外道の独り言 10
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「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません
このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して
パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします
「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいです)
「真摯なる碩学」が
パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです
自由に書き込みしたい方は↓こちらへ
ひだ =^・ ・^= まり
ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2
ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524
前スレ
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1526072224/
ログ保管庫
ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html 松本史朗先生は「如来蔵思想は仏教にあらず」の結びで
「今日の日本仏教は、如来蔵思想のたえざる否定としてのみ仏教たりうる。」
と仰ってたけど、それから30年余(かな?)。
「今日」の日本仏教!!!
実際の修行や信仰等、実践の場では「本来は仏」としてやってるわけで、なーんの影響もないのが実際だけどね。 >>163
だからさ
永続する何かがあるのは、現状の我々の話で、ブッダの視野からすれば、そんなもんない
ってだけの話やんかw
我々が輪廻から解脱してたら、ワザワザ、仏法なんか説くかいな、笑 >>168
ダンマパダ なら、もっと直接的な
126 或る人々は[人の]胎に宿り、悪をなした者どもは地獄に墜ち、行ないの良い人々は天におもむき、汚れの無い人々は全き安らぎに入る。
なども、ありますよ。
これなどは、もろに、死後存続のことを言っていますが、では、釈迦は本当に
このような死後存続を支持していたのか?
なら、「無我」もくそもないでしょ?
死後もきちんと永続していく「我」が存在しています。
そういう言及は、バラモンからの混入、もしくは、釈迦が言及したのなら
倫理的要請からの言及でしょう?
釈迦が、無我を説き、一方ではそれと矛盾する死後存続を説いたのならば、
釈迦は、その論理破たんを理解できないほどのバカということになりますが、
貴方はそう思いますか?
私はそのようには考えません。
無我がその教説の根幹であり、輪廻転生、死後存続はあくまでも、倫理的要請による
方便であったと考えますがね?w >>174
え〜〜とですね、何が論点かもわからない人は、とりあえず黙っておいて
くれませんか?w >>163
主体となる因について具体的には説かれていませんが、縁については「煩悩から生じるもの」「執著」などが明記はされてますね。
業相続とか心相続となったのは部派仏教以降でしょうか?
ただし業にしても心(エネルギー)にしてもアートマンとは違って永久不変ではありません。
心はテーラワーダでは勝義体ではありますが、テーラワーダの勝義は有部の5位と同じようなもので悟りの世界そのものというわけではありません
(勝義の中に心や心所と並んで涅槃があります)
業も心も縁起により刻々と変化を続けるのでそこのところで縁起を受けないアートマンとの違いはあります。
ブッダは死ぬときに残っているのは業だけであるとも説いています、これもアートマンとは違い善悪で分別され色がついているものです。
また業や心が万物(一切法)の基盤であるというわけではなく、それでしたら中期大乗以降の空の方がよほど基盤基体になっているといえるでしょう。 輪廻転生についてお釈迦様は、巷説である輪廻転生説を「保持」はしていたけど、積極的に支持や反対を唱えていたんではないのが事実では?
「常・一・主・宰の我が輪廻転生」するって巷説は、常・一・主・宰の我の否定で輪廻転生も無意味化するからね。
そこで、「無我と輪廻転生」って問題が改めて浮き彫りになって来るのかな? >>173
ダンマパダ126それこそ修行僧ではなく在家向きの説法でしょうね。
話を戻して、
153 わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、──家屋の作者(ツクリテ)をさがしもとめて──。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。
154 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。
この偈についてはどうですか?
誰も聞いてなかったのだから後世の捏造ですか?w >>171
行き過ぎた本覚思想とは逆に如来蔵思想は修行へのモチベーションになるので良いと思います。
道元も仏性の存在を信じて(確信して)の只管打坐だったのだと思います。
私は覚者でもなんでもない凡夫なので断定・確定はできませんが >>178
>誰も聞いてなかったのだから後世の捏造ですか?w
誰も聞いてなかった?
誰かが聞いていたから、それが残されたのでしょう?
本当に誰も聞いていなかったのなら、その言葉は残っていませんよ。
まあ、内容からして、おそらくバラモン出身の弟子に対して言ったことでは
ないでしょうか? >>180
ではその偈はバラモン出身の弟子についた方便で
「菩提樹の下で悟りをひらき、輪廻から解放された安堵と喜びを表現した」というのは本心ではなかったということですか?
そして翻訳し註釈をいれた中村元先生もそこまではみぬけなかった、と? 【テーラーガーター】
わたしの汚れは消滅し、わたしはもはや迷いの生存を受けることがない。わたしは、尊敬されるべき人(アルハット)、布施
を受けるべき人、三種の明知のある人、不死を見る人である。(ラーフラ)。
わたしは、迷妄をすべて捨て去った。生存に対する妄執をうち破り、生まれをくり返す迷いの生存は滅びてしまった。いまや
迷いの生存をふたたびくり返すことはない。(ナディ・カッサパ)
人は輪廻に踏みこんで、順次に母胎を受け、またのちの世界に近づく。智慧の少ない人は、信じこんで、母胎を受け、また
のちの世界に近づく。(ラッタパーラ長老)
〔過去の〕無数の劫において、かれらは自分の身体なるものを得ていた。それらのうちで、これは最後のものである。これ
は最後の<諸要素集合の身体>である、生と死をくり返す輪廻、再び迷いの生存に入ることは、もはや存在しな
い。(クマーラカッサパ)
以前に、他の幾多の生涯においてわたしの作った悪業は、いまこの世においてその報いを受けねばならぬ。しかし〔のち
に〕他の〔生存をひき起こすべき〕根拠(素因)はもはや存在しない。(サミティグッタ)
わたしは、尊敬さるべき人、供養を受けるべき人、三つの明知を得て、不死の境地を見るものである。〔悪魔〕ナムチの軍
勢に打ち克って、汚れなき者として住している。(ヴァッダ)
苦しみは終わった。諸要素の集合よりなるこの身体―生まれることと死との輪廻にかかわる―は最後のものである。いま
や迷いの生存を再びくり返すことはない。(ヴァッダ)
愚昧なる凡夫は、長い時期にわたって輪廻しつつ、もろもろの生存領域をへめぐってきた。――〔四つの〕尊い真理を見る
ことなしに。(ヴァッジタ)
そのわたしが、怠らずに修養に努めたときに輪廻は断たれ、すべての生存領域は根絶された。いまやわたしはさらに迷い
の生存をくり返すことはない。(ヴァッジタ)
わたしは過去世の状態を知った。見通す眼(天眼)は浄められた。三つの明知は体得された。ブッダの教えはなしとげられ
た。(チューラパンタカ周利槃特) >>176
根本的に間違っているのは、「我」という概念の捉え方です。
輪廻転生論者の常套句とも言うべきものが、貴方がそこで言っている
「業はアートマンと違い不変ではなありません。だから、『我』ではないのです。」
ということです。
では、ここに田中さんという人がいたとします。
田中さんは、様々な行為を行い「田中さんの」業を形成します。そして、
死後、その業が残り、その田中さんの後継者(死後の相続者)である「田中2」に引き継がれたとしましょう。
さてその業は時間の経過と共に色々、変化します。不変ではありません。
だから、「我」ではないんだと・・・・・・
それでは、聞きますが、その業は途中で「鈴木さん」の業に変化したりすることは
ありますか?
