩悩があるから人間などに再生するのだと
一般論を説いたかのように読んだのですか?
そうではないですよ。あれは馬刺しユッケ(音声変換が婆磋種出家を笑える変換をしたから記念に残したw)に対して
お前は貪などはかなり薄らいだが、まだ慢があるからまだ解脱には至らず また生まれ変わるよと言ったのです。
まあ多分人間でしょうね 。動物ではなく。慢程度であれば。
で、なんでここで突然こんな仏教経典の解説をしなければならないんですか ?
どうもあなたの頭の中というのはよくわからない。 >>217 神も仏も名無しさん 2019/01/14(月) 15:56:01.94 ID:7gNEZMoa
>釈迦は涅槃に入る直前、体を病んで苦しんでいた。しかし、定に入るとひどい痛みさえ消えると阿難に説いている。第二禅に入ると覚観が滅し、とはそのことだ。気づきの瞑想法とは釈迦の四禅とは真逆のものだ。気づきの瞑想法は四念処観の一種に過ぎないのだよ。
でもその定が解けたらその肉体的苦痛もまた蘇るでしょ?
もうすぐに死んでしまうという人ならともかく、これからまだ生きていかねばならない人が、
いつまでも永久に常に入ってるわけにいかないでしょ。
滅尽定みたいなものに入るとこれは本当に何も感じず何も思わない状態です。
かろうじて命だけはある。でもこれって植物人間みたいなものじゃないですか 。
いつまでも植物人間でいいんですか? >>219 神も仏も名無しさん 2019/01/14(月) 16:07:00.29 ID:7gNEZMoa
>だいたい、仕事がある在家には気づきの瞑想法みたいな悠長なことはやってられない。不可能だ。四苦八苦の説明にしても、くだらないことまで微に入り細に入り長々と、幼児に説くわけでもあるまいし、釈迦の言葉ではないだろう。
>>245 神も仏も名無しさん 2019/01/15(火) 09:33:49.31 ID:qQO3riiV
>気づきの瞑想法というが、あんなのは現代日本人の在家には実行不可能だね、仕事が出来ない。桐山新書のP154に、「自分の心癖との戦い」が、フランクリンの逸話とともに解説されている。あれが阿含宗の気づきの瞑想法だね。
だから基本的には出家の修行です。
やはり在家というものは四六時中観察するといっても限界がありますよね。
その点出家というのは本当に四六時中観察ばかりしているのです。 止観を続けているのです。
これは出家でないと出来ません。だから仏教は出家優位なのです。
そこで在家はそこまではできないまでもそれに準じて頑張るわけです。
四六時中とは行かなくてもやはりそういうヴィパッサナーを 瞑想の時間でも1日の中で割くことはできます。
ミャンマーの瞑想でもマハーシに限らず他にも色んな瞑想の指導者が忌ます。
日本にも輸入され ヴィパッサナー瞑想の合宿訓練も行われます。
10日間の合宿とか。これは10日間の出家修行のようなものです 。
そこまで出来なくても 1日のわずかな時間でもこういう習慣を持つことは有意義なわけです。
そしてそういう習慣を持ったからにはじゃあ瞑想の時間以外でも全く野放図かと言うとそうはならないはずです。
自ずと自分自身に対して注意が向くようになるのです。
あなたぐらいですよ。
次の修行の時間までは何をやろうが勝手だと何も考えてないやつは。
で ヴィパッサナーの代わりに出したのはベンジャミンフランクリンの話ですか。
三省堂という本屋があるけど一日3度自分を省みるとありますよね 。
でもそうではなく後になって振り返るよりも、常に今この時点で自分を観察しているということがより優れていると思いませんか。
まあでも ベンジャミンフランクリンみたいな反省も有意義ではあります。
でも桐山さんてそれ実行してないでしょ 。
だって桐山さんて 俺は瞬間湯沸かし器だと法話で得意そうに話していました。
反省をしている人ならば瞬間湯沸かし器でいいはずはない。やはりそこはもっと冷静に慎重にやるべきです。
ところが瞬間湯沸かし器であることをまるで自分の長所であるかのように得意満面で話していたということは反省してないんですね。 >>244 神も仏も名無しさん 2019/01/15(火) 09:14:44.36 ID:qQO3riiV
>なぜ最後に勝止息〜無上止息が出て欲界の三毒が出てくるかというと、深層意識までの三毒を止息(滅)させるわけだ。釈迦は心を四層に捉えていたのかも知れない。だから最後に四つの止息が出てくる。これがユビくんへの回答だよ。
四つの止息表現でそういう風に読み取る人なんて普通いませんよ。
深層意識というものを 説いてそこのアプローチを必要なんだと 説くのならば、ちゃんとそれなりの説明が必要です。
なんでそれをただ単純に優れただの 奇特だの上だの無上だのとそんな形容詞で済ましてしまうのか。
それに深層意識と言うけれども、すでに九次第定でみると分かるように、これは深層意識なんてものがあるのかどうかわからないけれども、
とにかく意識がだんだん深みに 迫っていくことがわかります 。
つまり表面意識を超えている。
九次第定で既に深層意識みたいなものにアプローチしているのに、どうして四つの形容詞の止息で初めて深層意識などを使わなきゃダメなんだよなんて話になるのだ?
