黙示発破
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カオスの諸起源から日本人類へ。
ヤハウェーの祟り。人間人類だけでなく、プルートーの挽歌。
ハデスの死。ゼウスの死。全人類の死。
人間がいなくなる。ハデスが西暦2018年10月18日、
マイティコスモスの賛歌を挙げ、下調べに行ってくる。
プルートーのタロットに挽歌を上げ、人間を下調べしよう。
終わりに、プルートーの息子ヤハウェーはキレてる。
何で俺がベルセポネーの親父なんだよ!って、
神の子羊たちアラフェスとかペテロのヨハネたちが、
忌頭光紀を互いに組み合わせ・・・。
いまずききのりが復活したらやばい。
どうしよ。
ぷるぷる。
やまずききのりもいい加減にしろ
数珠108本編んで苦しむか、スサノオさんよ。
数珠108本紡いで苦しむの。アマテラス。
ツクヨミさんは忍者隊。堪忍。 何をしていたかと言いますと、昼寝してました。
うとうとしながら考え事です。
夕飯食べました。
枝豆入り酢めし。
味噌汁、納豆(コーンとトマト缶、ゆで卵)
今夜はサクサクッと食べました。 昨日、お箸を洗っているときに二本ともボキッと折れてしまいました。
そして今日はお弁当を食べようとして割り箸が一本折れました。 コスモスで買って来たチョコが美味しい。ボンボンみたいな一個ずつ包んであるお菓子で、バリトンBaritoneていうの。
ウクライナのお菓子。
中にクリームとウエハースが入ってる。
意外と柔らかいので歯に優しい。
輸入者 株式会社 宮田
千葉県松戸市和名ヶ谷950-1 >>210
検索してみるけど出てこない。
ARK1991
Baritone
From Ukraine
10個入り個包装 袋 終わったカレンダーのみことば付き絵画や写真を切り取って、再利用しています。
もったいないですよね?
ノートやダイアリーの下敷きにしたり、壁に貼ったり、絵葉書にしたり、しおりにしたりして楽しむのも良いですよ。 >>207
明日からこのテーマに沿って観想しようと思います。 十字架の苦しみの内容に肉薄したいです。
聖書のとくに福音書を探りたい。
毎日泣いていたせいか顔が荒れています。
これからは手当たり次第ではなく気まぐれではい観想、順々と足元から攻めていく感じで学びとりたいですね。 >>216
手当たり次第ではなく
気まぐれではない
順々と足元から攻めていく観想をして
学びとりたい 大川きょう子さんの2013年7月25日公開というYouTubeを何本か聞いてみました。
私、真呼時代からとても願っていたことなので
神に感謝、キリストに感謝です。
まだ幸福の科学の影響が散見されますので、うまくクリアしていかれたらいいなあと思います。
彼女については少し不安な面も見えています。
それはファウスティナの日記を読んで感じたことでもありますが、悪魔、悪霊の巧みなやり方に騙されている時にキリストが直接訂正してくれる場合と、訂正してくれなくてそのままにされている場合とがあることです。
この後者の場合は、死後、明らかにされるでしょう。 「記憶喪失」によるスッキリ感は赦しとは違うと思うのです。
思い出せば蘇るのですから。 最近、私にもあったことですが
強い力で「記憶喪失」にさせられたり、
プツプツと潰される感覚が私のなかで起こり、認識が書き換えられたりしました。
しかしこの通り私は「復活」しています。
強制力によって私の痛みのトラウマが終了させられてもまるで無意味です。
私はそれを「不正」だと思っています。
赦しではなければ何かというと、慈悲とかいつくしみとか愛とか恵みです。
私たちの強い悲しみからいったん離れさせてくださるのは忍耐が続くようにと神様が私たちに送られた愛ゆえです。
しかしきょう子さんもYouTubeでおっしゃってましたが、ホスチアが思い出させてくださいます。
その機会を逃さないでほしいです。
なぜなら悔い改めにふさわしい苦しみは必要だからです。悲しみと同じくらい必要です。
ある種のプロテ信者のように能天気なパッパラパーでいてほしくはありませんね。 晴れの予報だったのに雨雲びっしり。
午後から出かけたいところがあったが中止。 今日はもうこれだけで終わるのかなあと諦めかけた夕刻になって、やるはずだったみことばカード・ディボーションを始めるに至った。
これはみことばカードを6枚ずつ取り、一枚ごとに黙想と祈りをするもので、最後は福音書の愛の観想で締めくくり。
第一日目はマタイ2章のラケルの嘆きについて。
エレミヤ31章からの引用である。30章と併せて読むとよい。
ヤコブとラケルについてだった。ラケルの嘆きは報われる。涙をぬぐいなさいと書いてある。 もう何度も書いてるけど、私は去年苦しみに遭い、神様から見放された恐ろしい体験をしている。
だから今日のfebcは辛かった。
みことばカードにも、神に助けを求めて報われる確信に満ちた詩篇がたくさんあったので、辛い気持ちと悲しみとを押さえながら希望を祈りにした。
また罰を受けるのだろうかと考えながら希望を伝える行為はしんどい。
それでも赦され助けていただけるように祈った。性懲りも無く。 文字は殺すと言われるけれど、聖書のみことばに戻るしかない。
いつも祈るしかないと思っている。 推定夜10時頃になると、霊的な温かさに包まれました。(これの正体が何かは置いておく)
祈りや願いを何度も天にあげ、自分自身の出来事や葛藤についても繰り返し認める作業をしてきています。どうして、そのタイミングではなく、こちらがさらに深読みを促すような勝手気ままなタイミングでこのように霊の温かい覆いをもって私を包まれるのか理解できません。
これは何か、正体は何か、何が言われているのか、まったく読めません。
たしかに気分良く、誰かに慰めを受けるような温かさはあります。
しかし神からのものか別の誰かからのものか、私にはわかりません。確信して言えることが何もなく、この霊が何をメッセージしたいのか意図をはかりかねます。 私が知りたいのは
私の霊魂の救いと、
罪に対する現実と、
罪の洗いについて。
悲惨な人生と、
出来事と、
肝心な時いつも助けを拒絶されること。 最初の拒絶:イエズスの手を求めていたのに、天に伸ばされた私の手は、なんと見知らぬ男性の手を握っていました。
男性は弱っており階段を上がるために私の手を握っていました。
この夢を見たときの私はショックを隠し、極力冷静に努めてその男性の介護をしました。
とても傷つき、30年が経つ今でも疼くほどです。 天に上げた手が、階段を上る人を上から介助する手になっていました。
これが、最初の拒絶です。 マルタとマリア
レアとラケル
ハガルとサラ
肉によって生まれた子
約束によって生まれた子
でも父親は同じなんですよね。 >>233
一行目と二行目は私のよくやる対比です。
すなわちマルタとレア、マリア(マグダラ)とラケルは似てるなって思います。 ダビデはバトシェバとの後にも別の妻たちに子どもを産ませています。
だいたいさ、バトシェバが身ごもったときのダビデの態度と行動は、全然バトシェバを愛してないことが丸わかりですよね。 毎日泣きすぎて顔が荒れました。
新しい化粧水を買ってきます。
🙀 おやつも食べましたので、これからみことばカードのディボーションです。
6枚のカード+選り抜き聖句のディボーション。
一枚ごとに瞑想と祈りをします。 嘆きつつ進もう。
力ある方が憐れみ深いことを知っているから。 油の用意をしていなかった乙女とはどのような人でしょうか
整形した人やダイエットして痩せた人が
いつのまにか素の、または元の
表情や体型に戻るようなものです
だらしない食べ方をする習慣
天然アホな性格
強欲で憎悪を燃えたぎらせるような人が
一時的に立派な記念写真を撮ってみても
いつのまにか顔は歪み、デブデブになり、
無意識のうちに隠し撮りされた時のような
変わりなさをさらします >>242
パーツは美人なのになあ…と不思議に思ったことはありませんか?
逆に、けっして美人とは言えないのに素敵に見える人がいますよね。
美人と不細工が魂を入れ替わる漫画があるのだけど、男女が入れ替わる例もありますね。
入れ替わったら習慣や性格から外見の様子も変わってきますよ。 今日はマタイ9:14から読みました。
花婿🤵が一緒にいる間、婚礼客は悲しめるだろうか。
花婿が取られる日が来る。その時は断食する。
新しいぶどう🍇酒は新しい皮袋へ入れるものだ。
この後にヤイロの死んだ娘と長血の女が登場するのです。 みことばカードディボーション
詩篇ばかりです。
美しいですね。
私にはつらいみことばもありますが、一枚ごとに祈りつつ、願いを注ぎ出しています。 >>244
ここのヤイロの娘がイエズスに手をとられて生き返る場面は、ディズニーアニメみたいです。
王子様が来てくれて、死んだ白雪姫は生き返り、100年眠っていたオーロラ姫は目を覚まします。 他人の欠点はよく見えるものです。
あえて言わないだけで、知っています。
私たちはどれだけその方の長所を信じ、掘り起こし、自分自身のみじめさを見つめてゆるしていくかを実践しています。
勘違いしないことです。うまくスルーされているだけなのに気づかれていないなどと。
ましてや天にまで駆け上れるかのようには。 febc恵子の郵便ポストを聞いて、少し違う見解を持ちました。 修道院に憧れて修道院の緩い実態を知り、改革する聖人の話を、聖人カレンダーでよく読むことがあります。
私は思うのです。
その聖人の望む厳しい生活も、その人の忍耐できる範囲を超えていません。
ダイエットと同じだと思います。
その人に見合うダイエットのやり方があり、自分のやりたいダイエット法を実践するほうが、他人の形に合わせるよりははるかに楽なのです。
世にあって厳しい負荷をかけることほど、難しいダイエットはありません。 レジの人が「お次の方〜」と呼んでいたので、高齢の年配のかたに「呼んでます」と誘導。
ぞんざいな言い方だったかな。
「呼ばれてますよ」といえばよかったか。
私の番がやって来て、あたかも「呼んでます」と突き放した強い性格ででもあるかのごとく一貫性をたもちながら店の人と対応した。
それかそんな気分だったのだと思わせようとした。
こんなこともあるのだ。
意地悪ではなく冷淡なわけでもない。
だから私も相手の人を怖がらずその良心を信じればいいと改めて思った。 違うコスモスに行ったら、ARKのウクライナ菓子の種類が増えていた。 今日で丸一年です。
一日も止まない体のしるし。
体内の振動。 昭和大学、医学部の不正入試を公表…現役生への加点など | リセマム
https://megalodon.jp/2018-1016-2016-38/https://resemom.jp:443/article/2018/10/16/47214.html 結局、聖書に戻ってしまう。
自分の体験や知識や判断なんて吹き飛んでしまう。 生活のこと、みことばディボーション
または馴れ合い、冗談。
こんなぬるいことばかり話してたら偽りの平和は与えられるかもしれませんが、
それでは混沌世界にしかなりません。
はっきりした立場表明と、はっきりした考えを述べることで、世の光となります。 自分を作り上げることだけでいいならぬるくてもいいんですけど。
世の光、地の塩としての務めを放棄して関わらないようにと言われていれば、私もわざわざ汚い水に触ろうとはしません。 手先を使う仕事をしていた頃、指先がしびれて腫れてしまい、整形外科を受診したことがあります。
その時、遺伝子的にはなかったけれども、リウマチだと言われました。
私は仕事をセーブして自分が楽になることをやってみました。
どうやら血の巡りの問題だとわかり、指の関節を引っ張りポキポキさせました。
そして治りました。血の巡りは自然な流れとなり青ざめた指先はピンク色に変わりました。 https://talking-english.net/cultural-appropriation/
cultural appropriationは「文化の盗用」と訳されることが多いですが、意味としては「文化の私物化」ぐらいが近く、勝手に縁もゆかりもない文化を借りてくるような行為として批判されます。 >>264
神様はご自分のものを奪い返していらっしゃるので、正当性があります。
聖書には持っているものまで取られると書いてありますが、もともと神様のものです。 昨日、雨宮神父のfebc番組を聞いてましたら
ひっくり返されるというキーワードがたくさん出ていました。
この時も、不当に奪われるというイメージがたくさん湧いて、御心が人間心によって変えられていく世界を思いました。 『manna』はしばらく裁きの宣告が続きます。
おそらく当時の世界で国々は繁栄し、豊かな生活をし、共同体の間では平和に暮らしていたはずです。
しかし神の御前にはそれは偽りの繁栄であり、偽りの平和であり、偽りの富でした。
日本の国際政治をこのところニュースでよく見ますが、他国との協力を約束したりしてますが、アウンサンスーチー氏が来日してもロヒンギャ族の迫害について釘をさすことなくダンマリだったそうです。
これではおかしいでしょう。
根強い差別意識があるから時間がかかるとスーチー氏は言うけど、釘をさすくらい何の問題がありますか。 洗濯しました。
そのあと本屋をぶらつき、パンをいくつか購入してきて食べました。 『主とともに 十字架の道行と黙想』
奥村一郎 著
4ページ
序に代えて
第二ヴァチカン公会議以後、殊にここ数年来、教会の中、殊にヨーロッパのカトリック教会において、信心業の急速な退行現象が見られる。
なお、地域差、個人差があるとしても、司祭、修道者を含め、教会全体として、信心業に対する熱心が冷めてきていることは否めない。
(略)
一九七四年 師走 天国へ行ってもやりたいことをリストアップしています。
最近は夜中のうちにミサ朗読を読んでしまい、早朝はfebcを聞き、一日がダラダラになっているような気がします。
心を込めてテーマごとに瞑想しようと思います。 一日をかけてやっていたことが、午前中には仕上がっていて、思い巡らすことが少なくなりました。
私の中にみことばを留めて、意識的に充満しているようにしないと、すぐこぼれてしまいます。
もっと祈り、神様との対話を増やしたいです。
黙想したり、コンパクトに集中して、昼寝の時間を減らします。 こんな時間が与えられるのも感謝なことです。
体調と相談しながらですが、習慣化させたいですね。 訳が分からなくなって一年。
今日の『manna』を学んで、私はあることを理解しました。
私がわからなくなったのは、罰の結果なのではないかと。私が未だにわからないのは、結果である呪いが続いているからではないか、と思います。
私は求め続けなくてはいけません。 イエズスの他に恋したことが苦しみの要諦です。
バカにされるかもしれないけど、私はキリスト以外の人に恋したことの責めを負わされていました。私自身もイエズスの恋を背負えません。
何が苦しみだったか、気持ち悪い人との無理やり結婚です。
どんな苦痛を味わったか、発狂がやまないほどです。これからも不安です。神は人格をもたれているのですから、絶対ないとは言い切れません。私にも絶対はないのですから。
恋したことをどう悔い改めるのか、未だにわからずもてあましています。
私が罰を受けて神の溜飲が下がり、怒りが憐れみに変わることを待つしかないです。
しかし私はキリストを夫として見るのはもう難しいので、末端のしもべとして、または罰を下された民の命乞いにも似た態度でひたすらひれ伏しています。 助けてくれなかったこと。
この恐怖がまったく去りません。 昨日も泣きました。
思い出しては泣いています。
悲しみと恐怖とこれからの不安。
いつ静寂が破られ、この平穏が取り去られるか
それはいつ起きてもおかしくありません。 天国へ行っても、この恐怖は去らないでしょう。
神様は人格をお持ちですから、私にもわからない欠けのせいで何を思われるかわからず、ご機嫌ひとつで御顔を隠されることも絶対ないとは言い切れません。
神様の契約には私たちの応答が不可欠です。
神様は忠実でも、私たちが理解に欠けると、今までも契約は無効にされてきました。
神様のお約束は私たちへの願いであり、私たちは真面目に間違え、緊張から解放されませんでした。
天使でも自由意志から反抗し罰を受けるのですから、天国へ行ったから、永遠に反抗しないと誰がいえるでしょう。
永遠は神様の願いです。私たちの自由意志で拒まないよう、これからも努力と緊張は続くのではないでしょうか。永遠に堕落しない、反抗しないなどと誰がいえるでしょう。 私の恐怖はこれからも続く。
天国へ行っても保証はされない。
わからなくされるという不安を抱えながら、緊張を解かず、悲しみを覚えたままで神を賛美する。
利点は神の永遠のへりくだりと永遠のあわれみを共感させていただくこと。
この痛みを伴う賛美が天国の特質ではないかと思っている。 温度差の激しい聖句で私を裁く人がいます。
こちらにはまったく当たらない聖句を、自慢げに投げつけるのです。
投稿してくる人が「俺様の聖霊体験」を語り、、、
もうだめだ、笑笑。 悪魔と毎日対話している愛の天使こと高ぶりミルナさんが、
吠え猛る龍が食い尽くす獲物を探している様子と私を重ねていました。
私は自分のスレ以外にはほとんど見てません。
癒しスレも愛されスレも見てませんでした。
突然、ディボーションスレに大王が来て、一方的に私を批判する的外れな聖句を投下していたのです。
私は超久しぶりに愛されスレを最近の分だけ読みました。
こんなふうに、彼らの批判や見当は誤っています。
もう完全に断つ決意をします。 癒しスレも覗いてみました。
高ぶりいさなさんが健在でしたね。
ろんさんが意外と冷静で驚きました。 私たちは自分をコントロールすることはできません。
主が整えてくださいます。 潮いさなさん
何様なんでしょうね。
キリスト者をバカにしてるけど、じゃああなたにどんな素晴らしい特性がありますか?
高ぶり以外何もない。 イエズスがマグダラのマリアの行為に対して感動する場面が福音書にはしばしばあります。
私はなぜかその感動ポイントがわかりません。
えー(絶句)みたいな…。
そこまで? 聖霊の導きによる福音書だけど、四本とも微妙な違いがある。
いったい聖霊とはどんなふうに働かれているのか。
史実とは違うことを語ることもあるのが聖霊なのか。
カトリックの聖人に啓示された物語の中にも致命的な違いがある。
聖母の帰天年齢がまったく違うのだ。
ホスチアはどんな働きをされているのか。
一人一人のパン種に従って膨らんでいるようなものではないだろうか。 もう一人の助け主
もう一つのホスチア
ファウスティナが切望したのは、この聖霊のことかしら。 激しい雨が打ちつけています。
こんな予報あったかしら。 正直なところ、ファウスティナの日記を読んでゾッとしています。
キリストの指導があまりにも窮屈で縛りすぎると感じます。
ある人の部屋に飾ろうとして一番良い花を摘んで帰ろうとしたらキリストのクレーム
自然の美しさに見とれていたらキリストのクレーム…
何を期待されてるのでしょうか、私たちは。 >>294
小さなテレーズが小さなことに真心こめる生き方とは対照的です。
ファウスティナを指導するキリストは、苦言を呈するのですから。
煉獄の霊魂を救うために主と談判して編み物する時は真心を込めて編むからとお願いしているファウスティナ。
そこも私には理解しがたい。 福音書のキリストも
ファウスティナのキリストも
みこころが掴めない。 神様に私の罪を教えてくださいと祈っていると
想像という言葉が浮かびました。
何ヶ月か前だったと思います。
私の想像が罪なのです。
突然ひらめくイマジネーションも想像のうちかもしれません。
そして想像は広がります。 5ちゃんの広告は漫画だらけです。
作家の想像が描いた世界、作家の憧れなのでしょうか。
何でもありなんですよね。でもそれは虚偽の世界です。
私は真実が知りたいです。
真実だけを知りたいです。 石打をお命じになられたご本人から
石打を否定されて
戸惑うエルサレムの民。
平和への道を知っていたら。
しかし、今はお前の目から隠されている…
あれだけ厳しく、守りなさいと
お命じになられたご本人から
律法を超えたところへ連れて行かれる。
神様のみこころは測りがたい。
恐ろしいほど厳しく、
驚くばかりのいつくしみに溢れている。 ぶどう園の主人と農夫のたとえ話を聞いたとき、
農夫は主人の息子が跡取りなことを知っており、
この農夫が誰かを教えていただいた。
しかしこの農夫は息子だとわかっていて殺したのに、
キリストはキリストだと認めてもらえず殺されたのではないか。
そんな細かい矛盾を考えながら、農夫の本心を探っている。 みこころから遠く離れた農夫には仲間がいる。
皆、心を一つにしている。
まるでラケルの長子ヨセフを殺そうと企むレアの息子たちのように。 助けてほしいときに頼みの綱が降りて来ない。
頼りにしていたかたの助けがない。
この恐怖たるや、甘く見てるとトラウマを抱えて廃人生活です。
裁きの日に自分の言い分が通ると思ってる異教徒がいました。
私の不徳の致すところです。私はヨナにはなれませんでしたから。
でもヨナに勝るキリストがいる。キリストの説教にも一度か二度は出会ってるはず。
そこへ来て言い訳がたつとか、平気なはずだと信じている人に、あらためて伝えます。
死んだ後の言い訳は通用しません。 早めに寝ようとしてもつい考えてしまうのが、
私のこのような立場です。
あれは何だったのだろう、私が唯一信じているのが聖書と伝承だからここから出発して考えると、あれはそれは何なのだろう。
そしてわからないことをいつまでもいつまでも考えて、泣いて、眠れなくて、夜遅くになると、慰めの霊が私を包み始めます。
ファウスティナだったら、指導司祭のもと安心して受け入れるかもしれません。
こんなに苦しまないと慰めは来ないのか。
もしくはあの反キリストがいつもの自由時間になって私を惑わしに来るのだろうか。
(良かれと思って)
昨夜は私がいつものように苦しんで泣いていると、アヴェマリアが脳内BGMとなって繰り返されました。天使の慰めだろうか。
私は悪魔の仕業であることも考えて、いったい彼らが私に向かわせようとしていることは何かを具体的にシミュレーションしたりしてましたが、
眠気がやって来て寝ました。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています