>>802
>やっぱり終末思想では回収し切れない「今ここ」というのがあるように思nおう

大貫隆の「イエスという経験」での「全時的今」のことを言ってるのだと思うが、全く違う。
そもそも、この本は、ブッシュの「聖書を唱えてのイラク進攻」に対する批判への予防的
反論として、一か月程度の短期間に書かれた「イエス擁護」の書に過ぎない。聖書学者
としてより、「熱心なクリスチャン」として書かれている。聖書のイエスの多くの言葉を、イエスの
生前の言葉ではなく、弟子が旧約を真似て書いたものと分類していることが、聖書学者と
しての唯一の業績であろうが、それも「そう思う」程度で、確証はない。自分では「イエスは気
違いと言われている」と言いながら、精神医学的追及は皆無で、初めから終わりまで、イエスが
健常者であるという前提で議論している。
「全時的今」は、大乗仏教の「今ここ」の思想にすり寄ろうとしているのだが、仏教の思想とは
全く異なる。一休の「死にとうない」を、「弟子が迷惑した」などと言っているが、一休の言葉は
そのように浅いものではない。道元の「前後ありといえども、前後裁断せり」に共通する、
強力な現実主義である。「永遠の生命」や「死後の裁き」を唱えるイエスのどこが「今ここ」か。