阿含宗という宗教300
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議論スレ:「阿含宗と桐山氏について」(したらば)
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テーマ別の阿含宗批判「agama galage」
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過去ログ倉庫:ザビビ「阿含宗と桐山氏について」
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前スレ
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1544433675/ 「釈迦直説の唯一の経典「阿含経」を奉持してはいるが、釈迦の成仏
法の修行というより、戒律を守ることを、主とする戒律仏教である。」
(開祖霊愉、『アゴンマガジン』100号、4ページ、2018年)
二つ目に、あきれるのが、上座部仏教の国で護摩を焚かせてもらっていながら、
その国の仏教を小馬鹿にした表現を取っていることです。
阿含宗には礼儀というものがないのか?
心ある信者さんたちに自覚してほしい。
上座部仏教に面と向かって、小乗仏教などと言いませんよね?
だが、戒律仏教と言うのも、小乗仏教と罵ると同じです。
開祖霊愉では、戒律を守ることばかりで、「修行というより」と
いうのだから、彼らが修行をしていないかのような表現です。
ミャンマーの仏教を小馬鹿にして、否定している。
あなた方は上座部仏教の国に行って、護摩を焚かせもらったのでしょう?
仏教を信仰しているという教団が、護摩を焚かせもらった国に向かって、
戒律仏教などと言うのは、他人の家に上がり込んで、「安普請の家だ」
などと、床にツバを吐いているのと同じです。
まるでヤクザかチンピラです。 「釈迦直説の唯一の経典「阿含経」を奉持してはいるが、釈迦の成仏
法の修行というより、戒律を守ることを、主とする戒律仏教である。」
(開祖霊愉、『アゴンマガジン』100号、4ページ、2018年)
信者さんたちは戒律仏教という言葉の由来を知っていますか?
伝統仏教が自分たちを正当化するために作り出した上座部仏教への罵声です。
桐山さんからも習っているように、日本に本当の仏教史が
伝わったのは明治以降です。
日本の伝統仏教は蜂の巣をつついたような状態になった。
阿含経を依経とする教団などなかったし、これを低い教えとする
五時八教の考えを元にして作られた教団ばかりだから、総崩れです。
正しい宗教家なら、本当の信仰心があるなら、現実を受け入れ、
阿含経を最初から学び直すべきだった。
そのようにした心ある僧侶も少数いたが、食えないから、絶滅した。
伝統仏教はそのまま生き残り、今でも最大の勢力を誇っている。
また、彼らも黙っていたのではなく、様々な反撃をした。
宝生創価さんが知ったかぶりで出した河口慧海のチベット訪問の
動機の一つがこれです。
彼も頑迷に釈迦仏教を拒絶した一人です。
伝統仏教からの反撃に使われた典型的な言葉が上座部仏教を小乗仏教、
戒律仏教と揶揄することです。
だが、これらはただの悪口であって、根拠がない。 「釈迦直説の唯一の経典「阿含経」を奉持してはいるが、釈迦の成仏
法の修行というより、戒律を守ることを、主とする戒律仏教である。」
(開祖霊愉、『アゴンマガジン』100号、4ページ、2018年)
伝統仏教が上座部仏教を戒律仏教と小馬鹿にした理由は、今の阿含宗と同じです。
自分たちが戒律を守っていないからです。
戒律を守っていないというよりも戒律を破っている。
伝統仏教は僧侶が守るべき戒律のほぼすべてを破っている。
妻子どころか、愛人までいる坊主がいる。
財産を持ち、食事は三回、酒は飲み放題。
日本人はこんなことが当たり前だと思っているようだが、
こんな在俗そのままを出家と称するインチキは日本やチベット仏教の
ニンマ派などごく一部の例外です。
どちらも腐敗した仏教です。
戒律を破りまくっている日本の坊主どもが、どの面下げて、
戒律を守っている比丘たちを戒律仏教などと罵れるのだ?
厚かましく、盗人猛々しい。
戒律を破っているではないかという批判の矛先をかわすために、
攻撃こそは最大の防御とばかりに、逆に相手を戒律仏教だと攻撃したのです。
仏教的には単に卑怯だというだけでは済まない。
清浄の比丘に対する罵りですから、仏教的には地獄逝きです。
信者さんたちはこのことを知った上で上記を読んでいますか? 「釈迦直説の唯一の経典「阿含経」を奉持してはいるが、釈迦の成仏
法の修行というより、戒律を守ることを、主とする戒律仏教である。」
(開祖霊愉、『アゴンマガジン』100号、4ページ、2018年)
この日本の破戒僧どもの図々しく恥知らずな態度を
しっかりと引き継いでいるのが阿含宗です。
桐山さん自ら、何一つ戒律を守っていなかった。
妻子どころか、愛人までいた。
高級ブランドを身に着け、高級車を乗り回し、
高級レストランを食べ歩きし、高級ワインを飲み、
名誉を買い集め、宗教貴族を満喫した。
信者さんたちは知らないようだが、出家は頭を丸める。
桐山さんみたいに頭をポマードで固めるなんてありえない。
信者さんたちは知らないようだが、出家とは一日一度、
午前中に食事を取るだけで、酒など嗜好品は禁止です。
桐山さんは糖尿病になるほど高級レストランで美食飽食を繰り返し、
解脱を宣言した後も「食いしん坊」を自認していた。
周囲が見ていて気持ち悪いほど食うと本人が本に書いていた。
人前で食いしん坊だと自認する出家などありえないのです。
信者さんたちは知らないようだが、出家は妻子がいたら、縁を切る。
愛人がいるなど論外です。
愛人から裁判に訴えられたら、自ら身の潔白を証明しなければならない。
釈迦仏教では、性的な関係が疑われたら、厳しく追及され、
最悪は教団を追放された。
阿含宗が本当に根本仏教なら、桐山さんは間違いなく追放された。 「釈迦直説の唯一の経典「阿含経」を奉持してはいるが、釈迦の成仏
法の修行というより、戒律を守ることを、主とする戒律仏教である。」
(開祖霊愉、『アゴンマガジン』100号、4ページ、2018年)
信者さんたちの多くが、桐山さんから戒律と修行とは別物だと教えられている。
間違いです。
戒律と修行は表裏一体であり、建築で言えば、土台と建物のような関係です。
戒律が修行の一部を為しており、これを抜きにした修行などありえない。
戒律という土台なしに、修行という建物は建ちません。
戒律を守りさえすれば解脱するというものではないが、
戒律を守らないのに解脱することはありません。
戒律を守らない者に修行などできるはずがないからです。
釈迦仏教から戒律を抜いたら、もはや仏教ではない。
だから、戒律を守っていなかった桐山さんが解脱したはずがないのです。
もちろん、戒律を破りまくっている阿含宗の坊主たちも同じです。 「・・戒律仏教国で、初めて成仏法による法要が営まれたということになるのだ」
(開祖霊愉、『アゴンマガジン』100号、4ページ、2018年)
仏教修行の基本を表す言葉に戒定慧(三学)があります。
この三者はどれ一つも抜きにしては解脱はできない。
三脚と同じで、一本がなければ残りの二本も倒れる。
もちろん、この順序でするのではなく、三者同時です。
修行の三本柱の一つが戒律であり、しかも最初に出てくる。
これを見ても戒律なくして仏道修行などありえないのがわかります。
その戒律を完全完璧に破っていた桐山さんが解脱するはずがない。
戒律を無視して、軽視するばかりか、戒律仏教など戒律を
小馬鹿にする阿含宗が解脱の道など進めるはずがない。
桐山さんはシャカの成仏ホウ、成仏リキなどと宣言して、
いかにも慧を自分は体得したような宣言をしていたが、ありえない。
戒定慧の三つはどれ一つを欠けても、解脱は成り立たないからです。
余談ですが、定を瞑想(禅定)と解釈する人がいますが、間違いです。
瞑想だけでなく、トイレも食事も睡眠さえも定を保つのです。
戒定慧の三学は八正道そのままです。
桐山さんは八正道を初学の教えなどと罵っていたが、三学を初学の
教えだと小馬鹿にしたことにさえも気が付かない程度だった。 「・・戒律仏教国で、初めて成仏法による法要が営まれたということになるのだ」
(開祖霊愉、『アゴンマガジン』100号、4ページ、2018年)
心ある信者さんだけでも、戒律仏教などという差別用語を
使うべきではないし、それを得意気に使う阿含宗を恥じるべきです。
信者さんたちの洗脳のキーワードが「成仏ホウ」です。
成仏ホウという奇妙な言葉を使われると、とたんに信者たちの
思考は停止して、何でも受け入れてしまう。
この指摘に、たいていの信者は「洗脳なんてされていない」と笑う。
ならば、阿含宗のいう成仏ホウとは何か、阿含経のどこにあるか、
説明してみなさい。
たいていの信者は「それは桐山ゲイカでなければわからない」
と答えるというか、逃げる。
自分の言葉で説明さえもできないのに信じている。
私が、釈迦の成仏法と書かずに、わざとオシャカの成仏ホウなんて小馬鹿に
した言い方をするのは、信者さんたちが当たり前だと思っている言葉が、
実は仏教にはないオカルト用語だと知ってもらいたいからです。
桐山さんはオシャカの成仏ホウを言葉で説明している。
釈迦の成仏ホウとは、悪因縁というカルマを断ち切り、
霊障のホトケの発する霊障のカルマを断ち切り、死者を成仏させる成仏力のことで、
阿含経から桐山さんが大発見した解脱の方法です。 「・・戒律仏教国で、初めて成仏法による法要が営まれたということになるのだ」
(開祖霊愉、『アゴンマガジン』100号、4ページ、2018年)
阿含経のどこに阿含宗いう悪因縁や阿含宗のいう霊障のカルマがあるのか?
また、それらを断ち切れとどこにあるのか?