その「田中さんの業」が、森本さんの業になったりすることはありますか?
・・・・・ありませんよね?
それは、どんなに変化しても、やっぱり「田中さんの」業なんです。
その「個識別性」だけは変化しないのです。
そこは不変なんですよ。
もし、そこが変化して、鈴木さんの業になってしまったら、輪廻転生もくそも
ありません。
つまり「田中2」に引き継がれた業は、田中さんの業であると言える属性が必須なんです。
その属性が、 田中⇒田中2 のラインを担保しているわけです。
その「個識別性」・・・・即ち、これこそが「我」ですが、
それを必須とする輪廻転生は、決して無我とは両立しません。 【テーリーガーター】
前世において、わたしは、母子や父兄や祖母として生まれました。わたしは〔事物の真相を〕ありのままに知ることなく、〔さ
とりの境地を〕見出さないで、輪廻しました。(マハーパジャーパティー尼)
〔しかるに〕わたしは、かの尊師にお目にかかりました。これは、〔わたしの〕最後の身であります。わたしは、生まれをくり返
す輪廻を滅ぼしつくしました。いまは、もはやふたたび迷いの生存をつづけることはありません。(マハーパジャーパティー
尼)
わたしは、夜の初更に、前世のことを想いおこしました。夜の中更に、天眼を浄めました。夜の後更に、〔無明の〕暗黒の塊
りを破り砕きました。(ウッダラー尼)
くり返し、一つの生存から他の生存へと、〔生まれかわりつつ〕己が身を尊重し、生死のうちをへめぐりながら、己が身を超
えることができない。(シースーパチャーラー尼)
修行尼として完全な戒律を身に受け具えて、わたしの前世を想い起こしました。すぐれた眼(天眼)は浄められました。そ
れは汚れなく、みごとに修められたのです。(サクラー尼) >>179
松本先生の説も、まぁ、方便として自身の糧とすれば良し、と私も受け止めています。 >>183
なるほど、ではやはり輪廻転生からの解脱を目標に掲げながら一方では無我を説くというのは矛盾であり、それに気づかなかったブッダが間違えていたということですかね。
>>182>>185で輪廻転生から解脱した境地を偈にした阿羅漢も何か勘違いしているのでしょう。 >>181
>「菩提樹の下で悟りをひらき、輪廻から解放された安堵と喜びを表現した」という>のは本心ではなかったということですか?
「・・・輪廻から解放された安堵と喜び」
ではなく、「元から輪廻などなかったことがわかった喜び」でしょう?
>そして翻訳し註釈をいれた中村元先生もそこまではみぬけなかった、と?
みぬけなかった・・・・というよりは、あの人は元々、印哲出身の「非我」論者
ですし、どちらかといったら、「基体」肯定派だと思いますよ。 >>187
153 わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、──家屋の作者(ツクリテ)をさがしもとめて──。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。
この偈は釈迦が思い悩んでからの無明からの迷妄の時代を比喩として読んだもので
154 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。
無明が晴れたら(妄執を滅したら)実は輪廻などは幻に過ぎなかった
と解釈していらっしゃるということですね? >>186
>なるほど、ではやはり輪廻転生からの解脱を目標に掲げながら一方では無我を説く>というのは矛盾であり、それに気づかなかったブッダが間違えていたということで>すかね
言ってることがよくわかりませんが?
釈迦は、その説法においては、相手によって様々な語り口を用いたと思いますよ。
例えば、在家に対しては生天思想を説いて、その行いを正したり、
出家者に対しても、輪廻を信じ込んでいるバラモンなどに対しては、そこからの
解脱として修行を推奨したりと まあ、 様々だったでしょう。 >>189
テーラーガーダー、テーリーガーダーの偈はいかがですか?
この偈を読んだ阿羅漢達は何か思い違いをしていたということでしょうか? >>188
>無明が晴れたら(妄執を滅したら)実は輪廻などは幻に過ぎなかった
>と解釈していらっしゃるということですね?
そうです。
釈迦も解脱するまでは、無我 を了解することはなかったでしょう。
その 無我 をとことん自己に落とし込めて、了解できたことによって
苦が滅せられたわけであり、 同時に無我により、基体否定が了解できて
基体(我)がないことが分かったことにより、(それまで普遍的真実として
信じ込まれていた)輪廻転生が幻であることがわかったのでしょう。
釈迦の賢いとこは、それで直ちに「輪廻転生などまやかしである」と言わなかったとこです。
それを言ってしまうことによる弊害が十分わかっていたし、その利用価値も分かって
いたからです。 >>183
横からすみません。
例えば、唯識でいう種子は無限の過去から蓄積されてきたもので、その生で発現(縁生)するのはその内の一部だったかと思います。
例えば、阿頼耶識に9999個の種子があるとすれば、その生で発芽(縁生)するのは100個といった感じで、それを持って「個別識性」とされるのでしょうか?
であれば、次生で発芽するのは必ずしもこの世で発芽したものが継続された種子とは限らないので「個識別性」だけは変化しないというのは、唯識の視座から見れば如何なものかな、と。
>>115 >中観帰謬派では意志の自性についてはなんと説いています?
