「ヴァッチャよ、『沙門ゴータマは三明者なり』と解説すれば、私の所説を〔正当に〕説く者となり、私を不当に非難せず、教法について、道理に従って解説し、
また、誰であれ、〔その者と〕道理を同じくする種々の説を有するものが非難されるべき状態に至らないということになります。
なぜならヴァッチャよ、私は、望む限り、種々の宿住を随念することができるからです。
たとえば、たとえば、一つの生、二つの生……
そのように私は、具体的かつ詳細に、種々の宿住を随念します。
なぜならヴァッチャよ、私は、望む限り、清浄で人間を超えた天眼をもって、死んでは再生する有情たちを見、優劣、美醜、幸不幸〔なる種々の境涯〕に……
……業に従って趣く有情たちを了知します。
なぜならヴァッチャよ、私は、漏の滅尽により、漏なき心解脱、慧解脱を現世で自ら知り、悟り、成就し、住しているからです。
ヴァッチャよ、『沙門ゴータマは三明者なり』と解説すれば、私の所説を〔正当に〕説く者となり、私を不当に非難せず、教法について、道理に従って解説し、
また、誰であれ、〔その者と〕道理を同じくする種々の説を有するものが非難されるべき状態に至らないということになります」

このようにいわれてヴァッチャ氏族の遍歴行者は世尊へこういった。
「尊者ゴータマよ、いったい、在家者でありながら在家の繋縛を捨てずして、身体の破壊より、苦の終極をなす者(解脱者)は、誰かいるのでしょうか」
「ヴァッチャよ、在家者でありながら在家の繋縛を捨てずして、身体の破壊より、苦の終極をなす者は、誰もいません」
「しからば尊者ゴータマよ、いったい、在家者でありながら在家の繋縛を捨てずして、身体の破壊より、天界へ至る者は、誰かいるのでしょうか」
「ヴァッチャよ、およそ在家者たちでありながら在家の繋縛を捨てずして、身体の破壊より、天界へ至る者たちは、
百のみならず、二百のみならず、三百のみならず、四百のみならず、五百のみならず、さらに多く存在します」  

(〔『中部』「中分五十篇」「遍歴行者品」〕第一〔経〕「三明ヴァッチャ経」より)
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