どこにもありません。
阿含経には因縁も解脱も出てくるが、因縁解脱や霊障も霊障解脱もありません。
因縁とは縁起であって、阿含宗のような運命という意味はありません。
つまり、シャカの成仏ホウなど阿含宗の作り話です。
死者の行先は変えられないと釈尊は断言している。
死後苦しんでいる存在を認めているが、「しかも説かないのは」と
霊障の影響や霊障のホトケを成仏させろとも説いていない。
阿含経のカルマ(業)の意味は、普通の「行為」という意味で、阿含宗が
使うような目に見えない潜在力という意味はありません。
霊障に至っては言葉も概念も出てきません。
全部桐山さんの作り話、オカルト用語です。
信者さんたちの信じているオシャカの成仏ホウとは、
桐山さんが空想で作り上げた稚拙な子供騙しの嘘です。 「ミャンマー中にある数多くの仏塔は、釈迦の成仏力が込められた、
ミャンマーの方々の祈りに応える存在になられたと考えている。」
(開祖霊愉、『アゴンマガジン』100号、4ページ、2018年)
オシャカの成仏ホウなど阿含経には存在しません。
信者さんたちに助言だが、阿含宗がシャカの成仏ホウという
言葉を使ったら、何かをごまかし、信者を騙そうとしていると疑うことです。
たいていは金と人を出せという話をオシャカの成仏ホウという言葉で
ごまかしている。
釈尊は成仏リキなんて説いていないのに、ミャンマーで成仏ホウを
修したから、仏塔が祈りに応える存在になったというのだから、
自己陶酔もここまで来ると醜悪です。
他の宗教に土足で入り込んで、これを戒律仏教などと小馬鹿にしながら、
ヲレ様が本物の力を込めてやったと自惚れる。
恥ずべき行為であり、ヤクザか、あるいは餓鬼です。
このスレにいる三人組がそうであるように、これらの指摘の何が恥ずかしいのか
わからない信者が大半を占めているのは知っています。
羞恥心は感性だから、理屈でいくら説明しても無駄なのは知っている。
だから私は、この指摘を読んで恥ずかしいと感じる感性の残っている
信者さんたちに書いている。 >>199
「仏道は自身を形成する業力を滅する道」なのに、信徒の欲を煽り自らの欲に溺れ自身を確立してきた「自身を形成する業力を滅する道と真逆」の導師とは如何なモノでしょうか。
現代社会で生活し人生を送るいじょう「その修行フィールドは自身の普段の生活というのが当たり前」と感じるほど阿含経典を拝読されたら良いのではないでしょうか。 「仏道は自身を形成する業力を滅する道」
これジャイナ教の理論を何時どこで誰が仏道に摩り替えたんだ? 日常生活の常住坐臥が定だという深山くんは、気づきの瞑想法にかぶれて本来の定を知らないのです。禅定という言葉だけしか知らないのです。分かりやすい九次第定は遊行経の釈迦が涅槃に入るときです。定に入ったり出たりするから、読んでみなさい。 釈迦は涅槃に入る直前、体を病んで苦しんでいた。しかし、定に入るとひどい痛みさえ消えると阿難に説いている。第二禅に入ると覚観が滅し、とはそのことだ。気づきの瞑想法とは釈迦の四禅とは真逆のものだ。気づきの瞑想法は四念処観の一種に過ぎないのだよ。 気づきの瞑想法は、四念処観の手法の一種と言った方が妥当だろう。 だいたい、仕事がある在家には気づきの瞑想法みたいな悠長なことはやってられない。不可能だ。四苦八苦の説明にしても、くだらないことまで微に入り細に入り長々と、幼児に説くわけでもあるまいし、釈迦の言葉ではないだろう。 >>212 君の私生活は如何でも好いことで関心は無い、然し乍ら其の君が一心に何事か
仏教に付いて論じている。是は事実である、君の奉ずる仏教らしきでは人がまるで
助からない、救済力のない滓の様なもの、カロリー計算どころか熱も情も皆無。
あんた何拝んで物言ってんの?
さて、小生は趣味で音楽演奏を聴く機会がある、先日、某素人演奏家の演奏を聴かされ。
何も感想を言わないのも失礼と思い他人の居ない場で述べさせて貰った。
貴方は、メトロノームを使用して練習すべきである、リズム音痴とまでは言わなかったが、是で君の芸の行き止まりと指摘したのである。
これ深山さんに引き換えて云うと、文章として流れて届かない文字の羅列。
深山さんの仏教は人を動かし回心させる力が無い行き止まり。
このままでは読者の人生に良き影響を付与させる哲学有りや?
そうかのはらだやだいさくのほうが、たちばでいうだけまだましかもな。 七覚支にしても、気づきの瞑想法の説明が正しいなら、択法覚という名称からして変だろう。行為を分類して選択することなら、それにふさわしい名称にするべきであって、なんで択法覚なんて、分かりにくい名称なのか、変だと思うほうがまともだろう。 >>221
択法の法とは真理です。
宗教に限った話でなく、正しい真理です。
その正しいもの、正しいことを選び取る、選択するのです。
これは日常のあらゆる場面が選択ですよ。
念覚支で自己を観察した。
その場面において自分が為してはならないか行いは何か?為すべき正しい行いは何か?
これを選び取るのです。
七覚支に文句言ってどうする? >>221
それに対して桐山さんは択法覚支を、数ある宗教の中から阿含宗のような正しい宗教を選び取ると解釈している 。
しかし今回の著書の経典で、七覚支は順番が大切で、念覚支〜択法覚支の順番 で修行することがはっきり書かれている。
そして桐山解説でも一応その順番で解説した。
となると桐山説ではおかしなことになる 。
桐山説では念覚支は定覚支とともに これははっきりした成仏法の技術であるとしている。
成仏法の技術の念覚支を行なって、念を強くする。
どうして正しい宗教を選び取る前に成仏法の修行ができるの?
正しい宗教を選び取らないと正しい成仏法の念覚支は遭遇できないでしょ ?
この矛盾をどう考えるの? >>220神も仏も名無しさん2019/01/14(月) 16:12:00.21ID:h3ksijah
>これ深山さんに引き換えて云うと、文章として流れて届かない文字の羅列。
宝生創価さんなど三人組の大きな勘違いは、私があなた方に
レスを付けていると思い込んでいることです。
前スレの816以降にペテン大作さんに書いたことを読んでください。
これはあなた方三人に対する私の姿勢です。
私はあなた方三人にレスしているのではなく、まだ知性と良識の
ある沈黙して読んでいる信者さんたちに向けて書いているのです。
220のような鬱陶しいレスが付くのが嫌だから、わざわざ>>213で
次のように断りを入れたが、やはり効果がなかったようだ。
>このスレにいる三人組がそうであるように、これらの指摘の何が恥ずかしいのか
>わからない信者が大半を占めているのは知っています。
三人組は私の書いていることは理解できないと書いているのが読めませんか。
もちろん、宝生創価さんの読解力では読めなかったから、
毎度ワンパターンの「代案を出せ」という220を書き込んだ。
今年に入って、あなたがこれを出すのは二度目ですよ。
他に芸のネタはないんですかねえ。 >>220神も仏も名無しさん2019/01/14(月) 16:12:00.21ID:h3ksijah
>これ深山さんに引き換えて云うと、文章として流れて届かない文字の羅列。
私は最近、宝生創価さんと1.5来補さんについて評価を変えつつある。
一つ目に、開祖霊愉などW田さんに対する反応です。
宝生創価さんは反W田です。
どうやら開祖霊愉を信じるほど頭が豆腐ではないらしい。
開祖霊愉がインチキだと宝生創価さんは理解したのです!
これってそれなりの知性がないと無理です。
実際、1.5来補さんには嘘だとわからない。
1.5来補さんは物事の是非ではなく、権力に何でも頭を下げる犬みたい性格ですから、
開祖霊愉に土下座すると予想していたら、そのとおりで、
W田さんの薄汚い足をなめた。
宝生創価さんは開祖霊愉を見て、自分も桐山ゲイカから御霊示を受けて
いるなんてデンパ自慢を始めるではないかと予想していたら、意外にも否定した。
この違いは、直接W田さんを見ているか、いないかの違いです。
だが、本当に愚かなら、目の前で見ていてもわからないでしょう。
宝生創価さんにはW田さんの仕業だとわかるだけの知性があるのだ!
この反応の違いをもっと適切に評価するべきではないかと考えているのです。 >131神も仏も名無しさん2018/08/23(木) 00:37:50.88ID:ZoaRPern
>預流向は、至心発願せし時の人、これ初発心の聖なる行者です。
もう一点が131の預流向の事です。
宝生創価さんは131で「預流向=聖者」と認めている。
それも8月だから、桐山さんが本を出す前です。
私は、宝生創価さんは意味もわからず、知ったかぶりをしたがる人だから、
1.5来補さんの味方をしたつもりで「預流向=聖者」と逆に
書いてしまったのだろうと軽く見ていた。
なにせ、宝生創価さんは止息についてあれほどユビキタスさんに説明されても、
まだ息を止めると「レ」点で読んだくらいの愚か者です。
131も適当なことを書いているだけだと私は軽視した。
しかし、この態度は正しくないと反省したのです。
宝生創価さんがどんなに読解力が低く、礼儀知らずで、
自惚れしか脳味噌に入っていないような卑しい恥知らずであっても、
「預流向=聖者」と正しい答を書いたのだから、
それを率直に評価するべきではないか。
例え相手が性格が低劣で、愚劣な親から育てられたから、
こちらに根拠のない因縁を十年間付けまくるような無礼者でも、
平然と同性愛者を差別するような最低の人間性でも、
正しいことを言っているのなら、耳を傾けるべきでしょう。
宝生創価さんが、1.5来補さんと違い、W田さんの開祖霊愉を否定し、
「預流向=聖者」と認めたのだから、そこは正当な評価を加えるべきだと思ったのです。 「開祖霊愉」の是非
○1.5来補、×宝生創価
「預流向=聖者」の是非
×1.5来補、○宝生創価
このように両者を比較すると明瞭に違う。
両者は同じように読解力が低く、理解力は壊滅状態で、人格に大きな
問題があり、脳には知性の代わりに自惚れしか入っていないような人たちで、
しかも阿含宗でのボン行などの修行などしたこともなく、
ケチで吝嗇で護摩木も書かないような最低レベルの信者だが、
ご覧のように反応が違います。
宝生創価さんのほうが正解を出している。
これまで私は宝生創価さん読解力は壊滅であり、文章は読めないから、
霊能力があるかのようなハッタリで生きていると指摘してきました。
その点は変わりないのですが、正しい判断を二つもしているという点を
考えるなら、何をどう説明されても理解できず、今もスレ違いな自説を
滔々と自慢気に並べる1.5来補さんと同列に扱うのはさすがに気の毒です。 「開祖霊愉」の是非
○1.5来補、×宝生創価
「預流向=聖者」の是非
×1.5来補、○宝生創価
信者さんたちには、宝生創価さんは迷惑なだけの存在であり、
批判側にとっては鬱陶しいだけの役立たずです。
その点はこれからも変わりませんが、彼が二点において、正しい認識を
したという快挙もまた評価してほしいのです。
皆さんから、「二人の違いなど、チャバネとクロゴキくらいの差しかない」
と反論が来るだろうし、私もそこには何の異存もありません。
しかし、まだ正月も終わっておりませんから、皆さんからのご祝儀相場の
お年玉ということで、二点で正解を出した宝生創価さんに拍手してあげてください。 ユビくんがついに「チューダバンダカだけでなく、仏弟子千人いたら、千人ともシュダオン向からスタートだろう」と、まともなレスをするに至った。深山くんも読んだかな?一番弟子が裏切った!と思うかな?やんわりと深山くんの誤りを指摘したレスだと私は思うのだがね。 サビヤ長老の例をだして、釈迦の弟子になるのは難しいから、釈迦の弟子は皆、最初から聖者なのではないか?と、深山くんへ苦しい応援レスをする人まで現れた。味方の誤りを指摘するのは難しいのだろう。義理などあってさ。しかし、正しいことに敵味方はないはずだがね。 深山さん、ユビキタスさん、質問があります。
安般念とは数息観のことですか?