要するにあなたみたいな発想だったらもう何でもいいんですよ。
私もちょっとやってみようかな。四つの止息ね。
そうだ!左右田一平です。四つといえば苦集滅道だ。桐山四諦瞑想法だ。これやってみよー。
ようこそここへ♪クッ苦苦苦♪ 集めているからね♪
集めてるモノを♪滅しまーす♪
滅するためには♪ドー道道道♪仏道に励みましよ♪ >>262 神も仏も名無しさん 2019/01/15(火) 13:36:52.67 ID:qQO3riiV
>桐山新書では、須陀温向(須陀温に向かう人)と説明し、須陀温果(須陀温になった人)、と説明している。先ず、この説明で須陀温向と須陀温果は同じだと思うかね?深山くんは、須陀温向と須陀温果は同じ須陀温だと主張して何十年のわけさ。
その通りで、シュダオン向とシュダオン果は 同じではなくちゃんと区別があります。
その区別を承知の上で、それを一緒にして四双八輩を八輩というようにシュダオン向も忘れることなく、仲間外れにせず、
聖者賢者に加えているのです。経典記述が。
だからシュダオン向とシュダオン果が別であるとその区別をわざわざ書く必要ありませんよ。
そんなことはわかっているんだから。
そこから先の話は私はしているのです。 >>264 神も仏も名無しさん 2019/01/15(火) 13:42:56.84 ID:qQO3riiV
>ユビくんが屁理屈こねるなら、付き合ってもいいよ。これまで何十年も、バカバカしいと思いつつ、四向四果を説明し続けてきたのだからさ。深山ユビくんの修行の失敗も、ここに大きな原因があったのだからね。
こちらは付き合いたくありません 。
そちらが常にいつも絡んでくるんです。
ちなみに私はあなたの主張の根拠ははっきり分かっていますよ。
三結を断じたシュダオンが預流である。
預流とは解脱へと流れて行く聖者だ。
だから
まだ三結を断じておらずシュダオン果をに到達していないものが 聖者の流れであるはずがないと。
確かにそのようにも読めるのです。実際にネットで見ていてもそういう捉え方をしている人もいます 。
だからそういう捉え方をしたあなたを馬鹿だなどと責める気はないんです。
でもこのようにシュダオン向までも含めて聖者賢者とはっきり書いてある経典があるということは、
これは考えを変えねばなりません。
実は三結を断じたか断じていないかその境、 ラインというものに対して、そんなに厳しい資格ラインを引いてはならないのではないか。
実はもっとユルいんです 。
何でユルいのかと言うと 、だって三結を断じたシュダオン果だって、まだ欲貪も瞋恚も残しているでしょ。
貪りや怒りなどの煩悩にまだ汚れているでしょ。
それでも聖者だと言うんですよ。だとしたらこれは最初の前提からしてユルイと考えてよい。
ユルイという表現自体あまり好ましいとも思いませんが、 だとしたらなぜこれを聖者賢者かと言うと、 解脱という目標に向かって努力している者は、たとえどのランクのものであってもみんな尊いんだよと釈尊が認めたということになります。
本当に厳しくラインを引くならば、阿羅漢果の無学以外は聖者であるはずがないんです。なぜなら煩悩を持っているからです。 264 神も仏も名無しさん 2019/01/15(火) 13:42:56.84 ID:qQO3riiV
ユビくんが屁理屈こねるなら、付き合ってもいいよ。これまで何十年も、バカバカしいと思いつつ、四向四果を説明し続けてきたのだからさ。深山ユビくんの修行の失敗も、ここに大きな原因があったのだからね。
しかしあなたがどうしても三結を断じたか断じてないかそのラインにこだわりたいと言うならば、これはもう平行線ですよね。
だったらもう平行線のままにしましょうよ。
私はあなたにこちらの考えに従いなさいなどという気はありません。
だからあなたもいい加減にあなたはあなたの考え、こちらはこちらの考えで平行線のままにしておきなさい。
それにもう一つ大切なことがあります。
ここは阿含宗スレです 。仏教に対する各々の考え方を述べるスレではありません。
あくまでも阿含宗の批判とあるいは擁護の話になります。
そうであるならばあなたは自分の考えなどを述べてはなりません。
あくまでも阿含宗に沿った阿含宗の考えを示さねばならないのです 。
阿含宗の教えを聞くものが十人十色という言葉があるように各々勝手に解釈しては良いという話はありません 。
自分の考えが阿含宗の考えに沿っているか沿っていないのか確かめる必要があります。
それは阿含宗に確認すべきです。宗務局に質問状を出すのです。
ちゃんと質問用紙があるから、その辺の職員に聞くのではなく、丁寧に質問状として出すのです 。
それは上層部の方に伝わり、 教学部と言うか法務部と言うか、そういったところで答えてもらえれば良いのです。
ひょっとしたら開祖霊諭で答えてくれるかもしれませんよ (笑)
つまり阿含宗のヒ信徒であるあなたはそこまでして確認する義務があるのです 。
これって私の勝手な意見ではありませんよ。だって阿含宗ではちゃんと昔から指導しているじゃないですか。
我見を排せ。指導を受けよ。わからないことは質問をしろと。
それをしないで自分の考えだけを書いているあなたは信徒として失格であり 、反逆行為に等しい。
これまであなたは預流向ネタばかりを書いてきました 。もうそれしかネタがないかのように。
だから私は無視することを旨としてきました。
しかし最近は新著も買ったと見えて、それ以外の話も 書いている。
だから私はこれを進歩と認め、あなたにも敬意を示してちゃんとこうやってレスをしているのです 。
ならばあなたももういい加減に預流向ネタはおしまいにして、そういう別の話で議論をしようではないかと提案するのです。
これが聞き入れられないと言うのであれば私はあなたなんか一切無視するよりほかありません。 私は阿含宗桐山師の四向四果を話しているのであって、私の四向四果論を話しているのではない。しかし、ユビくんの四向四果論は、桐山師説とも違うし、仏教辞典の四向四果でもない。つまりデタラメ論だ。デタラメ論で阿含宗桐山師を批判するのはおかしいだろう。 桐山師は、四向四果は阿含教学の基本だと述べているから、 まぁ、ユビくんが、仏弟子のスタートはシュダオン向だ、とレスしたことで、四向四果の要諦は理解したと捉えた。だから私は、別の件でもレスを付け始めたわけさ。しかし、深山くんはまだ仏弟子のスタートがシュダオン向だと認めたかは不明だ。おそらく認めていないだろう。 それでは預流向論は無視してこちらは別の話題を追求していきましょう。 そこで、ユビくん提示の大念住経の感想を述べると、あれは釈迦の言葉ではなく、アビ達磨論師の言葉だと、私は判断しているわけよね。つまらないこと長々と微に入り細に入り、くどくど述べている。釈迦の言葉ではないね。アビダルマ論師、しかも屁理屈屋に近い言葉だね。 産経新聞特集記事 https://agonlive.net/news/2372/
1月16日(水)発売 産経新聞朝刊にて「未来の日本人のあるべき志」と題して、
開祖・桐山靖雄大僧正猊下の特集記事が掲載されます。
記事では、「月刊正論」元編集長・上島嘉郎氏が、宗教史上異例の事績を成し遂げて
来られた開祖・桐山靖雄大僧正猊下の活動の意義を紹介しております。
ぜひご購読ください 仏教の目的は苦滅なのに、目的を苦滅から煩悩滅とした大乗仏教の深山説に汚染されて、ユビくんは道を間違えた。苦の原因は煩悩であるという仏教の教えから、煩悩滅を仏教の目的と考えがちであるが、それでは仏教目的の半分でしかない。業報を無視しているからである。 煩悩そのものが苦であるという理屈も、全て間違いではないが、釈迦は苦を四苦八苦で説明し、また四諦の法門で苦を説明している。苦と煩悩は分けて考えないといけない。三結断得預流不堕三悪道、この定型句が煩悩滅と業報滅。 三結断得預流不堕三悪道、この定型句は、三結煩悩を滅して三悪道の業報を滅して預流の聖者を得た、という意味ですよね。五下結断得不還の定型句には、「滅五道」が省略されていますよね。不還は人間と修羅に戻らないのだから。 預流は三悪道の業報を断じ、不還は五道の業報を断じたことになりますね。このことが、煩悩滅論だけでは説明がつかないわけです。
桐山師は、どのように業報が断たれるのかを、本に書いている。私は業報滅のメカニズムを書いた人を、桐山師以外の宗教家を知らない。 >>269探究者2019/01/15(火) 18:22:15.55ID:IbEB+SFb
>安般念を練習して慣れてきたら、四念処法を練習するということですか?
