>>608 こんばんは、竹さん。

>赦す・赦さんいう流れがあったようやが、
> 潮はんは、相手を憎んでないし赦してると思うけどな。
> 間違いを間違いと指摘する事に特に罪はないやろし。むしろ必要や。

ありがとう。うん、言葉てむつかしいね。
まちまりさんは、和解と言うのは細かい事を超越して、
赦し赦されるそういう感覚で暮らしが日々成り立っている
ことを、ご両親が人に雇われるのでなく、責任者として
自分に直接かえるような、嘘や誤魔化しが効かない
また今と明日に向かう働き者で
直でお手伝いをし、その背中を見て体でしってはるから、
普通に愛の深さとも言うべきものが成人前に
理屈でなく備わってはるのやけど、
できない人というのか、
もうひとつ理屈以上それを知らない人からみれば、
そういった普通のことが、
ほんまの体感としては、備わっていないし遠い。

そやし、まちまりさんも
いざ言葉にすると、嫌な事をされたことを
赦しています、みんなもそのようでありましょう。
みたいな表現になるやん。

そうなると、さらに別れて、
どこからその言葉が出ているのかピンと来る人と、
表面だけの人と
色んな人がいて、難し成ってややこしなるのやね、これが。
ほんでやっぱり、まちまりさんも言葉で赦したとかでなく、
お互いが次元上昇し、切り替えが起こったと言う
内実が赦しの本質であり、
言葉だけの処世術としてのおべんちゃら誤魔化しでは、
同じことを繰り返し、どうしようもない、
ということまで、言及することになる。

竹さんの云わはる、通りやし、
作話したらあかんやんとか、当たり前のことですやん。
共感とか、上辺でいくらでもできても、そういう事じゃないし、
作話したらあきまへん。
そんだけの事です。

謙虚とか赦すとか、一見わかったような言葉も
言っている人の霊性で別のものほどの違いがあって、
わたしは、まちまりさんが分かる。
宗教とか教義とかも同じ言葉を使っても、
霊性レベルで別のもんになっている
ということの難しさやね。

負けず嫌いとかとも違う事やね。