610 ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR sage 2018/12/30(日) 21:45:36.06 ID:WnR+H5Aa
「仏陀の真実の教えを説く 下」遊行経桐山解説批判

>>609の 桐山分類表は三結断のシュダオンでも実は欲貪や瞋恚は 表面意識のそれは 断ち切っていることを示したものです。
もちろん経典にはこんな話はありません。
桐山さんが勝手に自分の考えを添えたとしか言えません。
そもそも経典では無意識だの潜在意識だの深層意識だの説いていないからです。
そんなことはない随眠があるではないかと言うかもしれませんが、実は随眠は無意識のことではないんです。
そのことは後で詳しく述べていきたいと思うが、 三結とは身見、疑惑、戒取であるが、 この三結を断じた者をシュダオンというのだが 、
じゃあ欲貪や瞋恚はどうなっているのかと言うと、一部切れているのだとした。
ヨル公さんは 欲貪や瞋恚なんてものは シュダオンになってから初めて考えればいい話だなどと戯けたことを書いていたが、
桐山さんはそれを否定している。
桐山さんは身見を因縁因果の道理がわからない ことだとしているので、因縁因果の道理のわからないことに基づく欲貪や瞋恚は
もう表面意識上ではなくなっているとしたのです。
桐山さんの勝手な理屈の前に、私はこれは切れているかどうかはともかく 、ある程度そういうことは言えるなと思います 。
なぜならば 三結が切れているけれども 、欲貪や瞋恚が丸ごと野放しに残っている奴なんているはずがないからです。
仏教を信仰することを表明して貪ってはならない怒ってはならないと教えられたからには
皆それを守ろうと意識して努力するからです。
実は意識をそこに置くということは非常に大切なことなのです。
それだけで改善されるものがあるのです 。
例えば昔はゴミのポイ捨てが当たり前で、分別ということは全く 考えずにひどいものでした。
ところがゴミの分別、ポイ捨て禁止を 呼びかけるようになりました。
私の父などは当時そんなエコロジーだの説いたところで と馬鹿にしていました。
ところがどうでしょう?
それから十数年何十年も経ってこれはかなり浸透してきました。
その父もちゃんとゴミの分別を守り、タバコのポイ捨て、ゴミのポイ捨てなんてことはしなくなったのです。
もちろん一部の人は守らず根絶したわけではないけれども、かなり改善されたと言えるのです。
それほど言葉による教えと言うか意識を持つということは、実はすごく効果のあることなんです。
だから仏道修行者が欲貪や瞋恚を野放しにしているなんてことは考えられないのです。