【イエス】癒し主 救い主 【キリスト】Part 202
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
(マタイ 22:37-38)
肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。
わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
(ガラテヤ 5:19-24)
だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
(ルカ 9:23)
もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
(ヨハネの手紙第一 1:10)
あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。
(マタイ 28:10)
このスレに書き込む際は必ず名前欄を記入してください。
名前欄の記入が無ければ、その人の過去の発言を追跡できなくなり話を続けられません。
この但し書きがあるにも関わらず名前欄の記入無しで書き込む場合、それは話をする気の無い人で、このスレを荒らす人です。
荒らしは無視するようにしましょう。
「◆tZZfT7L/3w」「◆L2ew5aH3E3Qf」等の成りすましも過去の発言を追跡できないようにする荒らしなので無視しましょう。
類似スレで利用者を迷わせないために、次スレは>>970以降に立てましょう。
※前スレ
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1511494861/ >>236
俺はまちこさんの変なとこは批判してたけどまちこさんの正しいところは賞賛してたな
んでシャロンさんが傷ついている時は流されたけどシャロンさんがフハハハな時は批判したな
醒めた状態でいたいから、そう在るように意識的に心掛けたいし、心掛けてるところがあるので 小石泉と言う牧師が居ます。
彼は艱難の日、クリスチャンは首を刎ねられると教えました。
私は矢張り怖かった。まちこさんは携挙されるからむしろ歓迎すると
考えていました。
御主人が怒ったのは献金の件を質問した時と政治の話をした時だった
と思いますが、もう忘れてしまいました。 >>239
シャロンさんや教会が「結局はイエス様対自分」と言う時、浅いねん。
視点が「自分側」なところが浅い。
Ich und Du 我と汝という関係というのは、
Du(汝)を es(それ)に、貶めない点にあるねんで。
つまり相手を対象化、モノ化せず個別具体の人格的存在として尊ぶ
愛するということや。
あなたはまずチバを尊び、愛しなさい あなたはチバびとなのです。
禁とーきょーです >>238
サティはその「すんごいパイセン」
シュタイナーから足を洗いなさい。 >>242
色々アドバイス下さってありがとうございます。
いろいろ反省する事は多いのですが
人生で今が一番しあわせ、すべて順調ですのでよろしく、です。 >>243
おまい中身0だからもう絡んでこなくていいよ
もう散々相手したから後は頑張れ >>238
>エゴが同化して肥大化したらもう、フハハハ!になって誰の声も届かなくなります
これはまさに、今のサティの状態。 >>246
おまいにはそれを語る資格はないけど、資格があるリアル社会の人たちとよしなにやってるから、おまいは自分のことだけ頑張れ エゴイクティックな持論も聞き飽きたし
プライベートなフリートークでもすんべや
エイシストさんも絡んでくれるやろ >>211
救済論にも色々あるようですし、キリスト教をー口に言うわけにもいかないだろうけど・・・
アブラハムの宗教の出発点は、移民の「私、私たち」の劣等感あるいは疎外感だろうと思います。