>あと、四念処法をマスターするのと、八正道における「正念」とは同じですか?
安那般那念も四念処も八正道も同じ事です。
切り口や説明の仕方が違うだけで、同じ事です。
つまり、煩悩からの解放です。
一呼吸の間も煩悩の漏れの隙を作るな、というのが安那般那念です。
四念処は、肉体的に伴う煩悩、感覚に伴う煩悩、心に生じる煩悩、
世間の様々なことへの煩悩など、煩悩の軍勢を四つに分類して、
無常や無我を用いて彼らを打ち砕き、囚われないようにすることです。
どちらも瞑想でも呼吸法でもありません。
仏教の「正念」にはもちろん桐山説のような念力なんて意味はありません。
煩悩に囚われないようにすることに集中させ、他の事に動かないことが正しい念です。
人間の心は放置すれば、煩悩のままに彷徨う。
それを煩悩に囚われないという一点に熱心に強く集中させたままに
保つことが正念です。
煩悩からの解放に集中したまま保ち、ぶれないことが正定であり、
煩悩からの解放に集中し保った状態を持続し続けることが正精進で、
煩悩からの解放に集中し保った生活をするのが正命であり、
煩悩からの解放に集中し保つよう実践するのが正しい行為(正業)であり、
煩悩からの解放に集中し保つという見解を理解するのが正見であり、
煩悩からの解放に集中し保つと正しく判断するのが正思惟であり、
煩悩からの解放に集中し保つことを語るのが正語です。 若くて色っぽい女性を夜11時に自分のホテルに誘いたい。
ホテル・オークラのレストランで大好きな中華料理をたらふく食べたい。
名誉教授の次はさらに名誉博士が欲しい。
大作さんみたいに巨大教団に君臨し、議員どもを顎で使いたい。
自分を批判したオバサンを暴力で叩き出したい。
騒ぐ子供の横っ面をはたきたい。
自分を刑務所に入れた世間の連中に土下座させたい。
これが桐山さんの代表的な煩悩でした。
桐山さんは人並み外れて煩悩の強い人でしたから、
反面教師としてはとてもわかりやすい見本です。
いかに人間が煩悩に左右されているかを知るのに、自分を冷静に
観察するのは難しいから、最初はこういう煩悩が強い人を自分の鏡として見るのです。
この意味では信者も元信者も素晴らしい反面教師を持っている。
桐山さんは煩悩ととても仲が良く、入我我入、一心同体、感応道交していた。
煩悩をなくせという仏教を仕事にしていながら、
世間の人たちよりもはるかに煩悩と仲が良い。
このあり方は大作さん初め新興宗教の教祖としては珍しいことではありません。
煩悩をなくせと説いた仏教を標傍する教祖たちが普通の人よりも
野心、金銭欲、物欲、出世欲、名誉欲、性欲、食欲、執着、怒り、
嫉妬といった煩悩が強烈だというのも、まるで質の悪いジョークみたいです。 桐山さんは漏尽解脱(煩悩解脱)を小解脱として小馬鹿にしていた。
これは彼が仏教の解脱の意味を理解できなかったというだけではありません。
桐山さんがいかに煩悩と仲良しだったかを示す反応なのです。
桐山さんの無二の親友である煩悩を減らせなんて教えは彼にとっても敵です。
しかし、仏教に煩悩をなくすという教えがあることは否定できないから、
これを小解脱と軽く扱うことで、自分の煩悩を保持できるように自己弁護した。
桐山さんの表現を真似るなら、彼の潜在意識が拒絶反応を示した。
だから、彼の作り出した教義では、煩悩を減らすという部分を
できるだけ矮小化するようにしている。
例えば、八正道を初学の教えとしたことです。 「この八正道は、初学の弟子に説いたものであろう。」
(『愛のために智慧を智慧のために愛を』204頁)
桐山さんは煩悩が減らされては困るから、煩悩を減らすという項目を
矮小化し、初学と小馬鹿にした。
釈尊は八正道で解脱すると述べているのだから、釈尊本人を小馬鹿にしたのと同じです。
さらには次のように上級の自分はやらなくてもいいと宣言した。
「ただし、観神足を体得した聖者には、もはや教えは不要であって、八正道は、他の
三神足修行者にすべて対応される教えである。」
(『仏陀の法』129頁)
自分は観神足を体得したから、「教えは不要」であり、八正道はいらないと宣言した。
煩悩を減らすのはやらなくてもいいのではなく、やりたくないのです。
煩悩もの申す、だったのでしょう。
桐山さんに限らず、人間とはこのようなものです。
釈尊に指摘されないと、普通の人間は煩悩と自分とが一体化している。
世間はむしろ煩悩を増大させるのが当たり前なのだから、
積極的に一体化しようとします。
だからこそ、釈尊が自分の煩悩を観察し、立ち向かうように説いたことは画期的です。 このスレで、煩悩からの解放について説明した時の相手の反応を楽しみにしています。
その人が煩悩とどれほど一体化しているか、反応を見るとわかるからです。
「そう言われれば、煩悩と自分は別物だ」と気が付く人もいるが、
それとは正反対に激しく反発する人がいる。
その人たちの反応は共通していて、桐山さんと同じように、
釈尊の教法をオシエだ、幼稚園並の倫理道徳と小馬鹿にする。
1.5来補さん、宝生創価さんがそうです。
この二人は煩悩と強く一体化してしまっているから、
彼らの煩悩が危機を感じて、指摘に強烈に反発したのです。
彼らの煩悩は「煩悩をなくせなんて冗談じゃない」と強く拒絶するから、
釈尊の教法を小馬鹿にして、侮蔑して、否定する。
宝生創価さんなど「そんなのは法ではない。代案を出せ」と言い続ける。
煩悩の言いなり、と言うよりも、彼らは煩悩そのものです。
その煩悩を減らせ無くせなどと言われたら、自分を否定されたように感じるのでしょう。
彼らの煩悩はあまりに強烈で分離できない。
むしろ、煩悩を強く煽る阿含宗が心地よい。
煩悩と入我我入している桐山さんと合うのは、
三者ともに煩悩と大の仲良しだからです。 >>285 神も仏も名無しさん 2019/01/16(水) 08:47:43.55 ID:2RlBqAnN
>そこで、ユビくん提示の大念住経の感想を述べると、あれは釈迦の言葉ではなく、アビ達磨論師の言葉だと、私は判断しているわけよね。つまらないこと長々と微に入り細に入り、くどくど述べている。釈迦の言葉ではないね。アビダルマ論師、しかも屁理屈屋に近い言葉だね。
預流向ネタではないし、新著の念覚支の時に上がった問題ですので、レスします。
つまらないことを、長々と微に入り細に入り、くどくど述べているとありますが、具体的にはどこのどういう記述ですか?