息の出入りを数えて心の散乱を止め心を統一させる。
息の出入りを数えるのは自己を観察する四念処法の練習みたいな
感じでしょうか? >>231
安般念=数息観ではありません 。
数息観は安般念のまあ初歩の一部の変形版と言ってよいでしょう 。
安般念とはとにかく自分自身のことを観察するのです。
これは瞑想のお時間だけでなく、日夜四六時中観察するわけですが 、瞑想の時間に限っても自分を観察するわけですけれども、
一口に自分の心を観察すると言っても 捉えにくいですよね。
ですからまず基礎としては身体の動きを観察するわけです。
一番わかりやすいのは呼吸じゃないですか?
息を吸う、吐く、吸う、吐く。これを特別な意味を持たせずに、今自分は息を吐いている、今自分は息を吸っている、ここから始めるのです。
そんな中から数を数えると言う観法もできたわけですね。
でも数に気を取られてはいけないのです。今自分は息を吐いている吸っている、ここを観察するのです。
呼吸だけではありません。歩行もそうです。
いま自分は右足の腿を上げた、そして右足の足の裏が着地したことを感じ取った、そして左足の腿を上げた、左足の足の裏を着地したという風に
細かく細かく単純なことでいいから観察するわけです。
こういう基礎があるから、あ、いま自分は心が散乱してなとか心の方にも気がついていけるわけです。
ですから数息観はア安般念ではないのですが、ア安般念から出た一部のようなものだという意味が理解できたでしょうか。
あとこれはおふざけの冗談ですが、 シンナーを吸うことをアンパンにふけると 変な奴らの用語でありますよね。
あれって安般念関係してるんでしょうか?スーハースーハーやるわけですがwwww さて本日は 私は外出していましたので、一昨日のようにヨル公さんが書くたびごとに レスするなんてことはできませんでした 。
お昼頃このスレを覗くと、 深山さんが 護摩を焚かせてもらったミャンマー仏教に対して、戒律仏教と罵ったことのネタを読みました 。
詳しくは読む時間がありませんでしたが、これは帰宅してから私も批判を書かねばならないと思いました。
夕方スレを覗いてまず目に留まったのが>>221のヨル公さんの書き込みだったので、そこだけちゃちゃっと レスをしたわけですが、
他にもヨル公さんに対して レスをするところはいくつもあるわけです。
しかし夜も更けてきましたし、やはり今日はミャンマー仏教を戒律仏教だと罵ったことに対する 阿含宗に対して、私も憤りがありますのでこれを書きたいと思います。 >>202 深山 ◆lDoupiXSYZNC 2019/01/14(月) 12:01:26.00 ID:6mlKv7an
>「釈迦直説の唯一の経此ハ「阿含経」を奉持してはいるが、釈迦の成仏
法の修行というより、戒律を守ることを、主とする戒律仏教である。」
> (開祖霊愉、『アゴンマガジン』100号、4ページ、2018年)
この開祖霊諭を 書いたのはもちろん桐山さんであるはずがなく、和田さんを中心とした阿含宗教学部のやつらでしょう 。
もちろん桐山さんも 東南アジアの上座仏教を戒律仏教と時代遅れなことを述べていた。
しかし護摩を焚かせてもらったこのタイミングでそのネタを出すのは、これお前らの責任だろ?
桐山さんが生きていたら、果たして本当にそれを出したか どうか?
桐山さんにも忖度の気持ちがある。
だから例えばハルビンで法要をした時には、護摩を焚けない言い訳に一念三千の祈りとか言って、中国仏教に 敬意をも表した形としたわけです。
だから桐山さんが生きていたら、お前らのように このタイミングでそれを言うかどうかというのは、実は私でも分からない。
しかしお前らはそれをやった。
これはお前らの責任だ。
しかも死んだ桐山さんにその責任を押し付けるお前らは人間のクズだ。 >>202 深山 ◆lDoupiXSYZNC 2019/01/14(月) 12:01:26.00 ID:6mlKv7an
>「釈迦直説の唯一の経此ハ「阿含経」を奉持してはいるが、釈迦の成仏
法の修行というより、戒律を守ることを、主とする戒律仏教である。」
> (開祖霊愉、『アゴンマガジン』100号、4ページ、2018年)
お前ら和田軍団に問う。
私がこれから一つの単語を 書く。
それを知っているか知らないか、答えなさい。
マハーシ
知らないのだったら、この不勉強が!勉強し直せ、不勉強のくせに偉そうなことを言うな。
知っている、人名だ、と言うのならば ミャンマーに対して、ミャンマー仏教に対して謝れ。
そしてこの開祖霊諭を桐山さんの名前か、お前の名前か、どちらでもいいから取り消せ。 >>202 深山 ◆lDoupiXSYZNC 2019/01/14(月) 12:01:26.00 ID:6mlKv7an
>「釈迦直説の唯一の経此ハ「阿含経」を奉持してはいるが、釈迦の成仏
法の修行というより、戒律を守ることを、主とする戒律仏教である。」
> (開祖霊愉、『アゴンマガジン』100号、4ページ、2018年)
マハーシとは人名であり、ミャンマー人です。
ミャンマーにもインドから上座仏教が伝わり、それが連綿と伝えられたわけですが、当のインドでは仏教は衰退し、なくなったも同然となったわけですよね。
ミャンマーでは連綿と行われていたそミャンマーの仏教のヴィパッサナーを 瞑想としてインドにも逆輸入して 、普及させたのがマハーシです。
だからこれはヴィパッサナーの中で大きな流派となっています。
日本からもミャンマーに 留学して、出家僧として ヴィパッサナー を学んでいる人もいる。
留学し帰国して日本でヴィパッサナーを普及する 活動をしている人もいるし、本を書いている人もいます。
これは戒律仏教ではありません 。
戒定慧の定と慧に関する 大切な部分です。
つまり成仏法なんて言葉は仏教にはないが、成仏と言うか解脱するための技法、技術と言ってもよい。
こういう現実も知らないで ミャンマー仏教は戒律仏教だなどとよくも言えたものだな。 >>202 深山 ◆lDoupiXSYZNC 2019/01/14(月) 12:01:26.00 ID:6mlKv7an
>「釈迦直説の唯一の経此ハ「阿含経」を奉持してはいるが、釈迦の成仏
法の修行というより、戒律を守ることを、主とする戒律仏教である。」
> (開祖霊愉、『アゴンマガジン』100号、4ページ、2018年)
ミャンマーの仏教を 戒律仏教などと罵るのならば、お前らは何なんだ?
お前らは 鎌倉時代の念仏仏教とちっとも変わらないではないか?
南無阿弥陀仏 、南無妙法蓮華経 の代わり、おんしゃれいじゅんていそわ、おんしんたまにだとうんそわかと言っているだけの 念仏です。
違うか ?
東南アジアの仏教でもお経を声を出して読むということはします。
しかしそれだけではなく、戒律を守るだけではなくちゃんとこういう瞑想実践もやあるのです。
それこそ原始経典に則った 方法で。 >>198
阿含宗の元広報室長のM氏の告発!
(とても参考になりました❗)
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
『銀行、ゼネコンにまざって、地上げ屋、暴力団並びにそれに類する
バブルな紳士たちが入り込んできて、 結局、宗教的な問題以外の
ところで、教団が動いていくというメカニズムができあがっていた。
そんな教団の変質を見ていて、私は「これは変だ」という思いを
膨らませていった。 というのも、億の金が荒っぽく動けば、
人間の一人二人殺されてしまうことは十分にありうることだ。
しかも阿含宗では何百億単位の金が役員会を開くでもなく、
管長の一言で決まってしまう。 管長を利用しようという人間や、
だまそうという人間などいろんな世界の人間が集まってきても
不思議ではない。そして、阿含宗にあれだけややこしい人たちが
関わっていたとしか私には考えられないのである。
それが土地の問題をめぐってであり、いまから思えば覚醒剤、銃器、
殺人といった全てが含まれているわけだ。 つまり、これまで日本では
暴力団という組織だけでしか行われなかったことが、宗教法人のなかで
はじめたとき、 オウム事件の素地が出来上がったのだ。』 >>238 オウムの尊師浅原は、
桐山師を見習ったと仰るが,真似をし損なってるとオウムが盛んな当時は見てましたよ。
その一々の記録を取ってないので、記憶からの感想になります。
浅原が逮捕されてオウムが宗教として広告もせずに終わった事柄の一つに、
『私は病を治す祈りを致します』 『行くへ不明者の足止めもします』とは言わず終い。
つまり祈祷力の表明は出来ない程度の尊師であった。
宗教家、新教祖として肝心要が出来なかった、と評価しております。
さてこのオウム事件の首謀者たちの処刑は、今上陛下の譲位と新天皇即位前に『片を付けた』と
私は看做すわけ、もう幾つか片を付ける案件が控えておりますが、是は日本国家の
強く柔らかな腕の振るい場所と楽しみにしております。
この場でそんな事を言うなよ宗教と無関係だろ!と憤怒される方も居られましょうが,
いえいえそうじゃ御座いません。上野の桜咲くころには何かが在りますでしょう。
皇室の御安泰は我が国の礎で御座います。
深山さんもやってられるのかな?まあ好いか所詮他人事だよねぇ。
考えてみると、四向四果について、ユビくんは過去一度も預流向=預流、などとはレスしたことがないと思う。深山くんを応援するレスをしたものの、シュダオン向=シュダオン、などとはレスしてないと思う。この根本的な間違いを
レスしたのは深山くんだけだね。 しかしついに、ユビくんも「仏弟子千人いたら、千人ともシュダオン向からスタートだろう」と、深山説をやんわりと否定した。間違いを支持するにも限界があるからだろう。シュダオン向からスタートということは、深山説だとシュダオン向=シュダオンからスタートとなる さて止息経だが、初禅は言語止息とある。これは欲界の欲を、言語と表現したのであろう。あれ欲しいこれ欲しいという内なる言葉の言語が止む、それが言語止息。「有覚有観、欲を離れて喜楽生じて初禅に入る」という定型句の欲が言語というわけですよね。 止息経の第二禅は覚観止息とある。初禅の有覚有観が止む、ということだね。第三禅は喜止息とある。これは喜楽生じて初禅に入る、の生じた喜が止む、ということだね。第四から第九は省略するが、最後に勝止息〜無上止息が出て欲界の三毒が出てくる。言語(欲界)止息なのに なぜ最後に勝止息〜無上止息が出て欲界の三毒が出てくるかというと、深層意識までの三毒を止息(滅)させるわけだ。釈迦は心を四層に捉えていたのかも知れない。だから最後に四つの止息が出てくる。これがユビくんへの回答だよ。 気づきの瞑想法というが、あんなのは現代日本人の在家には実行不可能だね、仕事が出来ない。桐山新書のP154に、「自分の心癖との戦い」が、フランクリンの逸話とともに解説されている。あれが阿含宗の気づきの瞑想法だね。 >>231探究者2019/01/14(月) 21:38:59.18ID:D3bETT2k
>安般念とは数息観のことですか?
