あるとき、じょう州の真際大師に一人の僧がたずねた。「ダルマが中国に来た目的は(仏道の真髄は)なんですか」
大師がいつた「庭先の柏の樹」僧が言った「和尚さん、そうや境に酔って方便で誤魔化さないで下さい」大師が言った
「私はそうやさかい誤魔化していない」僧が言った「では仏道の真髄とは」大師我言つた「庭先の柏の樹」・・・道元
ここに「仏道の真髄は何ですか」というのは、問うているだけでなく、また師と弟子の両者が同じ見解を得たというもので
もない。まさに問うているその時は、一人も相間見える相手もなく、問うている自己もまた、いくばくのものを得ているのか
計りしれない・・・ゆえに真実そのものが誤り誤ってしまつた。こうなってしまつた空には誤りをもって誤りに就く他は無い
いわば虚空の中から響きが出てくるようなものではなかろうか。で結局表も裏も無い空ここに庭先の柏の樹となつたのである。
?さっぱりと解らないのである、謝るか庭先の柏の樹が代表になつてまあええにすいません、ますます意味不明
この用もあの用も、此の世もあの世も、色も空も、現実と夢も、男と女、基礎と応用、形無い物と形のある物、ハードとソフト
等二元と言えどもお互い動の功ので一と位置で支えあって一の如しでまあよいではないか。霊も此の世で劇鑑賞するし片手だけ
では拍手に鳴らない師片手落ちだし