それに仏典というものは、他の経典を読んでも、そういうものだと感じません感じませんか?
安那般那念経でも深山さんも示したように手を洗うシーンまでわざわざ出てくる。
あれは敢えてそのように微に入り細に入り書いているのです。
そういう意図があるのです。
観察というものはそこまで細かくありのまままてなければならないのですよ。
生半可な観察をしているからヒューマンエラーによる仕事の間違いだって起きている。
ところでヴィパッサナーの訓練を20年前にやってみて効果ないから捨てたというあなたですが、そんなあなたに面白い情報を伝えましょう。
私が読んだ日本におけるヴィパッサナー瞑想の指導者の著書を読んだのですが、その著者は扇風機が回っている時、
普通の人には円にしか見えないその回転する様子が羽根が1枚1枚見えるのだそうですよ。
訓練の賜物でしょうね。それ自体は意味がない副産物かもしれないが、しかし万事において観察、気付きが鋭くなったわけです。
もちろん扇風機の羽根が回っていても識別できる細かな観察は、あなたが求めているものでもないだろうが、
やはり驚きではある。
あなたもそこまでそうなるまで訓練して、効果がないと捨てたのか?
ヴィパッサナーはあなたも軽視する単なる道徳なんかではないことがよくわかる事例でしょう。 このスレを読んでいる他の信者さんたちもぜひ自分の反応を確認してほしい。
釈尊は煩悩を減らし、捨てることを説き、これを解脱とした。
これに対して、自分の心がどう反応したかを観察してください。
「まさか、あのお釈迦様ともあろう方が、そんな子供に
教えるような倫理道徳だけを説いたはずがあるまい。
深山のバカが何を言うか」と内心思ったら、かなり煩悩と一体化しており、
阿含宗の信者に向いています。
つまり、1.5来補さん、宝生創価さんタイプで、一生このまま
カルト宗教の信者でいられます。
「煩悩を減らすなんてただの倫理道徳のようにも見えるが、しかし、
あのお釈迦様がそのように説いたとすれば、自分の理解が足りないのだろうか」と
自分を疑った人は、煩悩とほんの少し分離した証拠です。
阿含宗の信仰を批判されて腹を立てた時、その怒りを観察するのです。
「阿含宗の批判が間違っているからだ」というなら、
怒るのではなく、どこがどう間違っているのか冷静に考えるべきです。
だが、先に腹を立ててしまった。
心が隙間だらけで、怒りという煩悩が簡単に侵入できたからです。 >>291 神も仏も名無しさん 2019/01/16(水) 11:34:45.89 ID:2RlBqAnN
>預流は三悪道の業報を断じ、不還は五道の業報を断じたことになりますね。このことが、煩悩滅論だけでは説明がつかないわけです。
>桐山師は、どのように業報が断たれるのかを、本に書いている。私は業報滅のメカニズムを書いた人を、桐山師以外の宗教家を知らない。
おっ、桐山師以外にそのメカニズムを書いた宗教家を知らないと書きましたね?
だったらあなたの普段の書き込みは矛盾があることになります。
他の仏教学者が書かないことを桐山さんは書くと言う。
だったら桐山さんの説く話の正当性を他の宗教学者の文章から探して立証することなどできないはずではないですか? 信者からは「桐山ゲイカは安那般那念や四念処を体得して説明していたのだ。
解脱もしていない深山ごときに何がわかるか」と来るでしょう。
わかるのです。
わからないと思っていること自体が、仏教を理解していない証拠です。
安那般那念や四念処を体得した人が、夜11時に色っぽい若い女を
こっそりとホテルの自室に呼んだりはしません。
桐山さんは四念処など体得していない証拠に、色っぽい若い女の肉体に価値を置いていた。
だから、高額なお手当を出し、彼女とホテル・オークラに長期滞在した。
四念処を体得したら、美人さえも汚物の詰まった袋にしか見えない。
糞の入った袋にお手当をあげる四念処の体得者はいません。
そこまで到達していない修行者でも、性欲を煽るような存在に近づかない。
だから、釈尊は、異性に対して、
「見るな、話しかけるな、つつしんでおれ」(ブッダ最後の旅、中村元、131頁)
と述べています。
だが、桐山さんは、離婚してセクハラに遭っていたE川さんを「見て」、
チャンスとばかりに、御霊示と称して「話しかけ」、
ホテルに呼んで「慎みのない」行為に及んだ。
だが、快楽だと思っていたE川さんは、エロ教祖という汚名を全国に
知らしめて大恥をかく苦の素となった。
結果は釈尊の警告どおりだった。 「食いしん坊だから大食いする」(ダルマチャクラ、175号、31頁、2004年)
安那般那念や四念処を体得したら、食事は肉体を維持する必要最小限にするから、
食いしん坊も、大食いもありえません。
上記は桐山さんが解脱を宣言した後の2004年です。
ブラックジョークみたいです。
信者さんたちは、大食いする阿羅漢がいると思いますか?
