『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
(マタイ 22:37-38)

この神ですが、これは客観性の働きの事だし、そうでなければ
ならないと思います。

自分の我儘、身勝手を欲身を押し通すために、
神という言葉を利用して
その言葉の権威を借りて、
刃物にすることではないですよね。

おそらく、イエスは、それを大変嘆かれた、
愛などない、神もいない、と。

では、どうすれば神の悪用をとめることができるか。

神の正体をはっきりさせれば、それが神か、どうかの
区別がつくのではないか。

聖霊の働きもイスラエル(ユダヤ)で分からなくなって久しい。
預言者(神の代理人)の言葉もわからないし、
預言者を殺してしまうような事をする。
もはや神の正体をはっきさせるしかない。

私イエスが神(神の子)であり、それは聖霊でも
ある。
となれば、悪用すればバレル、それは神でないということが。

自分の思いでなく、神で、というのは
聖句がどうたら以上の、神の一貫性である光の貫きとも
いうべき、客観を人が生きる身体で理解できるように
したら、いいのではないか。

そこに神の具体である神の子を置くことで、判断力を
失った病が深い者にも、気付きと方向性を示すことができる。

聖霊のバブテスマは、聖霊を神を見失い
さまよえる人々に神の正体をあきらかにする、
このためにわたしイエスはきた。
イエスキリストは、聖霊のバブテスマの方。
見失った者が神かどうかを区別し、己の些末な
我儘な思い込みを、言い換えれば神の悪用を
イエスという具体により客観視できるようになる。

2000年以上も前に起きた、イスラエルに示され
起きたできごとです。