>>63
P⇒Qと¬Q⇒¬Pは同じものだね、論理学用語でいうなら対偶になる。

>釈迦の説いた縁起と竜樹の説いた縁起は同じかということです

因果としての縁起か、相依性としての縁起か、という話かな。
抽象化すれば同じものだとして扱うことは可能だろう。

一般的には因果というものには向きがある。
因 →→ 果
相依性はこうなる。
P ←→ ¬P

けれども因果は『因があるから果がある、果があるのならば因がある』とも言い換えることができる。
するとこうなる。

因 ←→ 果

つまりは時間というものを省いて考えるわけね。

釈迦はおそらく一般人への対機説法では因果としての縁起を説いたに違いない、そちらのほうがわかりやすいからね。
龍樹の方は仏教そのものが拡がりをみせていてある程度の議論ができるようになっていたから、学僧として釈迦の対機説法の向こう側にある真理をあきらかにしようとした。

>>410
>沈黙によって悟りを表現したと聞きました

その話はよく知らないけど『答えはない』と同じなのではないかな。
『答えはない』が答えになってしまうから『     』と言うしかない、つまり沈黙というわけね。
これを言語で記述するならばメタを使うしかない。
例えば物語にするとか、現代ならば論理学を使うとか。