阿羅漢とは煩悩を完全に制御している人だから、食欲に囚われることもありません。
だから、例え空腹でも、大食いなどしないし、
ましてや食いしん坊の阿羅漢など存在しない。
これではまるで、「俺はコンビニで万引きした」と自慢する裁判官、
「俺はさっき拳銃で人を撃ち殺した」と自慢する警察官のようなものです。
桐山さんのような煩悩と入我我入している人たちは自分の煩悩を正当化しようとする。
だから、同じような餓鬼の1.5来補さんは、食欲は煩悩ではないとまで書いた。
1.5来補さんも、タダ飯やタダ酒をガツガツと飲み食いして糖尿病になり、
小梗塞になるという、プチ桐山のような人生を歩んでいる。
自分の食欲を正当化するために、「煩悩もの申す」です。
このように四念処でも安那般那念でも、体得していない人、
理解していない人はすぐにわかる。
オーラなど見えなくても、阿羅漢でない人はなおさらはっきりわかります。 ユビキタスさん、深山さん、いつも丁寧な解説ありがとうございます。
やっぱり、三十七菩提分法の五力法(念)・七覚支法(念覚支)・八正道(正念)
にある「念」は、すべて「正念」のことなのですね。
スッタニパータにも「平静であって常に正しい念いあり、世間において(他人と自分と)
等しいとは思わない。 また自分が優れているとも思わないし、また劣っているとも
思わない。 かれには煩悩の燃え盛ることがない。」とありました。
たぶん、「正念」の一面を説いたものなのかな? と思いました。
「念」の漢字のふりがなに、「おも」とありましたので、おもいと読むのですよね。
文章の最後にも「煩悩の燃え盛ることがない。」とありますから、煩悩を消していく
ことが重要ということですね? >>281
>私は阿含宗桐山師の四向四果を話しているのであって、
何を言っているんだ 自論にこだわっているのは
貴サァマだろう
すでにお前の師桐山は四向四果の初道 預流向=聖者説を
取り入れ既説を覆し修正し直した
それについて来れていないお前が 置いてきボリを食った不憫者だ
とかく知ったかぶりで常に批判側の10年あとに遅れる鈍愚な奴だろ
岩波仏教辞典だって批判側に促されてようやく購入したら
批判板が始まる頃から持っていたような口ップリで偉っそうに
説教を垂れはじめたり 因縁切りを錦の御旗にしていたくせに煩悩滅を
批判から指摘され続け 漸くその重きに気づいたら因縁ゲダツをコソコソ
引っ込めて知らんプリ クラの中に治まっていたウツケ者めが
だが読解力の低さは持って生まれた転生 転んでもゾンビの如くで
いまだに身見 疑惑 戒取の意味も知らぬ
蔵の中に閉じこもっていればよいのにノコノコ出て来て滔々と自論を
述べて恥じない下種な態度は常人ではない
基本だ基本だと強弁付会しても その基本すら把握できていないしな
>>246で深山氏が非常に重要な経典解釈の目安を教示している
>阿含経を読む時には、大きな前提を常に意識するとわかりやすい。
「煩悩からの解放」
これだけです。<
いつも経典を曲解してしまう貴サァマには打って付けの教訓ではないか
いやともすれば経典の表現に矛盾を感じて自己読みをしがちな人々には
必須であろう心構えといえる
桐山の表現ではないが 涼 とすべきであろう >預流は三悪道の業報を断じ、不還は五道の業報を断じたことになりますね。このことが、煩悩滅論だけでは説明がつかないわけです。
三結の意味すら 取り違えている貴サァマにそれを断じるなど
天地がひっくり返るようなもので 不可得だっての
三悪趣に堕ちないことと三悪道の業報を断じることは月とスッポンだ
どだいつくった業は消えないと釈迦が説いているのに
業報を断じるなんてどこの誰の教えなんだ
釈迦は煩悩滅こそが涅槃を獲得する唯一の道だと教示している
その修道は 戒・定・慧→解脱・解脱知見となる
そして戒・定・慧セットによるシークエンスの繰り返しで
預流から阿羅漢までに至って解脱を達成するというスキルアップの流れなのだ
桐山センセのジョウブツホーなど 只の無恥ハッタリの類で貴サァマのご託は
学説の上澄みをモノマネした自尊肥大なるケ論でしかない
秘湯を求めて山に入り 狐に化かされて肥溜めをいい湯だなと言っている
そんな貴サァマは 一生その臭いを洗い流せないわけよ
だからどんなに化けて掲示板に出て来てもその悪臭で貴サァマは
過去の変名オタクの準シュダオンと看破できるのよ >>122 深山 ◆lDoupiXSYZNC 2019/01/12 11:29:31
>仏教辞典を引けば、すぐに応供には供養に応えるなんて意味ではないことが
わかるのに、知ったかぶりをして、「レ」点つけて読んで、教養人のふりをしたかった。
自分に都合のいい時だけ仏教辞典を持ち出す。
こういうところが如何にもあなたらしい。
あなたがインチキなのはこういう所なんです。
あっ申し遅れました、私はペテン大作です。
今月3日以来、久々の投稿です。
で、あなたの口調を真似るとこうなります。
仏教辞典を引けば「心の安定」には解脱なんて意味ではないことはすぐに分かる。
あなたは知ったかぶりをして教養人のふりをしたかったのです。
【定】心を一つの対象に集中させて動揺を静め、平穏に安定させること。心の散乱を静めた瞑想の境地。同義語にヨーガ(瑜伽)、禅(禅定、静慮)がある。
(『岩波仏教辞典 第二版』513頁)
【禅定】心静かに瞑想し、真理を観察すること。またそれによって心身ともに動揺することがなくなり、安定した状態。(同書 620頁) >>305
なるほど!あなたのおっしゃりたいことは、
心の安定は、定、禅定の専売特許ということなんでつね。 【三毒】
貪欲(むさぼり)
瞋恚(いかり)
愚癡(仏教の教えを知らないこと、無知)
「心の安定」が解脱でないことは、仏典に出て来る比丘(釈尊)が、それとは別の箇所で自分は解脱したと述べているのを見れば疑う余地はありません。
釈尊の言葉をそのまま受け入れずに自分勝手に解釈している深山ユビキタスには愚癡の煩悩がある。
これもまた疑う余地はありません。
三毒の煩悩を降伏させる降三世明王は
大自在天と烏摩妃を踏みつけています。
当スレにおいては大自在天が深山で
烏摩妃がユビキタスに相当するでしょう。
ということは二人は夫婦ということか。
同性婚ならばそれもありでしょう。 >>305神も仏も名無しさん2019/01/16(水) 18:35:53.59ID:Uj7p0RVd
>あっ申し遅れました、私はペテン大作です。
私の応供の如来への批判をわざわざ引用して反論しているのだから、
ペテン大作さんは、応供とは供養に応えるという意味だ、という
桐山説を支持しているのですね?
応供も如来も仏教辞典にはあるから、ペテン大作さんは
・応供とは供養に応えるという意味であり、
・「応供の如来」という表現も問題ない、
と主張したいのですね?
応供の如来本人が出てきて「ワヒは応供の如来である。
供養に応えるぞ」と言ったらしい。
ペテン大作さんは現形を信じていました。
四足のドラゴン型の龍神を蛇王のムチャリンダだと信じていましたね。
日本に来てから、蛇に足が生えたんだ。
応供の如来は現形して、しかも本人が宣言したのだから、あなたも、
・応供とは供養に応えるという意味であり、
・「応供の如来」という表現も問題ない、
と確信しているのですね?
