こう書いてあります。

☆今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と
預言者とによってあかしされて、現されました。

それは、イエス・キリストを信じる信仰による
神の義であって、すべて信じる人に与えられるものです。

そこにはなんらの差別もありません。 すなわち、
すべての人は罪を犯したため、神の栄光を

受けられなくなっており、 彼らは、価なしに、
神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって

義とされるのです。 神はこのキリストを立てて、その血による、 
信仰をもって受くべきあがないの供え物とされました。

それは神の義を示すためでした。すなわち、今までに
犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられましたが、

それは、今の時に、神の義を示すためでした。

こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを
信じる者を義とされるのです。すると、どこに

わたしたちの誇があるのですか。全くありません。
なんの法則によってでしょうか。行いの法則によってですか。

そうではなく、信仰の法則によってです。  
わたしたちは、こう思います。人が義とされるのは、

律法の行いによるのではなく、信仰によるのです。
それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。

また、異邦人の神であるのではありませんか。確かに、
異邦人の神でもあります。 まことに、神は唯一であって、
 
割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも 
信仰のゆえに義とされるのです。

すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効に
するのですか。断じてそうではありません。かえって、

それによって律法を確立するのです。