>>161
いや、そういう話ではなく在家から出世間を歩もうと決意した仏弟子、あるいはバラモン教などの外教の僧侶で教えを伺いに来た者に対してまで、
道義上の方便として迷いの生存から解脱せよとまでいう必要があったのかということです。
スッタニパータ第五のブッダに質問する学生さん達は真剣ですよ、真剣に真理を知り彼岸に至りたいと思い質問しているのに
ブッダともあろう人がここは対機説法で方便として迷いの生存から解脱せよというとは、まあ可能性としてはないとは言い切れませんが。

まて「二度と母胎に宿ることはない」は修行者に対して語られる場合もあるし、感興のことばのように自分自身の独り言として語る場合もあるようです。

そして

ダンマパダ
153 わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、──家屋の作者(ツクリテ)をさがしもとめて──。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。
154 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。

この偈が
>これはブッダが菩提樹の下で悟りをひらき、輪廻から解放された安堵と喜びを表現した言葉である。
>家屋とは「人間の個体」のことである(と中村氏は注を付している)。
というのはどういうことでしょう?
ブッダは悟りを開いたことで輪廻(当時そういう名称はないにしても生存を繰り返すこと)から解脱できたことを喜んだという考察が最も素直だと思います。
悟ろうとした発心の原点は輪廻転生からの解脱であると考えてもいいでしょう。
釈迦の弟子に対して一切行苦である人生の輪廻からの解脱の方法として説いたのが四諦八正道であり、無常苦無我の三相の観察であるのだと思います。
これらは目的ではなく手段であると思います。