劣等感や疎外感を、絶対的な支配神に選ばれることによって、優越感にもっていく宗教かな。
疎外の対義語は受容だろうと思いますが、神に選ばれるという受容で、独善排他にまわるわけだし。
基本的には選別宗教であるから、神を信じる者は価値があると認められ、勝ち組になりますね。
一方の信じない者は無価値にされ、負け組になります。
神による受容、私への価値、優越感、勝ち組というものが与えられるからこそ、
「信じない者は、いずれ歯軋りして悔しがるだろう」という、わけのわからない話になるわけで・・・
でも、そういう宗教なんだから仕方ないような。
神道的な日本人からすれば、祀らない神が罰するなんてことは意味不明な話にすぎないし、
仏教からすれば、私への執着、アイデンティティ執着にすぎないと思うけど。
悔い改めは、悔いるという後悔ですから、反省にとどまらず過去への執着がベースにありそうです。
悔い改め→回心は、過去の損失を嘆き、信仰によって損失補填される未来希望じゃないかと。
これも、何かしら変化しない私というものが想定されているからでしょう。
永遠なるものへの憧れはコヘレトにも見られますが、キリスト教には不変の実体ありますもんね。
私というものが不変であれば、当然その価値を失いなくないだろうし・・・
戦国期の宣教師が仏教を虚無と考えたのもそこだろうし、ヨハネパウロ2世さんも虚無と受け止めてますね。 >>250
そのような人達を結果的に沢山生んでしまったのはその通りだと思ってます
また、アブラハム宗教の出発点が劣等感や疎外感であることも一理あるとも思います
一方でキリスト教は新訳から旧約を再解釈する視点なのではないかな、とも思ってます
新訳は選別宗教であるとは私は考えていません
選ばれる、救われることが目的ではなく、私の理解だと神との和解と神への帰還がテーマであると考えています
もちろん和解と帰還イコール救い、とも解釈し得るとも思いますが、和解には悔い改めと、帰還には強い意志、そして帰還の歩みがあります
悔い改めは後悔も含みますが後悔だけだと指摘の通り「損失」になります
そうではなく悔い改めとは宗教全般の基本の行における「内省」と同じ働きだと思っています
自己を省みて、間違いを間違いと認め、次は違う軌道を意志する、そして行為に移し、定着させ、人格の一部とする、そういう行いだと認識しています
永遠なるもの、不変の実体云々についてはその通りだと思ってます
それが霊や個、キリストという原理に集約されていると思っています
キリスト教の仏教の無私を虚無と捉えたのは単に勉強不足なだけだと思います
僕個人の理解だと仏教にも不変の実体はあると認識しています
キリスト教との違いは「不変のカラダ」という一歩間違えればカルト解釈出来そうな概念だけだと思っています >>250の漢前さんの鋭い指摘に対して、キリスト教の擁護を一つだけさせてもらうならば、キリスト教の教会が街の中心にある、大道を志向している、という点は主張したいです
もちろんヨハネパウロ二世が過去のキリスト教会の蛮行を包括的に懺悔したように漢前さんの指摘の特性が罪を犯したことはまぎれもない事実だと思ってます
一方でキリスト教は世界で一番人口の多い宗教です
宗教的エリート主義に陥ることなく大道として機能してきた宗教です
だからこそ俗世、政治、経済と近過ぎて罪を犯した闇の側面はあれ、大道としての機能を果たしてきたという点はキリスト教の性質としてとても評価できると思っています
最後の一人まで共に在る宗教なので、ホンマか?ってその時にもう一度漢前さん的に評価してもらえたらいいな、と思ってます >>251
>僕個人の理解だと仏教にも不変の実体はあると認識しています
佛教では
釈尊・・・そんなものはない すべて現象しているだけだ 囚われるな
有部・・・現象しているという法則は有だ
竜樹・・・法も空だ。
唯識・・・実はあります!
