>>153 神も仏も名無しさん 2019/01/12(土) 17:39:51.07 ID:OO+EYVi+
>安般念経の桐山解説は、細かい説明を省いて、一気に本質に迫ったものだと思う。安般念経の、有覚有観寂滅純一、の語だけで、これは九次第定の初禅から滅尽定まで表していると、私クラスでも分かる。桐山師の手法は一気に本質に迫ったものだね。

それは結局、安那般那念についてわかっていないということではないか?
私が>>128に 貼った止息経も 寂滅止息と しているが、寂滅=止息だとわかる。
九次第定の9番目の想受滅は想受寂滅であり、 そして九次第定全体を
「是れを漸次に諸の行寂滅すと名づく」
と表現している。
その後に 貪瞋癡の煩悩の解脱を
「是れを勝止息・奇特止息・上止息・無上止息にして、諸の餘の止息に過上なる者無しと名づく」
と表現している。
つまりこの経典の文章構成は九次第にの行の寂滅止息の価値と、貪瞋癡の煩悩を解脱する寂滅止息の価値を対比したものと分かります。
そして後からのべたら貪瞋痴の煩悩の止息の方をこれ以上のものはないと 比較したわけです 。
だから九次第定に全く価値がないというわけではないが、 求めるのはそこでないということです。
あなたの言うように安那般那念経が九次第定を説くのであればウッダカ仙人の 禅定瞑想になってしまいます。
そうではなく九次第定とはまた別の視点の寂滅があるのだと そう見るべきですね。
ちなみに寂滅というのは煩悩から離れた悟りの境地と言う 仏教用語でもあるわけです。
それにはこういう対比構造も用語成立 に くみした面もあると見るべきです。
今日深山さんが指摘したように、あなたは漢文を書き下し文どころかそのまま引用する癖がある。
でもこれって内容もよく分からずにただ単語を並べているとしか私には見えませんよ 。
こういう風に分析的な に考えねばならないのです。
あなたはただ単純に漢文の単語を読んでみて、反応してるだけで、わかったような気になってるだけです。
そしてその実何もわかっていない。
だから漢文の単語を誰にでもわかる、説明できる自分の言葉にしてみるという努力が必要です。
そうでないと仏教は理解できません。