【イエス】癒し主 救い主 【キリスト】Part 202
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『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
(マタイ 22:37-38)
肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。
わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
(ガラテヤ 5:19-24)
だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
(ルカ 9:23)
もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
(ヨハネの手紙第一 1:10)
あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。
(マタイ 28:10)
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類似スレで利用者を迷わせないために、次スレは>>970以降に立てましょう。
※前スレ
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1511494861/ そろそろ寝るねー
ネクザさんが質問したいことで、もし本当に知りたいことあったら次来る時に力が及ぶ範囲の内容であればちゃんと答えるのでご安心くだされ 哲学には大きく分けて
存在論と認識論の分野があって
存在論的には
イデアは、具体的に存在する個別は瞬間的現象にすぎないが、
その個別現象の裏側で永遠に実在する実体だという概念だね。
例えばここに青梗菜があるとして、この青梗菜は現象。
青梗菜なるものというイデアが実在。
これがギリシア哲学の発想 >>269
プライベートな雑談したらスルーされるので
試問を挟ませて頂きました。
実存主義は「個別的」「具体的」がデフォルトコンセプトであることは
周知の事実だと思いますが
「霊的」実存とは 果たして如何なる心霊レベルで実現させるものなのか
その方略を是非ご教示頂けます?
キルケゴールの様に絶望を体験するとか
霊操や瞑想で救いや癒しを体感するとか
なんとなく考え中とか
なんでもいいよ 空海も法然も天才で
結局、ドーナツしか食べないし、ドーナツを極めているなんだけども
空海は、イチゴケーキも買うわけ。食べずに捨てるけど
法然はイチゴケーキを買わないのね
そして日蓮はイチゴケーキの悪口を言うわけ 彼の言う霊的実存は
実存主義というより
ものごとが永遠に存在するのは物質的存在としてではなくて
霊的存在としてだ。えいえんのいのちとか
という程度のはなしでしょ くだらん >>274
あるがまま
私でありつつ同時に世界である状態なんじゃない >>273
これは少々興味深いね。
掘りさげてご教授願いたい。
本質主義と実存主義の関係を
存在論もしくは認識論の語彙を使用して
簡潔に解説してくれたら
禿いうのやめるよ 書簡シリーズ見すぎや
福音書のイエスの奇跡を神話化せず
逐語霊感的に解釈する姿勢も切要や思うけどな 創世記と黙示録は神話
福音書は童話
箴言は諺
書簡は説教
こないおもとったらあかん >>282
対象を霊的次元に一元化する態度は、
一般的に心霊主義と呼び習わされるものと思いますよ。
例えば、イエスの奇跡は霊的にも物的にも証明しうるということです。
霊的実在は、必ずしも物的虚無ではないということです。 イエスの奇跡は、凡人には物的、肉体的にしか
判断できません。
だからこそ伝道には物的証が時に必要となるのです。
霊だけ永遠であったとしても
罪なきからだを伴わなければ
復活や、栄光のからだとは
言えません >>284
あぁそういう意味ね
そうじゃなくて、創世記にもあるように「光あれ」で光ができるわけじゃん
全ての原因には霊があり、様々な存在性の中で霊は魂とか物質とかの表れをするって立場
物理学の振動や波動とある意味で似てる解釈なわけ
物質を否定してるわけではなく、(あくまで比喩的表んだが)物質は固体化された霊だ、みたいな主張
だから霊的一元論 >>285
肉の体は滅びるよ
それは聖書でもキリストが語ってる通り
だから栄光のからだがそれと対比されるわけ
霊のからだ >>287
霊的に救われると、盲目や癩病も治ります。
霊のからだは、罪なき身体(からだ)に蘇るということだと思われます。
実体を伴わず霊だけ救われる考えは、
モルモンとエホバの教義らしいです。 現実問題として ファンダメンタルな神癒信仰はごく少数ですが
病気平癒の祈りは全使徒継承教会とウェスレー派教会に
存在します(継続説)。 >>288
>霊的に救われると、盲目や癩病も治ります。
その妄想こそが、イエスを含むすべてのカルトの症状。
身体の病人は、すべて精神科に行けとでもいうのか。現代一般
社会のどこにも通用しない狂人の思想。
「病気が治ると、霊的(精神的)に救われる」というのが正しい。
「霊(精神、心的作用)とは、状況に応じて身体から発し、身体を維持する機能」。
(James-Lange Theory)。これが心理学での「霊魂(精神、心的作用)」の
定義だ。なお、心理学では、「霊」などという「身体外部の幽霊」を連想させる
言葉は一切使用しない。すべて、「身体内の精神、心的作用」である。 >>273
基本的にはそうですね。
存在論(オントロジー)というのは「なぜその議論をするのか?」という意味で、
認識論(エピステモロジー)というのは「どのような考え方をするのか?」という意味です。
どの論点でもだいたいこの二つは念頭に置きます。
イデアというのは「真理に限りなく近づけた仮説」のことを言います。
現象というのは「その人の世界の広さ」を意味し、実在というのは「すでに起きてしまった自分の実績」
のことを言います。
だいたいこんな考えを頭にめぐらせながら、音楽作品にアプローチするのは事実です。
女の子が神に失望するのは「レイプと女嫌い」だけ。
神を信じるのは「すべりやすい坂道」である。
https://www.youtube.com/watch?v=ttIzfzAdMmE 科学が、いかなる宗教の奇跡も及ばない驚異的な発達を遂げた現代において、
科学に付いて無知蒙昧だった1000年、2000年前の宗教をいくら語ったところで
全く無意味。単なる時間の浪費でしかない。
語るなら、現代の科学水準に合致して、宗教の全面的改正をしてから語れ。
「開祖・教祖が何を語ったか」ではなく、「彼らが現代に生きていれば、何を
語るか」、である。 古い宗教の教えは、あくまで大昔にファイナルアンサー認定された答えにすぎず、それをファイナルアンサーだととらえ続ける人達は生きていた原始人状態です。
人類史の最先端を生きている自覚が足りないと言えるでしょう。
さっさと悔い改められますように。 〉人類史の最先端
君らに問う。ニュートンの万有引力の法則では光は光子により発生するとある。しかし量子論によると 光は波動だと言う。さて、どちらが正しいのか?
そもそもニュートンとは何者か?其れを基礎とした近代科学とは何か? 物理学はこのような展開をたどっている。
ニュートン物理学 量子論
↓ →
相対性理論 相対的場の量子論
ニュートン物理学が「男が重力に耐えて加速する」ことを考えていたのに対して、
相対性理論は「男女がこすりあう」「遠く離れていても存在する」という二つの相対性を
考えている。
量子論というのは「子供の行動分析」に用いるようだ。
相対的場の量子論というのは「弟」の行動分析に用いる。
まあ、家を建てようと思ったら、小学生の頃に買った二枚の三角定規があれば可能だ。
あとは「誰がお金を集めたのか?」というのが建築学になる。
光の速さよりも地球上の速さは「あまりにも遅すぎる」
重力よりも地球上の重さは「あまりにも軽すぎる」
しかし、人間をひきつけあう「ローレンツ力」には「光の速さ」が入り込んでしまった。
このことから、量子論というものが生まれたようだ。 たんに物質の元が微物質でその元が細分子で
更に先に核分子なるものがあってさらに向こうに
有るものが力場として確認されるが
それらが分類できないから波だとか次元干渉だとか言って
お茶を濁してるだけさね、有るいは性質だとか言ってね
ただ違うのはそれらを無機質なものであるとしたがるのが科学的認識ってやつなんだろ ニュートンの間違いは 詳細に暴露いたしますが、それにしても そのような山師ニュートンでさえ 神の領域 於ける 絶対的時空間と神の支配を否定することは出来ませんでした。私たちは 原点に戻り神と神の支配を顧みる必要があるのではないだろうか?
http://blog.goo.ne.jp/quantum-mechanics/e/2ef771360b6130e8c69e347f69129af9 良いお天気ですね
暮れの光にはない明るさ。
まさに新春です。
ここにはいろんな考えの方がいらっしゃいますね。
若い頃は色んな小説をむさぼり読んだものです。
漱石、龍之介、トルストイ、ドストエフスキーなど。
仏教と言えば「出家とその弟子」かな、若き日の親鸞の心境は
自分の身につまされて共感を持ったものです。
北陸へ行くと賽の河原や、即身仏などを見たりしました。
不思議な世界でしたね。 エミリーブロンテ
シャーロットブロンテ姉妹の書いた
「嵐が丘」
「ジェーンエア」
等にも感銘を受けました。 そのくらいの浅学な私だけど
つい最近、人生の核心は得たような気がしています。
罪と劣等感からの解放、は全ての人間の究極のテーマ
ではないかしら? 社会の隅にいる人間、例えば
吉原のお女郎や時代の運命に翻弄された人々、
冷や飯の浪人等に寄せる優しい目線。
隆 慶一郎氏や藤原周平氏の時代小説など好きですね。 >>288
>霊的に救われると、盲目や癩病も治ります。
そうなの?霊的に救われるって具体的にどういう状態をさしてるのだろう
>霊のからだは、罪なき身体(からだ)に蘇るということだと思われます。
そうなの?罪なき身体って具体的にどういう状態をさしているのだろう
>実体を伴わず霊だけ救われる考えは、
>モルモンとエホバの教義らしいです。
実体を伴わず霊だけ救われるの意味が分からない
ネクザさんにとって身体は実体なわけ?
じゃあ霊は身体という実体に対して何なんだろう 通りすがりだけど、病気ってのはまず見えない次元から始まる
現象界(この物質的世界、身体もここにある)ではなく潜象界ってのがあって
これはひとつのものの見方(概念)ね
最初に病むのは現象界にあるボディではないんだよね
身体に病が顕れる前に、大抵の人はどっか病んでるけどね >>242
>シャロンさんや教会が「結局はイエス様対自分」と言う時、浅いねん。
> 視点が「自分側」なところが浅い。
そうですか、きっとあなたは「愛」と隣人への関わり合いについて
話していると思うのですが。
私の視点はそこではない。これから起ころうとしている大患難時代に
視点を置いていますので、息を顰めるようにして世の中の流れや聖書
に聴いているので結果としての選択は自分以外にないだろうと考えて
いるの。 潜象界ってのは何層(何次元)にもなっている、わたしが見えるのはこの世に近い側
エネルギー場とちょっとその奥?wwぐらいだけどね
経絡は見えないんだよね、残念ながら、でもそれが見えた人がヒーラーと
呼ばれた人だろうな、メディスンマンとか、鍼灸師や気功師も癒しを行う
どの次元で癒しを行うかで効果が違う、医者が肉体に薬を投与するのは
3次元からのアプローチだけど、イエスとか聖者のレベルになると
もっと深い次元から病根を引っこ抜けるんだと思う、ダスカロスとかあと無名だけど
それが出来た人を二人知ってる 鍼灸師は肉体にアプローチしているようだけど、実は四次元つまり経絡
エネルギーの流れる道にアプローチしている、エネルギー場はこの世に近い
気功師も(レベルの高い気功師もいるけど)大体はそこにアプローチしているようだ
だけど本当はもっと別の次元のボディ(テンプレート)にアプローチできる(はず)ww 教会で個人的な祈りや癒しを牧師に求めたり、悩みの相談をすると
教会生活に失敗する。牧師は神の預言者ですがカウンセラーではない。
又、教会で話した事は必ず外部に漏れてしまうもの、と考えた方が良い。
教会では唯、神を礼拝し讃美し受ける恵みに感謝すればそれで良い。 心の使い方を学べば誰でも癒しを行える…日が来るかもしれない
心の力を使いこなすには、霊格を上げなきゃならない
四次元(エネルギー場)へのアプローチなら、見えなくても知識(経絡とか)があれば
可能…なこともあるけれど、それ以上になったら
神の意識に同調できる人にならないと無理だろうな、霊格を上げるには人格を向上
させなければならない、って難しいんだわww
ある程度自分で整えることができたら、師が顕れる(肉体を持った人じゃないかもしれない
弟子に準備ができたとき師現る…それまでは自力
自分の心をコントロールできないうちは無理 聖職者という職業に就いてる人が必ずしも霊格が高いとは限らない
中にはなんだぁ??って人いるもんね、欲望に負け、感情に翻弄され、
想念が混乱して人格が安定してない、…大統領?もいるしwww
つーか癒しに限らず、霊的な力を与えられるっては責任重大なのよ
例えば透視能力が備わっていたとする、あなたが男性なら
若くて美しい女性の衣服の下を見る能力があったら?もし理由もなく見たらそれは
相手に対する侵害そして侮辱になる=罪を犯すことになる
常にそういう誘惑と戦っていたら疲れるよww、そんな能力ない方がいいよね
霊格人格ともに備わらないと、霊性の扉は開かない >>312
>若くて美しい女性の衣服の下を見る能力があったら?
透明人間になれたら女湯に50分間入浴する男子が急増すること間違いなし・・・!! >>303
アブラハムの宗教は、移民の宗教であり、群れの宗教ですから、最も大きい心理は疎外感だろうと思いますよ。
帰属意識がベースにありますから、神や仲間から必要な者とされないこと、忘れ去られてしまうこと、
「おまえ誰? おまえなんか知らないよ〜」と言われてしまうことほど、ツラく悲しいことはないのでしょう。
ルカでの罪人の1人は「神の国に入る時は、私のことを思い出してくんろ?」と頼みますね。
「忘れないでくんろ!思い出してくんろ?」というわけで、たぶん復活のことなんでしょうが、
イエスは「今日、私と共に楽園にあるがな(´・ω・`)」と言うわけですね。
神と共にあることは、追放された楽園に戻されたということなんでしょうか。
犯罪者等で引き取り手のいない死体は、ヒンノムの谷ゲヘナでゴミと一緒に硫黄をかけられ焼却処分されたそうですね。
引き取り手がいない、必要とされない、忘れ去られてしまうということなんでしょう。
疎外感とは・・・
「仲間がなく孤独だという意識」
孤独感・一人きりの感・ひとりぼっち感・単独者
「頼る人や物のない状態のこと」
寄る辺なさ・頼りなさ・空虚さ・虚しさ・空しさ・孤独さ・寂しさ・孤立感
・孤独感・居場所がない感じ・取り残された感じ・漂流感 畑に行った。
寒いので、完全武装、防寒して行ったがだれもいなかった。
いてしゃべりかけられて会話がはずんだら風邪ひきそうなので
いないほうがいいわけだが
白菜二個と青梗菜をたくさん収穫 作業のはかどることはかどること
青梗菜は収穫しすぎだ
http://uproda11.2ch-library.com/e/e00226051-1515817192.jpg イスラエルの場合の疎外感は
孤独というより
民族全体が囚われて、他国に連行されて奴隷にされた
という疎外感ですよ さてイエス・キリストは
先に来たものが後に並び
後に並ぶ者は先になると言った。
ゆえにパリサイ派とは先に並ぶ者が先であらねばならない
と列をなすものらである。
言っておく。そういう列に並ぶ者らは
キリスト者として好ましくない
次に彼らは知恵の善悪を用いて
そこに善悪を求め裁くからである 列をなさねば得れぬものに固執してはならない
エデンの果実はどこからでもとれるから
楽園なのである。
列をなす先に楽はない。
ならそのような煩わしい果実は捨てた方が良い 昨日スーパーで、白菜一つ800円でした。
二分の一カットの半額になったやつ200円を買いました。 この農作地帯のうちの近所のスーパーでも
1/2カットが400円 1/4で200円でしたね ギャクだろうと思ってましたが
まじなんですね。
私が全国民向けに白菜をお安く出荷してあげたいですわ >>322
レタスはスカスカの小さいやつで一玉400円でした。 >>316
そもそも移民集団ですから、違う文化圏で集団的な疎外感を味わいますし、
強力なリーダーシップを求められる指導者は孤独感を味わうもんでしょう。
モーセ一行の旅も漂流みたいなもんでしょうし、
「こんなんなら、エジプトで奴隷のほうがマシだった」と思う人が出てくるのも疎外感ゆえ。 農薬落とす洗剤見つけ^^
>>325
>エジプトで奴隷のほうがマシだった
単なるグチぐち、どこにでも居る居る。 私の白菜と青梗菜は無農薬。
プロは予防的防除をするので農薬を15回ほど撒いている
15回散布で低農薬テクだそうだ。
私は0.6mm目合防虫ネットで無農薬栽培
私の畑の場合、よくある1mm目合の防虫ネットだと害虫に突破されて
無農薬だけにレースのカーテンになる 害虫の養殖状態 季節外れの市販のキュウリ、トマト、キノコ類 果物類など
農薬繋ってます。 テント職人だったサウロは
後に聖パウロと呼ばれるようになった。
彼は、同性愛者かインポだと神学者が言っているのだ。 どこのアホ神学者だよ。
特に日本の神学部はアホでも行ける偏差値だからな。
ろくなものが集まらない。 >>305
ここに、詳解されておりますよ。
日本同盟キリスト教団|長野聖書教会
http://nbc-trinity.net/2016年8月21日 主日礼拝「復活のからだ」/
エホバの証人、あるいはものみの塔の人たちは、
キリストの復活は体の復活ではなく、霊の復活であると主張しています。
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。
血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
コリント人への手紙第一15章44節 前千年王国説の第1人者である高木慶太の弟子リンゴ
後千年王国説の第1人者である富井健の弟子シャロン
ディスペンセーション主義とキリスト教再建主義
ここであったが百年目、運命の出会いや 通りすがりの人はいなくなったのかな
あぁいう人が時々現れるから2chは面白いなー >>295
あら、みんな朝まで起きてたのね🎵
私は、帰ったらすぐ寝てました。最近五分で寝てしまってるわ👰睡眠時間毎日三時間だから。🌽
光子は誤認だったし
量子論もオカルトですよ♪⭐🌺
世の中の答えを知ってるのは私だけよ。😊 >>336
良い答えですよ
美しい貴女にはハナマルを差し上げましょう。 >>336
答えを知っても、何の役にも立たない気がする。 >>269
先ずは
「存在しているもの」と「存在そのもの」の区別を
つけて考えられますように。👰 >>273
現代では、基礎存在論でしたので
認識論から存在論へです。👰 キリスト教、とくに『新約聖書』の身体概念について
著者: 法政大学 山村直資教授 · 1994
repo.lib.hosei.ac.jp › kyoyo90_yamamura
宗教においては一般的に身体は、
しばしば否定されるべきものであったり
また、せいぜい成聖のための道具的意味しか与えられなかった。
しかしキリスト教は、本来人間を分割しえぬ一個の全体として捉える。
なるほどキリスト教においては
言葉として身体と霊魂は判然と区別されてきたことは間違いないし
今日でも依然そうである。
たとえばカトリック教会第二バチカン公会議では
公式文書において
人間を〈 一にして、かつ全体〉と規定するが人間は身体と霊魂の二つが〈一つになっている 〉
(『 現代世界憲章』3)。
しかし身体について
〈 身体的生命を軽視することは許されない。
身体は神によって造られ 最後の日に復活するものだから
良きもので 栄誉に値するものと思わねばならない〉。 「存在そのもの」は存在しているし
「存在しているもの」も存在しているし、「存在そのもの」であるが、
そう考えない人たちがいた。
個々の青梗菜は「存在しているもの」であるが「存在そのもの」ではないと
考えるわけだ。だって私が今鍋にいれて食べている青梗菜は消化されて分解
されて青梗菜という存在は無くなるからだ。
では青梗菜の「存在そのもの」とは何か。
認識論的に言うと、我々が共通にイメージしている青梗菜イメージこそが
普遍的な青梗菜であり、青梗菜のイデアであり、存在そのものだと考えるのだ。
これを緻密精緻にやったのがDie deutsche Ideologie すなわち、プロテスタントにおいてもカトリックにおいても
身体は神の似姿の被造物であり
元来は栄光であるゆえに復活説を唱えるのです。
最古の伝統を有する東方正教会は
肉体における原罪は無く
人間とは『神のイコン(像)』であるとします。 >>343
キリスト教上層部も「生命教」に近づいているではないか。生命(肉体)を否定
するのは、下っ端信者のみ。 ----
† エペソ6章10-12節
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、
また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
---- >>345
本質主義と実存主義を止揚してる、ということですか?
あなたは家庭菜園は実存かつイデアなのですか? クリスチャンにとっての本質は信仰であり
実存の手段は個々の具体例に委ねられるものと存じ上げます。
クリスチャン全員が百姓ではありません。 >>345
人類発生以来、ノンクリには自明なことを、何をいまさらマルクスさんw。 >>346
いいね。もはや、聖書の全面改正が必要。イエスとパウロは首の挿げ替え。 イエス・パウロを解雇して、ユダヤ教に戻れば、キリスト教の問題は全面解決。 >>345
人間や家🏠等の「存在者」を存在させる根拠を「存在」と呼びます♪それを「了解」してるのは
唯一存在者の人間です。👰人間は漠然とであれ、現に存在が開示されているような存在者ですし、それは「現存在」と呼びます♪
「存在者の存在」という現象を追求していくことが現象学です。
存在一般の意味を問うことが「現存在の現象学」によってなされるの♪⭐🌺 キリスト教上層部は、イエス・パウロの問題点をすべて知っている。知らぬは
無知で愚かな下っ端洗脳信者だけ。 >>345
本で読んだ他人の見解の猿真似は、もう結構。君自身の独自の見解を述べよ。
「それは能力的に出来ない」のかw。 >>360
見稽古では自分が弱くなる為に弱い技を使っているだけで、⭐🌺 >>360
私が本気を出せば私の体が耐えきれず崩壊してしまう為
他人の強さ(私から見ると弱さ)を身に付けることで、少しでも弱くなり長生きする為です。👰 >>352
>人間には最早、神の像はない♪⭐
聖書のどこに書いてあるか。挙げて見よ。 >>355
旧約聖書が人間が神に似た姿について直接語る句からして、人間は墜罪共に神の像を部分的全体的に、形式的にも内容的にも失ったという結論は出てこないわ🎵 >>364
像は墜罪によって失ったという改革者達は、
像を人間が所有してたが、罪を犯した為に
その罰として失ったところの完全状態と解したということを
背景とすれば理解できることですし >>365
また必然的にそういう考えざるを得ないけど
このように像を理解することは
創世記の1の中に何の根拠も持ちませんです。👰 イデアの暇人は、ツルツル暇人なんだな。
俺らがナヨナヨ暇人(ツルツル暇人の似姿)を見て、つい「ハゲ」と呼んでしまうのは、
分有されたツルツル本質に触れてしまうからなんだ。
本当に大切なものは、目には見えない>星の王子様
心で見れば、暇人はツルツルであり、ナルミさんは美少女なのだよ。
素晴らしい世界だ。と思いたい。 >>365
罪を犯したのは、「自然状態を離れ、己が神になった積りになり、善悪を語った」ナザレ村の
大工の気違いの若者ただ一人だけ。 ∧∧
<*`∀´> また隠居が放尿してるニダ
C/ l
し−しJ イエスの「聖霊の捏造と冒涜」まで行けば、キリスト教は解体だね。
解体後のキリスト教難民は、生命教が収容する。 ∧∧
<*`∀´> グノーシス派で、イエスは救世主 ニダ
C/ l
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