二転三転しているが、私は釈尊-竜樹-華厳-天台の人空法空の二空派 >>235
そうなのね、ずごくまじめですね。
18歳なんて一番 いい時だから当たりまえでですよ。
私は、いくら集中したといっても青梗菜さんが他でなくマルクスで良かった思えます。
誤解されているマルクスでなく、18歳の君のマルクスがやはり今大人を
潜り抜けての青梗菜さんの
そう突破しての誠実さにおいて。 >>253
僕の理解
これについて議論は不毛だとは思ってますけどね
8 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2017/02/20(月) 13:56:43.82 ID:ncbFsEDZ
無我と真我は、こう理解すると分かりやすいです
無我≠自我
自我≠真我
無我=真我
仏教が「空」と語る「我」は無常である色受想行識の五蘊によって生じる、通常我々が「私」と信じている、仮初めの自我についてです
諸法無我です
では一方で、何が真に「ある」と言えるのか
凡夫が「ある」と思っているものが「無い」とすれば、真に「ある」ものは真如、法界、法性です
真如は「あるがまま」みたいな意味です
「あるがまま」は「ある」といっても、それは凡夫をそのままで容認する、という意味ではありません
全てには原因があります
悟りの状態の原因は「種」として我々の中に気付かれず微睡んでいます
その種を育てた後に得られる状態が真如なのでしょう
この真如の状態が仮初めの自我ではなく、本当の真我=無我の状態です
「一切皆空」は、実は裏をかえせば「諸法実相」という肯定的な思想に転じます 議論とかてはなくて単に情報量の問題
真我とか真如とか
無我=真我というのが
中期大乗の如来蔵経典の概念なのです。
中国、日本では法相宗と密教が担い、普及せしめました。
しかしそれは釈尊=竜樹が批判した着想です
詳しくは松本史郎『縁起と空-如来蔵批判』などをどうぞ 尊敬するパイセン達が「エリエリ〜」について語っている
一人のパイセンは「聖書には一箇所だけ誤訳がある、それはエリエリ〜の箇所だ」と語る
二人のパイセンは「エリエリ〜は神がありのままの人間として生きながらかつ、神と共にあることを証明した箇所だ」と語る
どちらの意見もそれなりに根拠があり正しいように思ったが、どちらの解釈の方がより良く生きられるのだろうか、と思った時に後者だな、と思うようになった
人としてありのまま生きてるのに神と共に在る
この解釈を本当に深く受け止められるようになれば、
キリスト教徒とそうでない人の区別はなくなる、みたいな文章を読んだ
そしてキリストの救済の対象が「人類」であったことを改めて思い出した
改めて宗教は当たり前になり空気になるだろう、という概念を思い出した >>256
はい、なので「誰がいつどのように語ったか」ではなく「私はどのように理解しているか」という問題なので議論しても不毛なのだと語ってます >>258
アホウなのか
きみの佛教理解が間違っていると指摘差し上げているのだ。
しかも
ご丁寧に佛教には二面あって、
君の理解は一面を全面と誤解したものだと。
佛教を語りたければせめて通史、概論をやれ。
そして自分の仏教の位置を知りなさい >>260
宗教は人と共にあるわけすよね
真我がーー!とかいう前に目の前のやるべきことをやれや!という時代もあるし、キリスト以後の菩薩的な時代もある
真我、無我、真如、諸法実相、時代と共に強調のポイントは変われども、それらの概念が現在、「どのように統合されているか」が重要だと思うな
時代が常に求めているのは「統合」だと思うんだよな
なぜなら神は一だから イデア、実存、大道、十字架を
同じ文脈で整合する江戸河童仏教こそ
南北伝の奥義。
彼の特講を聴従しなさい。 鹿爪らしいご持論はさておき
ノンクリ同士 数分でも雑談しませんか 全ては短絡的な1か0かみたいな認識フレンドリーな怠惰が誤謬を生んでるんだと思うわけ
現実の世界はもっと有機的で、だからこそ必然的に複雑だと思うわけ
それらの複雑なものを捉える方法論は沢山あると思うんだけど、動きで捉えるのが正しいと思ってるな
時間を凍りつかせてゲシュタルトで捉えるというより、潮流で捉える、みたいな捉え方が重要だと個人としては思ってる そうそう
持論の端々で「個人的所見です」と慎むことです。
ところで河童先生
一点 質問したいんだけど
よろしいか? マタイ27:46
ηλι ηλι エーリ エーリ
λεμα σαβαχθανι レマ サバクタニ
マルコ15:34
ελωι エローイ
ελωι エローイ
λεμα σαβαχθανι レマ サバクタニ
NA28だとこうなるが諸写本はバラバラ。
しかしエリヤを呼んでいるという勘違いをロマ兵がしたということは
エーリ エーリと聞こえた可能性の方が高いらしい。
さて先輩Aの「間違い」というのは、イエスが
「わが神よ わが神よ なぜ我を見捨てたまうか」という
絶望をイエスが口にするはずがないという信仰立場 福音派聖霊派など
先輩Bの「神がありのままの人間として生きながら」というのは
神への絶望を口にするイエスが人間的だというのと
「神と共にあることを証明した箇所」というのは、エーリ、エーリは、
詩編22章の引用だ。イエスはこと切れたが、以下神への賛美が続く
イエスは詩編22章を唱えようとしたという護教的信仰 メインラインの解釈。
しかしここでイエスが口にしたのは単純な神への絶望だ イデアは本質主義の重要な概念だけど
イデアと実存をどのように整合させんの?
包摂してるの? >>261
空海のような天才は統合するんですよ
そして序列化して、最上位に自分の仏教を位置づける
そして密教が日本仏教を支配した。
これに対抗したのが「選択佛教」
一つだけを選び取る
法然は念仏を、道元は禅を、日蓮は法華を、と
全仏教を相対化した上で、自分の信仰としては一つを選択
選び取るということは他を捨てるということなのです。 >>267
それが聞きたいこと?
趣味として実存主義が好きなせいか実存主義の単語は使うけど、よく見て欲しいんだけど「霊の」実存主義って言ってるんだよね
その意味で、分かりやすいところでは独我論的自我を生ききったり、上では真我とか真如とかありのままみたいな単語使ってるけど、それで「在る」状態を「霊の実存主義」と関連性が深いと思ってるな
「在る」は永遠なんです >>267
うーん、シュタイナーじゃない好きなパイセンの一人はイデアは原像だけど、それがさまざまな存在性のレンズを通過した時にさまざまな現象を生む、みたいな表現をしてるんだ
実存の根拠は「ある」でこの「ある」がまさにイデアとの接点だと思ってるから形而上と形而下の実存はイデアに立脚してる、みたいな感じの理解はしてます >>268
選ぶは他を捨てるの中身だけ共感できなかったな
甘党の人物がドーナツとイチゴケーキを選択しないといけない時に、甘党は捨てられてないよな
甘党であることはそのままで、強いて言うならドーナツを選ぶ、という選択がなされる
その時にイチゴケーキは捨てられているわけではない
その時代のムードの強調のポイントとしてドーナツが選ばれた、ということなんだろうと思うわ そろそろ寝るねー
ネクザさんが質問したいことで、もし本当に知りたいことあったら次来る時に力が及ぶ範囲の内容であればちゃんと答えるのでご安心くだされ 哲学には大きく分けて
存在論と認識論の分野があって
存在論的には
イデアは、具体的に存在する個別は瞬間的現象にすぎないが、
その個別現象の裏側で永遠に実在する実体だという概念だね。
例えばここに青梗菜があるとして、この青梗菜は現象。
青梗菜なるものというイデアが実在。
これがギリシア哲学の発想 >>269
プライベートな雑談したらスルーされるので
試問を挟ませて頂きました。
実存主義は「個別的」「具体的」がデフォルトコンセプトであることは
周知の事実だと思いますが
「霊的」実存とは 果たして如何なる心霊レベルで実現させるものなのか
その方略を是非ご教示頂けます?
キルケゴールの様に絶望を体験するとか
霊操や瞑想で救いや癒しを体感するとか
なんとなく考え中とか
なんでもいいよ 空海も法然も天才で
結局、ドーナツしか食べないし、ドーナツを極めているなんだけども
空海は、イチゴケーキも買うわけ。食べずに捨てるけど
法然はイチゴケーキを買わないのね
そして日蓮はイチゴケーキの悪口を言うわけ 彼の言う霊的実存は
実存主義というより
ものごとが永遠に存在するのは物質的存在としてではなくて
霊的存在としてだ。えいえんのいのちとか
という程度のはなしでしょ くだらん >>274
あるがまま
私でありつつ同時に世界である状態なんじゃない >>273
これは少々興味深いね。
掘りさげてご教授願いたい。
本質主義と実存主義の関係を
存在論もしくは認識論の語彙を使用して
簡潔に解説してくれたら
禿いうのやめるよ 書簡シリーズ見すぎや
福音書のイエスの奇跡を神話化せず
逐語霊感的に解釈する姿勢も切要や思うけどな 創世記と黙示録は神話
福音書は童話
箴言は諺
書簡は説教
こないおもとったらあかん >>282
対象を霊的次元に一元化する態度は、
一般的に心霊主義と呼び習わされるものと思いますよ。
例えば、イエスの奇跡は霊的にも物的にも証明しうるということです。
霊的実在は、必ずしも物的虚無ではないということです。 イエスの奇跡は、凡人には物的、肉体的にしか
判断できません。
だからこそ伝道には物的証が時に必要となるのです。
霊だけ永遠であったとしても
罪なきからだを伴わなければ
復活や、栄光のからだとは
言えません >>284
あぁそういう意味ね
そうじゃなくて、創世記にもあるように「光あれ」で光ができるわけじゃん
全ての原因には霊があり、様々な存在性の中で霊は魂とか物質とかの表れをするって立場
物理学の振動や波動とある意味で似てる解釈なわけ
物質を否定してるわけではなく、(あくまで比喩的表んだが)物質は固体化された霊だ、みたいな主張
だから霊的一元論 >>285
肉の体は滅びるよ
それは聖書でもキリストが語ってる通り
だから栄光のからだがそれと対比されるわけ
霊のからだ >>287
霊的に救われると、盲目や癩病も治ります。
霊のからだは、罪なき身体(からだ)に蘇るということだと思われます。
実体を伴わず霊だけ救われる考えは、
モルモンとエホバの教義らしいです。 現実問題として ファンダメンタルな神癒信仰はごく少数ですが
病気平癒の祈りは全使徒継承教会とウェスレー派教会に
存在します(継続説)。 >>288
>霊的に救われると、盲目や癩病も治ります。
その妄想こそが、イエスを含むすべてのカルトの症状。
身体の病人は、すべて精神科に行けとでもいうのか。現代一般
社会のどこにも通用しない狂人の思想。
「病気が治ると、霊的(精神的)に救われる」というのが正しい。
「霊(精神、心的作用)とは、状況に応じて身体から発し、身体を維持する機能」。
(James-Lange Theory)。これが心理学での「霊魂(精神、心的作用)」の
定義だ。なお、心理学では、「霊」などという「身体外部の幽霊」を連想させる
言葉は一切使用しない。すべて、「身体内の精神、心的作用」である。 >>273
基本的にはそうですね。
存在論(オントロジー)というのは「なぜその議論をするのか?」という意味で、
認識論(エピステモロジー)というのは「どのような考え方をするのか?」という意味です。
どの論点でもだいたいこの二つは念頭に置きます。
イデアというのは「真理に限りなく近づけた仮説」のことを言います。
現象というのは「その人の世界の広さ」を意味し、実在というのは「すでに起きてしまった自分の実績」
のことを言います。
だいたいこんな考えを頭にめぐらせながら、音楽作品にアプローチするのは事実です。
女の子が神に失望するのは「レイプと女嫌い」だけ。
神を信じるのは「すべりやすい坂道」である。
https://www.youtube.com/watch?v=ttIzfzAdMmE 科学が、いかなる宗教の奇跡も及ばない驚異的な発達を遂げた現代において、
科学に付いて無知蒙昧だった1000年、2000年前の宗教をいくら語ったところで
全く無意味。単なる時間の浪費でしかない。
語るなら、現代の科学水準に合致して、宗教の全面的改正をしてから語れ。
「開祖・教祖が何を語ったか」ではなく、「彼らが現代に生きていれば、何を
語るか」、である。 古い宗教の教えは、あくまで大昔にファイナルアンサー認定された答えにすぎず、それをファイナルアンサーだととらえ続ける人達は生きていた原始人状態です。
人類史の最先端を生きている自覚が足りないと言えるでしょう。
さっさと悔い改められますように。 〉人類史の最先端
君らに問う。ニュートンの万有引力の法則では光は光子により発生するとある。しかし量子論によると 光は波動だと言う。さて、どちらが正しいのか?
そもそもニュートンとは何者か?其れを基礎とした近代科学とは何か? 物理学はこのような展開をたどっている。
ニュートン物理学 量子論
↓ →
相対性理論 相対的場の量子論
ニュートン物理学が「男が重力に耐えて加速する」ことを考えていたのに対して、
相対性理論は「男女がこすりあう」「遠く離れていても存在する」という二つの相対性を
考えている。
量子論というのは「子供の行動分析」に用いるようだ。
相対的場の量子論というのは「弟」の行動分析に用いる。
まあ、家を建てようと思ったら、小学生の頃に買った二枚の三角定規があれば可能だ。
あとは「誰がお金を集めたのか?」というのが建築学になる。
光の速さよりも地球上の速さは「あまりにも遅すぎる」
重力よりも地球上の重さは「あまりにも軽すぎる」
しかし、人間をひきつけあう「ローレンツ力」には「光の速さ」が入り込んでしまった。
このことから、量子論というものが生まれたようだ。 たんに物質の元が微物質でその元が細分子で
更に先に核分子なるものがあってさらに向こうに
有るものが力場として確認されるが
それらが分類できないから波だとか次元干渉だとか言って
お茶を濁してるだけさね、有るいは性質だとか言ってね
ただ違うのはそれらを無機質なものであるとしたがるのが科学的認識ってやつなんだろ ニュートンの間違いは 詳細に暴露いたしますが、それにしても そのような山師ニュートンでさえ 神の領域 於ける 絶対的時空間と神の支配を否定することは出来ませんでした。私たちは 原点に戻り神と神の支配を顧みる必要があるのではないだろうか?
http://blog.goo.ne.jp/quantum-mechanics/e/2ef771360b6130e8c69e347f69129af9 良いお天気ですね
暮れの光にはない明るさ。
まさに新春です。
ここにはいろんな考えの方がいらっしゃいますね。
若い頃は色んな小説をむさぼり読んだものです。
漱石、龍之介、トルストイ、ドストエフスキーなど。
仏教と言えば「出家とその弟子」かな、若き日の親鸞の心境は
自分の身につまされて共感を持ったものです。
北陸へ行くと賽の河原や、即身仏などを見たりしました。
不思議な世界でしたね。 エミリーブロンテ
シャーロットブロンテ姉妹の書いた
「嵐が丘」
「ジェーンエア」
等にも感銘を受けました。 そのくらいの浅学な私だけど
つい最近、人生の核心は得たような気がしています。
罪と劣等感からの解放、は全ての人間の究極のテーマ
ではないかしら? 社会の隅にいる人間、例えば
吉原のお女郎や時代の運命に翻弄された人々、
冷や飯の浪人等に寄せる優しい目線。
隆 慶一郎氏や藤原周平氏の時代小説など好きですね。 >>288
>霊的に救われると、盲目や癩病も治ります。
そうなの?霊的に救われるって具体的にどういう状態をさしてるのだろう
>霊のからだは、罪なき身体(からだ)に蘇るということだと思われます。
そうなの?罪なき身体って具体的にどういう状態をさしているのだろう
>実体を伴わず霊だけ救われる考えは、
>モルモンとエホバの教義らしいです。
実体を伴わず霊だけ救われるの意味が分からない
ネクザさんにとって身体は実体なわけ?
じゃあ霊は身体という実体に対して何なんだろう 通りすがりだけど、病気ってのはまず見えない次元から始まる
現象界(この物質的世界、身体もここにある)ではなく潜象界ってのがあって
これはひとつのものの見方(概念)ね
最初に病むのは現象界にあるボディではないんだよね
身体に病が顕れる前に、大抵の人はどっか病んでるけどね >>242
>シャロンさんや教会が「結局はイエス様対自分」と言う時、浅いねん。
> 視点が「自分側」なところが浅い。
そうですか、きっとあなたは「愛」と隣人への関わり合いについて
話していると思うのですが。
私の視点はそこではない。これから起ころうとしている大患難時代に
視点を置いていますので、息を顰めるようにして世の中の流れや聖書
に聴いているので結果としての選択は自分以外にないだろうと考えて
いるの。 潜象界ってのは何層(何次元)にもなっている、わたしが見えるのはこの世に近い側
エネルギー場とちょっとその奥?wwぐらいだけどね
経絡は見えないんだよね、残念ながら、でもそれが見えた人がヒーラーと
呼ばれた人だろうな、メディスンマンとか、鍼灸師や気功師も癒しを行う
どの次元で癒しを行うかで効果が違う、医者が肉体に薬を投与するのは
3次元からのアプローチだけど、イエスとか聖者のレベルになると
もっと深い次元から病根を引っこ抜けるんだと思う、ダスカロスとかあと無名だけど
それが出来た人を二人知ってる 鍼灸師は肉体にアプローチしているようだけど、実は四次元つまり経絡
エネルギーの流れる道にアプローチしている、エネルギー場はこの世に近い
気功師も(レベルの高い気功師もいるけど)大体はそこにアプローチしているようだ
だけど本当はもっと別の次元のボディ(テンプレート)にアプローチできる(はず)ww 教会で個人的な祈りや癒しを牧師に求めたり、悩みの相談をすると
教会生活に失敗する。牧師は神の預言者ですがカウンセラーではない。
又、教会で話した事は必ず外部に漏れてしまうもの、と考えた方が良い。
教会では唯、神を礼拝し讃美し受ける恵みに感謝すればそれで良い。 心の使い方を学べば誰でも癒しを行える…日が来るかもしれない
心の力を使いこなすには、霊格を上げなきゃならない
四次元(エネルギー場)へのアプローチなら、見えなくても知識(経絡とか)があれば
可能…なこともあるけれど、それ以上になったら
神の意識に同調できる人にならないと無理だろうな、霊格を上げるには人格を向上
させなければならない、って難しいんだわww
ある程度自分で整えることができたら、師が顕れる(肉体を持った人じゃないかもしれない
弟子に準備ができたとき師現る…それまでは自力
自分の心をコントロールできないうちは無理 聖職者という職業に就いてる人が必ずしも霊格が高いとは限らない
中にはなんだぁ??って人いるもんね、欲望に負け、感情に翻弄され、
想念が混乱して人格が安定してない、…大統領?もいるしwww
つーか癒しに限らず、霊的な力を与えられるっては責任重大なのよ
例えば透視能力が備わっていたとする、あなたが男性なら
若くて美しい女性の衣服の下を見る能力があったら?もし理由もなく見たらそれは
相手に対する侵害そして侮辱になる=罪を犯すことになる
常にそういう誘惑と戦っていたら疲れるよww、そんな能力ない方がいいよね
霊格人格ともに備わらないと、霊性の扉は開かない >>312
>若くて美しい女性の衣服の下を見る能力があったら?
透明人間になれたら女湯に50分間入浴する男子が急増すること間違いなし・・・!! >>303
アブラハムの宗教は、移民の宗教であり、群れの宗教ですから、最も大きい心理は疎外感だろうと思いますよ。
帰属意識がベースにありますから、神や仲間から必要な者とされないこと、忘れ去られてしまうこと、
「おまえ誰? おまえなんか知らないよ〜」と言われてしまうことほど、ツラく悲しいことはないのでしょう。
ルカでの罪人の1人は「神の国に入る時は、私のことを思い出してくんろ?」と頼みますね。
「忘れないでくんろ!思い出してくんろ?」というわけで、たぶん復活のことなんでしょうが、
イエスは「今日、私と共に楽園にあるがな(´・ω・`)」と言うわけですね。
神と共にあることは、追放された楽園に戻されたということなんでしょうか。
犯罪者等で引き取り手のいない死体は、ヒンノムの谷ゲヘナでゴミと一緒に硫黄をかけられ焼却処分されたそうですね。
引き取り手がいない、必要とされない、忘れ去られてしまうということなんでしょう。
疎外感とは・・・
「仲間がなく孤独だという意識」
孤独感・一人きりの感・ひとりぼっち感・単独者
「頼る人や物のない状態のこと」
寄る辺なさ・頼りなさ・空虚さ・虚しさ・空しさ・孤独さ・寂しさ・孤立感
・孤独感・居場所がない感じ・取り残された感じ・漂流感 畑に行った。
寒いので、完全武装、防寒して行ったがだれもいなかった。
いてしゃべりかけられて会話がはずんだら風邪ひきそうなので
いないほうがいいわけだが
白菜二個と青梗菜をたくさん収穫 作業のはかどることはかどること
青梗菜は収穫しすぎだ
http://uproda11.2ch-library.com/e/e00226051-1515817192.jpg イスラエルの場合の疎外感は
孤独というより
民族全体が囚われて、他国に連行されて奴隷にされた
という疎外感ですよ さてイエス・キリストは
先に来たものが後に並び
後に並ぶ者は先になると言った。
ゆえにパリサイ派とは先に並ぶ者が先であらねばならない
と列をなすものらである。
言っておく。そういう列に並ぶ者らは
キリスト者として好ましくない
次に彼らは知恵の善悪を用いて
そこに善悪を求め裁くからである 列をなさねば得れぬものに固執してはならない
エデンの果実はどこからでもとれるから
楽園なのである。
列をなす先に楽はない。
ならそのような煩わしい果実は捨てた方が良い 昨日スーパーで、白菜一つ800円でした。
二分の一カットの半額になったやつ200円を買いました。 この農作地帯のうちの近所のスーパーでも
1/2カットが400円 1/4で200円でしたね ギャクだろうと思ってましたが
まじなんですね。
私が全国民向けに白菜をお安く出荷してあげたいですわ >>322
レタスはスカスカの小さいやつで一玉400円でした。 >>316
そもそも移民集団ですから、違う文化圏で集団的な疎外感を味わいますし、
強力なリーダーシップを求められる指導者は孤独感を味わうもんでしょう。
モーセ一行の旅も漂流みたいなもんでしょうし、
「こんなんなら、エジプトで奴隷のほうがマシだった」と思う人が出てくるのも疎外感ゆえ。 農薬落とす洗剤見つけ^^
>>325
>エジプトで奴隷のほうがマシだった
単なるグチぐち、どこにでも居る居る。 私の白菜と青梗菜は無農薬。
プロは予防的防除をするので農薬を15回ほど撒いている
15回散布で低農薬テクだそうだ。
私は0.6mm目合防虫ネットで無農薬栽培
私の畑の場合、よくある1mm目合の防虫ネットだと害虫に突破されて
無農薬だけにレースのカーテンになる 害虫の養殖状態 季節外れの市販のキュウリ、トマト、キノコ類 果物類など
農薬繋ってます。 テント職人だったサウロは
後に聖パウロと呼ばれるようになった。
彼は、同性愛者かインポだと神学者が言っているのだ。 どこのアホ神学者だよ。
特に日本の神学部はアホでも行ける偏差値だからな。
ろくなものが集まらない。 >>305
ここに、詳解されておりますよ。
日本同盟キリスト教団|長野聖書教会
http://nbc-trinity.net/2016年8月21日 主日礼拝「復活のからだ」/
エホバの証人、あるいはものみの塔の人たちは、
キリストの復活は体の復活ではなく、霊の復活であると主張しています。
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。
血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
コリント人への手紙第一15章44節 前千年王国説の第1人者である高木慶太の弟子リンゴ
後千年王国説の第1人者である富井健の弟子シャロン
ディスペンセーション主義とキリスト教再建主義
ここであったが百年目、運命の出会いや 通りすがりの人はいなくなったのかな
あぁいう人が時々現れるから2chは面白いなー >>295
あら、みんな朝まで起きてたのね🎵
私は、帰ったらすぐ寝てました。最近五分で寝てしまってるわ👰睡眠時間毎日三時間だから。🌽
光子は誤認だったし
量子論もオカルトですよ♪⭐🌺
世の中の答えを知ってるのは私だけよ。😊 >>336
良い答えですよ
美しい貴女にはハナマルを差し上げましょう。 >>336
答えを知っても、何の役にも立たない気がする。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています