主は無実の罪で殺されただけです。しかし、神であられたために、死なずに、すぐに生き返ってしまいました。何のために殺したのでしょうね。
生き返ってしまったのですから、苦労して拷問して、殺したのに、徒労に終わってしまいました。

生贄を何よりも嫌ういと高き神が無実のキリストを生贄にする理由がありません。
キリストは殺すことを心から願っているユダヤ人たちの望みをかなえてあげただけです。
不死身であることを示すことによって、かたくななユダヤ人たちが回心することをお望みになったのです。それほどに敵さえ愛していたということです。
「復活によって神の子であることが定められた」とパウロが書いているのはそのような理由からです。

キリストは人類の罪を背負いません。罪はその人自身が償うのでありキリストがかわりに償うことはありません。
あなたが犯した罪は、あなたが罪をキリストに告白し、赦しを受け、生き方を変える以外に、償うことはできません。
それをするのはあなたであり、キリストではありません。

キリストが人類の罪を背負う生贄にされたという刑罰代償説(Penal Substitution )の誤り

1 生贄を何よりも嫌ういと高き神が無実のキリストを生贄にする理由がありません
2 生贄がすぐに生き返ってしまったら、生贄の役を果たしていません。
3 神は怒りません。怒りは罪です。したがって、神の怒りをなだめるために生贄をささげるという行為そのものが意味を成していません。

今注目の贖罪論が私と似た立場に立つ勝利者キリスト説(Christus Victor)です。某ブログから引用

「贖罪思想の主要な三類型の歴史的研究」という副題がつけられたこの本の中で、スウェーデンのルター派の神学者である著者は、
自ら属する西方教会の伝統にあるアンセルムスやカルヴァンの理解に代表される贖罪論は、新約聖書の本流にはつながらないとし、
十字架の出来事の中に、刑罰代受よりも悪の諸力に対するキリストにおける神の勝利を見ます。
アウレンは、その贖罪論を古代教父(とりわけエイレナイオス)に見出し、
教会史の最初の100年においてはそれこそが支配的な贖罪の理解であったとして、
それを「古典的贖罪論」と呼んでいます。」