安那般那念経の安那般那念は数息観と訳されますから、
その意味では上記の質問に対する答えはそのとおりです。
しかし、探究者さんは訳の話ではなく、安那般那念が呼吸法なのか、
と質問しているのですよね?
この答は「否」です。
安那般那念を呼吸法だと誤解している人がいるが、呼吸法ではありません。
桐山さんに限らず、この経典を釈尊が説いた呼吸法であるなどと
解説する人がいますが、いったいどこの何を読んでいるのでしょう?
阿含経を読む時には、大きな前提を常に意識するとわかりやすい。
「煩悩からの解放」
これだけです。
阿含経のありとあらゆることがこれを説いたのだと理解すれば、
細かい文言はともかく、概要はわかります。
逆に、この前提を抜きにした解釈は無意味です。
だから、安那般那念の意味が数息観であるとしても、それは、
「数息観を用いて煩悩からの解放を説いた」
と理解するべきです。
止息という言葉もそうです。
止息という何か新しい特殊な修行法を説いたのではなく、
「止息を用いて煩悩からの解放を説いた」
とみなせば、全然難しくなく、どこかのオカルト教祖みたいに、
勝止息、奇特止息、上止息、無上止息を四つの呼吸法だなんて、
爆笑解釈をして恥をかかずにすみます。 安那般那念@呼吸法なのに托鉢の話?
安那般那念に相当する経典は複数ありますが、
『「止観」の源流としての阿含仏教』(1998年、86頁〜)、
この本などで引用した雑阿含経について見ます。
経典はまず安那般那念を習得したら解脱が得られると前置きがあります。
ところが、次に、呼吸の説明の前に奇妙な文章が入っている。
比丘が朝托鉢に出かけて、戻って、手足を洗い、林の中で座り、
煩悩を断じるように心がけるとある。
こういう一見「余分な話」が長々とあり、それからようやく呼吸が出てきます。
桐山さんの本の引用では経典全体24行のうち、この説明だけで
約6行が費やされている。
呼吸法の説明は約11行ですから、これと比べても、6行はずいぶんと長い。
呼吸法の説明なら、なんだって托鉢から始まり、手足を洗うなんて、
よけいな話まで出てくるのでしょう?
桐山さんのように呼吸法の経典だとみなすから変なのであって、「煩悩からの解放」の
説明をしているのだとみなせば、不思議でないどころか、必要な事柄です。 安那般那念@呼吸法の説明がない?!
大事な呼吸法の説明なはずなのに、約11行と短いだけではありません。
肝心な、一番知りたい呼吸法の説明がないのです。
あるのは呼吸法の説明ではなく、名称が羅列されているだけです。
桐山さんによれば15種類の呼吸法が書いてあるというが、
名前があるだけで、呼吸法の説明がない。
これは安那般那念経が呼吸法の経典などではない何よりの証拠です。
呼吸法を説いているのなら、簡単でもいいから、説明があるはずです。
他の安那般那念を説いた経典も同様で、呼吸法の説明などありません。
呼吸法がないのだから、呼吸法の経典ではないと気が付くべきなのに、
仏陀の智慧をお持ちの教祖様はこんな簡単なこともわからなかった。
桐山説のように、四神足が唯一の成仏法であり、そのスタートが
安那般那念などの呼吸法だというなら、釈尊は丁寧に説明を繰り返したはずです。
だが、呼吸法の説明など経典のどこにもない。
桐山説の成仏法や修行法が説かれていないのです。
この事実を信者さんたちはよく見ることです。
桐山さんはこの矛盾に次のような屁理屈を付けている。 安那般那念@呼吸法など説いていない
「いとも簡単に呼吸法の項目だけならんでいるが、
それはこの講義を聴聞した聴衆が呼吸に熟達したものたちばかりで、
いちいちその内容について説明する必要がなかったからであろう」
(仏陀の法、139p)
比丘たちは呼吸法に熟達していたから、ただ名前を出しただけだというのです。
この桐山さんの説明はなりたちません。
釈尊はこういう手抜きの説明をせずに、しつこいくらい初歩的な
同じ内容を繰り返し説明する人だからです。
だから、この経典でも托鉢から手足を洗う話まででくる。
釈尊の修行法を説明した経典なのに、比丘たちが知っているから、
肝心要の修行法を説明しないなんて、矛盾した話はありません。
一部の経典で略されているというならともかく、あれだけたくさんの
阿含経があるのに、アーナンダはどうして釈尊の呼吸法の説明を
一言も残していないのですか?
桐山説によれば呼吸法は成仏法を体得するのに肝心要な法です。
それを弟子が知っていたから説かないなんて矛盾した説は成り立たない。
阿含経は説いたことは説いたままに、説かれていないことは
説かれていないままに受け入れるのが大原則です。
呼吸法の説明がないということは、釈尊は説明していないのです。
安那般那念経では釈尊は名称を並べただけですから、
実際には呼吸法の説明などしなかったのです。
この事実を見るなら、結論は簡単で、釈尊は桐山さんのいう特殊な
呼吸法どころか、どんな呼吸法も修行としては説いていないのです。 安那般那念@数息観とは心を静めること
「そこで、この安那般那念経も、昔から数息観の呼吸法を説いたものと、解釈されている。」
(『阿含仏教 超奇蹟の秘密』269頁)
桐山さんは「数息観の呼吸法」だと述べているが、これがそもそも嘘です。
『岩波仏教辞典』480頁
「数息観(ana-apana)
出入の息を数えることによって、心の散乱を収め、心を静め統一する方法で・・」
安那般那念(数息観)は呼吸法ではなく、呼吸を用いて、心を静める方法です。
桐山さんは安那般那念とはチャクラを開発するための特殊な呼吸法であり、
その方法を釈尊は説いたのだと言っている。
だが、安那般那念とは「呼吸法」ではなく、
呼吸に意識を向けることで、「心を静める方法」です。
「どんな呼吸をするのでも、心を静める」修行法です。
経典にあるのは呼吸法などではなく、一般的な呼吸の名称を並べたにすぎない。
「長い呼吸」「短い呼吸」など一般的な呼吸にいちいち説明など
つけないのは当たり前です。
桐山さんの呼吸法が書いてあるなどという主張は、経典の主旨すらも
理解できない稚拙な解釈です。
では、心を静めるとは何を指すのか?
最初に説明した、経典を読む時の大前提を思いだしてください。 安那般那念@心を静めるとは煩悩からの解放
「心を静める」とは、心から煩悩をなくすことです。
ところが、仏教を論じている人たちでも、これがわからない人が多い。
ここでも「心の安定」という表現が煩悩からの解放、つまり解脱を表すのだと
何度説明しても理解できず、私を罵っている人がいます。
彼に、安那般那念経の心を静めるとは煩悩からの解放であり、解脱のことだと
説明しても、また嘲笑い、繰り返し小馬鹿にするネタに使うでしょう。
心を静めることの逆は、心を騒がすことです。
釈尊が説いた心を騒がすものとは煩悩です。
心を安定させることの逆は、心を不安定にすることです。
釈尊が説いた心を不安定にさせるものとは煩悩です。
呼吸の名前が複数出てくるのは、その呼吸一つ一つに意味があるのではなく、
阿含経でよくある繰り返しによる強調です。
長い呼吸で煩悩に囚われない、短い呼吸で煩悩に囚われないと、
どのような呼吸でも煩悩に囚われないことを強調するために、
繰り返し述べているだけです。
だから、この経典を簡単にまとめるなら「どんな呼吸をするのでも、
常に煩悩に囚われない」という意味です。
桐山さんは、煩悩からの解放を説いた経典を呼吸法を説いたと解釈した。
これが仏陀の智慧の正体です。 安那般那念@安那般那念は煩悩からの解放
比丘たちは、托鉢や食事など日常に関わることが済んだら、瞑想して過ごす。
仏教の瞑想とは、桐山さんの言うようなチャクラやクンダリニーの
覚醒のための瞑想ではありません。
安那般那念経にあるように、瞑想しながらも煩悩に囚われないようするのです。
瞑想の技法で煩悩を切るのではありませんよ。
何をするのにも常に常に煩悩に囚われないようにするのです。
この経典の最初にも托鉢や手足を洗うことまで出て来るのはそれが理由です。
瞑想や呼吸だけが特殊で大事なのではなく、それらは托鉢や手足を洗うのと
同等であり、これらの行為の中にいなかる煩悩も現れようにするのが仏道です。
身口意の三業(三つの行為)のうち、瞑想中に身体が行っている行為(業)とは呼吸です。
呼吸に心を集中することで心を散乱させず、心はもちろんのこと、
身体に関わる煩悩すらも生じないようにしたのです。
くり返すが、呼吸を使って何かをしているのでも、呼吸の仕方が重要なのでもなく、
単に呼吸はしないわけにいかないから、これを使って煩悩に囚われないという
修行をしているのです。
瞑想するとき、身体の行為は呼吸だから、どのような呼吸をする時も
煩悩が生じないようにと説いたのが安那般那念経です。 >>229 神も仏も名無しさん 2019/01/14(月) 20:27:56.42 ID:7gNEZMoa
>ユビくんがついに「チューダバンダカだけでなく、仏弟子千人いたら、千人ともシュダオン向からスタートだろう」と、まともなレスをするに至った。深山くんも読んだかな?一番弟子が裏切った!と思うかな?やんわりと深山くんの誤りを指摘したレスだと私は思うのだがね。
>>241 神も仏も名無しさん 2019/01/15(火) 08:27:44.34 ID:qQO3riiV
>しかしついに、ユビくんも「仏弟子千人いたら、千人ともシュダオン向からスタートだろう」と、深山説をやんわりと否定した。間違いを支持するにも限界があるからだろう。シュダオン向からスタートということは、深山説だとシュダオン向=シュダオンからスタートとなる
順番の古いものからレスしようかと思いましたが、この時間は、ここからレスします。
本当にヨル公さんは相手の主張のなんたるかが全く理解できていないですね。
私も深山さんも最初から誰でもスタートはシュダオン向であり、今さら気がついたなんてことはありません。
それをあなたは今回私が初めて気がついたと思ったのはまだよいが、それで私はヨル公さんの考えに近づいたと勝手に思い込んでいる。
しかし私はあなたとは依然として平行線であり、あなたとは考えが逆なんです。
私は千人の弟子が千人ともスタートはシュダオン向であることは間違いなく訂正もしないが、
しかしその千人のシュダオン向は千人ともシュダオン向のまま聖者の仲間であるということです。
つまりあなたと私の見解の相違点はシュダオン向を聖者に含めるか否かの1点だけなのですか。
これはたぶんずっと平行線のままであろうが、私が千人が千人シュダオン向の話を出した理由は、あなたがチューダパンダカを引き合いに出す必要があるか?