ttp://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
中観帰謬派の場合は
仮設としての
世俗の次元においても自相(自性)を否定します
自性ではないからこそ
仮設としての
縁起に依存して
「意志のようなもの」が、現れ、そして滅している
_ _ _
中論 第二十七章 見解(邪見)の考察
(仮設としての)
「私は(この現世においての)過去に存在していた」と言うことは妥当ではない
(この現世においての)過去に存在していたものは
その者(今、現在の私)と同一ではないからである
この現世においての
過去と今、現在とでは、同一ではないので
それゆえに
前世と現世においても、同一ではない >>190
少なくとも「天眼」により、過去世を思いだした なんて言ってるのは、
もし本人が言ったのなら、かなり思い込みの激しい痛い人だった可能性がありますね。
まず、六神通の言及は、殆ど神格化の一形態です。
後世の経典製作者の筆が滑ったと信じたいw
でなければ、当時の阿羅漢の多くが、精神上に何らかの問題を抱えていたことになる。 >>192
要は「ライン」なんですよ。
田中1⇒田中2⇒田中3⇒田中4・・・・・・
の輪廻ラインがあったとして、田中4で発芽した100個の趣旨が、田中1で形成された
ものとします。
それも、「個識別性」です。 その、100個が全くべつの鈴木さんの阿頼耶識であれば、それはもう、輪廻転生ではありません。
業には、異熟 という考えがありまして、積んだ業の果はすぐに表れるとは限りません。 次世かもしれませんし、7代後かもしれません。
しかし、必ずその業の継承者のどこかで現れると考えます。
つまり、ラインなんです。 >>191
論点が、わからないも何も
これは、普通に、これでしょうがwwww
単にパーピマンが無我を知らなければ、業が輪廻する
それは、信じてるとか信じてないとか関係ない
業は我ではないが、我であると、勘違いしているものである
肉体と精神である 無我なのに輪廻する矛盾というのは
この、再生を繰り返す、肉体と精神を、わたしのものだーーーと、勘違いして粘着している、思いの固まり、つまり、業が残ってるからでしょうがw
そして、その業の消滅するために、欲することから離れる修行をコツコツとやって、遂に、わたしなるものが滅したら、悟りを開いて、解脱するんでしょう
それを見抜いたものの視野から見れば、無我でも、まだ執着心があるものから見れば、紛れもなく、わたし自身だと思ってるでしょうwwww 197.無我そのものが輪廻転生する、か。と言う問題である。 皆の衆、お早うにゃん ♪ (*^。^*)ノ”
今時の仏教徒は狭量で気の短い
僧兵モドキばかりにゃん♪(苦笑)
釈迦が見たら外道と呟くにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>153
505 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2017/09/15(金) 05:44:36.07 ID:qCtN/w6T
>・・・・・。釈尊の無常、無我、縁起の考えとは相容れません。(詳細は、『禅思想の批判的研究』松本史朗著 大蔵出版を参照)
何の宗教体験もなく、単に言葉の上だけで仏教を学んでいる愚か者だけがそのような
ことを考えてしまうのです。
宗教体験があれば、真実の世界は決して言葉では表わせないもので、全ての表現は
それを読む者を真実の世界に引き入れる為の方便に過ぎないことがわかるのです。
それがわかるから、原始仏教が大乗仏教に発展していった理由も理解できるのです。
体験のない者は言葉で表わされた世界が真実だと勘違いしてしまう為に、表現の違い
に惑わされて 「原始仏教と大乗仏教は違う」、「この教えとあの教えは違う」などと
考えてしまうのです。
宗教体験のない者が書いた仏教書ほど無意味で有害な書物はないと言ってよいでしょう。 >>198
無我、そのものであるものが、輪廻してるんではないですかね
それは、肉体と精神を我がものであると勘違いしているエネルギーの、総体である、業が、新たな肉体に宿るからでしょ
矛盾と思ってんのは、その、輪廻してるのが、わたしだと思ってるからじゃないか
しかし、その、無我なるものを、我と思いなして、輪廻している業が、滅したら、輪廻転生が終わるから、再生しない
しかし、それは、この、生存が終わっとる、つまり、苦しみのみであると諦めて、その連続から脱出する試みで、成功したものは、ほとんどいないわけでしょう
だから無我なるものは、輪廻している世界から消失してしまい、もはや、光を放たない
しかし、我々はそうはいかない
有我であるからではなく、この、変遷、つまり、生死が、その、作り手を見抜いてないから、肉体と精神を我がものであると確信して、粘着し、欲することに、惑っているからである >>201
日本人は、この煩悩を立つことは、高等すぎると諦めて、輪廻転生の、先を、ブッダであるアミダのいる世界に定めて、そこに、生まれ変わって、その、次の生存で、成仏することを、目指している仏法を信仰してるから、この世界で、悟ることは諦めてるわけでしょ
だから、あと一回だけ、生まれ変わって、成仏できたら、大成功だから、煩悩を立つ方向ではなくて、善行をなして、ブッダの世界へいってみよー
としてる >>164
アホか。(笑)
地獄に落ちる奴らも居るし、来世どころか永遠の宿業も、血筋も、憑き物筋も、祟り神も妖怪も護法も神々も概念ではなく本当に居るぞ。(笑)
(^。^)色々とおぞましい世界だが、お前らには関係ない話だ。(笑) 無我と自灯明法灯明は両立するのか?
自らを拠り所にせよと言われてもその自らはない、無我である >>204
自らを省みれば、自らが、我ではないと気がつくけれども、他ごとに気を取られて、自分自信を注視しないものは、我から離れないってことでしょ 201.無我が輪廻転生する、か。
無我とは何か。
それは有我との相対概念であるからである。
だからして、有我があるところに、無我があることになる。
その両者を断絶することは誤りであることになる。弁証法である。 >>203
wwwwwwwwwwww
>地獄に落ちる奴らも居るし、来世どころか永遠の宿業も、血筋も、憑き物筋も、祟>り神も妖怪も護法も神々も概念ではなく本当に居るぞ。(笑)
うんw やっぱりお前は狂だなw
お前はそうでなくてはいかんw
変に悪悟りしたのかと思ったわw >>205
無常であり苦(思う通りにならない、価値がない)であり無我である自己を如何にすれば拠り所にでるのか、ということ >>194
田中A→死後消滅→業の条件によってどっかの誰かとして転生。
ただし外見はもう田中じゃないし前世の記憶もないから実質別物
もしも輪廻が連続した何かだと確信するためには前世を全て思い出すしかないはず
もしくは業も輪廻もあると思い込むかどっちかしかない
だから輪廻を肯定するには仏典においてアラハンと呼ばれる人達が前世を思い出したという条件が必須になる
ウソか本当かはもちろん証明できないけど
>>190 >テーラーガーダー、テーリーガーダーの偈はいかがですか?
↓これですね?
ttp://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-8.html
1.6.5 アンジャナ・ヴァニヤ長老の詩偈
55.(55) アンジャナ林に入って、坐床を小屋と為して
三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)は獲得され
覚者(ブッダ)の教えは為された
1.7.7 エーカダンマ・サヴァニーヤ長老の詩偈
67.(67) わたしの諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)は焼尽し
一切の〔迷いの〕生存は完破された
生の輪廻は滅尽し、今や、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない
2.2.9 ナンダ長老の詩偈
157.(157) 〔わたしは〕根源“あり”のままに
意“おもい”を為すこと(如理作意:固定概念なく思い考えること)なきがゆえに
〔自己を〕装うことに専念してきた
〔心が〕高ぶり、かつまた、動揺し
欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に苦悩する者として、〔わたしは〕存してきた
158.(158)
〔他を導く〕手段(方便)に巧みな智ある方(ブッダ)によって
太陽の眷属たる覚者(ブッダ)によって、わたしは
根源のままに〔道を〕実践して
〔迷いの〕生存のうちにある心を、〔明るみへと〕引き出した
_ _ _
仏性からの真如縁起による
太陽の眷属たる覚者(ブッダ)による
無住処涅槃に導くための対機説法 >>183
あなたと同じような見解・主張でブログを書いたらそれに対するコメントが459もついている、
そんなヤフーブログを発見しました。
コメントまでは未読ですが、この問題はかつて2chでも散々議論されてきているとのことで、
容易には皆を納得させる結論はでないようですw
あとでブログコメントも読んでみて更に色々な見識を知り自分なりの見解を深めたいと思います。
もっとも、深めたところでどうするというのもありますがw
>>191
ありがとうございます。
中村説とは異なるあなたの説も素晴らしく、中村説同様に仮説として大いにありです。
性急に結論を出すことなくこちらも暇をみては更に考えてみたいと思いますが、
最終的は何を信じるかに落ち着くのかもしれませんw
>>193
ありがとうございます。
やはり「因果論の中では究極には自由意志はない」という結論になりますね、
その自立論証派や帰謬論証派の教説に沿っても。
しかしリンク先を軽く読んでみましたが、
山火事の世俗諦での認識問題は難しくて書いてあることがよく分からなかったというか、
正直どっちでもいいじゃんと思ってしまいましたw
>>194
小部経典8 テーラーガーダー
http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-8.html?printstate=true
このおそらくは全員が阿羅漢に達した長老の偈の全文が載っているサイトですが、
「輪廻」だけで検索を入れて30ヒットしました。
〔心身を構成する〕五つの範疇(五蘊:物質的形態・感受作用・表象作用・形成作用・識別作用)は遍く知られ、
根元から断たれたものとして安立“あんりゅう”している。生の輪廻は滅尽し、今や、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない。
(サーミダッタ長老)
これだけだと五蘊が輪廻の主体というか五蘊相続説を臭わせているように感じ取られます。
覚者(ブッダ)によって知らされた法(教え)において、歓喜多き比丘は、寂静の境処に到達するであろう
――形成〔作用〕(行:生の輪廻を施設し造作する働き)の寂止という、安楽〔の境地〕に。
(チューラ・ヴァッチャ長老)
このフレーズも結構多用されており、輪廻は形成させるものであることがはっきりしました。 >>211自己レス
>あなたと同じような見解・主張でブログを書いたらそれに対するコメントが459もついている、
<そんなヤフーブログを発見しました。
肝心なリンクを貼り忘れていました。
業の輪廻について
https://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/62739670.html 死後・輪廻はあるか
−−「無記」「十二縁起」「無我」の再考−−
森 章司
http://www.sakya-muni.jp/pdf/bunsho12.pdf より抜粋
要するに原始仏教の縁起説は、「無明」があるが故に愛 ・取という煩悩が起こり、これが再生(有)のもととなって、
生老病死を断ちきることができない、ということを説いたものということができる。
したがって三世両重ではないとしても輪廻を前提に解釈されていることは明らかである。
確かに十二縁起説は新しいかも知れないが、より古いとみられる愛から始まる五支縁起にしても、その本意は変わらない。
愛・取という煩悩があることによって、輪廻転生しなければならない生存の原理(有)が生じ、
だから来世においても生・老死という苦しみを解決できないということを示すからである。
このことは他の主要な原始仏教の教えを見ても了解されうる。四諦のうちの苦諦は「生まれも苦であり、
老いも苦であり、病も苦であり、死も苦であり、愁・悲・苦・憂・悩も苦であり、怨憎会も苦であり、愛別離も苦であり、
求不得も苦であり、要をとってこれを言えば 五取蘊は苦である」と、いわゆる四苦八苦によって解説される。
この中に「生」すなわち「生れる」ことが入っているのは、輪廻転生の「生」がイメージされているのは容易に想像することができる。
現在すでにこの世に生まれてきているわれわれにとっては、もし再び生まれ変わることがないとするなら、
すなわち輪廻が前提となっていないとするなら、「生れる」は「苦しみ」とはならないはずである。
それは集諦が「再生をもたらし、喜・貪をともない、ここかしこにおいて歓喜するところの渇愛 、
いわゆる欲愛・有 愛・無有愛である」とされることからも明らかである。
すなわち渇愛は「再生」をもたらすから苦しみの原因なのであって、「生」が苦しみであるのも、
渇愛があるかぎりさらに輪廻転生して生老病死を続けなければならないということが念頭に置かれているからである。 >>213の続き
また「無常・苦・無我」説は拙著の『原始仏教から阿毘達磨への仏教教理の研究』(第4章)で詳述した如く、
五取蘊すなわち凡夫は無常・苦すなわち生老病死して、無我なるが故にそれを如何ともなしがたいが、
無常・苦・無我なることを如実知見することができれば、「色において厭い離れ、受において厭い離れ、想において厭い離れ、
行において厭い離れ、識において厭い離れ、厭い離れて貪欲を離れ、貪欲を離れるが故に解脱し、解脱するにおいて解脱したとの智が生じ、
生已につき、梵行已に立ち、所作已に弁じ、更に後有を受けずと知る」とされる。
すなわち如実知見すれば離貪し、解脱して、解脱した者は「生が尽きて」「後有を受けない」が、如実知見しえない者は、
解脱できず、解脱できない者は「生は尽きず」「後有」が継続して、生死輪廻しなければならないという教えなのである。
このように「四諦」説や「無常・苦・無我」説などの原始仏教の教えは、すべて衆生は生老病死の「輪廻」の苦しみを繰り返すから、
ここから解脱しなければならないという教えであって、縁起説とて例外ではないということである。
とするならばむしろ輪廻は縁起説や四諦説や無常・苦・無我説の基礎になっているのであって、輪廻はこれらと一枚のものであり、
先に紹介した仏教学者が言うように決してレヴェルが異なる低俗な<方便としてのという意味かな?>教えではないということになる。 あ、スッタニパータの第五でブッダに教えを請いに来たバラモンの学生に対して、
方や「信仰を捨てよ」といい、方やバラモン教で未完成ながらもその存在が信じられてきた輪廻からの解脱を説く
しかも輪廻など存在しないからそんな輪廻信仰を捨てよ、というような形で解脱を説いていたわけではない、
これも腑に落ちない話です。
「アジタ・ケーサカンバリンのように輪廻はないと説くと業報もなくなり道徳不要論に陥る」のを避けたからだと、恐らく人は説くでしょうが。
>>215 ID:Ph5NOJ4N師匠は
ずいぶんと真面目に仏教(宗教)に取り組んでいるんですね?
ちなみに
おじゃるは
落武者の霊を見て
オカルト
そして、それから
仏教質問箱
仏教議論で
散々
中観帰謬派のような師匠に叩かれました
「どのような恐怖体験をしても
とにかく
掴もうとしている『想い』を手放しせよ!」と
それでも
今でも
オカルトのようなものにも興味があります
神社・仏閣・霊場(心霊スポット)
金銭的に余裕があるのなら色々と逝ってみたいでつ m(_ _)m >>216
オカルトも嫌いではないですよ。
ただオカルトやスピリチュアルを盲信しているわけではないし、深く追求する気もあまりしませんし、
このスレに相応しくないと「自分が感じている」オカルトの話をここではしませんがw
ですが、実は>>57のリンクを貼ったのは私ですw 1072 師は答えた、
「ウパシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の〈想いからの解脱〉において解脱した人、ーかれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」
かw >>195
となると、個識別性=(阿頼耶識)=我という事になるのですかね?
唯識では、末那識がそうした個識別性の永続ラインを「常・一・主・宰の我」と錯覚していると解説していますけどね。
つまり、個識別性=(阿頼耶識)=我というのは、末那識の錯覚でそんなものは無い、と。
これについてはどうでしょうか?
> 57のリンクを貼ったのは私です
(真言?呪術?呪法?も肯定なので)
ご教示ありがとうございます m(_ _)m
_ _ _
>>219 junkie- ooyama.師匠へ
パーピマン殿は
唯識は専門外(苦手?)と言ってた気がします
(中観自立派も含めて?)
中観帰謬派とかを前提とした方が良いかも?
_ _ _
認識は対象の形相を有している。と考えている
有相唯識派の場合でも
最終的には
仮設としての
阿頼耶識も
すべて一切の諸法も空性である
という無住処涅槃への導きだと思いまつ
それゆえに
「我である・常見である・断見である」と
掴もうとしている『想い』を手放しせよ
みたいな感じ? >>183
何故か対談中は忘れていましたが、
業は身口意の三業などで理解できるとおり基本的には結果を伴う行為のことであり、
その行為の結果は自業自得として本人に帰属するので、「個識別性」はあるのが当然ですね。
田中2さんの体験や記憶が鈴木さんに乗り移ったりしないのと同じです。
記憶も体験も行為もその結果も我(アートマン)ではありませんね。
「穀物も財も、銀も金も、またいかなる所有物があっても、
奴僕も、雇人も、使い走りの者も、またかれに従属して生活する者どもでも、
どれもすべて連れて行くことはできない。
すべてを捨てて行くのである。
人が身体でなし、またことばや心でなすところのもの(=業)、それこそ、かれ自身のものである。
人はそれを取って受けて、行くのである。
それは、かれに従うものである。
影が人に従って行くように。
それ故に、善いことをして、来世のために功徳を積め。
功徳は、あの世で人々のよりどころとなる。」
(サンユッタニカーヤ「子がいない」)
「無常 忽(たちま)ちにいたるときは国王大臣親暱(しんじつ)従僕(じゅうぼく)妻子珍宝たすくる無し、
唯独り黄泉(こうせん)に趣(おもむ)くのみなり、
己に随い行くは只(ただ)是れ善悪 業等(ごっとう)のみなり。」
(修証義第一章「総序」) >>201
だから、
「”私が”輪廻している」というのが、顛倒妄想だとしても、
そうした衆生に対する評として、数多の教誡として、
誰それは、○○の報いで・・・と言われたりするけれども、それは方便で片付くとしても、
(上で、いみじくも丞狂がイメージする、主体無き業の影響力に依る主体無き凝結としても)、
A地点で3年前に凝結した「事象A」と、今、B地点で凝結した「事象B」の間に、
連続性(何がしかの、継承を示す繋がり)が必要だ、と彼は言っている。
その連続性があるから、ブッダ自身が、自らの過去生を語り、その時々の果が結ばれ積まれ、
この悟りがあった、とも言うわけで・・。
勿論、自身の受け止めとして、まさに泡沫の如く、ラベル(名札)を求めず、
因により縁により、業により「今ココに凝結した己」とすればいいだけの話ではあるけれど。
今の私を生じさせた業なれば、それは確かに、私に連なる業であったのであろう・・、
という遡及、懐古として・・。
ただ、最後まで残るのが、
三世を超えて、時空を超えて、(時空って言葉はあまり好きじゃないけれど・・w)
影響力が残り、事象の凝結の連鎖が続く、ということが、我々のこの世界で(宇宙で)あり得るのか?
ということ。 (青森の竈で薪が燃えても、鹿児島の竈に灰は生じない。)
キ教的世界観が、進化論に始まり、生物学、生命史と相克したように、
仏教もまた、現代的世界観宇宙観とのズレを抱え始めている。
彼の視線は、まさにここから投げられているものでしょう。
(量子力学云々なんて話は、オカルト話と大して変わらないw) お前ら科学をまったく理解していないくせに話しに持ち出すのな
先輩だか指導者だかを権威に持ち上げて自作自演の上から目線だしw
どーかしてるよ、お前ら
>量子力学云々なんて…
↓これでつね?
量子力学(quantum mechanics)
確率的な現象の記述が挙げられる
因果律が成り立たない
すべての物理量の値を同時に定まった値を持っているという
素朴な実在論としては記述できず、非実在論的である
波動関数(wave function)
「波1の世界」と「波2の世界」が同時に存在できるので
それゆえに
我々が住む日常世界の他に全く異なる並行世界が存在することを期待させる
「因果律が成り立たない量子力学の世界」と
「(因果律の?)古典力学の世界」が並行して同時に存在している
ttp://karapaia.com/archives/52233371.html
宇宙は幻影。この宇宙がホログラムである
三次元の中で
見るもの、感じるもの、聞こえるもの、さらには時間の認識もすべて
実は平らな二次元フィールドから投影されたもの
↑夢、幻のような空性? ああ、そうかwww
量子力学をオカルトだと批判されたと思ったのかw
それは失礼。
『仏陀は量子力学を説いていた』 的な言説が、
(特に21世紀に入ったあたりから)激増してるから、そういうのはオカルトと一緒だ、
という個人的見解。 誤解させたなら許せw >>224 一応言っておく。
ブッダは、量子力学なぞ、兎の毛ほども説いていない。
たとえば仮に
量子力学(quantum mechanics)が
因果律が成り立たない
そして
確率的な現象の記述でもないのなら
涅槃(ニッバーナ)
無為法ということもできるかもしれないけど
今のところは
量子力学(quantum mechanics)は
(因果律が成り立たないかもしれないけど…?)
確率的な現象の記述が挙げられるらしい 自らが希求する釈迦(理想の)と
現実の釈迦との溝を理解する事が
仏教理解の最前提にゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>219
ポイントは、阿頼耶識の属性をどのように設定しているのか? ということ。
@阿頼耶識は、死後も存続するのか?
A阿頼耶識は、個識別性を有するのか? 即ち、田中さんの阿頼耶識と鈴木さんの
阿頼耶識は、それぞれの個に属するのか?
言い換えれば、田中さんの阿頼耶識と鈴木さんの阿頼耶識に差異は存在するのか?
阿頼耶識が、この@Aの属性を有するとき、即ち、死後も存続し、それぞれの阿頼耶識が
異なるときに初めて、阿頼耶識は輪廻転生の基体となり得ます。
そして、仏教ではそのような基体設定はしません。 >>231
>仏教ではそのような基体設定はしません。
たくっ。またまた...
解ったようなフリしてデタラメですか?
では、
そのことを仏典から(の記述で)証明して下さい。
こちらはいつでも“輪廻の基体”については仏典によって証明できます。
はい、あなたからお先にどうぞ!! >>232
wwwwwwwwwww
またまたw アートマンスレでやったこと、また繰り返したいの?
一代やセブンにボコボコにされて逃げだしたこと、もう忘れた?ww 僧兵の諸君、お早うにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・
>阿頼耶識は、死後も存続するのか?
(個人的見解ではなく
極力
経典・論書・解説書の通りに調べてみます↓)
たとえば
仮設としての
前世で
色受想行識が滅して
異蘊相続して
この現世において
(阿頼耶識の内容)種子に受け継がれて
阿頼耶識に、たくわえられる(薫習)
仮設としての
縁起に依存して
現れ滅して変化している
実有ではない
中論 第二十七章 見解(邪見)の考察
仮設としての
この現世においての
過去と今、現在とでは、同一ではないので
それゆえに
前世と現世においても、同一ではない
↓参照資料
ttp://reigaku.jugem.jp/?eid=424
ttps://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
>阿頼耶識は、個識別性を有するのか?
最終的には
阿羅耶識もまた空である(境識倶泯)
ということであるらしい
(認識は対象の形相を有していない)無相唯識派とか
(世俗の次元でも自相(自性)を否定する)中観帰謬派などの場合は
有相ではない
自相(自性)でもない
自相(自性)ではないからこそ
(個識別性ではないからこそ?)
(それ自体、独立して成立している色受想行識は)存在しないにも関わらず
(それ自体、独立して成立している色受想行識が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性が、現れ、そして滅している
それ自体、独立して成立している色受想行識ではないので
それゆえに
(それ自体、独立して成立している)個識別性ではない?
みたいな感じ?
↑間違ってたら スマソ m(_ _)m 輪廻転生が嘘だというのかい?
そうすると、輪廻転生からの解脱っていうのは、単なる思い込みの更新とでも、、、
じゃあ、日本人に仏教は、なんの意味があったのだw >>233
エッ、どの誰が?
そちらこそ強がりはヨシコさん♪
あなたが幽霊を信じなかろうがそれはイイの。
あなたが“死後の世界”を信じないのはまったくのご自由なの。
けれども、
仏教ではこうだあぁだと勝手なデタラメは止めなさいなといってる。
こんな簡単な話なんだから、わかるよね??? 死後の世界があるかないか
は、知らないけれど
もしも、輪廻転生がないのなら
肉体の消滅が、涅槃になってしまう
それでは、修行など必要ない >>239
>仏教ではこうだあぁだと勝手なデタラメは止めなさいなといってる。
wwwwwwwwwww
で、あの長い時間かけて、初期仏典にはアートマンがあるなどと
どこにも書かれていないことを確認したんだよね?ww
もう一度、保管庫行って、過去スレ確認してきなさいw 結局は不可知論で終わる議論を
口角泡を飛ばしてしているだけにゃん♪
その辺りが亜空間仏教の限界でも
あるにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>241
誰も「アートマンがある」と仏典で説いてるなどとは一度もいったことがないから。
そうやっていつも勝手に話を造るでないよ。
誤魔化すな!!!インチキさんよ♪
無我も輪廻も仏教の中では最初から矛盾などはどこにもないの。
ただ理解できない奴が勝手にいろいろと騒いでいるだけのことだ。
そう、それがあなた方唯物主義者たちだ。
だから、信じないのは自由だが、勝手に仏教の内容を変えて語るな!!
ってことを私はいってるわけだ。
調子に乗るのもい加減にしとかないと、
完全に終わりにするぞ!!!
で、
そんな無駄なおしゃべりはいいからさ。
早いところ仏典から、その基体が無いだの。
個人別ではないの...だのというのを出してくれよ。
速攻で論破するから!!
はやくはやく...。 >速攻で論破するから!!
>はやくはやく...。
仏教では、無我を説いているの。
⇒「我と言えるものなど、どこにもない」 とねw
ん?????
基体、即ち、自分と言えるものなど何もないのに 一体、何が輪廻するのかなあ?ww
もしかして、「真我」か?ww
そりゃあ、神智学ではそうかもしれませんがねww ちなみに、仏教初心者さんに説明しておくと、釈迦は
「我などない」 とは断定していません。
これは当たり前のことで「不存在証明」は不可能だからです。
ですから、「これは我でない。あれも我でない」と一つずつ確認しながら、
我といえるようなものは一切ない ことを説いたのです。
ここを勘違いするバカが多くて・・・
「釈迦は我の存在を否定しなかった」⇒「では、あるかもしれない」⇒「いや、あると説いていたのだ」 ・・・・と脳内変換してしまいます。w
釈迦は経験主義者であり、「我というものが一切、自分たちで、その存在を確認できない
ことをもって、その存在を否定したのです。」
言い回しは「非我」で、内容は「無我」なんですねw >>231
ご周知かもしれませんが、唯識は「一切不離識、唯識無境」「人人唯識」を言うスタンスに立っているようです(こころがすべてを生じせしめ一人一宇宙である)。
つまり、
@阿頼耶識は、死後も存続するのか?
A阿頼耶識は、個識別性を有するのか? 即ち、田中さんの阿頼耶識と鈴木さんの阿頼耶識は、それぞれの個に属するのか?
言い換えれば、田中さんの阿頼耶識と鈴木さんの阿頼耶識に差異は存在するのか?
に対してはその視座に立っているので
@阿頼耶識の中に生死という現象が生じせしめられている。
A阿頼耶識の中に「個識別性(=我)」を(末那識が)遍計所執性している。
となるんでしょうかね。
何せ唯識は奥が深いし、私自身一瞥したに過ぎませんので、過誤がありましたらご容赦下さい。
また、阿頼耶識は実体として常にあり続けるのではなく、刹那に生滅する不連続の連続体としてあるようです。
また、識は必ず認識対象を持つものであって、したがって認識対象がなければ認識する主体、すなわち識もなくなるとの事。
すなわち識は「あるようでなく、ないようである」ものであって、相互依存性縁起に拠るもののようです。
(続く) ★輪廻転生する主体は識(識・識別作用)であるということの経典から証明
(IV.3.3)【ゴーディカ】 (第三章(さらに五つの経)) サンユッタ・ニカーヤII
http://blog.livedoor.jp/youseethesun/archives/52233435.html
19.「修行僧らよ。これは、悪魔・悪しき者が、立派な人ゴーディカの識別力を探し求めているのだ。
−−−『立派な人・ゴーディカの識別力はどこに安住しているのであろうか?』と。
しかし立派な人・ゴーディカは識別力が安住していないで、完全なニルヴァーナに入ったのだ」と。
引用した訳では「識別力」となっていますが、パーリ原文ではviññāṇam(ヴィンニャーナ)で↓では単に「識」と訳されています。
http://komyojikyozo.web.fc2.com/snsgv/sn04/sn04c07.files/sheet001.htm
七回目の解脱をしたゴーディカ尊者が解脱したまま死にたいと刀を手にして自殺しました。
悪魔が自殺したゴーディカ尊者の「識」は死後どこに落ち着いたのか(転生したのか)と探りましたが、とうとう見つけることはできませんでした。
ゴーディカ尊者の識は完全なるニルヴァーナに入っていたからです。
この経典では、尊師ブッダは人の死後は識が次の転生先に向かいそこに安住・止住することを諸々の修行僧に告げております。
ニルヴァーナは〇〇界のような輪廻の世界とは違うので悪魔は発見できなかったのです。
中部「愛尽大経」では、サーティという比丘が「私は世尊によって示された法をこのように了知する。すなわちこの同一不異なる〈識〉こそが流転し、輪廻するのだ」という見解を他の比丘の前で伝え、ブッダから強く叱責されます。
http://komyojikyozo.web.fc2.com/mnmlp/mn04/mn04c18.files/sheet001.htm
しかし、サーティ比丘が<識〉の形容詞として「同一不異なる」という言葉を入れなかったら、あるいは叱責されなかったかもしれません。
そこは分かりません。 >>247自己レス
>ゴーディカ尊者の識は完全なるニルヴァーナに入っていたからです。
ヴァッチャ火経(やバーヒヤ経)など他の経典を参照すると、識がニルヴァーナに入ったのではなく、
識から解き放たれた「大海のように深く、無量であり、底が知られない」私たちの想像を超えたものとしてニルヴァーナに入ったのかもしれません。 >>246(続き)
輪廻の主体については、原始仏教では「業相続」、赤胴部では「有分識」、大衆部では「根本識」、化地部では「窮生死蘊」、唯識が「阿頼耶識」と主張していった歴史があるそうですね。
ところで、例の基体説との絡みですが、唯識派では
@唯識無境 → A境無識無(境識?泯)→ B空
菩薩於定位 観影唯是心 菩薩は定位に於いて、影は唯だ是れ心と観ず。
義想既滅除 審観唯自想 義の想既に滅除し、審に唯だ自の想なりと観ず。
如是住内心 知所取非有 是の如く内心に住し、所取は有に非ずと。
次能取亦無 後触無所得 次に能取も亦た無なりと知り、後に無所得に触れる。
(無著教授頌)
と、筏の喩の筏のごとく、阿頼耶識も方便として仮設されたものとされています。
また、(阿頼耶)識が刹那に生滅する不連続の連続体であり、相互依存性縁起に拠るものであることは先のスレでお話しした通りです。
したがって、阿頼耶識=基体説というのは無理があるんでしょうね。
※基体=常・一・主・宰という前提 自己レスだけど、「阿頼耶識の中で生死(輪廻転生)が生じせしめられている」ってなんだか深遠な気がするwww 私も投稿できる余裕がなかなかなかったりします。
交代制で夜勤に入ったり、残業に休日出勤と、もうヒーヒーです。
休みにも、家族やら何やら..といろいろあるし。
まっ、この私が出るまでもなく、
しっかりとした解答が皆さんで出せるのであれば、
もちろんそれに越したことはないです。
そう。
「識」が輪廻基体であるということはすでに分かっていること。
ただ、これをアートマンと勘違いするなということ。
でないとブッダに叱られる。
しかし、愚か者は輪廻基体とアートマンの違いすら分からないのです。
唯物主義者にはこれは絶対に理解できないから。
彼らにとっては、そんなものはすべて無いに決まってるのであり、
どうせどれも同じようなものであって、その違いも糞もないという感覚でしかないのだから...。
アートマンではない「識」が輪廻基体であるという話を、
愚か者たちは、仏教では永劫性の存在を認めないといって、
いやだから、存在ではなくて「業」が輪廻するんだとかの適当な理論を作り上げる。
業は輪廻する力との関係であって主体そのものじゃないに気まってるというのに...。
唯物主義者は輪廻そのものがある筈がないみているから、
当然、その基体など最初から在る筈もないという(基体もないから輪廻もある筈がない)。
全部、勝手な理論ばかりで仏教なんかじゃない。
ということで、皆さんで話し合っててください。
後でそれを読みますから。 >>242
あなたは分かってない。
でおーと同じ。
もう少し実践してから言うようにしようね。 >>252
僧兵の実践にゃん?
ひゃひゃひゃひゃひゃ!(≧▽≦)ノ >>253
あなたの書き込みは他人の知識や体験に対する妬みや嫉みなの。 ちょっと話題を変えて【仏教における葬儀について】
「アーナンダよ。お前たちは修行完成者の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ。
正しい目的を実行せよ。正しい目的に向って怠らず、勤め、専念しておれ。
アーナンダよ。 王族の賢者たち、バラモンの賢者たち、資産者の賢者たちで、修行完成者(如来)に対して浄らかな信をいだいている人々がいる。
かれらが、修行完成者の遺骨の崇拝をなすであろう。」
という大パリニッバーナ経でのブッダの教えは有名で、
そのために『仏教では出家者は葬儀には直接は携わらず在家信者が葬儀を執り行う』というのが定説になっていたと思います。
しかし、>>248のレスをした後に確認のためにバーヒヤ経を改めて読んでみましたら必ずしもそうではないようです。
小部経典:ウダーナ 1.10 バーヒヤの経(10)
http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-3.html
この経典はマインドフルネスとかヴィパッサナー瞑想の実践をしている人には割と有名で、
要するに『眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識の六識は無我であるとして自己との同一化をしない』ことで解脱するという教えです。
瞑想を説いたものではありませんが、上記の教えで日常生活をマインドフルネス(ヴィパッサナー)で送って苦を滅するというものですね。
>まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間において〔存在し〕ないのです。これこそは、苦しみの終極“おわり”です。
(スッタニパータ蛇の章の「この世とかの世をともに捨て去る」と同じで、まさしくあなたは解脱しているので苦しみは終極です、ということですね>多分) >>255の続き
その部分だけ注目していたのですが、最後にバーヒヤさんが涅槃に入るところを確認してみたら、その前にこう書かれていました。
>そこで、まさに、世尊は、サーヴァッティを〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、
>大勢の比丘たちと共に城市から出て、樹皮行者のバーヒヤが命を終えたのを見ました。見て、比丘たちに語りかけました。
>「比丘たちよ、樹皮行者のバーヒヤの遺骸を収め取りなさい。寝床に載せて運び出して、燃やしてあげなさい。
>そして、彼のために塔を作りなさい。比丘たちよ、あなたたちと梵行を共にする者が、命を終えたのです」と。
>「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、〜(以下、世尊の命に忠実にバーヒヤさんの葬儀を執り行う)
時と場合によっては(というよりも経典によってはw)、ブッダと比丘が直接葬儀を執り行う場合もある、というのを確認しました。
時代が下がるに従って、大パリニッバーナ経のような葬儀には関わらないという教義の方にインド仏教の各教団(各部派)が流れていき、
これが在家の仏教離れを大いに促進させてしまったようです。
日本やタイでは先祖供養や精霊信仰と相俟ってむしろお寺が葬式を執り行うようになり(曹洞宗では瑩山禅師が密教から葬式仏教を
導入して曹洞宗の信徒を大いに拡大したことで有名)、その点での在家の支持を失うことはなかったようですね。
ただ、今の日本は葬式仏教などと逆に揶揄されてはいますが…。 しかし
無我と輪廻転生は矛盾するのではないか
というのと同様に
先祖供養と輪廻転生は矛盾するのではないか
という意見もあるようですw >>251
>「識」が輪廻基体であるということはすでに分かっていること。
>ただ、これをアートマンと勘違いするなということ。
だったら 「無我」 じゃねーかw
二百歩譲っても「有識」じゃねーか。 「非我」である必要もないよな?
「無我」という解釈(漢訳)は正しいよな? 違うか?wwwww >>254
頭でっかちだが洞察力が無いにゃん♪
洞察力を極めれば神通力に等しいにゃん♪
僧兵は嫌いでは無いにゃん!(笑)
南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>249>>251
「業相続」や「業が輪廻の主体説」について
「業相続」は>>222に引用した相応部にあるブッダの詩からすると
>人が身体でなし、またことばや心でなすところのもの(=業)、それこそ、かれ自身のものである。
>人はそれを取って受けて、行くのである。
>それは、かれに従うものである。 影が人に従って行くように。
というように業は主に従うものであって、主に従って相続されるもので、主体にはなり得ないもののようです。
しかし>>38のスマナサーラさんの教えや>>53のグナラタナ長老の教えによると、南伝テーラワーダでは
業は結果をもたらす行為だけではなく、行為から結果を生み出す潜在力まで含んでいる、
というかその潜在力こそが業と見做されているようです(これは北伝でも変わらないかも)。
テーラワーダではその業(潜在力)が「行」となり、「行」が新しい名色の因となる「結生識」を生じさせる因となります。
「結生識」は、阿頼耶識のように刹那生滅をしつつ相続するというよりも、
過去の業の果報<異熟>として新たに生じた異熟識として胎児の期間のみ刹那生滅をしつつ生まれるまで相続するようです。
唯識の輪廻は阿頼耶識によって持続的に相続されますが、
テーラワーダでの輪廻は「業=行」によって新たに生じた結生識(異熟識)として相続されそれを便宜上「業が輪廻する」としているようです。
詳しくは>>53の引用元となっている↓のグナラタナ長老の法話、特に『仏教から見る死(9)と(10)』が肝心ですかね。
http://www.j-theravada.net/reflection-2.html >>262
煽りと受け取るのは心の病にゃん♪
応援と受け取れば貴方もハッピーにゃん♪
要は当人の受取方次第にゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>263
> 応援と受け取れば貴方もハッピーにゃん♪
それが心の病だよwwwwwwwwwwwww >>261
> というように業は主に従うものであって、主に従って相続されるもので、主体にはなり得ないもののようです。
その「主」ってのは一体どこから出てきたのでしょうか?
その「主」というのは、いわゆる常・一・主宰の我でしょうか?
> 業の行為者は存在しない。ただ、行為だけがある。
> 結果を受ける者も存在しない。ただ、結果だけがある。
(清浄道論)
とある様にそれを認めると無(非)我にはならなくなるのでは? >>265
引用した相応部経典の詩に書いてある人やかれのことで、もちろん実体ではなく五蘊仮和合(四大和合とも)による仮我です。
常一主宰であるアートマン(真我)は不生不滅不変なので業を受け取っていく(逝く?)というのとは違うと思います。
もっともこのころのアートマンは後にシャンカラによって明確に定義されたアートマンとは違って色々な見方があったようです。
ウパニシャッドで有名なアートマン論はヤージュニャバルキヤのものですが、彼の「非らず非らず」によるアートマン定義法は遥か後のシャンカラによって有名になったようです。
ヤージュニャバルキヤが論戦無敗だったというのも確かシャンカラによる伝記に書いてあるものだったような…?
ちなみに引用した相応部経典はこちら
http://blog.livedoor.jp/shinbookdiary/archives/65918679.html
あと「仏教の思想的土壌 ヴェーダ」
http://www.geocities.jp/avarokitei/indo-dojo-veda/indo-siso-dojo-veda.htm
↑は私自身完読はしてないですがw
>仏教の思想的土壌
ttp://www.geocities.jp/avarokitei/indo-dojo-upanishado/upanishado-tetujin.htm
仏教の思想的土壌 ウパニシャッド
…
名称と形態(現象界)の展開
…
6.3.4
[つづいて思った]
『奏して、それらのひとつひとつをして、それぞれ三重にしてやろう』と
こういうわけで、かの神(=有)は、生命を与えるアートマンをもって
それらの三つの神(火、水、食物)の中に入って
[現象界の]名称と形態とをはっきりと展開した
_ _ _
この場合は
変化することのない
かの神(=有)は、生命を与えるアートマンをもって
[現象界の]名称と形態とを展開した
− これに対して −
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ
仮設としての
縁起に依存している
自我に固執する見解をうち破って
外界にあると認識されるものも
自分の意識も
すべて一切の諸法を『空性である』と観照せよ
ttp://morfo.blog.so-net.ne.jp/2012-02-13
無相唯識派は、『認識は対象の形相を有していない』と考えます >>267
ですよね。
それでしたら清浄道論と整合性が取れます。 >>246
まず、輪廻転生に何が必要か?
田中⇒田中2 とします。即ち、田中の転生先が、田中2です。
このとき必ず必要となるものは、「田中2が、田中の転生・・即ち生まれ変わりであると
言える『何か』 」なんです。
言い換えると、田中と田中2を結ぶ『何か』が必須なのです。
田中2は、田中の転生先であり、鈴木や森本が転生したものではない・・・と言える『何か』
が必要なんです。
その『何か』の名称は何でもいいんです。 宗派によって、「魂」だの「霊」だの、「業」
だの「阿頼耶識」だの「アートマン」だの・・・・・色々な言い方はありますが、
全てに共通している属性は、田中⇒田中2 のラインを保持するということです。
鈴木は、鈴木2に転生し、森本は森本2に転生します。
この考え方の根底には、それぞれのユニットの「個別性」を前提としています。
つまり、田中と鈴木は、異なるユニットなんです。
だから、転生先も異なります。
このそれぞれの異なるユニットを成立させているものが「我」なんです。
「貴方」や「彼」や「彼女」とは、違う『自分』を仮設すること・・・それが『我』
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