また、会社に入れば、会社での仕事を通して
自己実現をはかるという幻想のもと、
その実ひたすら「会社のために」働くようになる。
世のため・人のために働いているという
実感をもつ人は少ないだろう。
若者に強い「人(かつての言葉なら人民)のために」
という使命感が発揮できる場は少ない。
そうであれば、元美容師の青年が話すように
「もっと何かがあるはずだ」と考えるのは当然だろう。

京大卒生の「競争に勝ち抜いていくという生き方はいやだった。
学生運動があれば、そっちに行っていた」という話も、
気分としては理解できる。
二十年余り前の全共闘運動の背景にあった気分も、
資本主義の歯車に巻き込まれるのはいやだ、
歯車に巻き込まれつつある自分たちの
「日常性からの脱却」をはかりたいという熱望だったはずだ。
一部上場企業からコスモメイトに入ったある青年はこう振り返る。

「目に見える社会はいい社会じゃない。物質だけの社会。
だから、目に見えない何かがこの世を動かしている、
その見えないものの存在を知り、
何か秘法のようなものを身につければ他の人より
パワーが発揮できるのではないか、と考えました。
その方が未来にロマンを感じることができた」

コスモメイトに限らず、宗教にひかれる要素は
充分にあるのである。それに、この四人に限らず、
現代の若者は唯物論・唯心論をめぐる論争など
関係なく育ってきている。子どもの頃から霊の存在、
霊的なものを一度は否定してみるという環境などなかった。
小学生の頃から「こっくりさん」がはやり、
占いとオカルトは日常的なものであった。