聖冊7年(911年)には国号を泰封、年号を水徳万歳と改元し、自らを弥勒菩薩と称し、長男を青光菩薩、次男を神光菩薩と呼ばせた。
このころには弓裔には粗暴なふるまいが多くなっており、『高麗史』の太祖(王建)の項によると、弥勒観心法と称して人々の本性を探り出すことに熱中し、
三尺の鉄棒を熱して拷問殺害を繰り返し、特に女性の不道徳を嫌って多くの女性を処刑したとされる。
弓裔の横暴を諌めた康王后も不倫を疑われて陰部を熱した棒で貫かれ殺害され、さらに二人の息子も殺された。その他多くの臣下を殺したために人心を失った
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