さっすがは桐山ゲイカを解脱者と信じているだけのことはある。
そんなに目を復讐心で白黒させていないで、「応供も如来も仏教辞典にもあるから、
応供の如来は正しい。深山破れたり!ワッハッハ」と勝利宣言して、
正月も少しすぎてしまったけど、初笑いをお願いします。 >>307神も仏も名無しさん2019/01/16(水) 21:33:48.54ID:VZ8/9HHu
>「心の安定」が解脱でないことは、仏典に出て来る比丘(釈尊)が、それとは別の箇所で自分は解脱したと述べているのを見れば疑う余地はありません。
ペテン大作さんの解釈は十年前から拝聴しており、一歩も進展がありません。
「疑う余地がない」はあなたの解釈です。
それに対する私の反論も十年間何度も何度もしました。
あなたは過去の議論の記憶もなく、私の反論などもちろん覚えていないから、
同じ話がなんともないだろうが、私や読者は普通の記憶力を持っているから、
同じ話を十年間繰り返されるとウンザリする。
しかも、ここのスレのテーマでさえもない。
あなたの執念深さと復讐心はもう十分にわかったから、
スレの主旨くらいは守ったらどうですか、
なんて、書いても何の効果もないのもわかっている。
1.5来補さんと同じで、相手の話を完全無視して、自分の主張を繰り返し、
こちらを小馬鹿にしながら勝利宣言する。
そういうことをして、二人とも恥ずかしいという知性も羞恥心もない。
ところで、ペテン大作さんの預流向の返事をまだ聞いていない。
ペテン大作さんは「預流向=聖者」ですか、それとも「預流向≠聖者」ですか?
これは阿含宗に関連していますから、ここのテーマです。
あなたのことだから、都合の悪いことは返事をしない「卑怯者シリーズ」を
今年も続けるつもりなのでしょう。 今月に入ってからのヨル公さんとペテン大作さんの比較
ヨル公さん・・・相変わらず同じことを唱えているが、僅かながら、他のネタにも言及しようという進歩進展が見られる。
ペテン大作さん・・・全然進歩進展がなく十年以上時が止まっている。 これどっちが先に倒れるかな?
脳梗塞とかで。
普通は脳梗塞の小発作歴もあるヨル公さんの方が近いと思われようが、実はわからなくなった。 議論というものは 面白いものです。
それは頭をフルに使うからです。
もちろんは頭には良し悪しがあります。
私も残念ながら そんなに良い頭ではない。
まあそんなに悪い頭でもないとは思っているが。
しかしとにかく良し悪しに関係なくその頭脳をフルに使う。ここが面白い 。
ペテン大作さんが10年間一つのテーマで毎回同じことを書いているのに対して、こちらはその何十倍ものネタを書いているわけです。
ひょっとしたら何百倍かもしれない。
今回の桐山新著の経典解説批判のように自分で批判点を導き出すものもあるが、議論の相手から出された
時にはしょうもないとも思われる話でもそれについてもレスをつけていく 。
これって頭を使いますね。
議論の相手がそれで理解納得してくれるかどうかというのはこれは期待していません。
しかし私はまともな人であれば理解納得してもらえるようなレスをしているわけです。
それはギャラリーに読んでもらい、 あーこういう風に説明しているんだなと 読んでもらえればいいわけです。
別に評価してもらわなくてもいいのだが、 それをすることが私の楽しみでもあり、これって非常に頭を使うんですね。
頭を使うということは楽しみです。
対してペテン大作さんて人は本当に頭を使わない人で 人生を損しているなと思います 。
つまり私はペテン大作さんの何十倍も何百倍も頭を使っているし、何十倍も何百倍も人生を楽しんでいるという自負があるわけです。 ちなみに桐山さんが議論なんかできない人です 。
つまりキャッチボールができない。
自分で球をあらぬ方向に投げてるだけです 。
相手から 自分の胸元に飛んできたボールをキャッチすることもできません。 特別展「国宝 東寺−空海と仏像曼荼羅」
https://toji2019.jp
降三世明王に踏みつけられた大自在天と烏摩妃
うん、やっぱり深山とユビキタスだ(笑) ここで深山さんとユビキタスさんに御礼を述べると出てくるのが、ペテン大作さんですよね(笑) 深山くんは、いくら辞典や本を読んで知識を集めても、自己流解釈で間違えた解釈をしてるから進歩がなぃの。深山説に騙された犠牲者も出る。ユビくんも犠牲者の一人だね。ユビくんも桐山師を自己流解釈で間違えていたがさ。桐山新書のP126〜128を理解することだよ。 桐山新書のP126〜に、遊行経の抜粋がある。ここを理解するだけで、仏教の目的=涅槃とは苦滅であると分かるし、仏弟子のスタートが須陀温向であることも分かる。深山くんは雑多な知識を集めるよりも、ここの部分を理解することだよ。さすれば、出直しも可能だろう。 遊行経の短い抜粋P126〜だけで、涅槃を表す語=必尽苦際=尽苦本、が四箇所も出ている。四双八輩が釈迦のサンガで上から下まで和順して和同し、つまり上から下の修行者が仲良く修行しているわけだ。一番上とは阿羅漢果であり、下とは須陀温向のことだと分かるかな? 苦滅、と言ってるバカである。大爆笑である。悟ってから言え。 >>305
>仏教辞典を引けば「心の安定」には解脱なんて意味ではないことはすぐに分かる。
ペテン氏の引用している学説がどうだというのだ誰も否定していない
批判側特に深山氏がいうところの心の安定表現は解脱した状況を述べ
あんたの学説引用は禅定の状況という大きな違いがある
はなから煩悩滅のベクトルに誤差がある
心の安定に解脱が特化されていないのは入定三昧時も
解脱と同じ心の状態が生じるからだ
だがそれは定から覚めれば阿羅漢以外は位ごとに心の安定度を失う
そこで解脱に必須なのが 心の安定や不動なる心であり
禅定と違って模擬解脱ではなくそれは現実世界で執着が取り払われ
純粋無垢にして平安・安穏がもたらされているということだ
いわんや定のみによって般涅槃するのではなく戒・定・慧の
三学修道の果実が 解脱を招く条件であることを忘れたらいかんがな
頭が愚鈍なユル公否ヨル公曰くなら 戒→定→慧→解脱→解脱知見
との誤算で生きていても平気の平左だろう
真は戒・定・慧→解脱・解脱知見が正しい
特殊な瞑想だけで解脱できるのではなく煩悩を滅したから解脱する
その解脱者が涅槃と相似した瞑想を行うことは可能であるだけ
話を戻すと ある定の状態と解脱は相似しているから例えて説くには
涅槃を説くよりわかりやすい つまり沙門果経のそれは被せ表現だ
だから沙門果経を解脱の順序とみるか単に果報とみるかの是非は
ここで幾ら論を尽くしたところでその先はオーディエンスの範疇だろ >>317 神も仏も名無しさん 2019/01/17(木) 08:42:18.26 ID:r2JD+Yxq
>桐山新書のP126〜に、遊行経の抜粋がある。ここを理解するだけで、仏教の目的=涅槃とは苦滅であると分かるし、仏弟子のスタートが須陀温向であることも分かる。深山くんは雑多な知識を集めるよりも、ここの部分を理解することだよ。さすれば、出直しも可能だろう。
>>318 神も仏も名無しさん 2019/01/17(木) 08:55:24.04 ID:r2JD+Yxq
>遊行経の短い抜粋P126〜だけで、涅槃を表す語=必尽苦際=尽苦本、が四箇所も出ている。四双八輩が釈迦のサンガで上から下まで和順して和同し、つまり上から下の修行者が仲良く修行しているわけだ。一番上とは阿羅漢果であり、下とは須陀温向のことだと分かるかな?
ここにも頭を使わない悪い例があります。
新著のページ数と漢文経典の白文の苦滅と必尽苦際、必苦本という「単語」を提示したのみです。
これで全ての人に納得を得る説明をしたつもりなのか?
ちなみにページを示されても、私は職場に桐山本など携行しませんから帰宅してから確認するしかない。
そもそもページを示したからには、3ページ分引用などできないから、せめて要約でも書くことです。
実はこれが大切なことなんです。
読者が皆新著を読んでいるかはわからない。
しかし読んでいることを共通認識の前提としてもよいが、それにしても要約な一部引用をする必要があります。
それが人に物を伝えるルールであり、人が読んで理解できてこそ、初めて社会に参加したことになるのです。
ちなみに私はヨル公さんと個人交流をする気は全くありません。
もし面識のある間柄ならば、絶縁状を出して連絡もつかないようにします。
しかしヨル公さん以外のギャラリーを意識する公共匿名の場だからこそ、こちらは新著を未読の人も含めて、
わかりやすく解説します。ヨル公さんの相手をします。
それが頭を使うということなのです。
だから白文の単語提示でなく、現代語のわかる言葉に置き換えることって大切なんです。
ましてや著書では白文だけでなく書き下し文も現代語訳も解説文もある。
これらを駆使して自分の主張をすることが大切であり、それって割と頭を使う作業なんです。
となると単に苦滅でなく、その苦とはどういう苦であるのか?それを滅するというのは何がどうなり、どういう問題が解決するかを具体的に示す。
こういう作業の説明をして、初めて自分の主張をしたと言え府るのです。
たからヨル公さんは完全に落第です。
誰も納得させられない。
たぶんその作業無理でしょ?この人。
単に苦滅の単語を目にして、苦がなくなるよかったよかったとその意味を考えることを放棄したと言うか、
その能力が無いのだと思う。 要約な一部引用をする→要約をするなり、それに一部以引用を添えたりする >>312
>ペテン大作さんが10年間一つのテーマで毎回同じことを書いているのに対して、こちらはその何十倍ものネタを書いているわけです。
一つのテーマで十分です。
三学教典に出て来る「心の安定」が解脱であったら解脱には慧の修行が不要になる。
(勿論これは三学教典の「心の安定」の話です。
深山さんは三学教典以外に出て来る「心の安定」を引用してこれは解脱の意味だと言い出して誤魔化そうとする。
如何にもこの人らしい手口です。)
慧の否定は三学の否定であり仏教の否定です。
慧が無くて仏教の解脱が出来るならヨガ行者などの言う解脱と何ら変わるところがない。
これは外道が言うことです。
批判側の常連投稿者は外道である。
これほど重要なテーマはめったにありません。 全部引用したら学習障害者の深山ユビくんにはますます分からないだろう。一部引用だけでも、真理は分かるのよ。海水の一部を飲めば、全体は分かるわけよね。肝心なところを引用してやるから理解して笑われないようにしな。新書のP128に、三悪道尽得須陀温とある。 桐山新書のP128から引用の遊行経、3ページほどに、釈迦仏教の要諦の大半があるよ。この基本を押さえていたら、深山ユビくんみたいに道を間違うことはないだろう。だから桐山師も長い遊行経からこの部分を抜粋したのだろう。釈迦仏教の目的は、苦滅と業滅ということだ。 P128に、三悪道尽得須陀温とある。三悪道へ堕ちる業報を断じて須陀温になった、という意味です。五下分結断と五道尽はセットです。だから阿那含は人間修羅に来ず、天に生ずるわけです。大乗仏教の煩悩滅の教えには、三悪道尽の教えがないわけです。 「心の安定」なんてのは禅定に入っているときの一時的な心の状態です。そんなものはアーラーラ仙やウッダカ仙の教えでも得られたが、これは涅槃ではないと釈迦は独自に修行に入ったのです。心の安定の語が目に入ったのでレス。 >>324
>一つのテーマで十分です。
ここは阿含宗批判1つのテーマ板です。 >>305
>あっ申し遅れました、私はペテン大作です。
今月3日以来、久々の投稿です。
前のスレで
↓ここの捨てセリフ以来ですよねwww
812神も仏も名無しさん2019/01/04(金) 17:04:22.67ID:/RJgl8UP 分かり切っていると、ろくに見ないで桐山新書のP126〜の遊行経についてレスしたが、よく見ると漢訳の言語では、四双八輩が向須陀温得須陀温〜向阿羅漢得阿羅漢となっている。これを見たら、向阿羅漢と得阿羅漢が同じ位だとは思わないだろう。 桐山師は得須陀温を須陀温果、得阿羅漢を阿羅漢果として説明している。正しい説明だね。向と果の違いは、向かっている者と得た者の違いだからね。深山くんがこれを理解せずに、何十年も経つということは、摩訶不思議、人間の不思議さと言わざるを得ない。 >>324 神も仏も名無しさん 2019/01/17(木) 15:04:58.63 ID:bWK3qKjl
>一つのテーマで十分です。
なるほど。では問うが、その一つのテーマをいつまで繰り返す気ですかか?
深山さんが降伏宣言するまで?
あなただってそんなことはあり得ないことぐらいわかるでしょ?
そして私も深山さんも、あなたが深山さんの考えを受け入れるなんてことは全く期待しておりません。
だから平行線のままで良いと 思っている 。だからここは平行線のままで 議論を終えたいと思っており、あなたなど無視したいと思っている。
しかしこのようにいつまでも絡んでくるのは常にあなたの方ですよね ?
それでそれって楽しいんですか?
私にはすごく苦しんでいるようにしか見えない。
一つのテーマでしか いつまでも延々とやり続けなければ気が済まない、これってすごく辛そうです。苦しんでいます。
そんなことはない。楽しいというのであればそれはますます 苦しいと見ます。
あなたが一つのテーマにこだわるのでなく、いろんなテーマで我々と議論をするというのであれば、私は必ずしもそれは苦しいなんて言い方はしません。
というのは議論というのは有意義なものですからね。
釈尊もまた議論を奨励している 。
議論によって得られるものがあるからです 。
しかしそうではなく本当に毎回毎回同じことしか繰り返せないというのは本当に苦しいのだなとわかります。
実は仏教でいう苦はこういうことを言うのであり、苦から脱するというのはこういう状態がなくなるということです。
つまりあなたが持っている執念を捨てれば済む話です 。
捨てればその苦は解放されます 。
そういう意味であなたがここに登場するという意義は、仏教における苦とその解放 というものがどういうものか皆さんに理解してもらうのに良いサンプルだと思います。
あなたは執念を捨てられず苦から解放されて いない実例ですね。
自分で自分を縛っているのです。 こちらにはどうすることもできない。 >>324神も仏も名無しさん2019/01/17(木) 15:04:58.63ID:bWK3qKjl
>深山さんは三学教典以外に出て来る「心の安定」を引用してこれは解脱の意味だと言い出して誤魔化そうとする。
相変らず、私が反論した内容をまるっきり記憶していない。
あなたは「私の書いた反論を書いてみろ」と言われても書けなかった。
仕方ないから、その都度、また同じ反論を書いてあげても、記憶しない。
十年間、これの繰り返しです。
ペテン大作さんて、穴の開いたバケツの上に乗っている針の飛ぶ
レコードみたいな人ですよね。
よくそうやって相手の反論を理解も記憶もせずに、同じ主張をくり返せるものだ。
そんなことをすれば自分の知性を疑われるから恥ずかしい、という気持ちが
ペテン大作さんも1.5来補さんも皆無なのが私は驚く。
二人ともパンツさえもはいていないという意味です。
>>320さんが何を指摘したのかもわからないでしょう?
わかるというなら、説明してみなさい。
自分の姿が見えないなら、1.5来補さんを見なさい。
世間の誰も相手にしてくれないから、暇で暇で、一年中、一日中、
無知をさらしながら、知ったかぶりで、口から出まかせのお説教をくり返す老醜です。
釈尊を遊女とよろしくやっていたとか、プラプラ遊行していたなどと罵倒し、
さらには四向四果の聖者たちを聖者でないと罵り続けている。
ここまで悪業を積みまくれば、三悪道まっしぐらです。
この1.5来補さんはペテン大作さんを映す鏡です。 >>324神も仏も名無しさん2019/01/17(木) 15:04:58.63ID:bWK3qKjl
>批判側の常連投稿者は外道である。
>これほど重要なテーマはめったにありません。
そのとおりで、解脱はここでは重要なテーマです。
では、ペテン大作さんのいう解脱とは何ですか?
因縁解脱か、漏尽解脱か、どちらですか?
あなたは一度この質問に漏尽解脱だと答え、桐山さんの因縁解脱を否定した。
だが、その後、1.5来補さんが因縁切りの話をするとこれに賛成した。
確認のためにどちらなのだと何度も私はあなたにこの件を質問したが、
いっさい返事しない。
それはおかしい。
あなたは、心の安定が解脱であるかどうかを議論し、
重要なテーマとまで吠えている。
それならば、そもそも、解脱とは何を指すのか、これが重要です。
それが決まらなければ、心の安定の議論は意味をなさない。
なぜなら仏教の解脱は漏尽解脱であって、因縁解脱などではないからです。
それで、ペテン大作さんのいう解脱とは因縁解脱か、それとも漏尽解脱か?
まず、それをはっきりと答えなさい。 >>324神も仏も名無しさん2019/01/17(木) 15:04:58.63ID:bWK3qKjl
>批判側の常連投稿者は外道である。
>これほど重要なテーマはめったにありません。
預流向の件も解脱の話ですから、とても重要なテーマです。
預流向は解脱への階梯を表す。
こんな重要なテーマなのにどうしてあなたは返事しないのだ?
ペテン大作さんが「これほど重要なテーマはめったにありません」
という解脱についての話です。
預流向は聖者なのか、聖者でないのか、答えなさい。
応供の如来も解脱の話です。
阿含宗では在家は応供の如来に供養することで解脱への道を歩む。
桐山ゲイカはこの三福道以外にないと述べている。
供養に応えて出世間の功徳を授けてくれるのが応供の如来です。
阿含宗の在家にとって応供の如来に供養する以外に解脱への道はない。
信者にとって応供の如来は「これほど重要なテーマはめったにありません」。
なのに、どうしてペテン大作さんは返事しないのだ?
応供に供養に応えるという意味はあるのか、応供の如来という
表記は仏教的に正しいのか、応供の如来がもたらす桐山三福道は
阿含経にあると信じているのか、答えなさい。 >>324神も仏も名無しさん2019/01/17(木) 15:04:58.63ID:bWK3qKjl
>批判側の常連投稿者は外道である。
>これほど重要なテーマはめったにありません。
返事しないとどんどん質問が増えていく。
もう冬休みも正月も終わったのだから、早く質問に答えて宿題を終わりにしなさい。
ペテン大作さんのためにわかりやすく、質問を列記してあげましょう。
質問「ペテン大作さんのいう解脱は因縁解脱か漏尽解脱か」
質問「預流向を聖者とみなすか、否か」
質問「応供には供養に応えるという意味があると信じているのか」
質問「応供の如来という表記は仏教的に正しいのか」
質問「応供の如来に供養すれば四向四果へ進むという三福道を
阿含経にあると信じているのか」
いずれも解脱に関係した重要なテーマです。
心の安定について議論するにしても、あなたと私で解脱の定義が
違っていたら、議論にならない、ということくらいわかりますよね?
私の言う解脱は漏尽解脱なのに、ペテン大作さんの言う解脱が
因縁解脱なら、議論がかみ合うはずがない、ということくらいわかりますよね? >>324神も仏も名無しさん2019/01/17(木) 15:04:58.63ID:bWK3qKjl
>批判側の常連投稿者は外道である。
>これほど重要なテーマはめったにありません。
ペテン大作さんは337の質問を初めて見たのでしょう?
実は十年間、私が何度も繰り返した質問です。
たいていあなたは答えられず、沈黙する。
前門の虎後門の狼で、しかも、たいてい私は親切に
その虎と狼がペテン大作さんをどうように襲うか、解説までしてあげた。
悔しさと私への激しい憎しみを募らせ、復讐を誓いながら、いったん消える。
だが、しばらくすると、自分がなぜ引き下がるしかなかったかを
きれいに忘れ、悔しさ、憎しみが沸々と沸き起こり、復讐心から
また心の安定の話を蒸し返す。
心の安定の話を蒸し返せば、解脱の定義を追及される。
漏尽解脱、因縁解脱のどちらを答えてもあなたは窮地に追い込まれる。
前に、漏尽解脱だと答えてしまったのは、私から追及されたからです。
でも、それさえももう覚えていないのでしょう?
1.5来補さんと同じで、あなたは自分のミスを学習しない。
学習したというなら、因縁解脱か漏尽解脱か、答えてみなさい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています