死後・輪廻はあるか       
−−「無記」「十二縁起」「無我」の再考−−
         森 章司
http://www.sakya-muni.jp/pdf/bunsho12.pdf より抜粋

 要するに原始仏教の縁起説は、「無明」があるが故に愛 ・取という煩悩が起こり、これが再生(有)のもととなって、
生老病死を断ちきることができない、ということを説いたものということができる。
したがって三世両重ではないとしても輪廻を前提に解釈されていることは明らかである。
確かに十二縁起説は新しいかも知れないが、より古いとみられる愛から始まる五支縁起にしても、その本意は変わらない。
愛・取という煩悩があることによって、輪廻転生しなければならない生存の原理(有)が生じ、
だから来世においても生・老死という苦しみを解決できないということを示すからである。  
 このことは他の主要な原始仏教の教えを見ても了解されうる。四諦のうちの苦諦は「生まれも苦であり、
老いも苦であり、病も苦であり、死も苦であり、愁・悲・苦・憂・悩も苦であり、怨憎会も苦であり、愛別離も苦であり、
求不得も苦であり、要をとってこれを言えば 五取蘊は苦である」と、いわゆる四苦八苦によって解説される。
この中に「生」すなわち「生れる」ことが入っているのは、輪廻転生の「生」がイメージされているのは容易に想像することができる。
現在すでにこの世に生まれてきているわれわれにとっては、もし再び生まれ変わることがないとするなら、
すなわち輪廻が前提となっていないとするなら、「生れる」は「苦しみ」とはならないはずである。
それは集諦が「再生をもたらし、喜・貪をともない、ここかしこにおいて歓喜するところの渇愛 、
いわゆる欲愛・有 愛・無有愛である」とされることからも明らかである。
すなわち渇愛は「再生」をもたらすから苦しみの原因なのであって、「生」が苦しみであるのも、
渇愛があるかぎりさらに輪廻転生して生老病死を続けなければならないということが念頭に置かれているからである。