ということです。
チューダパンダカなんか出さなくても議論の争点はシュダオン向が聖者であるかどうかそこだけです。
シュダオン向なら仏であることはは誰しもスタートはシュダオン向なんだから、わざわざチューダパンダカを出す必要もない。
これを敢えて出し、対日、第三のチューダパンダカなんて話をしたのは、結局あなたが、
チューダパンダカの知的機能が常人より劣っている点に着目して、こんな機能の劣った人が聖者であるわけがないと思ったからです。
それは障害者差別だよねと私は言ったわけです。
私はチューダパンダカは知的学習障害であるが、その為理解も人より遅いが、それでもお兄さんと一緒に理解できるように励んでいるのだから、
学習障害のチューダパンダカも立派に聖者仲間だと見解を示しているのです。
あなたはどうなんですか? シュダオン向なら仏であることはは誰しもスタートはシュダオン向なんだから
↓
シュダオン向なら仏弟子は誰しもスタートはシュダオン向なんだから ユビくんも深山くんも、修行のスタートはシュダオン向だと知っていた?だと?おい、おい!ユビくん、詭弁も休み休み言いな。あんたは深山くんが預流向=預流、だとレスしたのを知っているのか?ドアホウめ。シュダオン向=シュダオンならば、スタートはシュダオンか? ユビくんも学習障害者だと知っているから、私は別に腹立てているわけでもない。本当は私のレスで仏弟子のスタートはシュダオン向だと気づいたわけだろ?正直に言わなくても、読者は分かっているのだからさ。釈迦仏教の聖者の定義は、三結断じた者からと知っているの? 深山ユビくんは黙って、間違えていたことを認めたらそれでいいのにさ。屁理屈こねて否定するからますます醜くなる。仏弟子のスタートがシュダオン向ならば、シュダオン向=シュダオンとしたら、仏弟子のスタートはシュダオンになるよ、と指摘しているのよ。私はね。 >>257 神も仏も名無しさん 2019/01/15(火) 13:09:12.05 ID:qQO3riiV
>釈迦仏教の聖者の定義は、三結断じた者からと知っているの?
だからお互いの議論の見解の相違点は全てそこに尽きるわけです 。
そしてお互いはお互いの見解を認めようとしないわけです。
ならば後は各自に判断してもらおうと思うわけです。
その構図が 理解できたら、あなたはわざわざ 学習障害もあるチューダパンダカかなんか出す必要はない。
学習障害があっても 、理解しようと 努力する者は聖者であるし、学習障害がなく、学力の高い人でも、
仏教なんか理解してやるもんかと 思う人が聖者で あるわけがない のだから。 >>258
ところが今回の桐山さんの新著でも 正しく引用されている 遊行経には四双八輩をちゃんとシュダオン向をも含めて皆聖者であるとしているわけだ。
含まないのならば シュダオン向なんて わざわざ 語りませんよ、文字になって残るのに。
シュダオン果から語るはずです。 桐山新書のP126から法鏡の部分を抜粋した遊行経があるね。ちょうど四双八輩の説明もある。桐山師は僧を僧伽(ソウガ)と訳している。僧も衆もサンガsamghaの訳だからね。八輩を聖者と説明しても、シュダオン向は聖者ではない、とプロの信徒は知っているのさ。 桐山新書では、須陀温向(須陀温に向かう人)と説明し、須陀温果(須陀温になった人)、と説明している。先ず、この説明で須陀温向と須陀温果は同じだと思うかね?深山くんは、須陀温向と須陀温果は同じ須陀温だと主張して何十年のわけさ。 ユビくんが屁理屈こねるなら、付き合ってもいいよ。これまで何十年も、バカバカしいと思いつつ、四向四果を説明し続けてきたのだからさ。深山ユビくんの修行の失敗も、ここに大きな原因があったのだからね。 仏陀の真実の教えを説く上巻で詳しく四果の聖者を説明している。そして、聖者に向かって修行している者が須陀温向だと説明している。それを知らないのが深山ユビくんで、阿含宗信徒には常識なわけさ。だから桐山新書を見て説明が変わったと思う信徒は一人もいない。 深山くんが、聖衆とか聖賢衆とか、私の漢文の引用が違うとか言ってたが、くだらない話だ。四双八輩を聖衆とか聖賢之衆とか単に弟子衆とか、経によっても違うのだ。本質を見ることだ。一字一句に拘って、言葉尻捉えたり、揚げ足とりを狙うでない。人相まで賤しくなるぞ。 ユビくんはビィバサナー瞑想を釈迦の瞑想だと考えているようだが、実践したことはあるのかい?私は二十年以上前に実践して見たよ。今に気づくだけでいいという、簡単そうだったしさ。その結果、捨てたよ。何も変わらなかった。こんなの釈迦の瞑想ではないと思ったよ。 >>267
>ユビくんはビィバサナー瞑想を釈迦の瞑想だと考えているよう
>だが、実践したことはあるのかい?私は二十年以上前に実践して
>見たよ。今に気づくだけでいいという、簡単そうだったしさ。
>その結果、捨てたよ。何も変わらなかった。こんなの釈迦の瞑想
>ではないと思ったよ。
頭のおかしい狂ってる おまえが一万年やっても マトモな結果も
出ないし、何の参考にもならないんだけど。
前提の段階でお話にならないのだが、おまえには今生では
分からないだろうな。
死んだ後に 桐山靖雄さんのいる所に堕ちてゆくだろうから
桐山偽仏と語り合うんだなw
分かったなゴミ屑 WWW ユビキタスさん、深山さん、丁寧な解説ありがとうございます。
呼吸のやり方には何の意味も無いというのは、私も薄々感づいていました。
ゴータマ様の指導された最終目標は、煩悩に対する執着心を無くすということ
ですよね。
安般念を練習して慣れてきたら、四念処法を練習するということですか?
あと、四念処法をマスターするのと、八正道における「正念」とは同じですか?
再質問すみません。 いわゆる経典における「念」の意味は「サティ」のことですよね。
いままで日本仏教では正しい意味が伝わってきていなかったということらしいです。
上座部の修行法やマインドフルネスのブームによってようやく日本にも釈迦の本当の意味での
修行法が伝わったという感じです。
桐山ゲイカのインチキ・オカルト成仏法(しかもまったく中身がないゴミw)とは
まったくちがうことに驚き、また、知りもしないのに偉そうに講義たれてた桐山ゲイカに
怒りさえ感じます。 270さん、ありがとうございます。
「サティ」恥ずかしいですけど、教えていただいてググりました。(笑)
私の勉強不足を実感します。
あらためて、仏教のお勉強は難しいですね。
勉強すると、桐山さんのおっしゃっておられたことが・・・。(笑) >>249 深山 ◆lDoupiXSYZNC 2019/01/15(火) 12:20:11.16 ID:ZxHAdmai
>釈尊の修行法を説明した経典なのに、比丘たちが知っているから、
>肝心要の修行法を説明しないなんて、矛盾した話はありません。
>一部の経典で略されているというならともかく、あれだけたくさんの
>阿含経があるのに、アーナンダはどうして釈尊の呼吸法の説明を
>一言も残していないのですか?
>桐山説によれば呼吸法は成仏法を体得するのに肝心要な法です。
>それを弟子が知っていたから説かないなんて矛盾した説は成り立たない。
ここです!
呼吸法の解説もなしに桐山さんは どうする気だったんでしょうか。
15種類の呼吸法を 別々にでもでもいいですから解説した経典があればそちらを示すべきであって 、
こんな詳しい説明のない経典なんてものを出す意味がない。 単なる思わせぶりですよね。
そして実際にはその詳しい呼吸法を説明した経典もないというのはどういうことですか。
じゃあその呼吸法を桐山さんはどうやって実践したのか?
つまり桐山さんの解説を読むからには なんか安那般那念経にこれ呼吸法じゃないかなあと思うものがあるよ。
え?どうして呼吸法と分かるって ?字面だよ字面。息って書いてあるじゃない。
15種類もあるよ。凄いなあ。 どういう呼吸法?俺知らねーよ。 でもきっとすごいんだろうなぁ。
経典の根拠がなかったら、 自分の修行でも出すしかない 。
密教時代から何でもいいから我流の呼吸の修行をしていた 。
ごちゃごちゃやっているうちにこの呼吸法はこういう効果がある!素晴らしい !
後になって安那般那念経を読んでみたらその15種類の単語は、うん、この効果まさにこれとぴったしだよ !
ということで私はこれを呼吸法だ悟ったとでも 書くしかない。
だとしたら今度はじゃあその15の呼吸を呼吸だと判断した その内容表現について自分はこういう効果を得たから
こういうタイトルの呼吸法なんだなと判断したとか、そういうことを示さねばなりません。
もっっっちろんそんなことは 出来ずにぽっくり逝きました。
修行体験と言えば>>267で喜んさんはヴィパッサナー瞑想を20年前やってみたのだそうだ 。
でも効果がないから捨てたのだそうだ。
そもそもどういう効果を求めたんでしょうかね?
自分の求める自分の気に入った効果がないから捨てるのはいいが、 だから仏教じゃないと判断したのだそうだ。
この人にとって仏教というものは自分のお気に入りでなければならないのだそうだ 。
謙虚に学ぶという気持ちも皆無です。
とにかく 修行でも何でも自分の求めるものは何?お気に入りはなに?こういうことをはっきり書いて、
それに沿うものだった沿わないものだったということをはっきり表現しなければなりませんよね 。
桐山さんも呼吸法だと判断したからには、どうしてそれはこういう呼吸法なんだと判断したかいうこと
をはっきりと表現しなければなりません。
でもできません。
だから結局あれは、僕ちゃんあれ呼吸法じゃないかなあと思うよ 、と書いたにすぎないのです。 >>269 探究者 2019/01/15(火) 18:22:15.55 ID:IbEB+SFb
>安般念を練習して慣れてきたら、四念処法を練習するということですか?
>あと、四念処法をマスターするのと、八正道における「正念」とは同じですか
アーナ・パーナ・サティ、 安那般那念自体がすでに 四念処 の一部です。
一部というのは呼吸に特化してますからね。
アーナパーナとは出る息、吸う息、という意味ですから、ズバリ呼吸のことです 。
しかし念処というものは何も呼吸に限ったことではないから、一部というわけです。
しかし安般念は立派に四念処の一つであり重要なファクターなわけです。
そして四念処=八正道の正念です。
また私も書いたように、七覚支の念覚止は 四念処なわけで、同時に正念でもあるわけです。
このように三十七道品の表現というものは ほとんどが重なり合っているわけです。
重なり合っている中でこのサティというのは 非常に大切な欠かせない話なわけです。
それは止でもあり観でもある 。
集中して 心を散乱させないサマタ(止)であると同時に、ありのままに観察するヴィパッサナー(観)の二つを同時に成し遂げるのです。
この止と観の両方の方法で煩悩をなくしていくのです。 >>203 神も仏も名無しさん sage 2019/01/14(月) 12:03:19.68 ID:l4a+j6gM
>深山ユビくんは業滅を否定し、慢という煩悩が人を再生(輪廻)させるという。しかし、見落としているものがある。慢で再生する場合、人間界に再生するのか、餓鬼界に再生するのかを何が決定するのか?ということです。煩悩と業の二つは、切り離せない問題なのです。
人間界に 再生するのでなく、 餓鬼界に再生するからには 慢どころでは済まないでしょうね 。
貪、むさぼりでしょう。正しい貪瞋癡の煩悩なんてものは万人が万人持っているものです。
持っていない人はもう解脱者ですからね。
だから誰でも持っているのだが、 餓鬼界にまで堕ちる人は よほど恥ずかしいほど酷い貪りの煩悩を持っていたということになります 。
このように持っていたその煩悩の度合いによって行き先が決まるわけです。
あなたは仙尼経ては、人間というものはすべからく慢という煩悩があるから人間などに再生するのだと
一般論を説いたかのように読んだのですか?
そうではないですよ。あれは馬刺しユッケ(音声変換が婆磋種出家を笑える変換をしたから記念に残したw)に対して
お前は貪などはかなり薄らいだが、まだ慢があるからまだ解脱には至らず また生まれ変わるよと言ったのです。
まあ多分人間でしょうね 。動物ではなく。慢程度であれば。
で、なんでここで突然こんな仏教経典の解説をしなければならないんですか ?
どうもあなたの頭の中というのはよくわからない。 >>217 神も仏も名無しさん 2019/01/14(月) 15:56:01.94 ID:7gNEZMoa
>釈迦は涅槃に入る直前、体を病んで苦しんでいた。しかし、定に入るとひどい痛みさえ消えると阿難に説いている。第二禅に入ると覚観が滅し、とはそのことだ。気づきの瞑想法とは釈迦の四禅とは真逆のものだ。気づきの瞑想法は四念処観の一種に過ぎないのだよ。
でもその定が解けたらその肉体的苦痛もまた蘇るでしょ?
もうすぐに死んでしまうという人ならともかく、これからまだ生きていかねばならない人が、
いつまでも永久に常に入ってるわけにいかないでしょ。
滅尽定みたいなものに入るとこれは本当に何も感じず何も思わない状態です。
かろうじて命だけはある。でもこれって植物人間みたいなものじゃないですか 。
いつまでも植物人間でいいんですか? >>219 神も仏も名無しさん 2019/01/14(月) 16:07:00.29 ID:7gNEZMoa
>だいたい、仕事がある在家には気づきの瞑想法みたいな悠長なことはやってられない。不可能だ。四苦八苦の説明にしても、くだらないことまで微に入り細に入り長々と、幼児に説くわけでもあるまいし、釈迦の言葉ではないだろう。
>>245 神も仏も名無しさん 2019/01/15(火) 09:33:49.31 ID:qQO3riiV
>気づきの瞑想法というが、あんなのは現代日本人の在家には実行不可能だね、仕事が出来ない。桐山新書のP154に、「自分の心癖との戦い」が、フランクリンの逸話とともに解説されている。あれが阿含宗の気づきの瞑想法だね。
だから基本的には出家の修行です。
やはり在家というものは四六時中観察するといっても限界がありますよね。
その点出家というのは本当に四六時中観察ばかりしているのです。 止観を続けているのです。
これは出家でないと出来ません。だから仏教は出家優位なのです。
そこで在家はそこまではできないまでもそれに準じて頑張るわけです。
四六時中とは行かなくてもやはりそういうヴィパッサナーを 瞑想の時間でも1日の中で割くことはできます。
ミャンマーの瞑想でもマハーシに限らず他にも色んな瞑想の指導者が忌ます。
日本にも輸入され ヴィパッサナー瞑想の合宿訓練も行われます。
10日間の合宿とか。これは10日間の出家修行のようなものです 。
そこまで出来なくても 1日のわずかな時間でもこういう習慣を持つことは有意義なわけです。
そしてそういう習慣を持ったからにはじゃあ瞑想の時間以外でも全く野放図かと言うとそうはならないはずです。
自ずと自分自身に対して注意が向くようになるのです。
あなたぐらいですよ。
次の修行の時間までは何をやろうが勝手だと何も考えてないやつは。
で ヴィパッサナーの代わりに出したのはベンジャミンフランクリンの話ですか。
三省堂という本屋があるけど一日3度自分を省みるとありますよね 。
でもそうではなく後になって振り返るよりも、常に今この時点で自分を観察しているということがより優れていると思いませんか。
まあでも ベンジャミンフランクリンみたいな反省も有意義ではあります。
でも桐山さんてそれ実行してないでしょ 。
だって桐山さんて 俺は瞬間湯沸かし器だと法話で得意そうに話していました。
反省をしている人ならば瞬間湯沸かし器でいいはずはない。やはりそこはもっと冷静に慎重にやるべきです。
ところが瞬間湯沸かし器であることをまるで自分の長所であるかのように得意満面で話していたということは反省してないんですね。 >>244 神も仏も名無しさん 2019/01/15(火) 09:14:44.36 ID:qQO3riiV
>なぜ最後に勝止息〜無上止息が出て欲界の三毒が出てくるかというと、深層意識までの三毒を止息(滅)させるわけだ。釈迦は心を四層に捉えていたのかも知れない。だから最後に四つの止息が出てくる。これがユビくんへの回答だよ。
四つの止息表現でそういう風に読み取る人なんて普通いませんよ。
深層意識というものを 説いてそこのアプローチを必要なんだと 説くのならば、ちゃんとそれなりの説明が必要です。
なんでそれをただ単純に優れただの 奇特だの上だの無上だのとそんな形容詞で済ましてしまうのか。
それに深層意識と言うけれども、すでに九次第定でみると分かるように、これは深層意識なんてものがあるのかどうかわからないけれども、
とにかく意識がだんだん深みに 迫っていくことがわかります 。
つまり表面意識を超えている。
九次第定で既に深層意識みたいなものにアプローチしているのに、どうして四つの形容詞の止息で初めて深層意識などを使わなきゃダメなんだよなんて話になるのだ?
要するにあなたみたいな発想だったらもう何でもいいんですよ。
私もちょっとやってみようかな。四つの止息ね。
そうだ!左右田一平です。四つといえば苦集滅道だ。桐山四諦瞑想法だ。これやってみよー。
ようこそここへ♪クッ苦苦苦♪ 集めているからね♪
集めてるモノを♪滅しまーす♪
滅するためには♪ドー道道道♪仏道に励みましよ♪ >>262 神も仏も名無しさん 2019/01/15(火) 13:36:52.67 ID:qQO3riiV
>桐山新書では、須陀温向(須陀温に向かう人)と説明し、須陀温果(須陀温になった人)、と説明している。先ず、この説明で須陀温向と須陀温果は同じだと思うかね?深山くんは、須陀温向と須陀温果は同じ須陀温だと主張して何十年のわけさ。
その通りで、シュダオン向とシュダオン果は 同じではなくちゃんと区別があります。
その区別を承知の上で、それを一緒にして四双八輩を八輩というようにシュダオン向も忘れることなく、仲間外れにせず、
聖者賢者に加えているのです。経典記述が。
だからシュダオン向とシュダオン果が別であるとその区別をわざわざ書く必要ありませんよ。
そんなことはわかっているんだから。
そこから先の話は私はしているのです。 >>264 神も仏も名無しさん 2019/01/15(火) 13:42:56.84 ID:qQO3riiV
>ユビくんが屁理屈こねるなら、付き合ってもいいよ。これまで何十年も、バカバカしいと思いつつ、四向四果を説明し続けてきたのだからさ。深山ユビくんの修行の失敗も、ここに大きな原因があったのだからね。
こちらは付き合いたくありません 。
そちらが常にいつも絡んでくるんです。
ちなみに私はあなたの主張の根拠ははっきり分かっていますよ。
三結を断じたシュダオンが預流である。
預流とは解脱へと流れて行く聖者だ。
だから
まだ三結を断じておらずシュダオン果をに到達していないものが 聖者の流れであるはずがないと。
確かにそのようにも読めるのです。実際にネットで見ていてもそういう捉え方をしている人もいます 。
だからそういう捉え方をしたあなたを馬鹿だなどと責める気はないんです。
でもこのようにシュダオン向までも含めて聖者賢者とはっきり書いてある経典があるということは、
これは考えを変えねばなりません。
実は三結を断じたか断じていないかその境、 ラインというものに対して、そんなに厳しい資格ラインを引いてはならないのではないか。
実はもっとユルいんです 。
何でユルいのかと言うと 、だって三結を断じたシュダオン果だって、まだ欲貪も瞋恚も残しているでしょ。
貪りや怒りなどの煩悩にまだ汚れているでしょ。
それでも聖者だと言うんですよ。だとしたらこれは最初の前提からしてユルイと考えてよい。
ユルイという表現自体あまり好ましいとも思いませんが、 だとしたらなぜこれを聖者賢者かと言うと、 解脱という目標に向かって努力している者は、たとえどのランクのものであってもみんな尊いんだよと釈尊が認めたということになります。
本当に厳しくラインを引くならば、阿羅漢果の無学以外は聖者であるはずがないんです。なぜなら煩悩を持っているからです。 264 神も仏も名無しさん 2019/01/15(火) 13:42:56.84 ID:qQO3riiV
ユビくんが屁理屈こねるなら、付き合ってもいいよ。これまで何十年も、バカバカしいと思いつつ、四向四果を説明し続けてきたのだからさ。深山ユビくんの修行の失敗も、ここに大きな原因があったのだからね。
しかしあなたがどうしても三結を断じたか断じてないかそのラインにこだわりたいと言うならば、これはもう平行線ですよね。
だったらもう平行線のままにしましょうよ。
私はあなたにこちらの考えに従いなさいなどという気はありません。
だからあなたもいい加減にあなたはあなたの考え、こちらはこちらの考えで平行線のままにしておきなさい。
それにもう一つ大切なことがあります。
ここは阿含宗スレです 。仏教に対する各々の考え方を述べるスレではありません。
あくまでも阿含宗の批判とあるいは擁護の話になります。
そうであるならばあなたは自分の考えなどを述べてはなりません。
あくまでも阿含宗に沿った阿含宗の考えを示さねばならないのです 。
阿含宗の教えを聞くものが十人十色という言葉があるように各々勝手に解釈しては良いという話はありません 。
自分の考えが阿含宗の考えに沿っているか沿っていないのか確かめる必要があります。
それは阿含宗に確認すべきです。宗務局に質問状を出すのです。
ちゃんと質問用紙があるから、その辺の職員に聞くのではなく、丁寧に質問状として出すのです 。
それは上層部の方に伝わり、 教学部と言うか法務部と言うか、そういったところで答えてもらえれば良いのです。
ひょっとしたら開祖霊諭で答えてくれるかもしれませんよ (笑)
つまり阿含宗のヒ信徒であるあなたはそこまでして確認する義務があるのです 。
これって私の勝手な意見ではありませんよ。だって阿含宗ではちゃんと昔から指導しているじゃないですか。
我見を排せ。指導を受けよ。わからないことは質問をしろと。
それをしないで自分の考えだけを書いているあなたは信徒として失格であり 、反逆行為に等しい。
これまであなたは預流向ネタばかりを書いてきました 。もうそれしかネタがないかのように。
だから私は無視することを旨としてきました。
しかし最近は新著も買ったと見えて、それ以外の話も 書いている。
だから私はこれを進歩と認め、あなたにも敬意を示してちゃんとこうやってレスをしているのです 。
ならばあなたももういい加減に預流向ネタはおしまいにして、そういう別の話で議論をしようではないかと提案するのです。
これが聞き入れられないと言うのであれば私はあなたなんか一切無視するよりほかありません。 私は阿含宗桐山師の四向四果を話しているのであって、私の四向四果論を話しているのではない。しかし、ユビくんの四向四果論は、桐山師説とも違うし、仏教辞典の四向四果でもない。つまりデタラメ論だ。デタラメ論で阿含宗桐山師を批判するのはおかしいだろう。 桐山師は、四向四果は阿含教学の基本だと述べているから、 まぁ、ユビくんが、仏弟子のスタートはシュダオン向だ、とレスしたことで、四向四果の要諦は理解したと捉えた。だから私は、別の件でもレスを付け始めたわけさ。しかし、深山くんはまだ仏弟子のスタートがシュダオン向だと認めたかは不明だ。おそらく認めていないだろう。 それでは預流向論は無視してこちらは別の話題を追求していきましょう。 そこで、ユビくん提示の大念住経の感想を述べると、あれは釈迦の言葉ではなく、アビ達磨論師の言葉だと、私は判断しているわけよね。つまらないこと長々と微に入り細に入り、くどくど述べている。釈迦の言葉ではないね。アビダルマ論師、しかも屁理屈屋に近い言葉だね。 産経新聞特集記事 https://agonlive.net/news/2372/
1月16日(水)発売 産経新聞朝刊にて「未来の日本人のあるべき志」と題して、
開祖・桐山靖雄大僧正猊下の特集記事が掲載されます。
記事では、「月刊正論」元編集長・上島嘉郎氏が、宗教史上異例の事績を成し遂げて
来られた開祖・桐山靖雄大僧正猊下の活動の意義を紹介しております。
ぜひご購読ください 仏教の目的は苦滅なのに、目的を苦滅から煩悩滅とした大乗仏教の深山説に汚染されて、ユビくんは道を間違えた。苦の原因は煩悩であるという仏教の教えから、煩悩滅を仏教の目的と考えがちであるが、それでは仏教目的の半分でしかない。業報を無視しているからである。 煩悩そのものが苦であるという理屈も、全て間違いではないが、釈迦は苦を四苦八苦で説明し、また四諦の法門で苦を説明している。苦と煩悩は分けて考えないといけない。三結断得預流不堕三悪道、この定型句が煩悩滅と業報滅。 三結断得預流不堕三悪道、この定型句は、三結煩悩を滅して三悪道の業報を滅して預流の聖者を得た、という意味ですよね。五下結断得不還の定型句には、「滅五道」が省略されていますよね。不還は人間と修羅に戻らないのだから。 預流は三悪道の業報を断じ、不還は五道の業報を断じたことになりますね。このことが、煩悩滅論だけでは説明がつかないわけです。
桐山師は、どのように業報が断たれるのかを、本に書いている。私は業報滅のメカニズムを書いた人を、桐山師以外の宗教家を知らない。 >>269探究者2019/01/15(火) 18:22:15.55ID:IbEB+SFb
>安般念を練習して慣れてきたら、四念処法を練習するということですか?
>あと、四念処法をマスターするのと、八正道における「正念」とは同じですか?
安那般那念も四念処も八正道も同じ事です。
切り口や説明の仕方が違うだけで、同じ事です。
つまり、煩悩からの解放です。
一呼吸の間も煩悩の漏れの隙を作るな、というのが安那般那念です。
四念処は、肉体的に伴う煩悩、感覚に伴う煩悩、心に生じる煩悩、
世間の様々なことへの煩悩など、煩悩の軍勢を四つに分類して、
無常や無我を用いて彼らを打ち砕き、囚われないようにすることです。
どちらも瞑想でも呼吸法でもありません。
仏教の「正念」にはもちろん桐山説のような念力なんて意味はありません。
煩悩に囚われないようにすることに集中させ、他の事に動かないことが正しい念です。
人間の心は放置すれば、煩悩のままに彷徨う。
それを煩悩に囚われないという一点に熱心に強く集中させたままに
保つことが正念です。
煩悩からの解放に集中したまま保ち、ぶれないことが正定であり、
煩悩からの解放に集中し保った状態を持続し続けることが正精進で、
煩悩からの解放に集中し保った生活をするのが正命であり、
煩悩からの解放に集中し保つよう実践するのが正しい行為(正業)であり、
煩悩からの解放に集中し保つという見解を理解するのが正見であり、
煩悩からの解放に集中し保つと正しく判断するのが正思惟であり、
煩悩からの解放に集中し保つことを語るのが正語です。 若くて色っぽい女性を夜11時に自分のホテルに誘いたい。
ホテル・オークラのレストランで大好きな中華料理をたらふく食べたい。
名誉教授の次はさらに名誉博士が欲しい。
大作さんみたいに巨大教団に君臨し、議員どもを顎で使いたい。
自分を批判したオバサンを暴力で叩き出したい。
騒ぐ子供の横っ面をはたきたい。
自分を刑務所に入れた世間の連中に土下座させたい。
これが桐山さんの代表的な煩悩でした。
桐山さんは人並み外れて煩悩の強い人でしたから、
反面教師としてはとてもわかりやすい見本です。
いかに人間が煩悩に左右されているかを知るのに、自分を冷静に
観察するのは難しいから、最初はこういう煩悩が強い人を自分の鏡として見るのです。
この意味では信者も元信者も素晴らしい反面教師を持っている。
桐山さんは煩悩ととても仲が良く、入我我入、一心同体、感応道交していた。
煩悩をなくせという仏教を仕事にしていながら、
世間の人たちよりもはるかに煩悩と仲が良い。
このあり方は大作さん初め新興宗教の教祖としては珍しいことではありません。
煩悩をなくせと説いた仏教を標傍する教祖たちが普通の人よりも
野心、金銭欲、物欲、出世欲、名誉欲、性欲、食欲、執着、怒り、
嫉妬といった煩悩が強烈だというのも、まるで質の悪いジョークみたいです。 桐山さんは漏尽解脱(煩悩解脱)を小解脱として小馬鹿にしていた。
これは彼が仏教の解脱の意味を理解できなかったというだけではありません。
桐山さんがいかに煩悩と仲良しだったかを示す反応なのです。
桐山さんの無二の親友である煩悩を減らせなんて教えは彼にとっても敵です。
しかし、仏教に煩悩をなくすという教えがあることは否定できないから、
これを小解脱と軽く扱うことで、自分の煩悩を保持できるように自己弁護した。
桐山さんの表現を真似るなら、彼の潜在意識が拒絶反応を示した。
だから、彼の作り出した教義では、煩悩を減らすという部分を
できるだけ矮小化するようにしている。
例えば、八正道を初学の教えとしたことです。 「この八正道は、初学の弟子に説いたものであろう。」
(『愛のために智慧を智慧のために愛を』204頁)
桐山さんは煩悩が減らされては困るから、煩悩を減らすという項目を
矮小化し、初学と小馬鹿にした。
釈尊は八正道で解脱すると述べているのだから、釈尊本人を小馬鹿にしたのと同じです。
さらには次のように上級の自分はやらなくてもいいと宣言した。
「ただし、観神足を体得した聖者には、もはや教えは不要であって、八正道は、他の
三神足修行者にすべて対応される教えである。」
(『仏陀の法』129頁)
自分は観神足を体得したから、「教えは不要」であり、八正道はいらないと宣言した。
煩悩を減らすのはやらなくてもいいのではなく、やりたくないのです。
煩悩もの申す、だったのでしょう。
桐山さんに限らず、人間とはこのようなものです。
釈尊に指摘されないと、普通の人間は煩悩と自分とが一体化している。
世間はむしろ煩悩を増大させるのが当たり前なのだから、
積極的に一体化しようとします。
だからこそ、釈尊が自分の煩悩を観察し、立ち向かうように説いたことは画期的です。 このスレで、煩悩からの解放について説明した時の相手の反応を楽しみにしています。
その人が煩悩とどれほど一体化しているか、反応を見るとわかるからです。
「そう言われれば、煩悩と自分は別物だ」と気が付く人もいるが、
それとは正反対に激しく反発する人がいる。
その人たちの反応は共通していて、桐山さんと同じように、
釈尊の教法をオシエだ、幼稚園並の倫理道徳と小馬鹿にする。
1.5来補さん、宝生創価さんがそうです。
この二人は煩悩と強く一体化してしまっているから、
彼らの煩悩が危機を感じて、指摘に強烈に反発したのです。
彼らの煩悩は「煩悩をなくせなんて冗談じゃない」と強く拒絶するから、
釈尊の教法を小馬鹿にして、侮蔑して、否定する。
宝生創価さんなど「そんなのは法ではない。代案を出せ」と言い続ける。
煩悩の言いなり、と言うよりも、彼らは煩悩そのものです。
その煩悩を減らせ無くせなどと言われたら、自分を否定されたように感じるのでしょう。
彼らの煩悩はあまりに強烈で分離できない。
むしろ、煩悩を強く煽る阿含宗が心地よい。
煩悩と入我我入している桐山さんと合うのは、
三者ともに煩悩と大の仲良しだからです。 >>285 神も仏も名無しさん 2019/01/16(水) 08:47:43.55 ID:2RlBqAnN
>そこで、ユビくん提示の大念住経の感想を述べると、あれは釈迦の言葉ではなく、アビ達磨論師の言葉だと、私は判断しているわけよね。つまらないこと長々と微に入り細に入り、くどくど述べている。釈迦の言葉ではないね。アビダルマ論師、しかも屁理屈屋に近い言葉だね。
預流向ネタではないし、新著の念覚支の時に上がった問題ですので、レスします。
つまらないことを、長々と微に入り細に入り、くどくど述べているとありますが、具体的にはどこのどういう記述ですか?
それに仏典というものは、他の経典を読んでも、そういうものだと感じません感じませんか?
安那般那念経でも深山さんも示したように手を洗うシーンまでわざわざ出てくる。
あれは敢えてそのように微に入り細に入り書いているのです。
そういう意図があるのです。
観察というものはそこまで細かくありのまままてなければならないのですよ。
生半可な観察をしているからヒューマンエラーによる仕事の間違いだって起きている。
ところでヴィパッサナーの訓練を20年前にやってみて効果ないから捨てたというあなたですが、そんなあなたに面白い情報を伝えましょう。
私が読んだ日本におけるヴィパッサナー瞑想の指導者の著書を読んだのですが、その著者は扇風機が回っている時、
普通の人には円にしか見えないその回転する様子が羽根が1枚1枚見えるのだそうですよ。
訓練の賜物でしょうね。それ自体は意味がない副産物かもしれないが、しかし万事において観察、気付きが鋭くなったわけです。
もちろん扇風機の羽根が回っていても識別できる細かな観察は、あなたが求めているものでもないだろうが、
やはり驚きではある。
あなたもそこまでそうなるまで訓練して、効果がないと捨てたのか?
ヴィパッサナーはあなたも軽視する単なる道徳なんかではないことがよくわかる事例でしょう。 このスレを読んでいる他の信者さんたちもぜひ自分の反応を確認してほしい。
釈尊は煩悩を減らし、捨てることを説き、これを解脱とした。
これに対して、自分の心がどう反応したかを観察してください。
「まさか、あのお釈迦様ともあろう方が、そんな子供に
教えるような倫理道徳だけを説いたはずがあるまい。
深山のバカが何を言うか」と内心思ったら、かなり煩悩と一体化しており、
阿含宗の信者に向いています。
つまり、1.5来補さん、宝生創価さんタイプで、一生このまま
カルト宗教の信者でいられます。
「煩悩を減らすなんてただの倫理道徳のようにも見えるが、しかし、
あのお釈迦様がそのように説いたとすれば、自分の理解が足りないのだろうか」と
自分を疑った人は、煩悩とほんの少し分離した証拠です。
阿含宗の信仰を批判されて腹を立てた時、その怒りを観察するのです。
「阿含宗の批判が間違っているからだ」というなら、
怒るのではなく、どこがどう間違っているのか冷静に考えるべきです。
だが、先に腹を立ててしまった。
心が隙間だらけで、怒りという煩悩が簡単に侵入できたからです。 >>291 神も仏も名無しさん 2019/01/16(水) 11:34:45.89 ID:2RlBqAnN
>預流は三悪道の業報を断じ、不還は五道の業報を断じたことになりますね。このことが、煩悩滅論だけでは説明がつかないわけです。
>桐山師は、どのように業報が断たれるのかを、本に書いている。私は業報滅のメカニズムを書いた人を、桐山師以外の宗教家を知らない。
おっ、桐山師以外にそのメカニズムを書いた宗教家を知らないと書きましたね?
だったらあなたの普段の書き込みは矛盾があることになります。
他の仏教学者が書かないことを桐山さんは書くと言う。
だったら桐山さんの説く話の正当性を他の宗教学者の文章から探して立証することなどできないはずではないですか? 信者からは「桐山ゲイカは安那般那念や四念処を体得して説明していたのだ。
解脱もしていない深山ごときに何がわかるか」と来るでしょう。
わかるのです。
わからないと思っていること自体が、仏教を理解していない証拠です。
安那般那念や四念処を体得した人が、夜11時に色っぽい若い女を
こっそりとホテルの自室に呼んだりはしません。
桐山さんは四念処など体得していない証拠に、色っぽい若い女の肉体に価値を置いていた。
だから、高額なお手当を出し、彼女とホテル・オークラに長期滞在した。
四念処を体得したら、美人さえも汚物の詰まった袋にしか見えない。
糞の入った袋にお手当をあげる四念処の体得者はいません。
そこまで到達していない修行者でも、性欲を煽るような存在に近づかない。
だから、釈尊は、異性に対して、
「見るな、話しかけるな、つつしんでおれ」(ブッダ最後の旅、中村元、131頁)
と述べています。
だが、桐山さんは、離婚してセクハラに遭っていたE川さんを「見て」、
チャンスとばかりに、御霊示と称して「話しかけ」、
ホテルに呼んで「慎みのない」行為に及んだ。
だが、快楽だと思っていたE川さんは、エロ教祖という汚名を全国に
知らしめて大恥をかく苦の素となった。
結果は釈尊の警告どおりだった。 「食いしん坊だから大食いする」(ダルマチャクラ、175号、31頁、2004年)
安那般那念や四念処を体得したら、食事は肉体を維持する必要最小限にするから、
食いしん坊も、大食いもありえません。
上記は桐山さんが解脱を宣言した後の2004年です。
ブラックジョークみたいです。
信者さんたちは、大食いする阿羅漢がいると思いますか?
阿羅漢とは煩悩を完全に制御している人だから、食欲に囚われることもありません。
だから、例え空腹でも、大食いなどしないし、
ましてや食いしん坊の阿羅漢など存在しない。
これではまるで、「俺はコンビニで万引きした」と自慢する裁判官、
「俺はさっき拳銃で人を撃ち殺した」と自慢する警察官のようなものです。
桐山さんのような煩悩と入我我入している人たちは自分の煩悩を正当化しようとする。
だから、同じような餓鬼の1.5来補さんは、食欲は煩悩ではないとまで書いた。
1.5来補さんも、タダ飯やタダ酒をガツガツと飲み食いして糖尿病になり、
小梗塞になるという、プチ桐山のような人生を歩んでいる。
自分の食欲を正当化するために、「煩悩もの申す」です。
このように四念処でも安那般那念でも、体得していない人、
理解していない人はすぐにわかる。
オーラなど見えなくても、阿羅漢でない人はなおさらはっきりわかります。 ユビキタスさん、深山さん、いつも丁寧な解説ありがとうございます。
やっぱり、三十七菩提分法の五力法(念)・七覚支法(念覚支)・八正道(正念)
にある「念」は、すべて「正念」のことなのですね。
スッタニパータにも「平静であって常に正しい念いあり、世間において(他人と自分と)
等しいとは思わない。 また自分が優れているとも思わないし、また劣っているとも
思わない。 かれには煩悩の燃え盛ることがない。」とありました。
たぶん、「正念」の一面を説いたものなのかな? と思いました。
「念」の漢字のふりがなに、「おも」とありましたので、おもいと読むのですよね。
文章の最後にも「煩悩の燃え盛ることがない。」とありますから、煩悩を消していく
ことが重要ということですね? >>281
>私は阿含宗桐山師の四向四果を話しているのであって、
何を言っているんだ 自論にこだわっているのは
貴サァマだろう
すでにお前の師桐山は四向四果の初道 預流向=聖者説を
取り入れ既説を覆し修正し直した
それについて来れていないお前が 置いてきボリを食った不憫者だ
とかく知ったかぶりで常に批判側の10年あとに遅れる鈍愚な奴だろ
岩波仏教辞典だって批判側に促されてようやく購入したら
批判板が始まる頃から持っていたような口ップリで偉っそうに
説教を垂れはじめたり 因縁切りを錦の御旗にしていたくせに煩悩滅を
批判から指摘され続け 漸くその重きに気づいたら因縁ゲダツをコソコソ
引っ込めて知らんプリ クラの中に治まっていたウツケ者めが
だが読解力の低さは持って生まれた転生 転んでもゾンビの如くで
いまだに身見 疑惑 戒取の意味も知らぬ
蔵の中に閉じこもっていればよいのにノコノコ出て来て滔々と自論を
述べて恥じない下種な態度は常人ではない
基本だ基本だと強弁付会しても その基本すら把握できていないしな
>>246で深山氏が非常に重要な経典解釈の目安を教示している
>阿含経を読む時には、大きな前提を常に意識するとわかりやすい。
「煩悩からの解放」
これだけです。<
いつも経典を曲解してしまう貴サァマには打って付けの教訓ではないか
いやともすれば経典の表現に矛盾を感じて自己読みをしがちな人々には
必須であろう心構えといえる
桐山の表現ではないが 涼 とすべきであろう >預流は三悪道の業報を断じ、不還は五道の業報を断じたことになりますね。このことが、煩悩滅論だけでは説明がつかないわけです。
三結の意味すら 取り違えている貴サァマにそれを断じるなど
天地がひっくり返るようなもので 不可得だっての
三悪趣に堕ちないことと三悪道の業報を断じることは月とスッポンだ
どだいつくった業は消えないと釈迦が説いているのに
業報を断じるなんてどこの誰の教えなんだ
釈迦は煩悩滅こそが涅槃を獲得する唯一の道だと教示している
その修道は 戒・定・慧→解脱・解脱知見となる
そして戒・定・慧セットによるシークエンスの繰り返しで
預流から阿羅漢までに至って解脱を達成するというスキルアップの流れなのだ
桐山センセのジョウブツホーなど 只の無恥ハッタリの類で貴サァマのご託は
学説の上澄みをモノマネした自尊肥大なるケ論でしかない
秘湯を求めて山に入り 狐に化かされて肥溜めをいい湯だなと言っている
そんな貴サァマは 一生その臭いを洗い流せないわけよ
だからどんなに化けて掲示板に出て来てもその悪臭で貴サァマは
過去の変名オタクの準シュダオンと看破できるのよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています