外道であるプーラナ・カッサパを正覚者であると認めている時点で こじは明らかな外道

1. プーラナ・カッサパの行為の善悪否定論

プーラナ・カッサパは、行為に善悪はなく、行為が善悪の果報をもたらすこともないと主張した。
傷害・脅迫・殺人・強盗・不倫・虚言などを行ったとしても、悪にはならない。
悪の報いはない。
施し・祭式・節制・真実を語ることを行ったとしても、善にはならない。
善の報いもないと説いた。

確かに当時はインド人自身があらゆる思想に束縛されていた激動の時代であった
そこからの バラモン階級にいいような思想からの開放 階級差別からの開放の願いもあったのだろう
しかし このような教えを聞いた者にどのような影響が生ずるのか?

そのように考えれば 何の足しにもならない 人を成長させない
仏教において 外道という評価が妥当なのがよく分かる
社会の一般的な道徳を守ったほうが、現世において幸福であるということを言わなかったのが何よりの第一問題であり
そして 世の中にはまことに愚かな人間もおり その者たちの世間でいう悪の行いに対する言い訳にもなりえるという欠陥がある

プーラナ・カッサパに対する王様評
王様「それならあなたがたの修行は意味がない。人を殺してもお布施をしてもどうでもいいなら、我々はこのままで生きていればいいだろう。」

相手にどのように伝わるのか?自身の言葉が相手にどのような影響を与えていくのか?尾を引いていくのか?
という事に対する考えが足りなかった
仏教でいう正覚者であると認めることは決して出来ないのだ
たとえ空の理法に気付いていても 行動が伴っていなければ意味がない
他者を悪戯に罵るこのスレの奴等のようになっていれば意味がない
お釈迦様がはたしてこのような行いをするのか?ダライラマ法王がこのような行いをするのか?
を よくよく考え改めて 道元がいうように三度考えて発言することである
因果の道理をよくよく心得ていたのならば 暴言は避けるだろう